十九世紀イギリスの民衆と政治文化

19世紀イギリスの民衆と政治文化―ホブズボーム・トムスン・修正主義をこえて

19世紀イギリスの民衆と政治文化―ホブズボーム・トムスン・修正主義をこえて

とりとめなく引用。

69 1848年は資本主義国家の勝利の年であり、貴族と中産階級の同盟を強固なものにする一方、労働者階級を規律に服させる社会の支配秩序を生み出した。(略)歴史家のなかには急進主義者がなぜ世紀半ばまでに新たな支配階級になっていた中産階級よりも貴族を攻撃し続けるのか、不思議に思う者たちもいた。
75 1832年の選挙法は投票権を持つ者たちを特定することによって、中産階級の形成にあずかった。同時に選挙権から排除されたことが労働者階級のアイデンティティになった。
77 [実は1832年以前に選挙区によっては成人男子普通選挙権が実施されており]1832年の大改革はすでに潜在的な意味で民主的であったシステムをいったん停止させ、財産のみにもとづく選挙権にとって代えた、ということになる。
78 18世紀の「民衆の政治」は大部分が投票権を持っていなかったにもかかわらず、群集が彼らの考えを知らしめ、エリートをして彼ら群集の願望を考慮させる一種の公的活動としての性格を帯びていた。大衆民主主義の到来は粗野で騒々しい民衆の政治文化をそれなりに規律あるものにしてきた公共圏を終息させる役割をはたしたのである。政治は個人的なものとなり、民衆から切り離されるとともに、もっぱら中産階級の男たちのものとなった。この個人化は1872年に導入された秘密投票によって完成し、投票者は集団の代表というよりも、私的な個人となった。
81 19世紀は政党が形成された時代であったが、皮肉なことにそれは政党の概念が嫌悪された時代でもあった。18世紀に人々が求めていたのは「人ではなく施策」であった。言い換えれば、議員は政党や大立者の指示によってではなく、公平無私の態度でもって係争問題に一票投ずることを期待されていた。政党が単に反対するために政府と対立するという考え方はまったく道徳に反するものとして退けられた。[民衆は政党政治家を嫌ったので、当然、候補者は対立候補政党政治家のレッテルを貼り自分の独立を強調した]
84 1900年にいたるまで労働党が成立しなかったことは、組織された労働者がとりわけ正規の政党組織に不信感をいだいていたことからある程度は説明できた。
94 ポピュリズム南北戦争の終わりから1900年にかけてのアメリカの急進的な農民運動を叙述するために久しく使われてきたが、もともとは1892年に設立されたアメリカ人民党の原理を説明するために作り出されたものである。
95 クレイグ・カーフーやパトリック・ジョイスはともに「階級」政治に代わるものとして、ポピュリズムを19世紀のイギリスに適用した。カーフーンは「ポピュリズム」についてコミュニティを基盤とする急進主義の一形態と定義している。「ある階級の意識が階級意識である必要はない」と述べたジョイスは、彼が「ポピュリスト」と呼んだ、階級によらないアイデンティティに関心を向けさせた。
97 ポピュリストの使う語彙のなかでも最も重要な表現は「ピープル」であり、本質的にあいまいであるがゆえに有用な言葉であった。ではいったい誰が「ピープル」だったのだろう。
98 [労働者階級を指し、時として中産階級を指す「ピープル」の]こうした不正確さは言葉の耐久性をも説明していた。「ピープル」は言外に悪意をのぞかせる「大衆」(the masses)とは違って、人びとに脅威を与えなかった。「ピープル」と対立するのは利己的で愛国心をもたないエリートだけであった。
101 [右でも左でもなく上流階級の醜聞をあばくことで民衆の善良を強調し]ポピュリストのスタイルは混乱した複雑な世界に意味を与えてきたのである。ポピュリズムは道徳的で、センチメンタルで、愛国的な形を通して普通の人びとの文化のなかに急進主義を定着させてきた。ポピュリストの言葉はしばしば階級のそれと重なったが、その強調点は階級を超越する「ピープル」にあった。

72 (民衆の怒りを買った)性病法は売春婦に予防接種を強制することによって軍事都市での梅毒の蔓延を防ごうとしたが、男の梅毒患者を対象としていなかったことが致命的であった。このことは単に性の二重規範の実例であるだけでなく、国家が身体のレヴェルにまで介入する権力を持っていることの証左であった。
127 男と女はかつて家庭的な雰囲気の農村工業の下で一緒に働いていたが、工業化が両性の分離をもたらし、女の仕事は家庭の中に限られるようになった、性別分業は工業化を下支えしたのである。ところが実際には、女たちは首尾よく家庭に追いやられることはなかった。典型的な工場労働者は安く雇える女たちであったからである。男たちは自分たちの賃金を切り下げるという理由から、女性が雇われることにしばしば憤慨して、仕事場から女性を締め出そうとした。
128 なかには、ハイド女性政治同盟のように、夫たちが人民憲章を支持するまで彼らとベッドをともにしないよう決議した団体もあった。女性のチャーティストは女が女王になれるのだから自分たちが投票権をもつのは当然であると主張した。