ドン・フェルダー自伝 その3

前回の続き。

《グレイテスト・ヒッツ》

 レコード会社は僕らのニューアルバムを望んでいたが、ある訴訟問題がそれを困難にしていた。1976年初め、デヴィッド・ゲフィンは残っていたアサイラム株をワーナー・コミュニケーションズに売却しようとしていた。そのなかにはイーグルスの版権も含まれていると確信したアーヴィング・エイゾフは、ワーナー側に1000万ドルの返却を求めて訴訟を起こした。(略)

エレクトラの社長ジョー・スミスは(略)事態を丸く収めようと奔走したが、交渉は長引いた。(略)

 1976年3月、ジョーは時間を稼ぐために(略)グレイテスト・ヒッツ・アルバムをリリースした。この決定に対して、僕らは誰ひとりとして発言権を持たなかった。

[リリース1週間で100万枚、初のプラチナ。次のアルバムはそれ以上の売上を期待されることに]

(略)

 いまや、成功にともなうあらゆる装飾品が僕らの手中にあった。その夏、僕らはジョーをアメリカのファンに紹介するために、全米26カ所のツアーに乗りだした。人々がタクシーを使うところを僕らはリアジェットを利用した。シャンパンを水のように飲み、その代金で第三世界の小国の財政を救えるほど、大量のコカインを消費した。高速車が買い求められ、邸宅が購入され、宝石類が贈与された。僕らはたがいに牽制しあうために、ホテルの部屋に備わっている贅沢品について自慢しあった。

(略)

[フロント係は無作為に部屋を割り当てるので]

時には僕にプレジデンシャル・スイートがあてがわれることもあった(略)

「僕の部屋、すごく気に入ったよ。ただ、バスルームのジャグジーがやたらとうるさいけどね」

(略)
グレンは怒りむきだしの表情をしていた。(略)
[ある時には、グランドピアノが備えられていたので自慢したら]

グレンとドンにはなぜかみんなより上等なスイートや車をあてがわれるようになった。

(略)

ドンとグレンは大勢の人間を雇っていた。ドンは慢性の背中の痛みでマッサージ師(略)グレンのテニスコーチも荷物係として(略)(その給料の5分の1は僕が支払っているわけだ)。(略)

彼らが給料を払うべきじゃないのかな?僕らじゃなくてさ[とアーヴィングに訊いたが](略)「不平を言うのはやめろ、ケチケチするな」[と却下]

神となったドンとグレン

 ツアーの合間に、次のアルバム制作の準備にとりかかるため、ドンとグレンは家を借りることにした。かつてドロシー・ラムーアが所有していたその家は、ハリウッド・ヒルズの頂上に建っていて(略)彼らはその家で"おかしな夫婦"のように暮らしていた。ひとりはきれい好きで、もう片方はよごし放題だ。バーニーが脱けてからというもの、雲はすっかり晴れあがり、ドンとグレンはさらに親しくなっていった。ふたりは曲作りの相棒であり、飲み友だちでもあった。時にはふたりして女性をナンパしにでかけることもあった。(略)

頽廃は冷酷さへと導かれ、ついには楽園の喪失感へとたどり着く。(略)

ドンの差別意識と慎重さは、彼の富とともに増加していった。彼はハイクラスで立場のはっきりした女性たちを選んでデートするようになり、彼女たちが交替でツアーに同行できるようスケジュールを調節した。(略)

 真剣に付きあっていた女性との恋愛関係が2度にわたって失恋に終わると、ドンはフリートウッド・マックスティーヴィー・ニックスとの2年間にわたるオンオフの交際を始めた。(略)彼女がイーグルスフリートウッド・マックのギグを往復するために、ドンは専用のリアジェットを手配するようになった。これはバンド内に、新しキャッチフレーズ"女を愛したら、リアに乗せろ"を生みだした。結局、ふたりは別れてしまったが。
(略)

ドンの最高傑作のいくつかは、彼の様々な失恋から生まれていた。実際、J.D.サウザーとグレンは彼が女性と別れるように影で応援していた。そうすれば、また名曲がいくつか生まれるからだ。

(略)
名声とそれにまつわる金が大きくなるにつれ、僕ら3人は物事の決定に関与できなくなっていった。やがて僕らは萎縮してしまい、問いただすことすらしなくなった。

(略)

 クルーたちのあいだでは、いまやドンとグレンが責任者になったという合言葉が広まった。(略)じきに、バンドメンバーたちは"ザ・ゴッズ"と呼ばれるようになった。(略)僕は、ドンとグレンのふたりに限って"ザ・ゴッズ"と呼びはじめたが、いつのまにかアーヴィングまでが彼らを影でそう呼ぶようになった。バンド内には線がはっ
きりと引かれ、ランディ、ジョー、そして僕はただの"人間"だった。

(略)

 レコーディング・スタジオで多量のコカインを吸う4人の男たちといっしょに過ごすのは、ますますきつくなっていった。(略)いつしか僕の消費量は螺旋状に上昇し、日に1グラムも吸うようになっていた。(略)[他のメンバーは]2グラム近くは消費していただろう。
 イーグルスに起きた問題のそもそもの原因といえば、僕はほかでもないドラッグだと思っている。ビールを飲んで酔っぱらい、葉っぱを吸ってぶっ飛んでいた頃はまだよかった。が、ハードドラッグは人を腐敗させ、人格をゆがめ、パラノイアと自信喪失を拡大させる。僕らが音楽ユニットとして授かったはずのすばらしい才能は、恐ろしいまでに酷使されていた。コカインの大量摂取によって、実際には聴こえないような音に取り憑かれ、信じられないほどの時間が無駄に費やされていった。その音が実際はシャープなのかフラットなのか、聴きわけるのも困難なほどの状況。そうしたドラッグ漬けの霧のなかで、僕らはその細かいディテールを解決しなければならなかった。

(略)

ドンとグレンは公には団結しているように見えたが、個人的にはすでに大きく決裂していた。その一方で、ふたりはともにランディとの溝を深めていった。イーグルスはすでに、葉っぱとビールでハイになっては無邪気に楽しんでいた若者の集団から、腹の底ではたがいに我慢ならないと思っている5人の男へと変化していた。すべてがコントロールを失い不安定になっていった。

ホテル・カリフォルニア

7月。僕はマリブのビーチハウスで、家族とともに数日間を過ごしていた。(略)

僕は美しい妻と暮らしながら、音楽をプレイして充分な収入を得ている。(略)

 気持ちが高まってきて、僕はそばにあったアコースティック12弦ギターをなにげなく取りあげた。海を眺めながら新鮮な潮風を吸いこんでいるうちに、無意識につま弾きはじめていた。ふと、オープニング・コードがいくつか浮かんできた。それらのコードをあれこれいじりながらなんとなく弾いているうち、なかなかクールなサウンドが不意に形になってきた。ヴァースとコーラスもある32小節ほどの小品。目の前に広がる壮大な景観から生まれた、キラキラ輝く小さな宝石だ。弾きおわると、その音楽の振動は空中にしばらく余韻を残し、やがてゆっくりと静寂のなかに消えていった。僕は首の後ろが総毛立つのを感じた。(略)
 予備のベッドルームに、小さなTEACの4トラック・スタジオを備えていた。(略)レゲエっぽいバックビートが欲しいと思ったが(略)旧式のローランド・リズム・エースにはチャチャしかなかったので、それをベースに12弦の音をかぶせた。

(略)

山場となるセクションとコーラスがもうひとつ必要だった。3、4種類の異なるコード進行を試してみてから、最終的にレゲエっぽい雰囲気のベーストラックを録音した。

(略)

ジョーとグレンと僕がセンターステージに立ち、印象的なギターソロで観客を圧倒する。そう思い描いた僕は、ハーモニーで降下していくふたつのギター・パートを作った。(略)

 その日の午後遅く、すべてをモノラルでミックスし終えた時、その曲には僕がそれまでに経験したすべてのものがすこしずつ含まれていた。モーンディ・クインテット風のベース、ポール・ヒリスのクラシカルなフレージング、マイルス・デイヴィスっぽい味付けをほどこしたフロウ風のフリーフォーム・ソロ、そして、なつかしいエルヴィス・プレスリー風のロックンロール・ギター。それにクロスビー、スティルス&ナッシュ風のハーモニーをつければ、きっと太陽のキスのようなサウンドになるだろう。

(略)

[持ち寄った曲を披露]

あの曲が流れてくると、ドンは居住まいを正し真剣に耳を傾けはじめた。(略)

僕はその曲全体のアレンジを、かなり苦心して作りあげていた。(略)終盤のふたつのギターソロでは、ストラトキャスターと愛用の50年型レスポール・サンバーストを交互に使いわけた。あたかも、ジョーと僕とが競演しているかのように。グレンの表情から、彼がそのパートをもっとも気に入ったのがわかった。
「おい、この曲、いいじゃないか、フィンガース」めずらしく笑顔を見せて、ドンが言った。「スパニッシュっほいサウンドで、闘牛士なんかを思わせる。まさに、ラティーノだな」
「そうだな」グレンもうなずいて同意する。(略)

「"メキシカン・ボレロ"って呼ぶことにしよう」と、ドン。(略)
いざドンが歌う段になると(略)「これじゃ、キーが違う」と、彼は言いだした。(略)
最終的にはBマイナーに収まった。それはギターで弾くにはもっとも難しいキーのひとつだ。(略)

あのキラー・Eマイナー・サウンドに比べると、どうしても薄っぺらく貧弱に聴こえてしまう。

(略)
「この曲はカリフォルニアの幻想を描いてるってのはどうかな」とグレンが言った。「砂漠のハイウェイを、1人の男がコンヴァーティブルを走らせている。地平線のはるか彼方に、LAの灯りがかすかに見えてくる」(略)
ドンはそのイメージを頭のなかに焼きつけるとそこからさらに発展させ、その男が遠方にホテルを見つけ、その夜はそこに泊まることにする、という設定にした。

(略)

 歌詞作りに関して、ドンはかなり秘密主義だった。ベーシックなコンセプトができあがると、彼はひとりで密かにそれに取りかかる。そしてスタジオでレコーディングを始めるまで、誰もその完成品を聴くことができない。

(略)

新しいタイトルが〈ホテル・カリフォルニア〉に決まると、ドンが静かにこう切りだした。「この曲はシングルにするべきだと思う」
「気はたしかかい?」僕は叫んだ。グレン、ジョー、そしてランディが驚いて顔を見合わせた。「こいつは6分以上もあるんだぜ!(略)

エレクトラ/アサイラムが曲を短くするように要請してきた時、ドンはきっぱりとこう主張した。そのままでリリースするか、もしくはリリースしないかのどちらかだ、と。彼は正しかった。

〈暗黙の日々〉〈駆け足の人生〉

ドンとグレンは僕がマリブのビーチハウスで作ったなかからもう1曲を選んでくれた。幼い頃に病気した経験から、エコー・ブレークが特徴的なこの曲を、僕は〈鉄の肺〉と呼んでいた。そのリズミックなサウンドは、まるで小児病棟の巨大な円筒形マシーンにすっぽり入って、呼吸を補助してもらいながらぜいぜい言ってるみたいだ

(略)

「失恋の痛手を抱えているのは、自動車事故の犠牲者になった気分だ」最近、彼女と別れたばかりでまだ傷の癒えないJ.D.が、むっつりと言った。「意識が戻った時は、全身打撲の状態で救急処置室にいるってわけさ」(略)
「けど、なんの犠牲者だ?」と僕が眉をしかめると、みんなして、あれこれ思考をめぐらした。
隅っこで静かに座っていたグレンが、ふいに口を開いた。「そりゃ、恋の犠牲者さ」
(略)

僕の〈鉄の肺〉は、じきにヒット曲へと生まれかわった。いとも簡単に。

(略)

 ジョーがあるリフを思いついたので、ある夜、彼とランディと僕の3人でランディの家に集まって、アイディアを出しあいながらセッションした。その結果、生まれたのが〈駆け足の人生〉だ。

(略)

僕はボストン時代に浮かんだリックを弾いてみせた。「何年も前から寝かしていたんだけど、その後まだ手をつけていなかったんだ」。猥雑なギターリフとペースの速いバックビートから始まって、最後はシューと消えていくというリックだ。
 ジョーは真剣に聴いていた。(略)「いいアイディアがある」そう言うと、やおらギターを取りあげた。(略)ジェイグがかっこいいドラムビートを加え、僕がジョーの名イントロにつづくリックをいくつか考えだした。あの曲は、いまや完全にジョーのものになっている。
 デモができあがると、ジョーはドンとグレンのもとにそれを届け、彼らは大急ぎでコンセプトをまとめあげた。グレンは高速車線を突っ走るというアイディアを思いつき、それを膨らましていくことにした。すばらしい、と僕は思った。まさしく天才だ。スパゲッティ状に伸びるLAのフリーウェイを、ロックンロール業界の類似としてとらえていた。完璧だ。ドンは冷たい都会に生きる人々がドラッグで自らを蝕んでいく様を、みごとな歌詞で表現してみせた。ミラーに盛ったコカインの線が、彼らの顔にも皺を刻んでいるように見える。じつにクールじゃないか!

ドンの完璧主義による消耗と不和

《グレイテスト・ヒッツ》を凌ぐというプレッシャー(略)

エンジニアリング、曲作り、歌詩、演奏、トラッキング、あるいは編集作業、それらすべてが厳しい監視のもとに行われた。ジョーと僕の指には、たこの上にさらにたこができるほどだった。最終的なゴールは、できるかぎり最高のレコードを作ること。(略)

テイクに人間にありがちなミス(1音でもはずしたり)がちょっとでもあれば、ほかのすべてがうまくいっていたとしても、ボツにしてやりなおすのだ。(略)

[デジタル編集]以前の話だ。(略)僕らはその曲を何度もくり返し演奏するだけだった。そして気づかないうちに、僕らはいつしか創造性まで絞りつくしていたのだ。(略)10回も20回も同じようなテイクをくり返しながら(略)創作プロセスからは、見るまに熱意が失われていった。
 バンド内には新たな不和の兆しが生まれ、ランディが不満の標的になっていった。愛すべき性格でこのうえなく優しい彼は、めったなことで怒るような男ではなかった。にもかかわらず毎日スタジオで顔を合わせるうちに、とりわけドンが彼のあら探しをはじめるようになった。

(略)

 遅刻よりもさらに悪いことに、スタジオに現れるドンはいつもご機嫌ななめだった。その当時の彼を形容するのにぴったりの言葉は、"添削屋"だ。(略)気分屋の完璧主義者。(略)

ドンの徹底した几帳面さによって、僕らはおそらく最高水準のスタジオ・アルバムを作りだすことができた。そのプロセスは、時に耐えがたいものではあったが。

(略)

 やがて、つねに完璧を求めるドンのやり方に、グレンもイライラしはじめる。

(略)

cityのcをあるテイクから録ると、ほかのテイクからiを録り、またほかからtを録るといったやり方で、最後にできあがったcityという単語は、5種類の異なるテイクからなりたっているというわけだ。身長6フィート3インチ(187.5センチ)の大柄なビル・シムジクには、新たに"ビッグ・ロッパー[刈り込み人]"というニックネームが与えられた。(略)コントロールルームの床には、僕らが"ビッグ・ロッパーの糞"と呼んでいたテープの切れっ端が山をなしていた。
 ドンが突然、〈ホテル・カリフォルニア〉のギター・パートが気に入らないと言いだした。僕のデモ・カセットで聴いたのとそっくり同じものが欲しいという。(略)僕らはマイアミにいて、そのカセットはマリブのビーチハウスにあった。
「スーザンは家にいるかい?」と、無表情で彼が訊く。
「もちろん」と答える。
「それじゃ、彼女に電話して、受話器ごしにかけてもらえばいい」
 かわいそうなスーザン。

(略)

コカインの過剰摂取によって、僕だけでなく誰もが燃えつき症候群に陥っていた。

(略)

 ジョー・ウォルシュがいたことは、ほんとにありがたかった。ユーモアで場を和ませてくれたのは彼だけだ。彼とランディと僕は、よく3人で盛りあがった。スタジオでドンが到着するまでのあいだ、たがいにバカげたヴィデオを録りあったものだ。それから、"カットアウト・マン"という遊びも考えだした。ヌード雑誌やレスリング雑誌から写真を切りとっては壁に貼って、ストーリーボード・コラージュを作っていく。毎日、新しい写真が加えられ、新しいストーリーが展開していくというわけだ。(略)おかげで僕らはテイクの合間の待ち時間を大笑いしながら楽しく過ごすことができた。

(略)
 マイアミでのスタジオ・セッションはコンサート・ツアーをあいだに挟みながら7ヶ月間に及んだが、僕らはなんとか持ちこたえた。マイアミとライヴ会場を飛行機で往復しながら、時には24時間働きづくめのこともあった。ビルは僕らが出演している場所まで飛行機で飛んできては、僕らにミックスを聴かせるとまた戻っていった。

(略)

 アーヴィングはレコード業界史上において最高の印税(アルバム1枚につき1ドル50セント)の交渉に成功していた。(略)

アルバムは発売当時、週に50万枚を売りあげ、ついには1400万枚を突破し、いまでも僕らのアルバム中、最高の売り上げを誇っている。

"プリズン・カリフォルニア"

[UKツアー記者会見]

「もうひとつのアメリカン・バンドがここでプレイしていたんですが(略)そこのリードシンガーが、あなたからギターを教わったと言っています。ほんとの話なんですか?」
「なんだって?(略)彼はなんて名前だい?」
トム・ペティです(略)ハートブレイカーズといっしょにワールドツアー中で、すごい評判を呼んでますよ」
 ゲインズヴィル出身のあの小さなトミー・ペティ。僕は信じられない思いだった。
(略)

過酷な生活のツケがそろそろ回ってくる頃だった。
 ランディとグレンは軽症だったが、ドンは長いこと慢性の胃潰瘍を患っていた。それに加えて、長年ドラムキットに前屈みになっているため、背中の痛みに悩まされていた。(略)彼を煩わせていたことのひとつに、ジョー・ウォルシュのドラマーがツアーに加わったという事実がある。ジョー・ヴァイテールはドン・ヘンリーよりもドラムが巧く、まるで手足が切り離されているかのようなプレイをした。キーボードとフルートもこなす彼の参加は、僕らのステージサウンドにとって嬉しい追加だった。彼がベーシックビートを供給するので、ドンは歌だけに集中することができたのだ。ドンがドラム台から降りてステージ中央に向かうまでの時間は、ヴァイテールがバックアップを担当する。だが、どういうわけか、ドンはジョー・ヴァイテールを、自分のドラマーとしての能力を直接的に批判する脅威とみなしていた。彼は、ジョー・ウォルシュがヴァイテールをバンドのパーマネントメンバーにしたがっているのを知っていた。抑圧された感情と健康上の問題をかかえた彼は、ちょっとしたことで怒りを爆発させるようになった。
 ホテルの予約に不手際があったモントリオールでは、ドンは長年にわたる僕らのロード・マネジャー、リッチー・フェルナンデズの非を責め、くびにすると告げた。アーヴィングはそれを受けいれる(略)かわいそうなリッチー。結成当時からクルーメンバーとして献身的に仕えてきたのに(略)皮肉なことに、彼はその後、トム・ペティのロード・マネジャーに収まった。すでに険悪な雰囲気を感じとっていた残りのクルーたちは、この解雇劇以降、ツアーを"プリズン・カリフォルニア"と呼ぶようになる。
 ドンに対抗するグレンの権力争いは、ドンがこの2年間で作曲と歌の才能をみごとに開花させたという事実をもってしても、緩和されることはなかった。(略)ドンは歌詞とコンセプトと音楽、そのすべてにおいて駆動力となった。ほかの全員の作品が色褪せてしまうほど、それはめざましい成長だった。その結果、僕らの前にはある日突然、同じポジション取りを張りあうふたりの大統領が登場したのだ。グレン相手にやり合うのは賢明ではないと知っているドンが、たいていの場合は引きさがった。が、コカインによって言い争いが誘発されると、一気に暗雲が垂れこめた。それはロード・クルーをはじめ、全員に悪影響を及ぼした。

温厚なランディが遂にブチ切れ

ランディとジョーはふたりとも大のチャック・ベリー・ファンで、ステージであの有名な"ダック・ウォーク"を披露してみせた。ドンはそのことでふたりを厳しく非難した。ジョーは軽くやりすごしたが、ランディはそんなドンの態度に怒り狂った。他人と対立することを嫌うランディは、できるだけ摩擦を避けてきた。それでも、彼の心のなかには不満が澱のようにたまっていたのだ。とくに、権力が徐々にシフトしていく状況を、彼はひどく不快に感じていた。バーニー同様、彼はバンドの結成時からの正式メンバーだ。ドンとグレンが自動的に全権力を握ろうとするのを、けっして正しいとは思っていなかった。

(略)

テネシー州ノックスヴィルでのことだ。ランディの潰瘍が再発し、おまけに流感にかかり具合が悪かった。(略)全員が疲労の限界に達していた。この夜のコンサートで、オーディエンスはランディが歌う〈テイク・イット・トゥ・ザ・リミット〉を聴きたがっていた。が、ランディはグレンに、「いやだ。今夜は歌わない」と告げた。ランディはバンドのなかでも最高の声を持つひとりだ。彼がテノール・ヴォイスであのバラードを歌うと、女性たちは金切り声をあげる。(略)グレンはかつて、彼の声を"僕らのパッケージをくるむリボン"と呼んだ。それはたしかに僕らのショーのハイライトのひとつだったが、どういうわけか、ランディはスポットライトのなかで居心地の悪さを感じていた。ステージで、彼はいつもマイクをつかむとベースアンプの側まで引っぱっていく。そしてステージ中央から離れてピアノの横に立つのだ。歌う時はブルーライトだけを使うように指示し、スポットライトを当てられるのを拒んだ。彼はピアノの側に横顔を見せて立つと、オーディエンスから隠れるように目をかたく閉じて歌うのだ
「僕にしてみれば、鉄道線路の上で貨物列車に立ち向かってるようなものなんだ。列車の正面のスポットライトがどんどん迫ってくる」彼はそっと打ち明けた。「耐えられないよ。どうしてもだめなんだ。すごく緊張して汗びっしょりになって、いつも逃げだしたくなってしまう」
 グレンは怒り狂った。「俺だって、ステージ中央に立って、白色スポットライトのなかで〈テイク・イット・イージー〉を歌わなきゃならない。ドンだって、〈ホテル・カリフォルニア〉で同じことをしてるんだ。それがショービジネスだろ。おまえも、ただステージの真ん中に立って、あの曲を歌うだけでいいんだ」。(略)
 とうとう、彼はランディと大げんかを始めてしまった。(略)

「気分がのらないんだ。今夜は歌わないよ」(略)
「おまえは歌うんだ!ショーに含まれてるんだからな!(略)」
「いや、歌わない。今夜は喉の調子がよくないんだ」後になって、彼は僕にこう耳打ちした。「いったい誰が、グレン・フライイーグルスのリーダーに指名したんだ?」
 最近では、バンド・ミーティングは滅多に行われず、アーヴィング、グレン、そしてドンによる密室での会議が増えるにつれ、ほかの連中は排除されていった。

(略)

[ジョーと]徹夜でランディの説得にあたった。(略)

「経済的にも音楽的にも、キャリアの面からいっても、考えなおしたほうがいい。新しくスタートするのがどんなにキツイか想像してみろよ」
「ずっとひとりでやってきたからわかるんだけどさ」ジョーがむっつりと口を開く。「ピクニックってわけにはいかないぜ」(略)
朝の6時には、すべての可能性が尽きてしまった。ランディの気持ちはもうすっかり固まっていた。その2日後、大ピンチが訪れた。休憩時間のあいだに、アンコールでランディがステージのどの位置に立つかでグレンとランディが大げんかを始めたのだ。(略)

「いいかげん、女みたいにうじうじするのはやめろ!」グレンが怒鳴る。
 引きとめる間もなく、ランディはグレンを壁に押しやっていた。警備員や僕らみんなが必死になって彼を引き離そうとした。僕は言葉も出ないほどびっくりしてしまった。グレンはついに、このハエも殺さぬほどに優しく穏やかなランディを、自制心を失わせるまで追いつめてしまったのだ。(略)それはバーニーとのあいだで起こったあの嫌な記憶を呼びさました。(略)
ツアーの最終日を終えると、彼はバンドを去った。(略)

18カ月間で、僕はバンドから親友をふたりも失ってしまった。(略)こうして、僕はついに、ひとりぼっちになってしまった。

(略)

後釜に収まったのは、僕らの以前からの知り合いで気心も知れたティモシー・B・シュミット。ランディがイーグルスとしてスタートした時、その後任としてポコに加入したのが彼だった。ティモシーは高音で歌い、ベースを弾く。彼こそ、まさにうってつけの人物だ。彼しかいない、と誰もが同意した。
 ティモシー(いつもどこかにフラッといってしまうため、"ワンダラー(放浪者)"というあだ名がついた)は、既婚者で子供もいた。優しい声の持ち主で、誰にでも好かれる菜食主義者で、ヨガに凝っている。彼がポコのメンバーで僕がイーグルスに入ったばかりの頃から、彼とは友だちだった。ギグの楽屋でいっしょにジャミングしたり、たがいに子供の自慢話をして過ごした仲だ。

(略)

僕のビジネス・マネジャー、ジェリー・ブレスロアが8人ほどいるアーヴィングのクライアントの資産契約をまとめていた時のことだ。(略)パーセンテージを見ると、アーヴィング、ドン、そしてグレンが、残りの僕らの2倍も所有していた。
「ねぇ、アーヴ(略)これだけが、いままでみたいに平等分割じゃないのはどういうわけだい?」アーヴィングは笑顔で、彼らふたりは作曲と出版でかなり稼いだから、ほかの連中よりも多額の資金を投資できたのだ、と説明した。それでも僕が納得していないのを見てとると、こう付けくわえた。「いいか、ドン。彼らは独身なんだ。それに、子供もいない」
 あぁ、そうか、それなら道理にかなう、と僕は思った。
それからというもの、僕はパーセンテージや収入に対して、以前より関心を持つようになった。はたして、すべてがアーヴィングの言ったとおりなのだろうか?

遂にドン・フェルダー自身も

 最初はダブルアルバムを予定していた新作のために、僕は15曲ほどのトラックを用意してあった。(略)

最新メンバー、ティモシーは(略)最初の候補曲〈言いだせなくて〉を提供した。(略)
「こいつはグッとくる強烈な曲になるよ、ティミー(略)これにふさわしいギター・パートを考えるのが楽しみだな」
 ドンとグレンは燃えつきてしまったかに見えた。彼らは向かいあって座り、無表情でおし黙ったまま何時間も過ごしていた。どちらからも新しい歌詞のアイディアが出てくることはなかった。(略)

彼らは結局、自分たちの"基準に合った"楽曲ができるまでアルバムは延期する、とレコード会社に告げた。

(略)

最初の頃はグレンがほとんどのヒット曲を作り、歌っていた。彼こそがイーグルスを代表する声と顔であり、プロデュースも手がけていた。だが、そうした状況は変わりつつあった。(略)

ドンはできるだけ一歩下がって沈黙を守り、すべてを切り盛りしているのは自分だ、とグレンに思わせようとしていた。それでも、グレンにはすべてお見通しだった。彼は運転席を共有することさえ気に入らないのに、いまや後部座席に移動するよう求められているのだ。
 ドンの評価が高まるにつれ、グレンは自分の不満を誰かにぶつける必要を感じたようだ。ローディーでもギタープレイヤーでも、誰でもよかった。(略)僕らはその犠牲者を"無作為の犠牲者"と呼んでいた。毎日毎日、彼は手当たり次第に誰かを選んでは、ひとりずつ恥をかかせた。たぶん、自分自身を優位に立たせたかったのだろう。(略)

片手が変形しているデヴィッド・サンボーンはフリッパーと呼ばれた。後頭部の髪が薄くなってきた僕を、彼はスポットと呼ぶようになった。

(略)

ずっと長いあいだ仲間が辱めを受けるのをただ傍観していたことを、僕はいま、人としてとても恥ずかしく思う。(略)

 僕がマネジメントに関して気づまりな質問をするたび、"無作為の犠牲者"の順番は僕にまわってくるようになった。グレンにしてみれば、不愉快な話題だったのだろう。

(略)

彼を怒らせるようなことをした覚えはないが、もしかすると、僕がほかの連中のように彼に追従しなかったのが原因かもしれない。次は僕の順番だった。

(略)

 僕はいまだかつて、ステージで歌うことに自信を持ったためしがない。(略)

 ある日のリハーサルでのことだ。グレンが嫌みたっぷりにこうアナウンスした。「それでは聴いていただきましょう、みなさん。フィンガー・フェルダーが彼のナンバーワン・ヒット曲〈ホテル・カリフォルニア〉を歌います」。それから彼は、僕がためらいがちにマイクに歩みよる動作をまねして見せた。ロード・クルーもバンド全員が笑っていた。ふだんの僕なら顔色ひとつ変えないのだが、その日はなぜか聞き流すことができず完全に我を忘れてしまった。(略)
「みんなの前で2度と僕にあんなふうな口をきいたり、侮辱したりするなよ、ローチ。おまえのクソっ鼻をへし折ってやるからな」彼のシャツの衿をつかみ、拳を固めると、そう告げた。(略)
 彼はショックを受けたようだった。「あぁ、わかったよ、フィンガース。悪かった。ただのジョークじゃないか、クールになれよ」と言った。

(略)
 その時は気づかなかったが、もはや後には引けない段階にきていた。

 

 1979年の夏、僕らはマイアミでの気の重い仕事に戻った。〈ロング・ラン〉のドンのヴォーカルを聴いて、これでやっとタイトル曲もできたし、ようやくアルバムを完成できるかも、と僕らは期待を持った。だが、ドンとグレンがじっくり座って曲作りを楽しみ、残りの僕らもダブルアルバムを届けられると信じていた日々はすでに終わっていた。10曲のうち7曲は、J.D.サウザーボブ・シーガーといった人々とのコラボレーションだ。ジョー・ウォルシュのソロ作品〈イン・ザ・シティ〉が1曲。僕の作品は〈ディスコ・ストラングラー〉と〈ゾーズ・シューズ〉の2曲だ。

(略)

ホテル・カリフォルニア〉に次いで僕が誇らしく思っている曲(略)ドンの曲〈サッド・カフェ〉に収録した短いギターソロだ。僕は大ヒットしたマリア・マルダーの〈真夜中のオアシス〉にインスパイアされて、マルチトラック・アコースティック・ソロを作った。ほんの8小節ほどのものだが、自分がそのパートを担当して印象的な6トラック・ハーモニーをつけられたことに、僕はとても満足している。いまでもあの曲を聴くと、自然に笑みがこぼれてくる。
 当初、グレンはニューアルバムにわずか1曲しか貢献していなかった。その曲〈ティーンエイジ・ジェイル〉は彼の作品中もっともひどい出来で、曲の最後にクレイジーなギターソロが入っている。その僕のソロは、コカイン漬けで疲れきった早朝4時のセッションから生まれたものだ。僕はいまでもあのプレイを気恥ずかしく思っている。それは、まるで悪臭のように耳にこびりついて離れない。グレンはLAに戻ると旧友のボブ・シーガーに電話をかけ、なにか曲のアイディアはないかと訊ねた。幸いにも、彼の協力によって、ふたりは〈ハートエイク・トゥナイト〉を生みだすことができた。

(略)
〈ロング・ラン〉では、僕のキーボードが初めてレコードに採用された。スタジオでなにげなく弾いていたものが曲にしっくり合ったのだ。ジョーも何曲かでキーボードを弾いている。

(略)

不和の暗い影が(略)僕らをふたつのグループ(ドンとグレンに対して、僕とジョーのギター組)に分裂してしまった。ティモシーはワンダラーの名の通り、どっちつかずでふらふらしていた。

"ザ・ロング・ワン[やたら長いヤツ]"

 レコード会社の人間は、アルバムを"ザ・ロング・ワン[やたら長いヤツ]"と呼んでいた。(略)

2、3日かけて10~12のリールをいっぱいにするわけだが、それぞれのリールには3~5のテイクが収められていた。(略)いよいよ編集(略)すべてのリールをチェックして、ドラムの雰囲気をいちばんよく捉えているものを見つけだす。テープ12からは最初の8小節を、テープ3からは2番目の8小節を、そしてテープ5からは最初の1小節とセカンド・ブリッジの半分を、といった具合だ。ビルがそのすばらしい耳でテープを1本1本聴きながら、「あぁ、ファースト・ヴァースがいいね」とか「ナイス・ブリッジ」とか指示をして、最後に首を振ると、「ま、こんなとこかな」それから次のテープを聴きながら、「あぁ、いいね、すばらしいイントロだ。このイントロは最高だ」とか「このドラム・フィルはコーラスの導入部には最適だね」とか言っているうちに、コントロールルームの床は文字どおり2インチ・テープを立てて敷きつめたような状態になっていく。

(略)

 僕らのマスターテープが24トラック・テープ・マシーンに装着されると、編集箇所が多いのでシマウマみたいに見えた。それから、僕らはギターやキーボードやベースのパートに、それぞれ修正を施していかなければならなかった。僕らがあまりにも手を入れるので、ビルはそれらのテープを編集ブロックの上に並べ、カミソリの刃で丹念に切っては再結合しなければならなかった。

(略)

[ビルが]誰もなかに入れずに2時間ほど作業をつづけると、みんなに聴かせる状態までミックスができあがる。僕らはそれぞれリーガルパッドを手になかに入ると、トラックを聴きながら気づいたことをメモしていく。(略)エコーが強すぎるとか、ドラム・フィルが弱すぎるとか(略)ビルはミキシングの感触をじかに確かめながら、自らの手でコンソールを操作していく。そのうち僕らはようやく、5番目とか7番目のミックスがいいと判断できる段階までたどりつく。(略)1日半かけてひとつのミックスが完成すれば、僕らとしては上出来だった。僕らはその成果をそれぞれ持ちかえると、自分たちのチョイスが正しいかを見極めるために、数日間かけて車やステレオで何度も聴きなおした。
(略)

3、4日たってから元に戻って違うブリッジをレコーディングしようとしても思うようにはいかなかった。どうにもうまく結合しないのだ。サウンド自体が違うし、日によって湿度も変化するし、プレイする人の演奏も微妙に違ってくる。だから、僕らはすべてのピースが揃うまで、ひたすらがんばってレコーディングをつづけるしかない。そこに、コカインの出番がやってくるというわけだ。
 イーグルスのレコードを聴くと、外れている音はひとつもなく、欠点はどこにも見つからない。すべてが超人的なまでに完璧で、僕から見ると、時には度をこしていると思えるほどだった。ドンの完璧主義とビルのプロ精神によって、僕らが跳びこえなければならないバーはますます高くなっていった。そして、ついに僕らはそのバーを手に持つと、それでたがいの頭を殴りはじめた。こうして、もっとも自由で威勢のいい僕らのパフォーマンスの多くが、コントロールルームの床に不要品として葬られてしまった。おそらく、僕らはもっと巧く演奏しようとがんばりすぎて、音楽への情熱をいくらか失ってしまったのだろう。B.B.キングは、はたしてこんなふうに仕事をしていたのだろうか?

[完成まで18カ月かかって《ロング・ラン》リリース]

(略)

[ツアーで日本へ]

息子といっしょに過ごす時間を作りたくて、日本にジェシを連れていくことにした。(略)息子を新幹線乗せて東京のおもちゃ屋に連れていくのは、父親なら誰でも描く夢だ。(略)

親切なプロモーター、ウドー氏のご厚意で、息子を連れて相撲観戦も楽しんだ。取り組みのあとで、偶然の一致でスーパー・ジェシー高見山という力士に会うことができた。小さなジェシは、山のように大きなこの男が稽古部屋の電柱に張り手をするたびに、足下の床が揺れるのを感じていた。これで彼は終生の相撲ファンになったのだ。

終焉

1980年の1月を迎える頃、ノンストップ・ツアーが僕ら全員を気落ちさせていた。(略)

アーヴィングは(略)とうとう『ロサンジェルス・タイムズ』に、アルバム《ロング・ラン》は終わりを記録するかもしれないと認めた。

(略)
終焉が迫っているのを察したレコード会社はパニック状態になり、ライヴ・アルバムを要求した。7月末、僕らはレコーディングのために、3000人収容のサンタモニカ・シヴィック・オーディトリアムを5夜にわたって借りきった。チケットは数時間のうちに完売。僕らは毎晩、自動人形のように、その小さな劇場の定位置に立った。(略)
ぼろぼろに疲れきった5人の若者たちによる、傷ひとつなく鮮やかではあるがまるで魂のこもらないパフォーマンスだった。 
 数日後の7月3日、グレンの呼びかけで、僕らはロングビーチ・アリーナで行われる、リベラルなカリフォルニア上院議員、アラン・クランストンの再選を応援する慈善コンサートに出演した。

(略)

「お目にかかれてよかった……」夫人が通りすぎた時、思わず、小声でつけ足した。「なんちゃって」
 横に立っていたグレンはこれを聞いて、僕のコメントがクランストン夫妻への意図的な侮辱だと受けとったらしい。(略)彼はぶち切れた。僕はいつものように、座ってギターをつま弾きながら、彼のやりたいようにさせていた。(略)

〈我が愛の至上〉を演奏中に、彼がそばに来てこう言った「ファック・ユー。ステージを降りたら、おまえのケツをけっ飛ばしてやる」(略)
彼は1曲終わるたびに、僕に近づいては暴言を吐き、どなりちらし、ののしり、決着をつけるまであと何曲残ってるか、僕に念を押した。
「あと3曲だからな」とグレンがすごむ。「覚悟しとけよ」

(略)
僕はひとりになってなんとか冷静さを取りもどし、ギグを無事に終わらせようと思っていた。その時、ジョーがストレスを発散させる方法をふっと思いだした。彼は頭にきた時、ふらりとどこかに消えるとなにかを破壊してフラストレーションを解放する。アンコールのためにステージに戻る時、僕はギターテクのジミー・コリンズにこう言った。「僕が〈いつわりの瞳〉で使うあのいまいましいタカミネ・アコースティック・ギターを、裏口に置いておいてくれ。アンコールを終えてステージを降りたら、そいつをぶっ壊してやるんだ」

 ギグが終わり、僕はほかのバンドメンバーとは反対側の袖からステージを降りた。ほとんど全員がリムジンに乗りこみ、走りさった。グレンと僕の険悪な雰囲気から逃れるためだ。(略)

ジミーが僕のために置いてくれた日本製のギターが目にとまった。深呼吸してそれを持ちあげると、すこしのあいだ手のなかに握りしめた。それから、コンクリートの柱めがけて、そいつを思いっきり強く打ちつけた。

(略)
ふり向くと、僕のすぐ後ろでアラン・クランストンとその妻があっけにとられて立ちすくんでいた。数フィート離れたところに、グレンが無表情のまま立っている。(略)

グレンは僕が彼らの目の前で行った行為を自分への当てつけだと思いこんだ。神に誓っていうが、僕は彼らがそこにいることにさえ気づいていなかったのだ。
「いちばん安物のくそギターを壊すところが、いかにもおまえらしいな」グレンが憎々しげに吐きだす。

(略)

 数日後、僕はすっかり冷静に戻っていた。(略)

次にグレンと顔を合わす時はクールにふるまおう、と自分に誓った。
 電話が鳴った。ビル・シムジクからだ。彼はスタジオでニューアルバム《イーグルス・ライヴ》のトラックを調整しながら、仕上げの作業にかかっていた。(略)
「バンドのスケジュールはどうなってるんだい?」(略)
 ビルが僕に告げる。「いまの時点で、バンドはもうないんだ」(略)

 1980年、イーグルスは歴史となった。(略)

グレン脱退

たしかに、僕らはここのところいい関係とはいえなかったが、まさか解散するとは思ってもみなかった。(略)精神的ショックは大きく、僕はしばらくなにも考えられなかった。(略)

グレン・フライが終息を宣言したのだ。(略)
解散の原因は僕だったのではないかと思い悩み、何日か眠れぬ夜を過ごした。(略)

毎回、前作を凌ぐアルバムを要求されることに、ドンとグレンはもう対応しきれなくなっていた。(略)

そしてグレンはついに、ソロアルバムを作るためにバンドを抜けると宣言したのだ。

 アーヴィングが僕ら全員に電話してきて、グレン抜きでライヴアルバムの編集を終えなければならないと告げた。(略)

グレンを除く全員がマイアミのビル・シムジクのスタジオに飛び、ギター・パート、バッキングヴォーカル、ドラム・パート、そしてベースの調整を始めた。それから、そのテープをLAに送ると、グレンとビルのアシスタントが別のスタジオで彼のパートを調整し、それらのテープをフェデックスでマイアミに送りかえしてきた。
 こうして僕らは、憤りと不満の大陸をあいだに挟み、遠くかけ離れたその両側の沿岸でレコーディングを行うことになった。グレンはバンドの誰とも直接話そうとはせずに、そのほかの連中には大声で怒鳴りつけ、叱りとばした。そして、ついにはアーヴィングも解雇すると、自らマネジャーを雇い、完全に撤退してしまった。

 誰もがグレンが考えなおすことを期待した。この僕でさえも。彼はいずれストレスから解放され、ソロアルバムを作った後にまた戻ってくる、と誰もが思っていた。僕らは成功の頂点に立っていた。世界でもっともビッグなバンドとして。なぜ、いま辞める必要がある?(略)イーグルス抜きの人生など、はたしてありえるのだろうか?

 レコード会社側はわずかでも希望をつなごうと、ファンへの正式発表を行おうとしなかった。(略)ジョー・スミスは新曲を2曲加えれば、アルバム《イーグルス・ライヴ》はもっと売れると見込んでいた。彼は新曲のために200万ドルを提供すると申しでたが、それでもグレンは僕らと仕事をするのを拒んだ。

(略)