アトランティック・レコードを創った男・3

前回のつづき。

コロムビアとの争奪戦

[広告宣伝チーフ・ボブ・ロロンツ談]
「クライヴ・デイヴィスとの戦い方をアーメットは熟知していた。あまりよくないアーティストがいたとしても、すごいバンドだという噂を流しておけば、クライヴは大枚をはたいてでもそのバンドを獲得するのさ」
(略)
 たとえばモビー・グレープがそうだ。「彼らのアルバムは自分が徹底して面倒を見て作業する」とアーメットが約束し、アトランティックが獲得すると言ったのに、その後メンバーの1人がアーメットに、「デイヴィスが倍の金額を提示してきたから、コロムビアと契約をした」と連絡してきた。(略)
 バンドをデイヴィスに取られたことを知ると、アーメットは『それは残念だ。アルバムがリリースされたら、そのうち3曲をシングルカットするつもりだったのに。そんなことをするレコード会社は、今までなかったじゃないか』と告げた。それから2、3ヵ月経ち、ビルボード誌を読んだアーメットは、3枚のシングルと共にモビー・グレープの新譜が発売されるというニュースを見て喜んだ。「バンドがコロムビアにそうさせたんだ。それが、あのレコードが売れなかった理由の1つだよ」
(略)
 1972年、デラニー・ブラムレットのドラッグ問題により、アーメットはデラニー&ボニーが商業的成功を収めることはできないと判断した。そこで、彼らを60万ドルでコロムビアのデイヴィスに売却した。(略)
コロムビアから出たデラニー&ボニーのアルバムはまったく売れなかった。
(略)
 ゲフィンがすでにクロスビー・スティルス&ナッシュをアトランティックと契約させたことを知ると、デイヴィスはコロムビアからクロスビーとナッシュを解放する代わりにポコを欲しがった。
(略)
アーメットは「それはかなり厳しい」といったんはそれを却下したが、「アーメット、頼むから俺のためにそうしてくれ」とゲフィンに懇願され、ポコのコロムビアヘの移籍に応じた。(略)
アーメットは、売れないと分かっていたバンドとクロスビー・スティルス&ナッシュを一気にトレードし、その一方でデイヴィッド・ゲフィンをデイヴィスから奪った。

[CS&Nの完成したアルバムを聴いた]アーメットは興奮して叫んだ。「彼らはビッグになるぞ!絶対に!」しかし、その後にこう付け加えた。「アソシエイションほどじゃないと思うがね」

クリーム

[買収から二年]レコード業界の市場がそれまでより急速に拡大するにつれ、2人が追求する方向性はまったく異なるものになっていった。ウェクスラーは自らのルーツに戻って、メンフィスとマッスルショールズのスタジオに向かった。それまでと同じように、敬愛するさまざまな黒人アーティストや、往年のアーティストたちのプロデュース業を続けていた。(略)
[一方アーメットは新しいアーティスト発掘のためロンドンに標準を定め、ドーチェスター・ホテル7階の豪華なスイートにオフィスを構え、英音楽シーンへのコネクションとしてクリス・ブラックウェルとパートナーに。]

「クリームはアメリカでも売れるとずっと思っていた」とアーメットは後に主張しているが、ロバート・スティグウッドはこう反論している。「アーメットはビー・ジーズを欲しがったけど、実のところクリームの獲得にはそれほど熱心ではなかった。ロンドンのポリドールで彼らのデモを聴かせたら、『おお、すごい、すごい。でもあまり売れ線ではないね』と言っていたからね。(略)
彼がクリームを獲得できたのは、私がビー・ジーズを彼に預けたからだ。それが真実だ」

「基本的に彼らはお互いを憎み合っていた」とスティグウッドは解散の理由を説明する。「3回目の全米ツアーでは、毎晩のように騒動とケンカが起きていた。ジンジャーはジャックを殺そうとしたし、ジャックは自殺しようとした。そしてエリックは『辞めさせてくれ。あいつら2人とも大嫌いだ』と私に訴えてきた」

[フィル・スペクター談]「クリームが解散間近だったあの頃、アーメットはもう1枚アルバムを出したがっていたが、彼らはいがみ合っていてそれを嫌がった。するとアーメットは『それは困る。私のためにもう1枚やってくれなくては。実は、ジェリー・ウェクスラーが癌で死にそうなんだ。君たちのアルバムをもう1枚聴きたいと頼まれている』と言って食い下がった。それで彼らがスタジオに入ってアルバムを作ると、今度はこう言ったんだ。『ジェリーは死なないよ。ずいぶんよくなってきた』とね」
 わずか3年の活動期間に、クリームがアメリカでアトランティックから出したレコードは1500万枚を売り上げ、そこからアーメットとクラプトンとの間には生涯にわたる友情が芽生えた。(略)
[「いとしのレイラ」録音中のクラプトンの状態を知ると、マイアミに飛び]ハードドラッグの世界にはまったレイ・チャールズを見ているのがどれほどつらかったかを懇々と話して聞かせた。[涙まで流して説得したが効果はなかった]

ストーンズ争奪戦

[70年デッカとの契約が終了、コロムビアへの提示は5〜600万ドルの前払い金、当時ストーンズの売上げはアルバム1作75万〜100万、シカゴやサンタナの半分以下、ストーンズ側の要求を飲めば他のアーティストとの契約更新金が高騰するとデイヴィスは契約を断念]


キース・リチャーズは後にこう語っている。「新しい契約先を模索していたけど、それと同時に、イギリスを越えた水平線の向こうにアトランティック・レコードがぼんやりと立ちはだかっていたような気がする。アトランティックに所属するという考えだけで、圧倒されてしまったんだ。だって、俺たちはすでに死んで天国に行ってたようなもんだから。クライヴとはそれほど打ち解けなかったけど、アトランティックには惹かれたな。あそこは黒人音楽に理解が深くて、レコーディングのやり方もよく分かってたから。
(略)
俺たち2人とも『アトランティックが一番合ってるレーベルかも?』と言ってた気がする」

[米英1位となった『スティッキー〜』をひっさげた全米ツアー一行にアーメットも加わる。ストーンズニューオーリンズの音楽を聴きたがってると聞くと]
 シカゴを拠点にしている66歳のブギウギピアノ奏者ルーズベルト・サイクス(別名「ハニードリッパー」)と、盲目のギタリストであるスヌークス・イーグリン、そして1948年のハーブ・エイブラムスンとの南部でのリサーチ旅行で初めて会った伝説の男プロフェッサー・ロングヘアを、アーメットは呼び集めた。そして、ニューオーリンズのストリートマーチングバンドと一緒に演奏する手配を整える。これが、アーメットがツアー中にストーンズのために催した最初の大パーティーとなった。
 裸電球の光と埃だらけの床、頭上で扇風機が1台回っているだけ(室温はすぐに38度に達した)の大きな部屋で、アーメットは水を得た魚のように働いた。夜中になり、ロングヘアが「スタッガー・リー」を激しく奏で歌う中、人々は手の甲に乗せたコカインを吸いながら音楽に合わせて踊り狂い、汗を飛ばした。ジャガーとリチャーズが現れる頃には、酒場は沸き返り、音楽が絶え間なく流れていた。
(略)
ストーンズがアトランティックからレコードを出そうと思った本当の理由がこれだったのだ。初めてニューオーリンズにやってきてから30年経っても、アーメットは相変わらず、チャートを席巻する新しい音楽と古きよき音楽との間の重要な橋渡し役を担っていたのだ。

「ミス・ユー」に黒人団体激怒

 歌詞を変えてくれとアーメットに要求されると、ジャガーは「この曲は、馬鹿な男の1人語りで、風刺みたいなものだ」と答えている。これに対して、アーメットは次のように証言する。「『黒人女は一晩中ファックしたがってる』と聞いて、ミックの言うとおりに解釈する人がいるとは思えない、と私は言った。どうしても歌詞を変えられないという段になって、今のままでは間違いなく問題が起きると思った。しかしアルバムの発売を中止したら、ストーンズはアトランティックを離れてしまうかもしれない。我々の契約では、彼らがレコードに入れたいものは違法でない限り何でも入れてよい、という条件になっていた。たしかにあの歌詞は違法ではなかった」
 アーメットが驚いたことに、『女たち』は評論家たちから絶賛された。歌詞についても誰からも抗議されることなく、爆発的に売れた。「ああ、これで何とか乗り切れたと思って安堵した」とアーメットは語っているが、同時にストーンズが黒人のファンを失ったことも自覚していた。
[やっぱり黒人団体から抗議、オフィスの周囲を]
「考えられる限りのあらゆる人々……。アビシニア教会の信者もいたかもしれない」が包囲した。デモの参加者はプラカードを掲げて通りを行進しながら、アトランティックのレコードの不買を皆に訴えた。
(略)
 長年にわたり、アトランティックはジェシー・ジャクソンの組織に定期的に寄付することで、アトランティックなりの社会的責任を示し続けた。「ジャクソンが俺のオフィスに金をもらいに来ると、俺は仕立屋に金の袋を投げてやるハンガリーの騎兵隊長みたいに、ジャクソンに小切手を投げてよこした。アーメットと俺は別々のオフィスだったから、インターホンでアーメットを呼んで、『ジャクソンがそっちへ行っても金は渡さなくていい。俺がもうあげたから』と伝えたよ。彼の社会的・政治的スタンスは立派なものだと思うが、あいつはうちのアーティストを焚きつけて、ウィルソン・ピケットオーティス・レディングさえも俺と対立させようと仕向けた。そうやってピケを張ることで、俺からもっと金をせしめようとしたわけだ」とジェリー・ウェクスラーは語っている。
(略)
[ジャクソンの段取りでアーメットはシカゴに出向き不買グループと面談]
「居並ぶ黒人たちと対峙したときは死ぬかと思った。100人ほどいたはずだが、どの顔も怒りに満ちていた」とアーメットは後に語っている。「リンチされるのでは、と思った。室内の中にいた白人は私1人だけで、とてもおそろしかった」(略)
[アーメットの事情説明に]
ジャクソンがこう言った。「おいおい、冗談だろ? 君は黒人を利用した挙句、黒人向けのレコードを売って金を稼いでいる。それなのに今度は手の平を返して、黒人を侮辱するってわけか?それこそが黒人女性への侮辱じゃないのか?」実に見事な演技だった。アーメットいわく、ジャクソンは次に「私に対して不合理な侮辱を始めた。そのあまりのひどさに、急に人々は彼に反対の意を示しだした。彼が激昂して暴言を吐く一方で、私が冷静に話し続けたからだ」人々がアーメットの言葉に耳を傾けるようになると、ジャクソンは口調を変えてこう言った。「(略)もしかしたら、ジャガーもあんなことを歌うつもりじゃなかったんじゃないか?君が歌詞をほとんど理解できないってことは、レコードでもはっきりそう歌われていないのかもしれないな」アーメットいわく、「その瞬間、すべてが決着していた」
 昼食会が始まると、アーメットのところに人々がやってきて、ウィルソン・ピケットやラヴァーン・ベイカーについていろいろと訊き始めた。
(略)
ジェシーは天才だ。あの歌詞のままでレコードを出さないよう私が努力していることを知っていた上で、すべてを丸く収めたのだから。彼のおかげで命拾いしたよ」
(略)
 晩年のジェリー・ウェクスラーは、アーメットがシカゴでジェシー・ジャクソンと演じた手の込んだ芝居の真相を次のように明かしている。「アーメットは、彼らに100万ドルを寄付しなければならなかった。アーメットがやむをえず自分の過ちを正式に認めたことで、変節したジェシーは一転してアーメットを擁護したわけだ。この寄付金はすでに合意されていたもので、その場で支払われた。まずジェシーがアーメットをやっつけておいて、その後に罪をあがなうという段取りを組んだのだ」

エレクトラアサイラムとの合併

ゲフィンが画策しアーメットも乗り気だったアトランティックとエレクトラアサイラムの合併

合併話が新聞に載ったその日のうちに、アトランティック・レコードで内乱が勃発した」ジェリー・グリーンバーグやシェルドン・ヴォーゲルも、「合併が承認されたら辞める」と言ってアーメットを脅した。ウェクスラーはヨーロッバヘ出張中のアーメットを探し出し、「自分はゲフィンとは絶対に働かない」と単刀直入に宣言した。そして話の途中で旧約聖書でも読んでいるような口調に変わり、「いつか貴方は、貴方の神童によって血の涙を流すことになるだろう」と告げた。おそらくアーメットはこの瞬間、合併話を進めることは不可能だと判断したのだろう。
 キングによれば、アーメットが合併を白紙撤回すると伝えた際、ゲフィンは「よくそんなことが言えるな?」と怒った。
(略)
 本当のところ、この合併話が物別れに終わったのは、MGMのルイス・B・メイヤーと同様、アーメットも自分の権力を他の誰にも明け渡したくなかったからだ。

75年、ウェクスラー遂に退社

「退職するときは、これからどうやって生活しようか、どうやって生き延びていこうか、何も分からなかった。それでも、あの状況には耐えられなかった。アーメットの部下になるという状況には」(略)
 それ以降、2人は連絡を一切取り合わなかった。その理由はウェクスラーいわく、「アーメットは2種類の人間――つまり社交界の人間と低能なやつら――しか眼中にないんだ。そしてあいにく俺はそのどちらでもなかった」からだ。またウェクスラーは痛烈な皮肉として、アーメットの墓石に「彼の言葉はいつも本気だった」と刻んだらどうだと提案した。