ニック・ロウの人生と音楽 その2

前回の続き。

 

 

デビュー・アルバム、ジム・フォード

音楽的な影響という点で言えば、その前年、メンバーたちの家のターンテーブルにずっとデビュー・アルバムが乗っかっていたという、クロスビー・スティルス&ナッシュを大いに感じさせる。ニック、ボブ、ブリンズリーの三人は本家の鉄壁3部ハーモニーをほとんどマスターしていたし、ニックのリード・ヴォーカルはブルージーに歌う時のデヴィッド・クロスビーをほうふつとさせる。

(略)

「レディ・コンスタント」(略)はウッドストック以降のカリフォルニアの空気に対するクレヴァーなパロディだとも言えなくない。ただし、書いたのは(略)ケント州に住む、まじめでひたむきな20歳の若者なのだ。

(略)

5月初め、ニックたちは謎多きアメリカ人ソングライター、ジム・フォードに紹介される。(略)

 「デイヴ・ロビンソンが募金活動でアメリカに行ってたんだ」とニックは言う。「その時、リバティ・レコードのサイ・ワロンカーからジム・フォードのことを聞かされたらしい。『バンドに投資するので、見返りにジム・フォードと組め。一筋縄じゃ行かない天才だが、長髪のおまえならあいつと通じ合えるだろう』と。

(略)

カウボーイ・ハットにピンク色のサングラス(略)丸い爪先のカウボーイブーツの男。(略)いろんな意味でフォードは本物だった。(略)浮世離れしてて、ものすごいカリスマ性があった。3千ドルもするギターを1本携えてやって来たんだ。(略)ところが本人はギターなんてほとんど弾けなくて、それでもそれをかまえてジャーンってやるだけですごくかっこいいのさ。ジム・フォードみたいに弾くやつは初めてだったよ」

 「彼の方は僕らにまったく感心しないながらも、最大限の努力をしてくれてたんだと思う。一緒に〈ジュ・ジュ・マン〉を録音したんじゃなかったかな。

(略)

だいぶ作り話も多かったけど、これは本当かなって信じたのが、ボビー・ジェントリーと一緒に住んでたっていう話だ。当時RCAの電話交換手だった彼女が〈オード・トゥ・ビリー・ジョー〉をジムから盗んだって言うんだ。確かにあれは典型的なジム・フォード・ソングだ。その後のボビー・ジェントリーの作品と照らし合わせるとつじつまは合う。ジムの書く曲は基本ブルースなんだが、そこに"隠し小節"が数小節分プラスされてるんだ。

(略)

ジム・フォードの曲から受けた影響は僕にとって大きかった。ダン・ペン、スプーナー・オールダム、ジョー・サウスなんかと並び、パズルを完成するのに必要な最後のピースだったね」

 フェイムプッシャーズ本体は財政状況が火の車だった。(略)デイヴ・ロビンソンは、残されたわずかな現金を持って(略)田舎に大きい家を見つける。(略)

かつて私立女子校の別館だった建物はロビンソンとバンド、ブリンズリーの家族全員が住むのに十分なうえに、リハーサル室、寝室、犬舎、小さなオフィスのスペースもある。

「まるでお城だった。(略)僕らの分のベッドがなかったんで床に寝てたよ」

(略)

[エリル・ホルト談]

「コミューンだったわ。畑があって、奥さんやガールフレンドたちが野菜を育ててた。みんなが真っ裸で歩き回ってる時期もあったわ。すぐにそれはなくなったけど。私は厚手のセーターを着てたわよ」

(略)

リバティ・レーベルのもう一人のシンガー、P.J.プロビーとのレコーディングが行なわれることになった。(略)

 ニックはこう記憶する。「マーティン・デイヴィスから言われんだ。『P.J.プロビーはもう終わったも同然だが、個人的には素晴らしいアーティストだと思うんで(略)何か新しいアイディアでも出してもらおうと思ってる。(略)君たちはカントリー・ロッカーだし、どうだい?』ってね。驚いたなんてもんじゃない。プロビーこそ真のポップ・スターだと思ってたからさ。

(略)

まず、ローディが膨大な数のギターを持ってやって来た。全部プロビーのだ。考え得るすべてのタイプのギターがあった。プラス、打楽器が数箱分。思ったよ、『すげえな、こりゃあ真剣だぞ、あちらは』って。2時間後、カウボーイ・ハットのプロビーが来た。腕に絡みついてたのは女優のアンガラッド・リースだ。とびきりの美人さ。見るからに、私は嫌々来てるのよっていう様子でね

(略)

問題が発覚した。なんと送った曲をプロビーはまったく聞いてなかったんだ。

(略)

[それでも彼は]いい演奏をしてくれたよ」

 

 

イアン・ゴム加入、『ディスパイト・イット・オール』

[2ndアルバム]

デビュー・アルバムを特徴付けていたCS&N風サウンドは、ヴァン・モリソンサウンドに取って代わった。

(略)

 『ディスパイト・イット・オール』をさらに彩るのは、何度もオーヴァーダブで録られたシュウォーツが弾くギターだ。これをライヴで再現するには、もう一人ギタリストが必要だということになり、得意のメロディ・メイカー紙に求人広告が掲載された。

(略)

『ディスパイト・イット・オール』の完成を間近に控えた1970年8月、イアン・ゴムはブリンズリー・シュウォーツに加入した。彼がバンドにもたらしたのは、ポップスとエレクトロニックに関する詳しい知識と、ドライヴァーを使いこなす手先の器用さだった。

野心と音量を捨てる、LSD体験="シルヴァー・ピストル"

 崇拝するザ・バンドの音楽ルーツを遡るうちに、ブリンズリー・シュウォーツはかつてのカントリー・ロックから、未知のリズム&ブルースに心奪われるようになる。ローリング・ストーン誌が紹介する「今アメリカで起こっている音楽」のチェックも怠らなかった。輸入した最新盤をロンドンに受け取りに行くのはデイヴ・ロビンソンの役目だ。「デイヴのおかげでたくさん聴いたよ。トレイシー・ネルソン、エリア・コード615、クローヴァー......」とニックは言う。「アメリカから帰ってくるたび、どっさりとレコードを持って来てくれた。リトル・フィートのファーストの時も『街中、この噂でもちきりだったんだ。まだ僕も聴いてないんだよ』ってね。デイヴにはものすごい借りがある。世の中の動向に常に敏感だったし、たくさんの新しい音楽を紹介してもらった。ヒップな人脈もあり、言ってみりゃ"種を蒔くべき、豊かな土壌を持っていた"ってことかな。彼の貢献は見過ごすわけにいかないよ」

 5人組となったブリンズリー・シュウォーツは、寝ても覚めても音楽漬けの生活を送り、独自のスタイルを築き始めていた。イギリス中のほとんどのバンドが巨大なアンプを積み上げ、耳をつんざく大音量を鳴らしていた時、彼らは探せる限り最も小さなアンプを手に入れると、音量をなんと"下げた"のだ。

「ブリンズリーたちほど小さな音で演奏するバンドを聴いたことがなかった」[ローディ談]

(略)

 バンドが野心と音量を捨て、内向的になるにつれ、クリエイティヴ面の要であるニックには、それにふさわしい新曲を書かねばというプレッシャーがのしかかった。(略)LSDを思う存分摂取しながら、ニックは初めて迫り来る神経衰弱を体験した。

(略)

「暴れたり取り乱すわけじゃなかったんだが、言葉が出なくてね。完璧にイッちゃってたんだ。イアン・ゴムだけが事情が飲み込めずにいた。あいつのような分別がある人間がグループにいてくれたのは良いことだったよ」

(略)

やがてステージにも影響を及ぼし始める。突然、曲の途中で別の曲に変えてしまったり、演奏の手を止めてしまうこともあった。(略)

「驚いて見回すと、ニックは両手を挙げてベースは宙ぶらりん。『ニック、弾けよ!』と焦って叫んだが、あいつったら『いいんだよ、僕なしでも最高だから!』とか言ってるんだ」

(略)

前年、一緒にセッションをして以来、型破りなケンタッキー人、ジム・フォードはニックが大好きなソングライターになっていた。中でも好きだったのが「36インチズ・ハイ」だ。大きな白馬にまたがった兵士、ひるがえる軍旗、銀色のピストルといった歌詞から描かれるアメリ南北戦争のイメージ。(略)ニックはなぜかこの謎めいた曲に惹かれ、LSD体験のことを"シルヴァー・ピストルする"と表現するようになる。

 「あれは最悪のトリップ・ソングだった(略)あの頃の僕はひどい時期だった」

ローディのマルコム・アディソンも「ニックが人差し指を銃みたいに頭にあて『銀色のピストルでこの脳みそをぶっ飛ばす』と歌うのをよく見た」と言う。

(略)

[ドイツでのショウのあと、アモン・デュールⅡのメンバーの家に招かれ]

ガランとした空っぽの部屋を見て回るうちに、ガラスのアクセサリー・ケースが目に入った。中には銀色のピストルが2丁。「それが決定打だったね」とシュウォーツは言う。「その時すでにあいつは正気を失いかけてたんだ」

 バンドがイギリスへの帰途に着く頃、ニックの心は完全にどこかに行ってしまっていた。(略)

「(略)僕が運転してて、他の連中は夢の中。僕はニックに言った。『もう無理だよ。これ以上持ちこたえられないと思う』。ニックが答えた。『僕もさ。いっそあの木に激突しちゃえば?』。一瞬考えちゃったよ。(略)」

エッグス・オーヴァー・イージー経由でパブ・ロック

[その頃]アメリカからエッグス・オーヴァー・イージーというバンドがイギリスにやって来た。(略)

[契約問題が解決するまでぶらぶらしてろと言われ、ジャズの生演奏を行なっている近くのパブ『タリー・ホー』に自分たちを売り込んだ]

「もちろんさ、演奏するのはジャズだよ」(略)

[たまたまそれを観たデイヴ・ロビンソン]

オハラは当時を振り返る。「とにかくバンドに会ってくれないかと言われ(略)デイヴは僕らがクローヴァーをほうふつとさせると言ってた。ブリンズリーたちの印象?グレイトフル・デッドの影響を受けてるなってことと、ザ・バンドが好きだったってこと。彼らにとって僕らは本物のアメリカ人だった。こちらにしてみればごく当たり前のアメリカン・カルチャーに、彼らは夢中だったからね」

(略)

[ニック談]

「(略)翌日『タリー・ホー』に出かけたよ。客はまばらだったが、エッグス・オーヴァー・イージーの演奏は最高だった。(略)

すごく小さな音で演奏するんだ。当時としては珍しい小型のアンプを使ってた。偶然だけど、僕らも似たようなことをやってたから、エッグスがやってるのを見て、これで良かったんだと思えたよ。それに彼らはカヴァー曲をさらっとやっちゃうんだ。例えば〈ブラウン・シュガー〉とか。チャートに入ったばかりの曲をカヴァーする発想はそれまでなくて、すごくかっこいいと思ったよ。ルックスもまるで見習い僧のようで良かったね」

(略)

のちにマネージャーとなるダイ・デイヴィスは(略)当時のニックの様子を覚えていた。「エッグスには100を超えるレパートリーがあるんだと敬うように語ってた。オリジナルは50曲、カヴァーも50曲以上、客からのどんなリクエストにもエッグスは応えるんだ、すごいよ、生のジュークボックスだってね。それでブリンズリーたちもパブでやると決めたんだよ。デイヴ・ロビンソンがけしかける形で、ニックが決め、残りの連中もそれに従った。(略)」

(略)

 生まれつつあったパブ・ロック・シーンを牽引する中心的人物に、ニックはまさになろうとしていた。

LSD地獄から離脱

LSDはついに僕を変えてしまっていた。もしバンドの連中がいなかったら、どうなっていただろう。(略)体じゅうシラミだらけ、淋病を患い、狂ったヒッピーのなれの果てさ。正直、もうまともには戻れない、回復はしないと思ってた。同じ目に遭った人間を何人も知っていたから分かるんだ。(略)唯一受けた治療はロボに連れていかれたサム・ハットのところでだ。

(略)

「彼のところに行ったのは淋病にかかってしまったからだ。(略)すり鉢とすりこぎで何かの粉をすり潰すと小袋に詰めて渡された。偽薬だったとしても気持ちは落ち着いたよ。サム・ハットに救われたんだ。その後はアルコールを飲むようになった。(略)LSDの地獄を見た者にとって、酒はいい解毒剤なのさ」

 シラミからも解放され、きれいにとかした髪で自信を取り戻したニック率いるブリンズリーシュウォーツは、1972年1月18日、『タリー・ホー』のステージに初めて立った。まるで自分の庭のようにしっくりと。

(略)

[同時に]サード・アルバム『シルヴァー・ピストル』をリリース。(略)

ニックのソングライティングが一気に開花している(略)

どの曲からも感じられるザ・バンドの影響。(略)

大きな影響を与えたもう一つのグループが、クローヴァーだ。アレックス・コールが歌う「ミスター・ムーン」を聴けば、この時期のニックの歌い方にどれほどの影響があったかが分かるだろう。イギリス人で、ここまで"アメリカーナ"とのちに呼ばれる音楽ジャンルに心酔していたミュージシャンはそういまい。

 ただし『シルヴァー・ピストル』が店頭に並ぶ頃には、ブリンズリー・シュウォーツはもうそこにはいなかった。(略)ロックンロールやリズム&ブルースのルーツへとさらに近付き、"酒場から起きた革命"のリーダーという新たな肩書きにふさわしい道を歩み始めていたのだ。

 

デイヴ・エドモンズ登場

[1972年4月]バンドはウェールズ人ロッカー兼レコード・プロデューサー、デイヴ・エドモンズと出会う。

[マーティン・ベルモント談]

 「エドモンズに関する神話の数と言ったら(略)モンマスにでっかい邸宅を構え、ドラッグをやりたい放題。愛車ジャガーで田舎道を時速90マイルでぶっ飛ばす時は、鎮静剤のメタカロンとウィスキーでキメてから。後部席にはケースから出した裸のギブソン335。スタジオでは耳がおかしくなりそうな大音量でプレイバックを聴き返す。イコライザーを上げすぎて、そこにいた人間のズボンがカサカサと音をたてた、などとね」

 「エドモンズは本当にクールだった」とニックも言う。「僕らが帰り支度をするのと入れ違いでスタジオにやってきて、夜中にレコーディングをしてたよ。(略)酒のボトルやバッグを大量に抱えてスタジオに入って行き、そのまま朝まで作業をし、あのすごいノイズを作り出す。

(略)

彼が僕らのスタジオに来て、しばらく曲を聴いたあと、自分がちょっとやってもいいか?と言ったんだ。プロデューサーとしてそこにいたデイヴ・ロビンソンの顔が一瞬険しくなったけど、僕は面白いんじゃないかと思い頼むことにした。(略)

エドモンズがレヴォックス社のミキサーをちょこっと弄り、エコーのエフェクトをかけた途端、音が弾み出した。鉛みたいだったサウンドが、あっという間に生き生きとグルーヴし始めたんだ。

(略)

[デイヴ・ロビンソンは認めず]エコーはすべて消し、元通りの平凡で陳腐な音に戻した。でも実は思っていた。次にプロデュースを任すのはエドモンズかもなと。彼なら僕らをうまくまとめてくれると思った。本当はすぐにでも彼に頼みたかったんだ」

(略)

イアン・ゴムが作曲した爽やかなナンバー「イッツ・ビーン・ソー・ロング」で始まる『ナーヴァス・オン・ザ・ロード』全編を彩るサウンドはあくまでもシンプルだ。プロデュース不足と思えなくもないにも関わらず、ニックが書く曲にはそれに耐え得る強さがある。シャッフルする「サレンダー・トゥ・ザ・リズム」、懇願するような心の痛みを歌うナンバー「ドント・ルーズ・ユア・グリップ・オン・ラヴ」、LSD克服後のニックの精神状態を歌うタイトル曲はとりわけそうだ。ボブ・アンドリュースとニック・ロウが共作した『僕らはやれるだけで幸せなんだ』とまるで初心に戻って自分たちの使命を歌うかのような「ハッピー・ドゥイング・ホワット・ウィアー・ドゥイング」は、ラヴィン・スプーンフルの「ジャグ・バンド・ミュージック」にも似た、ミニマルなギター・ソロが光る曲だ。「あれはミニマリスト的アプローチの極みだ」とニックは言う。「攻めの姿勢でね。ソロは哀れなくらい情けないものにしようぜと。どんだけ薄っぺらにしても足りないくらいだった」

(略)

[72年5月、グレイトフル・デッドの前座としての演奏を見ていたのが17歳のデクラン・マクマナス]

(略)

「要は、パブ・ロックはそれ以前からあったものを、もう一度盛り上げようぜということだったんだ」とダイ・デイヴィスは言う。「デイブ・ロビンソンとニック・ロウがそれを哲学化したのさ。(略)」

 

 

レイ・デイヴィス激怒

キンクスとは一度だけ一緒になった。1972年6月9日、『ケンブリッジ・コーン・エクスチェンジ』でのこと。(略)

PAトラブルでどうにもならずステージを降りたキンクス

「僕とゴムは、こりゃあバンドに一言お悔やみを言わなきゃと暗闇の中、客の間を手探りで進んだ。(略)

なんとか楽屋にたどり着くと、暗い中、サウンドのことで揉めてる声が聞こえた。さぁ、ここで一つバンドにありがちな話をするよ。どんなバンドにも、メンバーだけにしか分からない楽屋オチっていうのがあるじゃないか。僕らにも一つあってね。昔、前座を務めたあるバンドのマネージャーが、自分のバンドのことを『うちんとこのボーイズが』って呼んでたんだよ、電話口で。『会場を見たんだが』とそいつは言った。『あれじゃあ間違いなく、うちんとこのボーイズは不服だ。(略)絶対おかんむりだ!』。この言い方に僕らウケちゃってさ(略)とんでもない汚い会場だった時はまねさせてもらってた。(略)

そんなわけで(略)ゴムが一言『あれじゃあ間違いなく、うちんとこのボーイズはおかんむりだ』と例のやつを言ったんだ。僕らとしてはキンクスの気持ちを代弁してるつもりだった。(略)僕も念を押すように繰り返した。その時さ。猛獣が猛進してくるような音がして、家具が吹っ飛ばされ風を感じた。背後から伸びてきた2本の手が僕の喉元を絞め上げた。(略)

馬乗りになったそいつの言葉が聞こえてきた。『うちんとこのボーイズがおかんむりだって?どれだけおかんむりか教えてやろうじゃないか!』。僕はラリったまんまだ。(略)

見上げると、口角から泡を飛ばし鬼の形相で見下ろす僕の幼き日のヒーロー、レイ・デイヴィスがそこにいた。

(略)

この話にはオチがあってね。何年も経ったある晩、レイ・デイヴィスから自宅に電話があったんだ。弟デイヴのプロデュースの依頼だった。『不可能じゃないよ、レイ。でも僕ら、実は前に会ったことがあるって知ってた?』。当然のことながら彼は覚えていない。もしかしたらどこかのパーティで?と尋ねる彼に『ま、そんなようなもんかな』と僕はほのめかした。『ケンブリッジの「コーン・エクスチェンジ」、そう聞いてなんか思い出さない?』。そのことは彼の記憶から完全に消えてたみたいだよ」

 

 「パブ・ロックっていうのは、ミドルクラスの元モッズたちが、一度はヒッピーのアンダーグラウンド・シーンを体験するも、これは自分の趣味じゃないと感じ、再編成して出来たものだ」とニックはかつて語っている。まさにそんな一人が60年代を代表するモッズ・グループ、ジ・アクションを経て、英国ヒッピー・アンサンブルのマイティ・ベイビーを組んだ、ギタリストのアラン"バム"キングだろう。(略)

[新グループ、エースのヒット曲「ハウ・ロング」]を書き歌っていたのが、ニックの未来のコラボレーター、ポール・キャラックだ。

(略)

マイティ・ベイビーのもう一人のギタリスト、マーティン・ストーンは(略)チリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズを結成。(略)

[ローディからマネージャーに昇格したのが、相手に面と向かって『ファック・ユー!』と言える男、アンドリュー・ジェイクマン]

"ジェイク・リヴィエラ"としてニック・ロウのマネージメントを仕切ることになる男が静かに誕生しつつあったのだ。

 

 

『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』

[73年初頭、ニックはLSD幻覚から回復するも、バンドにフラストレーション]

「自分たちのやっていることは古臭すぎるって思い始めたんだ。ギルバート・オサリバンの〈ゲット・ダウン〉をやりたいと提案した[が、他のメンバーが拒否、大喧嘩に](略)」

 ミドル・オブ・ザ・ロードなポップ・ソングという意外性でレースから一歩抜け出したい願いは叶わず(略)リーダーでいることへの興味が薄れてきた。

(略)

[5枚目『プリーズ・ドント・エヴァー・チェンジ』録音中]

井の中の蛙でいるのはそれはそれで楽しかった。(略)パブ・ロック・シーンの愛すべき人気者でいることに価値がないわけではない。でもそれ以上にはなれなかった。これは僕個人の考えだけど、バンドに自分たちでレコードを作らせたことが間違いの原因だったと思う。なんの知識もないくせに、自分たちで曲を書き自分たちでプロデュース。さらにはマルチトラック・レコーディングがちょうど出てきたとこだった。この三つの要素が合わさって、ひどいレコードしか残ってないんだ。パブ・ロックに優れたレガシーが残っていない原因はそこさ」

(略)

[予期せぬ大きなチャンス、ウイングスUKツアー前座が決定]

デイヴ・ロビンソンは毎夜ステージをチェックしながら、一貫したマッカートニーのプロフェッショナリズムと、夜毎良くなる一方のウイングスのパフォーマンスを参考にしようとした。そのことをバンドに告げ、上を目指すべきだとハッパをかけたが、ニックたちはパブでやることで満足しているようだったという。

(略)

ツアー後間もなく(略)マネージメント業務はデイヴ・ロビンソンからダイ・デイヴィスの手に移ることになる。

(略)

[11月『オールド・グレイ・ホイッスル・テスト』出演。ニックが]

頭部の毛をツンツンとさせたモッズ風スタイルを初披露(略)

「あれには頭にきた」とイアン・ゴムは言う。「おかげでまだ長髪だった僕らはまるで年寄りヒッピーさ

(略)

次なるアルバムのレコーディングで、プロデュースを依頼されたのはデイヴ・エドモンズだった。ブリンズリー・シュウォーツはザ・バンドの影響を強く受け、"リアルさを守ること"にこだわっていた(略)それが彼らの初期のレコードを単調に聞こえさせていたとも。プロデュースしすぎていないサウンドに聞こえさせるには、それなりのレコーディングの仕方がある。ザ・バンドもそうやって録ったのだ、とエドモンズは彼らに言って聞かせた。こうして、新たなプロデュースの価値観が反映されたアルバムが出来上がっていった。

(略)

完成した『ニュー・フェイヴァリッツ・オブ・ブリンズリー・シュウォーツ』は彼らとしては最も洗練されたアルバムだった。

(略)

「(ホワッツ・ソー・ファニー・バウト)ピース、ラヴ・アンド・アンダースタンディング」(略)が書けたことが、駆け出しソングライターに及ぼした影響は「地震級に大きかった」とニックはその後語っている。「〈……の何がそんなにおかしいって言うんだい?〉というタイトルが思い浮かんだ時、自分の運の良さに自分でもびっくりした。これは絶対いい曲が書けると分かったんだ」

(略)

「最初は冗談ソングにすぎなかった。でもどこかから声がしたんだ、この曲には一粒ほどの知恵の種がある。台無しにするな、シンプルなままにしておけ、あまり利口ぶりすぎるなとね。(略)

この曲は恐らく初めて、まともに、自分らしいオリジナルなアイディアで書けた曲だった。だからあまり頑張りすぎるなと誰かに言われた気がしたのさ。それに従って良かったと思ってる。でなかったら、あの曲は死んでた。ブリンズリー・シュウォーツが死んだ時点で。いや、あいつがってことじゃなくて、グループの方が(笑)」

(略)

しかし悲しいかな、ブリンズリーの6枚目にして最高傑作は、またしても大いにコケてしまうのだった。

 ミキシング作業を終えるや否や、そろそろ"スタジオ焼けした肌"を外気にさらさねばとデイヴ・エドモンズは考えた。(略)ツアーにはもう5年近く出ていない。(略)彼らは理想のバック・バンドだった。6月、十数ヶ所のライヴ会場が『ニュー・フェイヴァリッツ・ツアー』のために押さえられた。ところが、パブロック・バンドの雄たちを脅かす思わぬだ。脅威が、オープニング・アクトのドクター・フィールグッドというバンドによってもたらされたのだ。

(略)

獰猛なライヴ・パフォーマンス(略)圧倒的な存在感(略)音楽情勢そのものを著しく変える流れとなり(略)パブ・ロック・バンドは終焉を迎えることになる。

 「毎晩、ドクター・フィールグッドがいいとこを全部持っていくもんだから、デイヴ・エドモンズはまじで病んでしまって。ブリストルでは『手が動かない』と言い、ステージに出たがらなかった。(略)いずれにせよ、フィールグッドはすごかった。やる前から無効試合さ。あいつらに比べたら、僕らは街をぶらぶら歩いてるおじさんみたいだったよ」

 

 

憧れのザ・バンド来訪

[9月憧れのザ・バンドが訪英]

電話を取ったのはブリンズリーだった。「ワーナー・ブラザーズのマーティン・スミスがかけてきてね(略)『ザ・バンドがそっちに行ってリハーサルをしてもかまわないかな?』と。僕はてっきり『バンドが』と言われたのかと思った。そしたら『違う違う、ザ・バンドだよ!』って。しかも今からすぐ行くって言うじゃないか。

(略)

大慌てで準備が始まった。「ビリーがサンドイッチを作り」とマーティン・ベルモントは言う。「ニックがリハーサル用の部屋に掃除機をかけ始めた。(略)」

 まずザ・バンドの機材が到着し、それに続いてリムジンが横付けされた。「すると等身大パネルかと思うような5人が車から降りて来たんだ」とアンドリュース。

 「僕らはザ・バンドを崇拝してたから」とニックも言う。「彼らが本当に来るなんて信じられなかった。(略)

ギターは自分たちのを持って来ていた。ガースのロウリー・オルガンが持ち込まれ、アンプとドラムは僕らのを使っていた。暖かな気持ちのいい夜だったよ。邪魔をしないように、僕らは遠巻きに彼らを見ていた。全部で1時間か2時間くらいだったかな。(略)ガースが弾くロウリーはまるで天国から鳴る音みたいだった。(略)僕らはオルガンに寄りかかりながらうっとりと聴いていた。ついにボブが抑えきれなくなって、『これは夢だ。どれだけあなたが素晴らしいか、分からないかもしれないが』というようなことを言っちゃったんだ。好きさ余っての一言だった。でも悲しいかな、ガースがそれでビビっちゃったんだよ。『そろそろ行かないと』そう言うと、そそくさと帰り仕度を始めた。見知らぬガキからどれだけ素晴らしいかと言われ、戸惑っていづらくなったんだろう。残念な話だ。そのことでボブはみんなから散々に言われたけど、もしあいつが言ってなかったら、きっと僕が言っていただろうからね」

(略)

イアン・ゴムはリチャード・マニュエルが飲んでいたオレンジ・リカーの空ビンを、ロビー・ロバートソンに憧れ、彼のリックの一つや二つでも弾けるようになれればと思い続けてきたブリンズリーはギター・シールドを。「僕はさ、ずっとロバートソンみたいに弾きたいと何年もやってきたんだ」とブリンズリーは言う。「なのに、僕のアンプ(略)にシールドが差し込まれ、音が出た瞬間、それはロビー・ロバートソンのサウンドだった。本当に悔しかったよ」

 

 

『イッツ・オール・オーヴァー・ナウ』

『ニュー・フェイヴァリッツ〜』が売れなかったことを受けて、ブリンズリー・シュウォーツはユナイテッド・アーティストからの移籍も考えた。(略)

おかしな話ではあるが、グループの欲求不満が募るほどにブリンズリー・シュウォーツのロンドン・パブ・シーンでの人気は高騰し、客足を抑えるためにあれこれと名前を変えねばならないほどだったのだ。その一つ、"レグ・ロウ&ジ・エレクトリシャンズ"も、その正体を知るのは最も熱心なファンのみだった。(略)

これまでのアルバムの制作費を少しでも回収しようと、ユナイテッド・アーティストはビートルズのカヴァーをさせる。(略)「恋する二人」と「テル・ミー・ホワイ」をカップリングしたシングルが、ライムライト名義でリリースされた。

(略)

 ヒット作[あわよくばアメリカ受けするかもしれないアルバム]を作る最後の試みで連れてこられたのが、アメリカ人プロデューサー、スティーヴ・ヴェロッカ

(略)

セッションのマスター・テープは長く紛失したと思われていたが、2017年『イッツ・オール・オーヴァー・ナウ』としてようやく日の目を見る。

(略)

「恋するふたり」。ニック自身、これを書いた時は片方の耳でハロルド・メルヴィン&ザ・ブルー・ノーツの「愛の幻想」を聴いていたのさと告白している。

ドクター・フィールグッドがチリ・ウィリに引導

 1974年秋の時点で、まだチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズのマネージャーだったアンドリュー"ジェイク"ジェイクマンだが、それ以外の時間はブリンズリー・シュウォーツの運営に関わることになる。

(略)

 グループが解散しそうなことを知り、ニック・ロウとイアン・ゴムがハウス・ソングライター兼プロダクション・チームとして、ユナイテッド・アーティストに残るかもしれないと吹き込んだのはレーベルのマネージング・ディレクター、マーティン・デイヴィスだった。その折に、二人のマネージャーにならないかとジェイクマンに提案したのだ。

 「ジェイクは先が読める男だった」とゴムは言う。「でもうまいことを言って相手を言いくるめるところや、ニック一人だけに的を絞ってるところが僕は嫌いだった。(略)だから僕は断ったんだ。(略)でもニックはそういうのも含め、派手なことが大好きだったからね」

 「『最高じゃないか!』と思ったよ。『こいつは他人のことなんてかまわないやつだ』、そう思えたからね」とニックは言う。「ジェイクとはすぐに気が合った。僕よりもずっと世間を知ってたし経験もあった。そこに惹かれたんだ。

(略)

 1975年1月、ジェイクマンは"ノーティ・リズム・ツアー"でチリ・ウィリ&ザ・レッド・ホット・ペッパーズを大きく売り出そうと考える。ところがココモとドクター・フィールグッドが前座のUKツアーで、狙いは大きく外れ、むしろチリ・ウィリの命を縮めてしまうことになる。

 ドクター・フィールグッドは支配的とも言える勢いで、全国レベルにブレイクしつつあった。元祖パブ・ロック・バンドがもはや窓際族であることは、ジェイクが一早く気付いていたことだ。ドクター・フィールグッドこそ、UKロックンロールを大きく変える力であり、何も彼らを止められない。そう踏んだジェイクの読みは正しかったことになる。さらにジェイクの読みが正しかったのは、ニック・ロウという天才には、10分おきに尻を叩いてくれる誰かが必要だということだ。それはニック本人も分かっていた。そしてこの時から二人は固い絆で結ばれたのだ。それから40年という長きに渡り、二人は友人兼ビジネス・パートナーであり続けた。

解散

[3月]ブリンズリーズのフェアウェル・ショウは感極まる一夜となった。(略)

ニックは半分皮肉を込めて、あらゆる曲を"ヒット・シングル"と紹介した。(略)

ブリンズリーにしてみれば、その日はここ数年来のベスト・ギグ。このままバンドを続けられるのではないかと淡い希望も抱いていたのだが、ニックにはこれが限界だった。新しい音楽はすぐそこまで来ている。(略)

「(略)間違いなくボブとブリンズリーはぶ然としてた。いや、彼らからすれば当然だろうよ。そうさせるような態度を僕が取ったんだから。ジェイクと付き合い始め(略)バンドとしてのブリンズリーがなんだか古臭く思えてきた。それで先を急いじゃったんだ。でもそのやり方は良くなかった。恥ずかしい話だが、途中でいろんなことを放棄して逃げ出してしまった。そして気付いた、住む場所がないって。震え上がったよ。[姉のフラットに転がり込む](略)」

(略)

キャリアウーマンの姉は平日は早く就寝した。ところが弟はそれと入れ違いに、歩いてすぐのパブ『ナッシュヴィル』から戻ってくるのだ。何人ものミュージシャンの友達を引き連れて。(略)"顔にクリームを塗って"寝る用意をしていた姉は部屋から出て文句を言う。

(略)

[ペニー談]

「(略)彼らはマリファナも吸っていた。(略)通りの向こうでも分かるくらい臭ってたわ。ニックは汚いベッドルームに何時間もこもったまま、レヴォックスのテープレコーダーで曲を書いてたわ」

(略)

ニックは言う。「姉貴のだんなが言うには、ぼくの姉はイギリス音楽界きってのミュージシャンたちに罵声を浴びせかけてたことになる。イアン・デューリーエルヴィス・コステロ、グレアム・パーカー……毎晩、彼らに怒鳴り散らしてたのさ。『いい加減、あんたたち、帰ってよ!』って」

(略)

解散を受け、ユナイテッド・アーティストは契約オプションを行使し、ニックをジェイムス・テイラージョン・セバスチャンのような、ちょっと変わった、デニムが似合うライト・ロック系アーティストとして、ソロで売り出すことも考えた。

(略)

[しかし実際のニックは]短髪にソフト帽をちょこんと乗っけ、ロンドンのホットなスポットに繰り出す遊び人ソングライター。こざっぱりした三つ揃いのスーツのポケットにデモ・テープを忍ばせ、かつてのティン・パン・アレーの敏腕作曲家よろしく「お探しのいい曲がありますよ」と売り込むのだ。

契約解除狙いで「憧れのベイ・シティ・ローラーズ

[UAがニックを切ってくれることを願って、ジェイクは「憧れのベイ・シティ・ローラーズ」を制作するも、UAは気に入りリリース]

ウォンブルズ(イギリスの子供番組)一連のヒットで知られる(略)マイク・バットの曲にありそうな(略)とびきりコマーシャルなノヴェルティ・ソング。

(略)

「ヒット番組の熱心なリスナーだった僕としては、無意識にウォンブルズのサウンドをまねようとしてたんだと思う。(略)

友達同士、『ほら、分かるよね?』と目配せし合い、肘をつつき合ってるような感じ。(略)徹底的にやりきれば(略)逆に問題ないっていう発想さ

(略)

自分でも自分の書いた曲を聴き、どこかで聴いたことがあるなって思うことがある。それは"曲っていうのは2ヴァース、コーラス、ミドル8で書くもんだ、しかもなるべく少ないコード進行で"という時代に僕が育ってきたからさ。今考えると、70年代のヒットメイカーたちの曲はどれもすごかった。でも本人たちがそれほど真剣にやってなかったんだ。やろうと思えば、もっと反体制的なことも出来たのになと思う。あのローラーズ企画も今となれば、なんてことはないのかもしれないが、当時としては驚きだったよ、こういうことをやっていいのかって。あんなとんでもないレコードを作っておちょくるなんてさ。僕は楽しんでやっていたけど、それはあえて分かったうえでやってたことなんだ。僕の契約を切るために」

(略)

どっちに転んでも損のない話だった。もしヒットすれば、いくらあってもかまわない現金が手に入る。コケればユナイテッド・アーティストの契約から解放され、もっと条件の良い他社との契約を探せるかもしれない。結果がどうであれ、ニックの名前は表には出てこない。

(略)

[「憧れの~」は日本でヒット、UAは契約を切るどころか、続くシングルを要求したので、契約を切られるのに十分な駄作シングルを作る羽目に]

魔法の粉をふりかけすぎなければ、見事にコケること間違いなしのナンバー。(略)デイヴ・エドモンズを指名し"ヒットにならない曲"を作ることに専念した。(略)

狙い通り。「レッツ・ゴー・トゥ・ザ・ディスコ」は1年間のお蔵入りとなり、ついにユナイテッド・アーティストはニックとの契約を切ったのだった。

次回に続く。