ローリング・ストーンズを経営する 貴族出身マネージャーによる40年史

[小さなマーチャントバンク、レオポルド・ジョセフを買収してから5年、財政面でのアドヴァイスを求めるミックを紹介される]

キースが一番インテリ

 音楽ビジネスの込み入った事情について調べはじめると、私はパイオニア・スピリットのようなものを感じた。当時、私がストーンズのために着手していた類いのことは、まだ誰も成し遂げていなかった。当然のことながら、しばらくすると、エンターテイメント業界の変化を察知した専門家グループが他にも現れた。

 彼らは弁護士だった。[ポールの代理人リー・イーストマンと息子のジョン、クイーンのマネージャーを務めたジム・ビーチ](略)

弁護士たちは金になりそうなバンドを嗅ぎつけ、マネージャーに転身した。アラン・クラインがまさにそうだった。公認会計士だった彼は、チャンスを見つけ、大物になると察知し、ローリング・ストーンズだけでなくビートルズも食い物にした。

 私と会う数週間前にクラインをジョン・レノンに紹介したのは、ミックだった。私たちが話し合った後、彼はレノンに電話をし「よく考えて他の人に頼むことにしたよ。君もそうするべきだよ、クラインはあまり勧められない」。しかし、すでに手遅れだった。
(略)

 バンドは、一方をアラン・クラインとの契約で、別の一方をデッカ・レコードとの契約で縛られていた。損害を最小限にして、彼らをそこからうまく脱出させるのが私の仕事だ。(略)難しいのは現行の契約――バンドには他のレコード会社に移籍する自由がなかった――からどうやって抜け出すかだ。デッカは"創作物の全体あるいは部分"的な権利を保持しており、巧みな戦略を企てる余地はほとんどなかった。
 ただ、デッカとの契約はまともなほうだった。異常なのはクラインとの契約だということが、次第に明らかになっていった。
(略)

 この時点で、ストーンズの窓口はミックだった。残りのメンバーはかかわりたがらなかった。彼らにとってビジネス・サイドのことはほとんど無関係だった。

(略)

キースとは何か月も会えなかった。私はやや苛立ち、断固とした調子で手紙を出し(略)ようやく現れたキースは、もちろんまったく違うタイプなのだが、ミックと会った時のような印象を私に与えた。(略)

 ここだけの話だが、キースはある意味、バンドの中でもっともインテリな人間だと思った。ミックのようにまわりを浮き浮きさせるようなオーラがキースにもあった。(略)

 その他のメンバーの印象は薄かった。ビル・ワイマンは完璧に普通の人、平均的な若者という印象だった。(略)
 チャーリー・ワッツは内気で、感じのよい、ジャズの素養と技術を備えた才能あるアーティストだった。ミック・テイラーは、他のメンバーとは異なり、いわゆるイケメンだった。

(略)

[ロック・ビジネスのわかる弁護士事務所を探し、ストーンズの契約を分析]

ミックが言っていた「なぜストーンズに金が入らないのか」が判明した。金はすべてクラインの懐に入り、メンバーはクラインが与える金に頼っているからだ。(略)まるで昔のインド人金貸しのやり口と同じだ。つまり、誰かが全額を手にし、他にはほんの少額だけ、しかも税込額でしか渡さない……。

 驚きもしないが、アラン・クラインは会計計算書すら残していなかった。金の流れを調べるには(略)膨大な書類に含まれる、すべての算定数値を丹念に調べていくしかなかった。

(略)

書類の山をチェックする作業には18か月、ストーンズの当時の契約が終了する1970年までかかった。ストーンズのレコードと楽曲管理の契約は再交渉する必要があった。負債は、アラン・クラインの契約書に従って返済しなくてはならなかった。そして、彼らの収入に対して課せられる83~98パーセントの税金を支払うために、金を調達しなくてはならなかった。契約書には税金の項目がなかった。

(略)
 アメリカでは、ポピュラー音楽がいつも莫大な金を生み出してきた。(略)

[アメリカ弁護士たちはそれがよくわかっていたが、イギリスの弁護士はその認識がなく]マネージャーになろうとはしなかった。(略)

 アメリカの弁護士は、音楽業界の実態を理解していたからこそ、私たちと仕事をすることに積極的だった。厄介な仕事でも喜んで引き受けただろうが、彼らを雇うとしたら、ストーンズは高額な料金を負担することになったはずだ。

(略)

レオポルド・ジョセフの同僚たちは、ストーンズのためにほとんどの時間を無償で費やしている私を心配していた。私はかなりの時間と費用をかけ、頻繁にアメリカを訪れていたが、ストーンズにはまったく請求していなかった。すべてが純粋な支出であり、収入欄はゼロだった。1972年まで、私はストーンズに請求書を送ることができなかった。実際に彼らの面倒を見はじめてから3年が経っていた。

 契約問題が複雑だったにもかかわらず、全体の状況に対する私の興味が薄れなかったのは、心の底で最後には自分が勝つと思っていたからだ。(略)

デッカからの解放

 大金を稼ぐ必要はない。ストーンズをデッカから解放し、新しい契約交渉ができるようにすることが重要課題だった。将来的には、ストーンズがアラン・クラインに最悪の条件で売却した、マスター・テープと音楽著作権から得る収入に対して、レオポルド・ジョセフは妥当な手数料を請求できるようになるはずだった。

 過去の稼ぎに関しては、リスクを伴うため私にはどうにもできなかった。ストーンズが膨大な数の契約書にサインをしていたからだ。(略)

 アラン・クラインの懐に入った金からいくら取り戻せるかは、弁護士と調停人による最終弁論次第だった。(略)

 うまく交渉を進めようとする私に暗雲が立ちこめてきた。クラインとの契約期間中、ストーンズが少しでもまじめに仕事に取り組まなかったとクラインの仲裁人たちが示してきたら?このことは調停が始まってから明るみに出た。

 バンドをデッカから解放するためには、繊細な交渉が要求された。(略)

ストーンズはデッカとの契約の下で、なぜ自分たちの姿勢について説明したり、どんな曲を書くか書かないかについて話し合わなければならないのかが理解できなかった。(略)他の人々が自分たちの作品に口出しする権利などあるものかという態度だった。私と弁護士は(略)彼らの主張は法的には誤りであり、残念ながら法律が正しいということを指摘しなくてはならなかった。

 楽曲権に関する契約書では、ローリング・ストーンズは、すべての作品、あるいは"制作途中にある"作品の著作権について拘束されていた。後半部分が重要だった。つまり、いかなるデモ・テープも、あるいは完成途中の曲ですら、契約の対象となった。
(略)

 状況はさらに悪化した。(略)エドワード卿がマーシャル・チェスに尋ねた。「君はローリング・ストーンズのやってきた仕事の状態について詳しいと思うが」。「もちろん、そちらで全リストをお持ちのはずです」と、マーシャル。ミーティングを終え(略)デッカの建物に戻る途中、マーシャルは急に吹き出し、笑いながら「実は話題にしていない曲がまだまだ山のようにあるのさ!」

 セオドア・ゴダードの税金専門弁護士ステイシー夫人と私は真っ青になった。(略)

[ストーンズに伝える必要がある]すべての交渉は変更を余儀なくされること、デッカに戻り、彼らに権利のある未完成作品があることを伝えなくてはならないということを。これによりアラン・クラインとの訴訟もさらに不利になった。
(略)

[イギリス国税庁は]まだ課税されていない巨額な契約金がストーンズにあるのを突き止めたようだった。(略)

法廷で国税庁の尋問(略)

「楽曲使用料として支払われた全額を、彼らは受け取ったはずです。この契約書はそれを認めていますね?」。私は答えた。「いいえ、私はたしかに、その件について細心の注意を払って調べましたが、あなた方と同様に驚きました。そこからは一銭も見つけ出すことができなかったのです。(略)これがどういうことなのかアラン・クラインに聞いてみてください」。

 法廷内には笑いが起きたが、これは実に深刻な事態だった。ストーンズには金がないだけでなく、内国歳入委員会から訴えられてマーシャルシーのような[債務不履行者専用]刑務所に収監される危険性があった。(略)

 さらに、バンドはイギリスに住むことを諦めなくてはならないことが、私の中では明白になっていた。そうしなければ、イギリス国内での利益に対し、83パーセントから98パーセントの所得税と付加税を支払うことになる。

税から逃れて国外へ

[バンドを待つのは長く不愉快な訴訟、そして米英の弁護士たちと著者への支払い]

ミックは大博打を打つのに慎重になっていた。しかし、ここは彼自身に決断してもらわなくてはならなかった。私のアドヴァイスに従いたくなければ、私は退き、彼を混乱の中に一人取り残さなくてはならなかった。

 「私のアドヴァイスは簡単だ(略)クラインを辞めさせて、この国から脱出すること。そうしなければならない。"イエス"か"ノー"かのどちらかだ」。彼は「イエス」と答えた。そして、ここからすべてが始まった。

 税金を免れるために国を出る決意をすると、今度は相応しい場所を探さなくてはならなかった。絶対に遠くないほうがよいと私は考えた。[ブラジルは遠すぎる](略)

イギリス人にとって、もっとも楽に行ける地域だという理由で、私は南フランスを選んだ。(略)アイルランドは行き先として相応しかったかもしれないが、税金も定かではなく、そこで暮らしたとしても国外居住期間の条件を充分に満たすことになるか確信が持てなかった。そしてバンドの拠点をアメリカに移すには時期尚早だった。

(略)
私は南フランスを子ども時代からよく知っていて、その後も何度となく訪れていた。
(略)私は自分のコネを通じ、住まい探しに奔走した。(略)

 ミシャール・ペリシエ氏はアルプ・マリティーム県知事と直接交渉した。その結果には県庁の役人も驚いた。それは、交渉で決まった所得税さえ払えば、ストーンズの居住を認めるというものだった

(略)
 チャーリー・ワッツは今でも当時購入した家を所有している。ビル・ワイマンも、長いあいだ家を維持していた。家を自由保有不動産として購入することを、私がメンバーに勧めたからだ。(略)ミックは家を買わないことにしたが、先見の明がなかったとしか言えない。キースは、アニタと選んだ大豪邸、ヴィレフランシュの入江の高台にあるネルコートの賃貸契約を購入に変更できたが、そうしなかった。当時なら3万ポンドから4万ポンドで購入できただろうに。

 バンドの移動録音車をロンドンから運転してくることで、ネルコートはストーンズの次のアルバムのレコーディング場所になった。
(略)

『メイン・ストリートのならず者』(略)タイトルが税金対策の企てをほのめかしているという点で、珍しいトップ・セラー・アルバムに違いない。

アーメット・アーティガンがクラインにプレッシャー

クラインからストーンズを解き放ち、アーメットの会社、アトランティック・レコードに巻き込もうとしていた。ストーンズの当時の契約が終了する1970年から1971年が近づくにつれ、アブコとデッカ・レコードが保有している権利を明らかにすることが急務となっていた。

 時間的な制約で迫ってきたのは、アーメット・アーティガンだった。(略)

アトランティック・レコードからのデビュー盤となるはずの(略)『スティッキー・フィンガーズ』に前払い金を支払っていた

(略)

アトランティック・レコードとその弁護士たちは、心から喜んで私を支援してくれ、レコード業界では何が正常で、何が正常ではないかをわかりやすく教えてくれた。策略を見破るコツを学んだことは、その後の仕事に大いに役立った。

 誰もが予測しなかったのは、その後18年間も訴訟が続くことになるということだった。私は、契約問題はせいぜい3、4年で決着するだろうと思っていた。アラン・クラインとしては当然、長くなればなるほど有利だった。彼はストーンズに支払うべき著作権料を払わず、特定のマスターと著作権は自分のものだと言い張ることで、状況を困難にできることがわかっていたのだ。

 私の問題は、アラン・クラインと何らかの合意に達し、彼がストーンズに対して支払うべきものを送金してくるまで、私からストーンズに請求書を送ることができなかったことだ。(略)レオポルド・ジョセフの同僚たちは、実にまともなことを言っていた。「ルパート、うちに支払いがないのに、この仕事とアメリカ出張に君のすべての時間を費やすことはできないよ」。しかしながら、レオポルド・ジョセフに金が入るためには、ストーンズが得る著作権使用料と稼ぎの一部でも支払われることを確認しなければならないのだ。すべてはクラインとの合意にかかっていた。

 この初期段階では、まったく金にならないリスクもあった。アトランティックが次のレコードを出すのはわかっていた。彼らは、アメリカ国内にいるかぎり、マネージャーの経費は負担してくれた。車代、タクシー代は支払われたが、ホテル代とアメリカへの旅費はすべてレオポルド・ジョセフの負担だった。

 アーメット・アーティガンは私たちとクラインとの闘いに、二つの貴重な援護をしてくれた。彼はアラン・クラインに、自分はストーンズに投資するつもりであるから、大混乱を招くよりも堂々と去ったほうがずっとましだ、と助言した。さらに、フランク・シナトラの弁護士ミッキー・ルービンを紹介してくれた。しかし、ミッキー・ルービンを巻き込んでも、この訴訟は難航し、なかなか進展しなかった。

 それでもなんとか満足のいく合意に達することができたのは、幸運なことだった。(略)

[当時の準備書類に]私は記していた。「われわれは和解に到達するだろうが、引き続きさらなるプレッシャーが必要だろう」。そのプレッシャーはストーンズ自身とおそらくアトランティックが加えることになる。自分の顧客に任せ、新しい顧客を取ってこさせつづける能力を指摘されることで、クラインは致命的な打撃を受ける。たとえ彼が訴訟に勝ったとしても、彼がいくら利益を得たかが暴露されることになるからだ。
(略)

 ある時、アラン・クラインと私、二人きりになった。彼はすぐにデスクの引き出しを漁り出し、私たちへの請求明細を見つけて大喜びし、わざわざ私に見せてきた。クラインはこういった請求には、とりわけうま味があると思っているようだった。実に厚かましい姿勢だ。私たちは絶対に友だちにはなれない。しかし、私たちが議論し合っていたことはあまりにも深刻で相容れないにもかかわらず、延々と続いた係争を巡り、妙な連帯感が生まれたのも事実だった。

 朝の8時に、われわれは合意に達した。(略)

金を手にできたのは重要な成果だった。私が決めた目標はクラインのポケットから100万ドルを引き出すこと、そして私たちはもっと獲得した。

 主要な目的は充分に達成された。ローリング・ストーンズは自分たちが選んだレコード会社で自由にレコーディングができ、それまでの契約料(交渉中は支払いが保留にされていた)よりも多くの額を得ることになった。その後もクラインが細かい点を取り上げてくるたびにニューヨーク市や連邦の裁判所で争わなければならず、ストーンズは私たちと手を切ることができなかった。彼らと内国歳入委員会を相手に、いくつもの訴訟が繰り返され17年にも及んだ。
(略)

 マスティック島はジョセフィンの従兄弟であり(略)ジェームズの兄であるコリン・テナントによって、1960年代初頭に購入された。コリンは[島のインフラを整備し、娯楽スポットにした](略)

政府と条約交渉をし、新規住民は非課税という(略)条約を締結することができた。(略)恰好の節税目的の国外居住地として、人々が移住してくることになった。
(略)

当時、非居住と見なされるには、初めの3年間は毎年イギリス国内で過ごすのは90日以内、さらに1年間を完全に不在にし、自分名義の住居を国内に所有しないことが必要だった。

 キースは(略)非居住者となることに渋々合意したが、いったんそう決めると、彼は生活をとても楽しんでいた。ミックにはマスティック島に家を買わせたが、キースはそこを気に入らなかった。

 ミックは今でも家を維持しているが

ソ連

イギリス大使館ストーンズがツアーをする国々の領事館と密接なやり取りをするため、私はいつも適材適所の人々を使った。これが最初に役立ったのが、1972年(略)日本政府がビザを発給しなかった時だった。私はたまたまイギリス大使のフレッド・ワーナー卿を知っていた。(略)駐日大使に任命されたばかりで東京にいた。(略)

私は東京へ向かい、大使館に滞在しながら話し合った。結局、ビザが下りないのは、1969年5月にチェイニー・ウォークのミック宅がドラッグの強制捜査を受けたせいだということが判明した。

 最終的には、あの抜き打ち捜査は信頼性において問題があるという証拠を提出し、難を逃れたが、内心二度と同じような状況には陥るべきでないと思った。たとえその国の大使を知らなくとも、大使を知っている人を必ず確保するよう、いつも気をつけるようになった。私はストーンズが大使館のパーティーに招待されるようにアレンジし、大使と大使夫人、そしてスタッフにストーンズのショーのチケットを手配して喜ばれるように努めた。こうして強い絆を築くことで、何か問題が起きた時に味方を得ることができたのだ。

(略)

ストーンズソ連での公演を望んでいた。(略)

 私の母は(略)ゲオルギ・セント・ゲオルギという老齢のロシア人を知っていた。彼はいつも言っていた。「(略)生まれはシベリア、最高のロシア人はすべてシベリア出身なのさ」。彼の先祖たちは1825年の反乱の十二月党員でシベリアに移送され、広大な土地を所有し、心地のよい生活を送った
(略)

 ゲオルギにはソ連最高会議に親友がいた。詩人、作家、翻訳家のセルゲイ・ミハルコフで、当時、文化省顧問委員会の委員長だった。(略)

 ジョセフィンと私はホテル・ナショナルで夕食をとっていた。注文をしたものは、まだ何も出てきていなかった。突然、レストランが静まり返った。まるでイギリス王室の誰かが入ってくる時のように。私たちが見上げると、そこには背の高い中年の美男がいた。間違いなくゲオルギの友人、セルゲイ・ミハルコフだった。彼がやってきて、サービスに問題はないかと尋ねたので、ジョセフィンが言った。「チキンを待っていたのですけど、注文して30分してから、チキンはないと言われました」。ミハルコフは指を上げると、ウェイター長が慌ててやってきた。「チキンをただちに」とミハルコフは命じた。するとチキンは言われたとおりにただちに出てきた。

 後に、ミハルコフに尋ねたことがあった。赤の広場で見かける警官の多くは、位の高い警官のように見受けられるが、どうしてなのか。彼は「もちろんだ。だって偉くもない連中に逮捕されるのは嫌だろうから」と答えた。

(略)

[招待されたミハルコフの別荘で]革命前の美しい夫人の肖像画を見つけた。それはミハルコフの祖母、ガリチン公爵夫人だった。ソ連最高会議に元貴族のメンバーもいるということを私は知らなかった。「何人かはいる、ガガーリンは違うけど。西側ではソビエト連邦についてかなりの誤解がある。われわれの社会は平和で穏やかで、殺人や強盗もなく、人々は子どもたちを安心して育てることができる。時折、小さな暴動が起きても、KGBのおかげでいつも鎮圧できている」とミハルコフは説明してくれた。

 ほぼ30年後、1998年にモスクワでミハルコフに再会した。「前に来た時、ソビエト連邦は強国で、外国にとって脅威で国内は安全だった。現在のモスクワは犯罪と秩序の乱れで三流のラスベガスに成り下がったよ。国の中枢も脆弱で世界の笑いものだ。君はどちらがよかったかね?」と彼は言っていた。

(略)

[担当大臣との会議]

「私たちは、イギリスの音楽における大衆文化的なものをこの国に持ち込むことに強い関心を持っています。そのお返しとして、喜んでソ連の音楽をロンドンで演奏させていただきます。閣下、私どもは歓迎されますでしょうか、ローリング・ストーンズがここで公演できるかどうかを知りたいです。(略)」。

 大臣は答えた。「公爵殿、あなたはソ連文化の目指すところを誤解されているようです。われわれには、西側ヨーロッパで実践されている不届きな教えを、このように破壊的な人々や文化的に無名な人たちから受け入れるような態勢が整っていません。私があなたに言えることは、もしいらっしゃるとしたら、ご理解いただきたいのは、コンサートにかかわるいかなるソ連人民も、ドラッグで逮捕されるとソビエトの法律で重刑に処されるということです。そしてイギリスあるいは西側から来た方たちは、明け方の4時であろうと常時準備されている飛行機で優しく確実に強制送還させていただきます。(略)
あなたのお越しに感謝を表して、明日夜のボリショイのチケットを用意しました。お気に召すと良いのですが」。

 すべては実に明確だった。ゲオルギ・セント・ゲオルギは言った、「おそらく雲をつかむような感じになるって言っただろう。少なくとも君はここに来て、大臣には会った」。

(略)

ロンドンに戻り、事の次第をストーンズに報告した。「俺たちが行く前にあなたが調べてきてくれてよかったよ。何年か先まで待ったほうがよさそうだ」。そうしてわれわれは結局15年以上待った。(略)

 

[引用者感想:右リンク先の本(ドン・フェルダー自伝 その3 - 本と奇妙な煙)で描かれるツアーの浪費ぶりと比べると、なんて良心的なんだと感心してしまいます]

ツアー経費節減

 ツアーに関して、私がバンドに注意を促さなくてはならなかったのは、経費の節減だった。(略)

彼らが雇用している、あるいはツアーに同行させたい人たちすべてを五ツ星のホテルに宿泊させるのは論外だった。ツアー同行者には日当として日々の生活費が前もって支払われていた。さらに、地元のクリーニング屋ならシャツ1枚の洗濯は50セントで済むところが、五ツ星のホテルでは10ドル、オレンジ・ジュースやジン・トニックも通常価格の5倍もかかる。こうした出費を省くだけでも大きな節約になる。「誰が支払うのかよく考えて」。私は繰り返し言いつづけた。「払っているのは君たちだ。まったく払う必要がないのにね」。
(略)

[ローレンス・オリヴィエらが所属するシアター・カンパニーからツアー運営依頼]

私は快諾し、いくつかの質問をした。「どんなホテルがよろしいでしょうか?」「一番安いところで。それから部屋は相部屋でお願いします」。「ギールグッドとオリヴィエが相部屋でもよろしいんでしょうか?」「大丈夫、二人一緒で」。「それから日当はどうしましょう?」「日当ってなんですか?」「1日分の小遣いで、ツアー同行者が飲食できるように前もって払うものです」。「俳優たちに必要なのはサンドイッチとハーフパイントのビールだけですよ」。私は大喜びでこのやり取りをストーンズに報告した。
(略)

 不必要な経費の削減に努めると同時に、私はツアーからの収入が増えることに力を注いだ。ツアーとはバンドの"アルバムのため"、レコード会社の利益のためだけにあるのではなく、そこからバンドが金を稼ぐことができるはずだと私は見ていた。

(略)

アルバムのためとは、最新アルバムのプロモーションの一環としてツアーをし、レコードの売り上げを増やすということ、つまりレコード売り上げが主な収入源だったからだ。ツアーに関してレコード会社は"ツアー経費"としてわずかな額しか支払わなかった。
(略)

[ツアーは順調だったが、オルタモントの悲劇勃発、2日後、ジュネーヴでミックと会談]

ツアーの映画[『ギミー・シェルター』]を世に出せば事実も明らかになり、面白いものになるだろうという考えに至った。(略)

私はワーナーの映画部門と付き合いのあるアメリカの友人と話をした。「すごく変なことを聞くけど、古い友だちとして、目を見て、はっきりと答えてほしい。私は映画制作の費用に関して未経験で検討がつかないから、ローリング・ストーンズの利害が守られるようにしてもらえるかい」。「取引相手に対してありえない要望だけど、君の言っていることはわかるよ」と彼は答えた。(略)

映画制作には前もって資金調達をしなくてはならないが[メイスルズ兄弟に資金はなく](略)私は熾烈な闘いを強いられ、こちらサイドに金が支払われるように、そして支出は最低限に抑えるように努めた。これが功を奏し映画は大成功、さらにこの映画制作のプロセスを通じ、バンドにとってツアーは明らかに収入源になるという確信を得ることもできた。

 1972年、アラン・クラインとの果てしない法的闘争に束縛され、彼の甥ロナルド(彼が担当したツアーはうまくいったが)と仕事をするのはもはや適切ではなくなってきていた。(略)[ミック&キースが候補に上げた、ザ・フーのツアーを担当してきたピーター・ラッジを起用](略)

ヘルズ・エンジェルスがすべての警備を請け負うと申し出た。(略)ニューヨークのホテルで彼らはピーターを取り囲み、50階の窓から外に体を乗り出させて、言うことを聞くように脅されたという。(略)

薬物での現行犯逮捕、契約していない現金の授受の発覚[などに対して我々は警戒心を強めた](略)

以前は、使途不明金が紙袋に入れられバンドやマネージャーに届けられるのは当たり前のことだった。(略)

大成功だった1978年『女たち』のツアーの時でさえ、会計担当スタッフが私のところにやってきて「この紙袋の5万ドルどうしますか?」と聞いてくる始末だった。私は「そのまま会計監査士に渡して」と指示した。

 私はストーンズのメンバーを招集し、言い渡した。「(略)アメリカ国内での脱税は君たちのキャリアを台無しにするから、紙袋に入ったドル紙幣は課税収入に戻すべきだ」。

転売、非公認商品販売はプロモーターの汚いビジネス

ダフ屋ももう一つの大きな問題だった。(略)誰もが「あなたにはどうにもできないよ。あれはプロモーターのビジネスだからね。ストーンズの子どもたちを誘拐されたくなかったら、気をつけたほうがいい。難しく危険そうな連中を相手にすることになる」と言われるのだった。
(略)

ビル・グラハムは古風な虚言症だった。彼はバンドに言った。「有名になってこの業界で長くやっていきたいなら、安いチケットが手に入るチャンスを提供する必要がある」。当然、これはストーンズにとって共感できる理屈だった。つまり彼らの音楽を聴く機会とコンサートを観る機会のない人々の助けになると思えたからだ。(略)

[だが私には最初からわかっていた]チケットの額面が安ければ安いほど、より多額の金がさまざまなプロモーター仲間のポケットに消えていき、最終的にチケットは100ドル以上で売られていたということだ。(略)

チケットが50ドルで転売されたとすると、そこから10ドルか15ドルは地元のプロモーターに、ツアー・ディレクターはチケットが額面通りの価格になるように余剰を懐に入れる。

 転売は広く行き渡った風土病のようなもの。当時のツアーは本質的に汚職まみれのビジネスだった。ある時点では、ドイツの五大プロモーターのうち、3社が実刑判決を受け、2社は捜査中だった。

 レコード会社も同様にこうした転売にかかわっていた。DJにシングルをかけてもらうための賄賂として、またレコード店に新譜を在庫してもらうために、彼らにはチケットが必要だった。そして頻繁に私たちに無料チケットを出させようとし、そのチケットを売って、現金を懐に入れたりしていた。(略)

[CBS]重役と交わした会話は今でも忘れない。(略)
「なんてこった。われわれは君たちのレコードを買っている。少しはチケットをばらまかなければならないのはわかるだろう?」「そのとおりです。でもあなたが教育を受け、読むことを学んでいたら、必要なだけのチケットを定められた価格で買うことができると契約書に記されていることはおわかりでしょう」。

(略)

 転売の変則的なやり方もあった。(略)ビル・グラハムは友人たちに異なるチケットを渡し、勝手に開閉し誰が通っても記録されない特定のターンスタイル(回転式改札口)から劇場に入場させた。これらのチケット代は計算されなかった。(略)

[抗議し、]訴訟を起こそうとすると、口頭で証拠を提供してくれた人々のうち一人として、宣誓供述書を出そうとはしなかった。(略)

ニューヨークのスタジオ54を経営するスティーヴ・ルベルの父はニューヨークの大手プロモーターだった(略)
私はスティーヴに尋ねた、「どんな手を打つことができる?」彼は「完璧に排除することはできない。いつだって所得隠しはあるさ。必要なのは、もはやこれ以上はないと見切りをつけることだね。プロモーターと交渉することで、君がお見通しだということを彼らにわからせるべきだ。それぞれのターンスタイルに警官を立たせるわけにはいかないのだから。少なくとも君には何が起きているかはわかるさ」。これはとても重要なことだった。

 私はおよそ10パーセント取り除けない芯のような部分があるということを認めなければならなかった。そして残りの90パーセントを死守するために集中することにした。

(略)

[シカゴのマネージメントをしていたハワード・カウフマン]はとても手ごわい男で、「ルパート、私は契約書にサインはしない。この仕事はするし、君が提示している以上の額は取らないが、契約書にはサインしない。私はすること、しないことについて、どんな形であれ法律的な話し合いをする準備ができていないから、君はリスクを抱えなくてはならない」と主張した。(略)

[しかし高レベルの転売が行なわれ、問いただすと]

「私がいろいろな場所で大量にチケットを買っただけのことさ。自分の金で私のチケットを購入し、それを売ろうが売るまいが私の勝手だろう」。

 マーチャンダイジングの売り上げと駐車場代は不正に吸い取られ、申告されないことがまかり通っていた。[チケット転売より]もっと質が悪く、あくどかった。いつも独占的に誰よりも稼いでいる者がいた。(略)

1990年代に、カナダ人プロモーターのマイケル・コールストーンズのツアーを担当した時のこと、彼はイタリアのとある会場を見回り、オフィシャル・マーチャンダイジングのスタンドが一つもないことを発見した。(略)非公認の商品を売るスタンドばかりだった。

 彼はひどく怒り、地元のプロモーターと話をさせてもらうことにした。ついにプロモーターが警察官を伴って現れ(略)警官が銃を取り出しテーブルの上に置き、マイケルに向かって言った。「マーチャンダイジングの取り決めは変更なしだ。あばよ」。これは実に粗暴で露骨な不正行為だった。

 ローリング・ストーンズマーチャンダイジングで代表的なのは舌のロゴだった。(略)[ロゴ不正使用対策として]高額な費用を投じて何か国かで著作権を保護した。ある時期には、著作権保護のために年間100万ドル以上も払ったものの、バンドがツアーに出ているあいだしか大金は稼げなかった。
(略)

 ローリング・ストーンズ・レーベルは、ピーター・トッシュのアルバム『ブッシュ・ドクター』でそこそこ成功したが、その他のプロジェクトはうまくいかなかった。ジョン・フィリップス(ママス&パパス)のアルバムは発売できず(アトランティックは莫大な費用を投じたが、未完成のまま(略)

結局、ローリング・ストーンズ・レコード・レーベルはバンドのソロ・プロジェクト用として使われ、ストーンズ自身のアルバムは、このロゴ付きで発売された。

(略)

 マーチャンダイジングの他にはスポンサーの問題があった。コンサート会場で、よく大きなスポンサーの看板類を目にしたが、私たちに金は一銭も入ってこなかった。フランスでニースのショーの前に、ビル・グラハムにこうした看板について尋ねた。「あれは地元のプロモーターがやっているんだ」。「変えないとだめだ。これから大手企業と交渉して彼らが宣伝できるようにさせるから」。彼は激怒した。(略)私を男子トイレに連れていき、私に向かって喚き立てた。「こんなことはありえない、俺の仕事をメチャクチャにしやがって」。私はきっぱりと言った。「当然の成り行きだ。話はこれで終わり。さて、あんたはここに他の用があるのかい?」

契約更改時期にキースが逮捕

ストーンズのキャリアにおいて重大かつ存続を揺るがすような危機が訪れた。ちょうどその頃アトランティックとの契約は更改時期が近づいていた。彼らの提示内容がこちらの要望ほど魅力的ではなかったので、私は断り(略)ポリグラムとの契約をストーンズに勧めようとしていた。

1977年2月(略)チェックインして部屋に入ると、アトランティックのアーメット・アーティガンからクリュッグの大瓶が、MCAからボランジェが、RSOのロバート・スティグウッドから怪しげなアメリカのシャンパンが届いていた。それぞれにお礼の電話を入れた時、アーメットが電話の向こうで笑い声を立てているのが聞こえた。「安物のシャンパンはスティグウッドから届いたものじゃないよ。私が送ったのさ」。(略)

最後の詰めに入ろうとしていた矢先、ミックから電話が入った。カナダでキースがヘロインの密売で(使用ではなく)逮捕されたというのだ。(略)

 私は交渉してきた人々全員に順繰りに電話をし、ニュースを伝えた。「不祥事が発生しました。それでも契約内容に変更がないかを確認させていただきたい」。1社ずつレコード会社は辞退していった。このような深刻な状況に直面してもアーメット・アーティガンだけは変わらなかった。結局、私はアーメット・アーティガンのところに戻り、それまで揉めていた契約上の細かい点で渋々妥協し合うことで契約更新にこぎつけた。

 キースに対する訴訟が継続していくうちに、バンドの先行きは計り知れない暗雲に覆われていった。キース抜きのストーンズは、ほとんどの人々にとって、そして何よりもキースにとって、想像もつかないことだった。(略)

契約の話し合いの中で、"ローリング・ストーンズ"の定義の範囲を変更しなくてはならなかった。私たちは"ミック・ジャガーストーンズの二人"という表現にした。(略)

[この件についてキースに伝えると]さすがに彼はプロだった。事を荒らげたりはしなかった。この事態に心を乱したが、どうして、そのような文言にしなくてはならないかを彼は理解した。

 カナダとワシントンの知人二人が、執行猶予がつくとしてもキースは実刑判決を受けそうだと言ってきた。キース自身も刑務所行きを覚悟していたはずだ。私たちは移民局内部に有力なコネのある専門弁護士に依頼することで、何とかこの危機を乗り越えた。結局、キースは一定期間、仕事に復帰することを禁じられたものの、実刑を免れた。

 法律的な弁明の中で、私たちは次のような事実を述べるのに終始した。金持ちは台所の棚にコーンフレークを一度に10箱買い、さらに必要ならもっと買う。しかしけっして、これをコーンフレークで取引をしているとは言わない。それと同じこと。つまり、金持ちの男が大量のヘロインを個人の使用目的で購入したのは、価格が手頃に思えたからである。この論法は役に立ったかもしれないが、実にいい加減なものだった。

 キースは慈善コンサートをすることを勧められ(略)「耳の聴こえない人たちのためのコンサートはどう?」とキースは意見を述べた。

 国境を越える時はいつも慎重にならざるを得なかった。(略)毎回ドキドキしながら、「お願いだから誰の荷物からも薬物が出てきませんように」と祈るのだった。

アニタビアンカ

逮捕の一件で、バンド内の力関係に明らかな変化が生じた。(略)[刑務所行きを覚悟したことが]キースを成長させたことは間違いない。(略)私が何とか解決してくれることがわかっていたのか(略)キースからとくに謝罪の言葉はなかった。(略)

もはや彼は奔放な若者ではなくまじめな大人であることに慣れなくてはならないということに、とても人間的な態度を示した。(略)

キースとアニタ・パレンバーグの関係も終わりかけていた。(略)

彼女のヘロイン依存症は深刻で、キースでさえ耐えられないほどだった。少なくとも私はそう思っていた。(略)二人がシェアしていた家で、10代の少年が銃で頭を撃ち自殺、キースはレコーディングでパリのスタジオにいて不在だった。メディアはいい加減な噂で持ちきりとなり、二人は明らかに苦渋の時期を過ごした。事実上、この件が二人を別離へ導くことになった。(略)

キースは美人モデルのパティ・ハンセンと(略)1983年、キースの40歳の誕生日にミックを介添人として結婚(略)[パティ]一家はスカンジナビアの敬虔なクリスチャンだった。彼女はキースの人生に必要だった堅実性をもたらしてくれたのだと思う。

 ミックの人生も大きな変化を迎えていた。7年連れ添ったビアンカと離婚することになった。(略)

20年後のジェリー・ホールの時と同様に、彼女に言った。「このビジネスに関するかぎり、私はミックの代理人で、あなたの代理人ではない。私はミックのために最善を尽くすことになるので、あなたは自分の弁護士に私が提案することを相談しなさい」。(略)

ビアンカは答えた。「私が何を求めているかあなたにはわからないわ。私は彼を痛めつけてやりたい、金を巻き上げてやるわ!」「(略)親しい関係を維持できれば、あなたはずっと優位に立てる。逆にそうしなければ不利になるということだ」。

[ビアンカは]私のアドヴァイスに耳を傾けず、当然のことながら離婚後の二人の関係はひどく難しいものになった。(略)長いあいだ、二人はまともに付き合うことができず、財産分与の条件についても話し合えなかった。(略)

 ビアンカのうっとりするような美しさ、一緒にいると子どものように無邪気に振る舞うところが、私は好きだった。(略)

[スタジオ54]全盛期のある晩に、ビアンカの27歳の誕生パーティーが催され、彼女が白馬にまたがった写真が撮影された。(略)馬はサプライズで持ち込まれ、ホルストンの赤いロングドレスを着たビアンカがその馬にしばらく騎乗するというものだった。意図しなかったものの(略)馬に乗ってクラブに登場したという神話として広まった。(略)

ジェリー・ホールは(略)飲酒と薬物の使用がミックの容姿に大きな悪影響を及ぼしていると指摘し、彼はこの警告を真剣に受け止めた。

キャット・スティーヴンス、ピンク・フロイド

[『女たち』タイトル曲の歌詞「黒人女は一晩中ファックしたがる」、アトランティックは"ファック"を認めず]

[契約条項では]アトランティックが歌詞あるいはジャケットに異議を唱え、その問題を解決できなかった場合、唯一の解決法は、アトランティックがアルバムを発売しないと文書で表明、これにより私は他のレコード会社と交渉する権利を得るということになっていた。

 私はアトランティックに手紙で伝えた。「貴社が下記の歌詞を出すことを拒否するということなので、契約書の第××項に従い、私はここにお知らせします。A&Mのジェリー・モス氏が、喜んでこのアルバムを同額の前払い金で出すことを承諾しました。その手紙を同封します」。アーメット・アティガンが大慌てで、電話をしてきて、私たち二人は問題の解決法を見出した。それはミックに歌詞を曖昧にすばやく歌わせ、はっきりと聞こえないようにすることだった。

 私自身の生活にも大きな変化が訪れていた。(略)

レオポルド・ジョセフを辞める決心はなかなかつかなかった。この小さなマーチャントバンクに留まれば、私の将来は明るかった。私が残っていたら、その後の何年か世界の金融市場が発展していく時期に、小さなレオポルド・ジョセフを大きな銀行に売却し、多額の利益を得ることができただろう。しかし、そうなれば私は他人から雇われる身となる。これは、実に不本意なことだった。

(略)

銀行の同僚たちは(略)私がストーンズとの仕事に専念することに理解を示した。彼らが密かに心の底で「銀行の利益のルパートの分け前は自分たちのものになる」と思っていたことも確かだ。

 こうして、1981年1月に私はレオポルド・ジョセフを去り、自分の会社ルパート・ローウェンスタイン社を設立した。(略)

ストーンズと働くだけではなく、音楽業界内で自分の顧客基盤を拡大できそうだと思った。

(略)

[契約交渉で一時的にキャット・スティーヴンスと関わり、その後、再度]

かかわることになったのは、スティーヴンスがイスラム教に改宗しようとしていた時期だった。(略)改宗の結果、彼は自分の金から生じる利子の受け取りは禁じられ、税金の解釈について神経質になっていた。(略)
講じた策の一つは、スティーヴンスが期末に印税を手にする前に、その元金に対し高めに設定した固定額を銀行から彼に長期間支払わせるというものだった。

(略)

この時期にかかわった別の大物クライアントはピンク・フロイドだった。ギタリストのデイヴィッド・ギルモアの代理人となり、バンドとロジャー・ウォーターズのあいだの分配条件について交渉した。ウォーターズはグループの権利を独り占めしようとしていた。

(略)
最初に気づいたのは、マネージャーのスティーヴ・オルークが、デイヴィッドとニック・メイスンに、ロジャー・ウォーターズに対してよりも多くのコミッションを請求していたことだった。どう見ても変だ。(略)この件でスティーヴ・オルークと私の関係はややこしいものになった。

(略)
 ピンク・フロイドという名称の使用権を巡って大乱戦となった。(略)

ギルモアはウォーターズに対する嫌悪をけっして克服できず、この問題はかなり長引いた。私は彼に言い聞かせた。「彼のことを好きでも嫌いでもかまわない。彼と一緒に大金を稼げばいい」。しかし、ギルモアは納得しなかった。どうしてもウォーターズに耐えられなかったのだ。
(略)

解決の糸口が見えたのは(略)ウォーターズがピーター・ラッジをマネージャーに起用したおかげだった。ピーターにはストーンズのツアー・ディレクターを務めてもらったことがあり、私は彼のことをよく知っていた。(略)彼は両者にとって満足のいく結論へ導いてくれた。

 私は、ギルモアとメイスンにピンク・フロイドという名前を手にさせた。ロジャー・ウォーターズは、元ピンク・フロイドのメンバーを名乗り、3人のメンバーがバックを務めることになった。そのうちのリック・ライトは正式メンバーではなく、これまで通り雇われサイドマンの地位を維持した。(略)

ミックとキースが険悪に

 独立した最初の年、1981年は、ストーンズアメリカ・ツアーをやり遂げるかどうかが大きな賭けとなった。ミックはまったく煮え切らないでいた。彼は私に説得されただけだと思う。私は強調した、ツアーをしなかったら、ローリング・ストーンズは衝撃的というより消え入るように去ることになる、ツアーをすれば、ビアンカとの離婚にかかる費用に充てる現金も稼ぎ出せると。

 私が7月にニューヨークに呼ばれ、新譜のプロモ・ビデオ・クリップ撮影中のバンドと会った時、ミックが恐れていたのは、他のメンバーたちに自制心もやる気もなく、忍耐強さが必要とされる仕事が困難そうに見えることだった。

 キースも、ミックと他のメンバーに対してまったく同様の恐れを抱いていた。私はキースに次のように指摘した。(略)自分たちが失ったと感じている若さは鍛錬で補うしかない。(略)然るべき準備を怠ると、バンドは危なっかしい姿を観客に晒してしまう。しかし、観客はいつもネットなしの空中ブランコが見たいのだということをけっして忘れてはならない。

 この頃から、ミックとキースがお互い目を合わせなくなった。私生活に新たな安定がもたらされ、当然二人とも成熟度を増すであろうと思われたが、それとは逆のことが起きた。主な要因の一つは、ローリング・ストーンズ以外のソロ・プロジェクトだった。キースはソロ・アルバムをリリース、ビル・ワイマンはシングル「シー・シー・ロック・スター」のヒットでまわりを驚かせた。ミックは自分のソロ活動について真剣に考えるようになっていた。

 私はミックとどうするべきかについてじっくり話し合った。私は次のアルバムをソロ・リリースにし、その成り行きを見てバンドなしでやれるかどうかを判断すべきだと伝えた。ソロ・アルバムがストーンズのアルバムのように売り上げ的にも成功すれば、ソロ活動を選択肢として考えられる。

 ストーンズの残りのメンバーたちは、ミックのソロ・リリースのことを聞いた時、当然ながら、かなり落胆した。あらゆる変化に対応し、バンドがツアーから大金を稼ぎ出せるようになる矢先のことだったからだ。

 この他にもミックの一方的な決断で、バンド内の溝を深めることがあった。1980年にミックは、アール・マグラスをローリング・ストーンズ・レコードの社長から外すことにした。そのやり方は周到で(略)

私は悲しくてやりきれなかった。彼は(略)ミックとキースのあいだに入って関係を良好に保つことのできる希少な存在だった。この時、ミックは内心、アールがキースの肩を持ちすぎると決めつけていたのだ。(略)
アールが去り、アトランティックとの関係は非常に難しくなった。

(略)
[最初はピーター・ラッジの秘書、次にミック、そしてキースの秘書になった]ジェーン・ローズの立場も難しい問題だった。(略)

これはミックとキースが、ピンク・フロイドロジャー・ウォーターズ対デイヴィッド・ギルモアのように、決裂へ向かう兆しとも受け取れた。

CBSと契約交渉

 1983年にCBSとの新契約をウォルター・イェトニコフと交渉している時、事態はほぼ断崖絶壁へと近づいていた。(略)アーメット・アーティガンには充分な契約金額を提示する準備が整っていなかったが、CBSは準備万端だった。(略)ウォルター・イェトニコフは、短気だが徹底したプロフェッショナルだった。1960年代にCBSレコードの弁護士としてスタートし(ほぼ私と同世代、生まれたのも1933年8月)、1970年代中頃に社長として再出発してから注目を集めた。彼は自叙伝『月に吠える』の中で、自分が世に伝えたいあらゆる評判について語っている。彼が話し合いの途中で急に機嫌が悪くなり怒り出すと、誰にもその先どうなるのか見当もつかないことになる。

(略)

CBSのパリ支社長は、この契約締結を記念しストーンズとの新しい関係を祝うために、最高級のレストランを予約していた。(略)

 ストーンズが到着した時、チャーリー・ワッツも含め全員が明らかに酔っ払っていた。そして、私たちが契約項目を読み上げていく中、パッケージ費控除などのバンドにとって些細な部分に到達した時、ミックかキースが突然割り込んできて、「どうしてそれを払わなければならないのかわからないね」とケチをつけた。(略)

[辛抱強く説明しても]「わからない」と彼らは不満そうにする。これがほとんどの項目で起き、不快感は頂点に達してきた。彼らは単にふざけているだけだったが、次第にCBSと私にもからんできた。もちろん彼らは本気ではなかったが、何度もこれを繰り返し、会議は最悪な状態になっていった。

 ウォルター・イエトニコフが休憩を要求した。彼は私を隅のほうに連れていき、不愉快そうに手短に言った。「このくだらない状態が続くなら、契約は取り消しにする。10分後に契約がまとまらなければ、私たちの関係は終わりだ」。

(略)

私はキースとミックを外に連れ出した。リッツから出ると、二人はクスクス笑い出した。まるでやかましい男子生徒が二人いるようだった。「ちょっとふざけただけ
さ」。(略)私は言った。「君たちのその"おふざけ"で契約がなくなることになる」。
このわずかな魔法の言葉で、二人はたちまち正気に戻った。「さて」、私は厳しい口調で命じた。「会議に戻ってすべてがうまくいくかね?」「大丈夫だよ」と二人は深く悔いている様子だった。(略)

会議が再開され、ミックは言った。「了解しました。あなたたちが私たちの展望に耳を傾けてくれることは充分にわかっているので、この項目について異議はありません」。これは大ウケだった。こうして会議は滞りなく進行した。そして晩餐会も。しばらくのあいだ、災難は遠ざかっていた。

 少なくとも商業上はうまくいって本当によかった。(略)契約の1項目で、私はLPと同じパーセンテージを[当時登場したばかりの]CDに適用することに同意させた。イェトニコフは、これを他のアーティストたちには認めていなかった。

(略)

 今振り返ると(略)男子生徒のような悪ふざけは、二人のあいだのあらゆる騒動や解雇の末に(略)かつての反体制的な同志の絆が復活したことを意味していた。

(略)

 CBSとの契約締結により、しばらくのあいだ、ミックとキースの関係はもとに戻ったが、根底にある緊張はまだほぐれず、二人のあいだの溝が埋まるまでには、さらに多くの困難が待ち受けていた。

クラインからの攻撃で再結束

 1983年のパリで、CBSとの契約交渉決裂寸前から何とかミックとキースを救い出したにもかかわらず、ローリング・ストーンズの次の段階はなんとも不明瞭な状態にあった。バンドとしての機能が内部崩壊していきそうだった。

 ミックは最初のソロ・アルバム『シーズ・ザ・ボス』を1985年に出し(略)自分のソロ活動を試していた。(略)

ロニーは、ミックが自分一人で確実に人気を得ることができると思えば、ストーンズを媒介とする必要はなくなるにちがいないと心配していた。(略)

キースもミックのソロ・レコードを心よく思っていなかったし、ロニーと同じように不安な気持ちだったことは間違いない。

 チャーリーは(略)40代で薬物に溺れ"混乱の地獄"にいた[ため](略)キースとミックのあいだに広がる溝を埋める役割を担うことができなかった。(略)

[『ダーティ・ワーク』にロニーがクレジットされた曲が4曲あったことは]

ミックとキースによる曲作りが機能していない証拠でもあった。(略)

[ミックの2枚のソロが期待ほどヒットしなかったこともあるが]

ストーンズを再びもとに戻してくれたのは、私たちの古くからの敵、アラン・クラインだった。(略)彼は狡猾で、当時のストーンズは結束力が弱く(略)闘うチャンスだと勘づいていたに違いない。(略)

私はバンドにはっきりと説明することができた。訴訟に時間を費やし、すべての支払いが済み、クラインは彼らが思っていたほど危険ではなくなったのだということを。

 さらに、私は大切なことを強調できた。それを立証する数字もあった。「バンドとして金を稼ぐ方法、それには共同作業が必要だ。これこそ世界が君たちに求めていることなのだ……」。

(略)
 ミックとキースは大好きなカリブの島(税金対策の地としてではなく)に戻ってくると、新しいアルバムをレコーディングする喜び、そしてファンと同じくらい自分たちも楽しめる音楽を作っていることを実感しているようだった。
(略)

 二人が不機嫌で互いに相手への不満を周囲に漏らしていたのは、ある意味ガス抜きをしていたのだろう。こうしたプロセスが、キースの言う"第三次世界大戦"だった。

(略)

 1989年『スティール・ホイールズ・ツアー』が始まったばかりの頃、私の日記には、「またつかみ合いや言い争いが始まった。これが二人には必要なのかもしれない。キースが20年前と同じように、手を上げ身構えることに、ミックは苛立っていた」と記されていた。

(略)

 問題が発生するたびに、ミックとキースのどちらに時間をかけるか、私がさほど気遣うことはなかった。マスティック島に一緒にいることが多かったせいでミックと会うほうが多かったのは幸いだった。そのことをキースは大して気にしなかった。

(略)

キースは、私とミックのやり取りは彼にも都合がよく、ミックに影響力のある私のような人間は必要だと感じていた。私が大使のような立場で、彼の考えをミックに正しく伝えてくれることが、キースにはわかっていたのだ。

(略)

 一度ひどく困惑した時期があった。ミックが、マネージャー的な役割を担っているからという理由で報酬に上乗せを要求してきたのだ。キースから数時間後に電話があり、「ルパート、ミックがいちいち干渉してくることで、金は増えるの、それとも減るの」と言ってきた。私は「君の言っていることはわかるよ。そうはならない」と答え、彼を安心させた。しかし、この件をきっかけに私は、感情丸出しの反応にこちらが屈しなければ、キースは事態を把握し、落ち着いて理性的に問題に取り組めるのだということがわかった。

ビル・グラハムからマイケル・コール

[マイケル・コールからビル・グラハムの2倍オファー。しかしミックは]
舞台装置の質にこだわっていた。(略)[マイケルは]カナダ国内のコンサートしかやったことがなく(略)ビル・グラハムは舞台装置のベテランを何人も抱えていて、中でもイギリス人のミック・ブリグデンは、ミック・ジャガーのきわめて複雑な要望も理解して実現することができたので、ミックとキースは満足していた。
(略)

[二人のスペシャリストを雇い]

 私たちはマイケル・コールと契約することで合意し、各方面に報告した。ビル・グラハムは激怒し(略)ミックに喰ってかかってきた。「お前は大バカ野郎だ(略)マイケル・コールはプロデュースのやり方を知らない。私には前回のツアーをやり遂げたミック・ブリグデンがいる。チーム全員がお前たちのことを知っている。いったい何が気に入らないのかね?」ミックは答えた。「実に簡単なことだよ、ビル。金が充分じゃないからさ」。

 ビル・グラハムは後に痛烈に、「ストーンズを失うのは、お気に入りの恋人が娼婦になっていくのを見ているようだった」と言っている。その後、彼がストーンズのツアーを担当する機会はなかった。1991年10月[事故死](略)

 マイケル・コールはその後、1990年代から2000年代にかけて、すべてのツアーを担当することになった。彼のことを知るにつれ、彼がとても機転の利く人間だということがわかってきた。彼は魅力に溢れ、控えめで仕事ができた。マイケルの指導の下、『スティール・ホイールズ・ツアー』はこれまでになく財政面で成功したロックのツアーとなった。

(略)

 世界中を回っていくと、古い問題が再燃した。バンドが日本で公演できるかどうかは疑問だった。オファーは高額だったが、入国許可が下りるかどうかは微妙で(略)仮に入国できても、彼らが日本でどう振る舞うかに問題があった。来日中に薬物の問題を起こせば、確実に収監され、私たち全員が恥さらしになるだろう。その場合は東京ドームでの10日間をもってツアーは終了だ。

(略)

[90年イタリア、猛暑、休日、イタリア・ワールドカップ等]

プロモーターがチケット売り上げの不調を理由にイタリアの全日程をキャンセルしようとしてきた(略)

[さらに薬物使用を奨励する歌詞で逮捕されるかもと脅してきた]

問題になりそうな歌詞のコピーをローマの弁護士に送った。彼女は「無情の世界」と「ブラウン・シュガー」が危ないと思った。20年以上も前の曲なのに!(略)

[トリノで]私たちの宿泊した二流ホテルのまわりには、これまで見たこともないほど多くの麻薬密売人たちが群がっていた。私はマイケル・コールを通じてプロモーターに彼らを追い払うように頼んだ。

(略)

プロモーターが、契約で合意しているリベートをトラックとステージがイタリアを後にする前に支払ってほしいと言ってきた。私たちは文書で契約したとおり、彼らがイタリアを後にしてから支払うことにしていた。これに対して、「あんたたちは私を信頼していない、私の言葉を疑っている、ひどい人たちだ。何だって契約書、契約書って言うけど、ここイタリアでは正式なことなんて何もないよ」と、さんざん口うるさく言われた。(略)ツアーの会計士ジョー・ラスコフに、私は頼み込んだ。「ジョー、二度とこんなことはないから、今回だけは払ってやってくれ!機材や人々を傷つけるわけにはいかない。ツアーの一行には幼い子どももいる」。彼らを相手に口論しても無駄だった。金を支払い、ワゴン車はゆっくりと発進、私たちは無傷で脱出した。残りのツアーはこれに比べれば楽なものだった。

 ツアー終了後、しっかりと活動に復帰したことを証明すると、バンドは(略)ヴァージン・レコードと契約した。1975年に私たちがローリング・ストーンズ・レコードの新しいディストリビューターを探していた時、リチャード・ブランソンは手を挙げた。(略)契約金額は彼に賄えるものとは思えないと伝えた。当時のヴァージンはまだ経営規模も小さく、マイク・オールドフィールドの「チューブラー・ベルズ」が大ヒットしただけだった。

 それでもリチャードはまったく動じなかった。(略)私の予測をはるかに上回る高額を提示してきた。そこで、私は(略)銀行の保証を提示すれば、真剣に検討すると伝えた。まさか金を調達できるとは思っていなかったので、月曜の朝に彼が現れた時は驚いた。こうしてヴァージンは競売に参加した。結局、EMIが競り落としたが、リチャードは度胸のある若者だということを証明した。

その16年後の1991年12月、ストーンズがヴァージンとアルバム3枚の契約をした時、リチャードはようやく念願を果たすことができたのだ。(略)

ミックの女癖

ミックとジェリー・ホールが破局を迎えそうに(略)

「君たちは同棲関係だが、彼女に対して相場の離婚慰謝料を支払う気はあるかね?」彼は同意した。「何よりも、君はバリで結婚をしていないことを強調しなくてはならない(1990年に二人は奇妙なセレモニーを行なった)。そこを明確にする必要がある」。

(略)

ありがたいことに、彼とジェリーは法定外の調停で合意に達した。

(略)

 ミックの性格はそう簡単に変わるものではなかった。ストーンズの熱烈なファンである私の友人とその家族を(略)パーティーに招待したことがあった。パーティーの途中でミックがこっそりと抜け出し、友人の18歳の美しい娘と一緒に2階に上がって行くのを私は目撃した。友人が近寄ってきた時、私たちは申し訳ない気持ちでどぎまぎしたが、なんと彼はこう言った。「でかしたぞ、娘!」

 長く尾を引く問題がリオで発生した。別の親友の息子がグッド・フライデイ(聖金曜日)にストーンズを招いてパーティーを開きたいと言ってきた。(略)

 後日、私が聞いたところによれば、ミックはそのパーティーに行き、そこで飛び切りかわいい娘に出会い、9か月後にはその娘が出産したという(略)

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