キング・タビー、ダブ、ディージェイ

前日の続き。

リー・ペリーとウェイラーズ

クラッチは彼らに『この現実を自分の目で見据えなくちゃダメだ』とよく言っていたよ。俺たちはスクラッチのでっかい車に重なるようにして乗り込んで、キングストン中を走った。(略)何か事件が起こる度に話し合ってはリリックにして、それにメロディをつけて音楽にした。ストリートで見るもの全てが音楽になる。あとはスタジオヘ入ってテープに落とすだけだ。もちろんー発録りでね。新鮮なまんま。そんなこと、彼ら以前にはなかった」
(略)
 この頃の彼らの楽曲には、天真爛漫とも言えるはつらつさがある。これは、午後の時間をキングストンを走り回って過ごし、ストリートのドラマを歌の中に記録していくことのスリルが与えたものだ。まさに、レコードに刻まれた記録なのだ。
(略)
[他のミュージシャンも]ずっとルーツ・ミュージックのような音楽をやりたいと思っていた。どんな暮らしぶりなのか、どういうところから来て、どんな希望があるのか、自分の本当の姿がどんなものなのかを率直に語りたいと願っていた。でも、当時のジャマイカでは当初はそれは受け入れられなかったんだよ。表に出ない欲求は強かったんだが、誰も一歩を踏み出したがらなかった。機会を与えられれば、いつでもそれが出てくる状態だった。ウェイラーズとスクラッチがそのドアを開いた。

1970年白人向けの薄いレゲエがヒットし英国市場からの金がジャマイカを潤す。それでもBBCはレゲエをゴミ扱いでトロージャンやパマが売上げ台帳を示してオンエアーを迫ってもローカル局にレゲエ専門番組をつくることでお茶を濁した。文字媒体も同様の扱い。かくしてUKレゲエブームは1971年末には終焉。というくだりはあっさり割愛。

選挙

1971年野党PNP党首マイケル・マンリーは平台トレーラーでボブ・マーリー他レゲエ勢が演奏して回るバンドワゴンを結成。エチオピア皇帝から授けられた杖を振り回し与党JLPのシアラーをファラオ(専制王)にみたて糾弾。PNPが勝ったらマリファナ合法になるかもなんて噂も流れて当然選挙で圧勝。

[民営化した会社を再度国営化、識字率向上、公共住宅建設、企業資金援助etcにより購買力も回復し失業率も減少]
 しかし、国全体がよりよい生活を享受し始めるにつれて、このマンリーが示した新しいヴィジョンの本質が見えてきた。単純なことだが、この改革を支えるだけの資金がジャマイカにはなかったのである。平等を基本とした政治ではあったが、この資金不足という過酷な現実に耐えなければならないのは、他ならぬサファラーだった。当たり前に彼らはその状況を歌い始める。
 前政権のJLPが下層階級を無視し統けた結果、爆発したのがルーツ・ミュージックだった。しかし、それを引き継いだPNPの施策が悪い方向へ向き始めると、その爆発は熱核爆発となった。

ダブ

1967年末誤ってヴォーカル抜きでカットされた盤を試しにルディ・レッドウッドがかけてみると

ヴァージョンが鳴り出して数ラインのところで、場内全体がヴァージョンに合わせて歌い始めた。当時、その場にいた人物によれば、それは島の音楽ビジネスが美しく完結したようなスリリングな瞬間だったという。
(略)
[バカ受けの]報告を受けたデューク・リードは大々的にコトを進める決断をする。翌年、デュークは自分の持っているクラシック作品を大量にインスト・スタイルに加工して、再リリースを始めた。(略)
ジェームス・ブラウンがレコードのB面に「Part2」と印刷してインストを付けていたこともデュークは見逃さなかった。(略)
1968年末には、ジャマイカ中のプロデューサーがインスト・ナンバーの制作に夢中になった。
[なんたって再利用だから丸儲け]

ヴァージョン

その過程のどこかで「Part2」が「インストゥルメンタル・ヴァージョン」と称されるようになった。(略)ヴォーカルを抜いたインストものは「ヴァージョン」と定義されるようになった。そして、まもなく「ヴァージョン」という言葉は動詞としても使われ始める。「ヴァージョンする」は、リミックスあるいはオリジナルを別のヴァージョンで再びリリースするために行なうレコーディングそのものも指すようになった。

キング・タビー

潔癖症で完璧主義者の電気技師&ディスクカッター

タビーは高周波ホーン型ツイーターを使用した恐らく最初の人物であり、(略)真空管アンプに低音、トランジスターに高音をといった具合に、二つの異なるアンプに周波数を振り分けることを初めてやった人物でもある。(略)
[デニス・アルカポーン談]
低音を出すスピーカーからはメロディ・ラインだけが流れてくる。タビーのセットの低音はとっても丸みがあって、たっぷりしていて、よく通る。どんなシンガーの声も、どんな歌も朗々と聞こえた。たとえあまりいいデキじゃない曲でも、タビーのシステムを通すと良く聞こえる。それに、あのエコーだ。

ディスク・カッターとして、タビーは音の細部まで気を配らなければならなかったが、そのため、1曲をカットするのにいくつもの違った表情を持つテスト・カットを作ることが多かった。完璧な音を追求するためにヴォイスだけを抜いてみたり、インストだけにして聴き直しては、個々の音をどう反映させるかを常に模索した。(略)
音がイメージしている通りにまとまらない限りは、あるいは、あらゆる音の帯域幅をフル活用してレコードにしても大丈夫だと自分で納得しない限りは、決して曲をスタンパーに落とさなかった。(略)
キング・タビーの「ダブの冒険」が始まるのは、このテスト・カットを請け負っていた時期だった。
(略)
インスト・カットがお客に愛されることを知ると、タビーはお手製2トラック・ミキサーとテープレコーダーを使ってできる限りの最高のミックスを施し、大きな音でプレイし始めた。(略)
マルチトラックのミキサー卓がなかったため、タビーはいくつものフィルターの中にシグナルを通したり、歌やホーンやベースの音に反応するフリークエンシーをブロックしたりすることで、曲のミックスを効果的に修正できる装置を考え出した。

マイキー・ドレッド談

古いテープレコーダーを二つ使ってエコー・マシンを作ったのも彼だ。バネを組み込んだスイッチをエフェクターに付けたのも彼だ。このスイッチは電圧の違いを敏感に感じることができた。それでサウンドをハードにもソフトにもスローにもできる。だから雷みたいなエフェクトでも爆発みたいなエフェクトでも使って、どんなサウンドでも作り出すことができたんだよ。(略)
彼が発明したものにハイ・パス・フィルターと呼ばれるものがある。スネア・ドラムやハイ・ハットにそれを通してスプラッシュ・サウンドを作りだす

ディージェイ

レコードチェンジの場つなぎだったしゃべりが進化して

[デニス・アルカポーン談]
 「1969年、レゲエが大きなうねりになり始めた頃の話だ。タビーのダンスは超満員。ものすごいヴァイブだった。その週の間ずっと、今夜はタビーのダンスで何か特別なことが起こるらしいという噂が広まっていた。(略)
 「タビーは特別なことなど何もないという風に静かに始めた。彼とU・ロイはいつものようにダンスを始めて、しばらくしてテクニークスの〈You Don't Care For Me At All〉をかけた。テクニークスのそれが終わって、普通なら針を上げてもう一度それを最初からかけるところで、タビーはダブ・ヴァージョンに針を落とした。オリジナルのヴォーカルが数ライン聞こえた後、お客の耳に入ってきたのはヴォーカルの入ってないトラックだけだ!
そこにU・ロイのトースティングが突然入ってきた。もう、みんな絶叫したよ。(略)
[当然デュークは手持ちの初期レゲエトラックにU・ロイのディージェイをのせて70年代を通じてヒット連発]

誰もディージェイのレコードが売れるようになるなんて思わなかったよ。(略)
俺たちがどこかへ出かけていってディージェイしていると、蔑むように、『フンッ。オマエらはただ喋ってるだけじゃないか』と言われたものさ。俺たちは『そうだ、俺たちは喋ってる。でも、これが俺たちのスタイルだ!』なんて反撃したりしてね。ラジオ局にもバカにされていた。(略)
レコードがどんなに売れてもマトモに扱われるのはシンガーばかりだ。スタジオでレコーディング中にミスしても、プロデューサーは『それでいいや。ヴァージョンだから」と言うんだ。俺たちが仕上がりに満足していなくてもお構いなしさ。

明日につづく。