おしまいの噺

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馬生の絵は近所でも評判

あの子が三つ、四つのころに、その道路にロウセキでチャップリンの絵を描いたことがあるの。それも等身大の大きいやつ。おそらく映画の看板かなんかで見て覚えちゃったんじゃないかしら。もう道ゆく人がみんな立ち止まって見入ってたわね。「こんな小さな子が」というだけでも驚きなのに、本当に本物そっくりだったんですもの。

写真家志望の馬生

あたしが志ん朝の母親代わりをしているころ、馬生は小学校を卒業して冨士フィルムに就職したの。そのときは写真家を目指してたんですよ。自分でもずいぶん写真を撮ってたわね。現像代が高いからって、ウチに機材だの持ち込んで現像までもしてましたよ。

終戦になっても満州で行方不明の志ん生

そんな中、馬生もまだ二つ目で、芸は末熟だったかもしれないけれど、真面目に稽古して、ちゃんと高座を務めていたのよ。でも、後ろ盾になる志ん生はもういないからというんで、ほかの噺家さんたちにいじめられてたらしいの。このことはあたし、ずっとあとになってから知ったんです。馬生は我慢強くて、何かあっても愚痴をこぼすような子じゃなかったから、気づかなかったの。でも、お母さんが亡くなったあと、当時つけてた日記が見つかってね。そこに「今日も馬生がいじめられた。悔しい」って、書いてあったのを読んだの。

日暮里での志ん生の稽古場所

どんなに売れても、いろんな道楽しても、稽古だけは売れない時代と変わらず、毎日してましたよ。日暮里の家のすぐそばに谷中の諏訪神社があって、境内に崖っぷちのところにベンチが置いてあったんですよ。その下を山手線や京浜東北線なんかが走ってるのが見えるの。そこで一人、稽古をしていたようです。人がまったく来ないところだから、稽古をするにはもってこいの場所だったんでしょうね。

妻の死に呆然するばかりの志ん生

お葬式の翌日も、普通に起きて、普通に朝食の支度をして、お父さんと二人で普段どおりにごはんを食べながら、テレビを見ていたの。そのとき、テレビから文楽さんが亡くなったってニュースが流れたんです。
そしたら………お父さんが突然、声を上げて泣き出したの。
「みんな、先に逝っちゃった---」
文楽さんの死に、お母さんが死んでしまったってことが重なったんでしょう。それまで溜まりに溜まってた思いが、あふれ出ちゃったのよね。あたしと二人きりだったこともあって、もう見栄も何もないって感じで嗚咽を漏らして……。自分が一番頼りにしてたお母さんと親友をいっぺんに失ってしまったお父さんがかわいそうで、あたしも一緒になって泣きましたよ、お父さんの涙を見たのは、それが最初で最後でした。

志ん朝は元祖ばなな

家族と同じくらい、志ん朝をかわいがってくれたのが名付け親の三語楼さんでした。あの子を「バナナ」という愛称で呼んでたの。お父さんが志ん生を襲名する前の名前が金原亭馬生だったので、「芭蕉」の子ってことで付けたみたい。「バナナ(実芭蕉)、かわいや」と言いながら、抱っこしてくれてね。

当時東京に二台しかなかったという志ん朝アルファロメオ、実は母親が買ってあげていた。

あの子が『若い季節』に出演してるとき、こんなことがあったの。番組を見てたお母さんが、台所にいるあたしんとこに飛んできてね、「強次が今『若い季節』でトリを取ったよっ!」って。高座でもないのにトリを取るってのもおかしな話じゃない。で、よくよく聞いたら、ラストシーンで志ん朝のアップになって番組が終わったらしいの。もう、たまたまなんですよ。なのにお母さん、「強次はすごいねえ、トリ取るんだから」って大はしゃぎ。そんくらい、あの子のことになると見境がなくなるんですよ。(略)それで、車をねだられても許しちゃったわけ。でもってお母さんが「その車はいくらするんだい?」と聞いたら、なんと当時で二百五十万円もしたんですって。でもお母さん、家じゅうのお金集めて買ってあげちゃったのよ。