こまった人  養老孟司

こまった人 (中公新書)

こまった人 (中公新書)

養老さんは同じ事を言い方を変えて繰り返しているのですが(これは悪口じゃなくて)、今回はニートに向けてなかなか熱いメッセージを送っていました。
まず環境変化が原因という前振り

生まれてくる子どもは昔とほとんど変わらないのに、現代の若者が以前と変わってきたとすれば、それは社会が変わってきたからだということになる。言い換えれば、子どもが育つ環境が変わったのである。環境を変えたのは大人だから、若者に変化が生じたのは、大人のせいに決まっている。(略)
これだけ変えたのに、よくまともに育っているなあ、人間の適応力は大したものだ。私はむしろそう思っている

恒例の「個性なんて」という話になって、

「本当の自分」があったって、べつにかまわないのだが、それを「自分の意識が把握できる」と思っているのが、とんでもない間違いなのである。

「ニーズを作り出す」なんてウソ

それが社会に必要だからこそ仕事が存在し、社会にとって必要だからこそ、人々は仕事をするのである。若者が「自分に合った仕事」なんてほざいたら、年寄りが怒鳴りつければいいのである。(略)
仕事は社会のニーズなのである。ニーズのない仕事は、長い目で見ればかならず滅びる。それもわかりきったことであろう。いまではヴェンチャーなどといって、平らな社会の表面に山を作るようなことを考えている。これも完全な錯覚であろう。社会に山を築くわけではない。「社会に空いている穴を埋める」のである。「ニーズを作り出す」なんてことは、まったくのウソでしかない。一時の流行としてはありえても、続くはずがないではないか。

ここから養老先生の熱いメッセージ!

自分は変わる。それも大人が教えなくてはいけないことであろう。変わる前の自分にとって、世の中が真っ暗であることはありうる。しかし自分が変われば、その同じ世の中が明るく見える。いつも世の中が暗く見えているなら、それは自分が固定し、進歩していないというだけのことである。それを「本当の自分」などと思い込んだら、なるほど自殺するしかあるまい。希望は自分が変わることにあるので、世の中が変わることにあるのではない。世の中に比較すれば、自分個人なんてゴミの一粒である。それなら世の中が変わるより、その世の中を「見ている自分」が変わるほうが、よほど大きな変化をもたらすということは、わかりきっているではないか。しかも自分が変わることに対しては、エネルギーがほとんど不要なのである。

「人格の否定」というお題では同様に

「自分に合った」仕事なんて、そもそもあるのか。自分は仕事に適するように生まれてきたのか。私事だが、「仕事に自分を合わせた」経験なら、ずいぶんある。(略)
「人格の否定」という言葉で連想したのは、カッターナイフで同級生を刺し殺したという子どもの話である。(略)
どこで呆れたのか。たかが子どもが、「悪口をいわれた」程度で、相手を刺し殺すほどの強烈な反応を示したことである。子どものくせに、よほど「きちんとした自分」が、「あると信じていた」に違いない。

「かけがえのない」私なんて

固定した自分、固定した人格が「ある」。それがいつから常識になったのか。(略)
問題の根源は明白である。「変わらない」「個性を持った」「かけがえのない」私、そういうものが存在する。これであろう。それなら十年前の自分と、いまの自分で、どこがどう変わらないのか。(略)
「本質的に変わらない私」、そんなものが常識になったおかげで、子どもが悪口をいわれたからと、友人を剌す世の中になった。そりゃ「本質的に変わらない私」を悪くいわれたら、いわれたほうは立つ瀬がない。なにしろ自分の本質を否定されたんですからね。

変わらなきゃ教育は成立しない

「本質的に変わらない私」なんて、教育してもムダですからね。変わらない学生になんて、私は教える気はない。変わらないのなら、教えたって教えなくたって、同じじゃないですか。それなら教育がそもそも成り立たない。「本質的でない部分なら変わる」。それならやっぱり教育なんか、やる気がしない。枝葉末節を変えてみたって、「本質的には意味がない」んですからね。