恋するふたり ニック・ロウの人生と音楽

フセインからジャガーを貰った父

 1956年は、リトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ」で華々しく幕を開けた。(略)ニックは(略)母親がぎょっとしていたのを覚えているという。「確かにそれまでで彼女が経験した、最も"黒い"経験だったからね」

 一方、[父]ドレインにとってその年は、ロックンロールの誕生以上に、怒濤の1年として記憶に残ったはずだ。(略)

10月にはスエズ危機はついに武力衝突へと発展し、第二次中東戦争が勃発。(略)

ヨルダンでは若きフセイン一世が国王となり、イギリスの干渉を一切受けない独立国家への道を模索し始める。1948年の協定により、アラブ軍団治安部隊の訓練と協力を条件に、国内に英国空軍基地を残したことで、自分がイギリスの操り人形だと国民に思われるのを嫌ったフセイン一世は1956年3月、アラブ軍団の英国人指揮官ジョン・バゴット・グラブ中将(略)を解雇。フセイン支持派からは歓迎されたが、地域の平静は保たねばならない。イギリスは暗殺などテロリストの攻撃から国王の身を守る名目で、英国空軍の派遣を申し出た。(略)

前年11月に空軍省から英国空軍に戻っていたジェフリー・ドレイン・ロウ大佐が現場に配属されていた。(略)ドレインは誇らしげだった。彼の率いる部隊がこれからフセイン国王の身辺警護を監督するのだ。

 「父が先に行き、落ち着いた頃に遅れて、母と僕が行く」(略)

 1956年春、パットとニックはドレインのいるヨルダンに渡る。しかし[姉]ペニーはイギリスの寄宿学校に送られた。

(略)

「(略)あの年齢でヨルダンに住めたのはすごく良い経験だったよ。英国統治ギリギリ最後の良き時代。お城のような豪邸に住み、召使いたちが何から何までやってくれた。(略)

 フセイン一世は国家の安定のため、サンドハースト王立陸軍士官学校から大急ぎでヨルダンに呼び戻されて国王になった人だ。(略)父親代わりに若い国王を監視するのが親父の仕事だった。(略)

 国王が来る日がいつも楽しみだった。彼の車は前後を装甲車に護衛されてやってくるんだ。アラブ軍の兵士は僕を装甲車に乗せてくれて、機関銃を触らせてくれた。(略)

母は、王様はサンドハーストでポークソーセージとハムサンドイッチの味を覚えてしまったから、うちに来てたのよって言うんだ、イスラムの教えでは豚肉は食べられないから。ソーセージ・サンドが目的だったってわけさ(略)

 飛ぶ飛行機が少ない日曜の午後はスポーツカー倶楽部が開かれていた。(略)

滑走路でタイムを競うレースが開かれていた。(略)

フセイン国王もガンメタルグレーに輝く、跳ね上げドアのメルセデスベンツ300SLを何台も連ねて、美女を従えてやって来てたよ。まるでモンテカルロさ、想像つくだろ?当然、みんなして彼を優勝させるわけだけど、実際、運転はなかなかうまかったよ。

(略)

 その年、ジャガーDタイプが3年連続でル・マン24時間レースで優勝したんだ。ジャガー社は最新のXK140をフセインにプレゼントした。(略)

 ところがだ。フセインは愛車メルセデス300SLほど、それが気に入らなかった。そこで大使館、軍、政府関係者、援助隊員など、当時国内にいた外国人全員を集めて大抽選会を開いたんだ。景品は時代の先端を行く最高級品。ステレオ装置、グルンディッヒ社オープンリール、ゴールドのキッチンワゴン、電気トースター。そして1等賞が例のジャガー。当てたのは年配の軍看護師3名だったが、彼女たちは車はいらないと辞退した。そしてこの先の記憶はちょっと曖昧なんだが(略)

 ある晩、聞き慣れた装甲車のガタガタという音が聞こえた。(略)そのあとをフセインが運転する真っ赤なジャガー(略)

親父に会いに家の中に行くと10分くらいして出てきて、今度は乗ってきたのと別の車で帰ってったんだ。ジャガーはうちに置きっ放しさ。

(略)

日曜午後の倶楽部用の車を持ってなかった父にフセインジャガーをくれたんだ。父を慕ってたというのもあるだろう。あとは父がジャガーを運転すれば、滑走路でのレースに"ちょっと趣味のいい"対戦相手が出来ると思ったからさ。ジャガーメルセデスのタイムトライアルをよくやったが、父が勝つこともあれば、そうでないこともあった。ジャガーのモーターはそりゃあすごかったからね。(略)」

(略)

ニックは、父親に迷惑をかけてはならないという責任を感じていた。「(略)母からも"あなたが軽はずみな行動を取ったら、どれだけお父さんに迷惑がかかると思う?"と言われていたしね。でも空軍の子供であることが僕はとても好きだった。(略)」

 スエズ危機が緊迫の度合いを増す中、軍人の家族はヨルダンを離れることになり、1956年10月30日、ニックとパットもイギリスに帰国する。

テネシー・アーニー・フォード

長い目で見れば、ニックを音楽の道に進ませるきっかけを作ったのは、亡き夫とともに舞台に立っていた祖母が買い与えたプラスチック製ウクレレだ。だが、より深く音楽を学ぼうとニックに思わせたのは、当時ラジオで流行っていたクルーナー歌手(略)を聴かせ、簡単なコードを教えてくれた母パットの影響だ。(略)

しばらくして、ペギー・リー、アニタ・オデイといったジャズの香り漂うシンガーの10インチLPが出るようになる。ニックはこれらのレコードが大好きで、何度も聴き返しては、アクセントを効かせたリズムやビッグバンド・サウンドを肌で覚えていった。もう1枚、母のコレクションの中で、ニックを特に夢中にさせたのが「ショットガン・ブギー」や「ファットバック・ルイジアナ、U.S.A.」などが入ったテネシー・アーニー・フォードの10インチLPだ。

 「〈シックスティーン・トンズ〉が出たあとか前か、はっきり覚えてないんだが、それがカントリー&ウエスタンだとは知る由もなくて、とにかくとても変わってるなと思った。カリフォルニア風カントリー&ウエスタンとジャズの要素が混ざり合った最高の音楽だったね。今でも好きだよ」

(略)時を同じくして、全英ヒット・チャートはロニー・ドネガンとエルヴィス・プレスリーのダブルの衝撃に揺れていた。

(略)

ハンク・マーヴィンも、ジョン・レノンも、ヴァン・モリソンも、誰もがロニー・ドネガンに憧れた。(略)

「今思うと、幼くしてロニーの影響を受けたことは幸運だった。彼にはアティテュードがあった。どちらかと言うとブサ男で、アイドルなんかじゃなかった。でも7歳の僕から見ても、デニス・ロティス(略)なんかより、ずっとクールだったよ」

 

 1957年までには、中東における英国空軍の新本部はキプロスに移った。(略)

 5月16日、ヨルダンを発ったドレインは"王様からもらった車"を従え、キプロスの首都ニコシアに到着するが、2週間後にはイギリスに一時帰国する。(略)大英帝国勲章を受勲したのだ。(略)[父の]航空日誌には、サウスエンドからマルタ経由でキプロスに"パットとニッキー"も一緒に飛んだと記録されている。

 スエズ危機以来、アクロティリに建設されたばかりの英国空軍基地はエジプト軍の爆撃の恐怖にさらされていた。

(略)

[父の顔を見て、ゲートを上げた新兵を『身分証明書を提出させるべきだろう』と説教していたその時、爆発音。ゲリラが爆撃機数機を爆破。これにより出世は妨げられ]

44歳にしてドレインの仕事人生は終わったかのようだった。

ショーン・タイラとドイツ空軍基地にて

 キプロスで暮らしていた時、ニックはついに本物のウクレレバンジョーを両親から買ってもらう。(略)コード・マスターの名で知られる、便利なアクセサリーも付録で付いてきた。バンジョーのネック部分に装着し、数字の書かれたボタンを押せば、そのコードの弦が押され、コードを指で押さえたのと同じになる。(略)これは左利きのニックには助かった。(略)しかしいかんせん、見た目がカッコ悪い。一緒に付いてきたタブ譜を解読するのにもそう時間はかからなかった。ほどなくして、ニックはコード・マスターなしで楽器に取り組むようになる。母もギターの基本的なコードは弾けた。だが、なぜか6弦のうち4弦しか使わなかった。

 「太い2弦のことを忘れちゃうんだよ。でも二人しておかまいなしにロニー・ドネガンの曲を弾いていた。(略)

ロニーの〈フランキー・アンド・ジョニー〉はまるでジェームス・ブラウンそのものだった!BBCの英国軍放送ラジオで聴ける音楽の中で一番ロックンロールに近かったのがロニー・ドネガンだったね」

 英国空軍関係者の家族がみんなそうだったように、ニックの家族も各地を転々とした。「12歳くらいまで、父は警察から追われているのだと思ってたわ」とペニーは笑う。

(略)

[ウッドブリッジに進学]

[全英1位、シャドウズ「アパッチ」]

イギリスでエレクトリック・ギターがバカ売れしたのは、ひとえにこの曲のおかげだと言われている。

 シャドウズに倣えとばかりに、イギリス中の学校という学校にビート・グループが誕生した。

(略)

学校がクリスマス休暇に入ると、ニックは両親に会いにドイツまで飛んでいたことを覚えている。(略)

「ショーン・タイラと二人で小型の双発に乗りこんだこともあった。機内では郵便袋の山に囲まれてた。楽しかったよ。ショーンの父親は陸軍人(略)」

ショーン・タイラは[後に](略)ダックス・デラックスを結成。ニックと同じスティッフ・レコードと契約した。

 ラインダーレン滞在中、ニックと3歳年上のショーンはスキッフル・グループを組み(略)ザ・フォー・ジャスト・メンと名乗り、空軍基地内の『ティーンエイジャーズ・クラブ』で演奏した。

 「ニックは本来ならクラブに入れない年齢だった(略)でもあいつは背が高いから年上に見えた。それで父親のサングラスをかけ、誰にもとがめられずに忍び込んだのさ。〈漕げよマイケル〉を最低4回は演奏してたんじゃないかな」

ウッドブリッジ退学

[62年秋、ウッドブリッジにブリンズリー・シュウォーツとバリー・ランドマンが転入。ブリンズリーが結成したデモクラッツにバリーがドラムで加入]

「(略)で、いつしかニックも加わるように(略)残念ながらバンドにバンジョーの入る余地はない。それで、ニック自身がベースをやると言い出した(略)でも実はベースを持ってなかった!(略)」

 伝説が伝えるところによれば、ニックは(略)ジョンソン先生の工作の授業で(略)近未来的な造形のVOX社のファントムをまねて、ベースを作ったというのだ。(略)[50年後、ニックは]インタビューでこう告白している。「そういうのが得意なやつに頼み込んで、工作室で作ってもらったんだ。チューニングにはペンチが必要だったが、弾くことは出来たよ」

(略)

 1963年が明けて数週間(略)シャドウズの(略)[ギター・サウンドが]たった一夜にして、ビートルズの歌声に取って代わったのだ。(略)ロックンロール時代の髪型は、だらりと垂れた前髪に変わった。

(略)

1964年になるとストーンズの影響で、R&B一色となるが、ニックはストーンズよりはやや知名度では落ちるが、その年にデビュー・アルバムを発表したダウンライナーズ・セクトがお気に入りだった。「あのレコードに関してなら、隅から隅まで知ってたよ(略)彼らからボ・ディドリーの曲を学んだんだ。黒のタートルネックセーターもね」

(略)

 1965年夏、ジェームス・ブラウンオーティス・レディングウィルソン・ピケットといったソウル・ミュージックが大西洋を越えてやって来た。(略)

[バリー・ランドマン談]「ブリンズリーと僕はまだシャドウズとかビートルズ(略)が好きだった。それに比べ、ニックの好みはもう少し先を行ってて、恐らく僕らの中では最初にスタックスとかタムラ・モータウンを聴き始めてたよ」

(略)

 ウッドブリッジは学業の優秀さを競う者が通うというよりは、金持ちの劣等生が社会に出る前にてっとり早く通う学校だった。

(略)

 最終学期の終了を待たずに、ニコラス・ドレイン・ロウはウッドブリッジから事実上、退学させられた。(略)試験を受けても全科目で落第点。唯一、英語だけが良かったのは、言葉が好きで、作り話をするのが好きなことと関係していたのかもしれない。勉強では落ちこぼれだったが、なぜか生徒と教師に好かれる人気者で、ニックのおかげで学校生活が楽しかったと証言する者は多い。

(略)

ドレインが亡くなって、書類を見てたら僕の成績表が出てきて驚いた。言葉は違えど、書かれてることは『この子は絶望的です。これ以上、私どもには出来ることはありません。どうか授業料の無駄遣いをされないように』と、どれも同じ。父はその忠告をずっと無視してきたんだよ。結局、16歳でなんの資格もないまま、僕は学校を辞めたんだ」

(略)

 サラットで暮らしていた頃のニックは典型的なぐうたらティーンエイジャーだった。床に寝転がり、ラジオ付きレコード・プレーヤーのスピーカーに耳を押し当て『エキサイティング・ウィルソン・ピケット』を大音量で聴く。

キッピントン・ロッジに加入

[カシオ・カレッジ英語科を卒業。有名ブロードキャスターの息子とウッドブリッジで同級生だったコネで、ミドルセックス・アドヴァタイザー紙で編集助手に。映画評の仕事で試写会に出かけ、出されたジン&トニックで酔いつぶれ、起きた時に試写は終了]

"ハービーが何も見えぬままホテルのプールに飛び込んでいくシーンが描くパラダイムの、なんと深く、ニュアンスに富むことか、かくかくしかじか"それが僕の初めての、そして唯一のジャーナリストへの挑戦だった。そんな時、ブリンズリーが電話をしてきたのは」

 

 1965年にウッドブリッジを出たのち、ブリンズリー・シュウォーツは(略)スキナーズ校に進学[バンド結成](略)1967年、バンド名をキッピントン・ロッジと改名。由来はケント州セブンオークス近くにあった、ブリンズリーが両親と住む家の名称だ。父親ウィムが数学教師を、母親ジョーンが寮母を務める地元プレップ・スクールが所有する"キッピントン・ロッジ”は、リハーサル用のスペースと、ブリンズリーのミュージシャン友達を含め、大勢のゲストが泊まれるだけの広さを誇っていた

(略)

キース・ウェストのシングル「エグザープト・フロム・ア・ティーンエイジ・オペラ」のヒットで乗りに乗って[いたマーク・ウィルツがキッピントン・ロッジのデモを気に入り、パーロフォンと契約](略)

ウィルツは弟子であるキース・ウェストと共作した「シャイ・ボーイ」をやることを提案。(略)

ブリンズリー作「レディ・オン・ア・バイシクル」をB面に1967年10月リリース

(略)

ステイタス・クォーマーマレード、ザ・ハードといった"マーキー系のグループ"と肩を並べることになる。誰もがバカでかいのサテンのブラウスに、ポスト・モッズ風盛り髪で、サイケなポップを演奏していた時代。

(略)

派手さの解毒剤として(略)重い一石を投じたのが、パワー・トリオの元祖、クリームだ。(略)ブリンズリーとバリーは、その演奏技術にノックアウトされた。キッピントン・ロッジもこれからはもっとシリアスなバンドへ方向転換すべきだ。しかしベーシストのデイヴ・コッタムはそうは思わず、音楽的ポリシーの不一致を理由に脱退。ベーシストの座が空いてしまった。そこでブリンズリーの頭に真っ先に思い浮かんだのがニックだった。

(略)

 ニック加入前にレコーディングされたセカンド・シングル「ルーモアーズ」は失敗に終わった。続くサード・シングルに選ばれたのはバリーが書いた「テル・ミー・ア・ストーリー」。この時のレコーディングでは(略)メンバー自ら演奏していることから、彼らはパーロフォンに実力を認めさせたということになる。(略)

1968年当時のレコーディングや宣伝写真を見る限り、見た目はザ・ハードを思わせるポスト・サイケデリックポップ・グループといったところだ。オーケストラを効かせたサウンドに、ニックのアンディ・ボウン風ヘアスタイルでマーケットを意識してみたものの、キッピントン・ロッジにはティーンに受ける要素がなかった。続くシングル「トゥモロー、トゥデイ」も不発に終わり、ハモンドオルガンの月賦を払えなくなったバリーは1969年初め、ポップ・ハーモニー・バンド、ヴァニティ・フェアから誘われバンドを脱退する。

 バリーの後任は、メロディ・メイカー紙の募集告知を見て応募してきたヨークシャー生まれのオルガン奏者ボブ・アンドリュースに決まった。R&Bとソウルが得意なボブの音楽性はグループのサウンドを強化させた。

(略)

最後となるシングルをリリース。ボブのハモンド・オルガンを前面にフィーチャーした、ビートルズの「イン・マイ・ライフ」のカヴァーだった。B面はニック・ロウの記念すべき、レコードでの初ヴォーカル、初ソングライティングとなる「アイ・キャン・シー・ハー・フェイス」だ。ニックのリード・ヴォーカルはトラフィックスティーヴ・ウィンウッドをほうふつとさせたが、シングルは大コケした。

(略)

ストーンズの有名なハイド・パーク無料コンサートが行なわれた1969年7月5日(略)『マーキー』でヴィレッジというオルガン・トリオの前座を務めていた。その時だ。

(略)

「ニックが演奏中に感電しちゃったのよ」とエリルは言う。「突然ステージに倒れ、もがき苦しんでたわ。配線を間違ったことが原因だったみたい」

 ニックもこう言う。「片手は弦の上に置いていた。で、もう片方の手をマイクに伸ばし、『調子はどうだい、ロンドン?』と挨拶するのと同時にマイクを握った。その瞬間だ。電気が体じゅうを一気に走った。見てた人の話では、4フィート以上吹っ飛び、ステージ逆サイドにあったアンプに激突し、床でピクピクと痙攣したまま、ベースとマイクを握りしめた指を開けなかったらしい。僕は横たわりながら、何が起きたか全部覚えていた。(略)目は開いているのに何も見えない。(略)聞こえるのはブーンという唸る電子音のような音だけ。(略)『これってまずいよな?(略)すごい衝撃だ……おまえの心臓はもう長くは持たない』と僕の中で会話は続いた。『(略)まあ、でもいい思いも十分しただろ。少なくとも《マーキー》のステージの上で死ねるんだからさ』(略)

 一方、店内は大パニックさ。怒鳴り声が飛び交い、女の子たちは泣き叫び、ステージでは電源を切ろうと、アンプの裏にある配線盤を探すのに右往左往だ。僕の手にはマイクが握られたままだったが、当然金属には触るなって誰もが遠巻きにしてる。それでボブ・アンドリュースがスタンドめがけて、思いっきり蹴りを入れたんだ。それがうまくいってね。なのにボブは気付かず、もう一度蹴りあげた。スタンドじゃなくて僕の胸の辺りを。でもあとで病院で言われたのは、その衝撃で心臓が動き始め、僕は一命を取り止めたということだった。(略)

手はひどい火傷を負ったが、生きてるってだけでうれしくてすぐに退院したよ。(略)

『マーキー』の店主から予定通りセカンド・セットをやるか?と聞かれ、もちろんやった。『お待たせしました。死の淵から生還したラザロです!』。ギャラは予定の半分だったけどね」

(略)

翌月(略)4週間『マーゲート』の専属バンドの仕事を引き受け(略)

[ドラマーのピート・ホエールは最終日でクビと決定]

地元に戻る車中、誰もピートにそのことを言い出せずにいた。するとその時ピートが言ったのだ。「このバンドにいられるのは最高だね。将来が楽しみだ」(略)

全員が気まずさを感じていた時、ニックが突然口を開いた。「ごめんよ、ピート。でもおまえはもうグループの一員じゃない」。黙りこくってしまったピートだったが、10分ほどしてこう言った。「いいよ、気にするな。それでも将来は明るいって思ってるからさ!」

 すでに新しいドラマー候補のビリー・ランキンとは話がついていた。(略)

バンドは将来に疑問を感じ始めていた。このまま僕ら、売れないシングルが何枚かあるだけ、という借金を負ったEMIのマイナー・アクトで終わってしまうのだろうか。60年代はそろそろ終わろうとしていた。イギリスのライヴ・シーンを取り巻く状況は大きく変わり、台頭するカレッジ・サーキットの比重が重くなっていた。

ブリンズリー・シュウォーツに改名

[米ではCCR、英ではプログレが台頭、キッピントン・ロッジを含めた通なファンに影響を与えたのが、ザ・バンドの1stだった]

 「あとはクロスビー・スティルス&ナッシュ。ファースト・アルバムが大好きで、スツールに座るあのスタイルをまねたんだ。ブリンズリーの家で、みんなでステレオで聴いたのを覚えてる。スピーカー2台で聴く彼らは格別だったよ。時代は変わってきてる、そう僕らも感じてたんだ」

 グループには新しい名前とイメージが必要だった。ブリンズリー・シュウォーツはその時のことをこう語る。「全員、次に会う時までに名前を考えてこよう、そしてその中から一つを選ぼうと決めたんだ。ところが集まった日、みんなからもう名前は決まったと言われたんだ。"ブリンズリー・シュウォーツ"だって。反対したよ。でもいつの間にか、丸め込まれてしまってたんだ」

(略)

メロディ・メイカー紙の求人広告欄(略)

「当方、若い進歩的なマネージメント会社。曲も書けて、自分の楽器を持っている若いグループを募集中」

(略)

27歳のデイヴ・ロビンソンが、パートナーである(略)フェイムプッシャーズ・リミテッドのオフィスだった。1942年生まれ、ダブリン出身のロビンソンはジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのツアー・マネージャー(略)を経て、ロック界の"次なるセンセーション"を探していた。(略)ブリンズリー・シュウォーツを気に入った一番の理由は、彼らがバンを持っていると言っていたから。あとは、とりわけベース奏者がソングライターとして有望そうだったからだ。(略)

[会社を立ち上げたのは]二人の若い起業家、スティーヴン・ワーウィックと、謎の男エディ・モルトンだ。ワーウィックは初期のジェームス・ボンド映画も手がけた元音響編集者。一方のモルトンの正体は実のところはよく分からない。銀行融資担当者を出し抜くため、いくつもの変名を巧妙に使い分けていたようだ。

(略)

ロビンソンはブリンズリーたちにこんな思いを伝えていた。自分が探してるのは、曲が書けてまじめによく働き、フェイムプッシャーズのコネを上手に使って、やがて成功するグループだ。あまりアグレッシヴに売ろうとするのは間違ってる。ハイプ(誇大な宣伝)を仕掛けると、それに応えるのが難しくなるからね。(略)彼の予想を超える、とんでもない展開がこの先待ち受けているとは、ロビンソンは知る由もなかったのだ。

(略)

バンドはジレンマの狭間にいた。(略)手堅い道を選んで生き残るか、新しい道を選んで飢えるか。ニックの気持ちは決まっていた。お子様向けのラジオ番組に出るのはもう十分だった。もっとアンダーグラウンドなクラブや大学でやりたかったのだ。「ヒッピーみたいなことをしたいわけじゃなかったが(略)女子大生のすらっとキレイな脚を見た時、それも悪くないなと思ったんだ」

(略)

[オリンピック・スタジオを押さえ、プロデューサーにはミッキー・モスト。しかし、音は完成せず、モストは辞退、経費はかさむ一方]

ロビンソンは、ゆっくりとバンドを育てたいという考えはあまりに理想主義的すぎるのかもしれないと思うようになっていた。

(略)

[レコード契約を決めるには、名のある会場でお披露目だ!PR担当が提案]

「世界で一番ビッグで最高の会場はどこだ?ロックンロールのメッカはどこだ?マスコミがいっぱい集まるところは?」

「そりゃニューヨークの『フィルモア・イースト』だ」。ロビンソンが言い切った。(略)

「そのうち、小型飛行機をチャーターしよう。いや大きいのがいい。そこにジャーナリストを乗っけて行くんだ、とドンドン話はでかくなっていった。

(略)

 まったく無名の、未経験のイギリスのグループをニューヨークでデビューさせる。そのあまりの無謀さに全員の士気はむしろ上がった。

(略)

 アイルランド航空との交渉はわりと楽だった。飛行機いっぱいのジャーナリストを乗せて大西洋を横断することのパブリシティ効果は先方にとっても悪くない話だったようで、たった7千ポンドでニューヨークまでの往復チャーター機を借りることが出来た。ただし『フィルモア』のブッキングはそう容易ではなかった。

(略)

[売り込みにビル・グレアムは]

「いいか、デイヴ。おまえがサンフランシスコに来た時はいつでもいい、俺んところに来いよ」(略)

[即、ロビンソンは空港に向かい、翌日の早朝、サンフランシスコ到着]

得意の話術で攻め立てた。

「ビル、このギグを何がなんでも実現させたいんだ。マスコミの人間はブリンズリー・シュウォーツを"正しい場所"で観たいんだ」

(略)

[グレアムの了承を取り付け]

「4月の週末『フィルモア・イースト』だ。ヴァン・モリソンとクイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスが出る。ブリンズリー・シュウォーツが前座だ」[とUAに売り込み]

(略)

ユナイテッド・アーティストの業務部長マーティン・デイヴィスに呼び出され、契約の条件を提示された。ニューヨークでのプロモーションと、アルバムがすぐにでもリリースできる状況を考え、前払金2万2千ポンドと8%の印税ではどうか?

史上最も"大ゴケした"プロモーション作戦

サン紙は「モンスターのための視察」と大々的に書き立てた。(略)「ポップス史上、最もお金のかかったお披露目パーティが開かれるのは、誰もそのレコードはおろか、それ以外でも聞いたことがない、イギリス人の4人組ポップ・バンドだ。そんな彼らを"70年代のモンスター・グループ"とパトロンたちは呼ぶ」

(略)

「僕らに知らされたのは、すべて決まったあとだった」とニックは言う。「こんなおいしい話はなかったよ。『フィルモア』に行けて有名になれるだなんてさ。(略)アメリカに経つ2日前に演奏してたのは、ガウハーストの公民館だぜ。わけ分かんなかった。ただ分かったのは、でっかい飛行機で北米に行って、グルーピーがわんさかいるクラブにたどり着きたいってことだけだったよ」

(略)

[アメリカ大使館で労働許可が届いていないのでビザは発給出来ないと言われ]

いったんカナダに観光客を装って入国してしまえば、あとはニューヨークまで飛んで、リハに取りかかれる。「トロントでは見た目だけで嫌な顔をされたよ」とニックは言う。「全員長髪。長髪イコール犯罪者だったからね。(略)

男が怒鳴りつけてきた。『貴様ら、どういうつもりだ。騙そうってったってそうはいくか。ここには何百万ドルもする高性能のコンピューターがあるんだ、おまえらのようなやつらをチェックするためにな。アメリカに入国したいって?おあいにく様だ!』そう言ってパスポートを投げ捨てた。(略)

[デイヴがニューヨークの大物に]電話をかけ、裏から手を回してくれないかと頼んでいた。1日のみのビザは切れてたから、国外退去になるのが怖くてホテルから一歩も出られない。(略)どうにか話がつき、大使館でパスポートを受け取れると言われた。ところがその日は航空管制官ストライキで、どの空港でも飛行機が離陸の順番待ちで列をなしていると新聞が伝えていた。(略)日本人パイロットが操縦する小型飛行機を借り、トロントからニューヨークに向かったんだ。書類審査で国境の手前のバッファローに降りた時は気が気じゃなかった。大丈夫だ、パスポートにはビザのハンコも押してあると自分たちに言い聞かせて。(略)結局、誰もパスポートを見もしなかったよ」

(略)

フィルモア』に着き、事態の深刻さを初めて知った。あらかじめ僕ら(つまりマネージメントが見栄を張って)用意させていたのは最新ハイテク機材だ。(略)フィード・バック音を響かせ、鎮座するフェンダー・デュアル・ショウマンのアンプ。だが、肝心の扱い方を誰も知らなかったんだ」

(略)

[ジャーナリストの搭乗機は遅延トラブル、ようやく離陸すると、最大の空中ドラッグ・パーティー無法状態。到着すると、公演まで1時間もない]

オートバイの護衛警官に先導された22台のリムジンは、猛スピードで街を飛ばした

(略)

17時間の悪夢の末、ヘロヘロになってたどり着いた(略)ジャーナリストが座席に着くと同時に、ブリンズリー・シュウォーツがステージに歩み出た。

(略)

[チャーリー・ジレット談]

「残念ながら、ブリンズリー・シュウォーツのライヴにはまるで良いところはなかった。宣伝に見合う演奏だったなら、すべてのことは素晴らしくもバカげたスタントだと思えただろうけど、ギグ自体がっかりだったんだ」

(略)

まばらな拍手に送られたブリンズリー・シュウォーツがステージを降りるのを見届けたイギリスからの派遣団の大半は、これで義務は果たしたとばかりに会場を出ると、夜のニューヨークへと消えていった。会場内では、先ほどまでの前座バンドの弱々しい演奏の余韻がヴァン・モリソンと、ツアーで鍛え抜かれたバンドのプロ魂によって、一瞬にしてかき消されていた。

 「ヴァン・モリソンは圧巻だった」とニックは言う。「ちょうど『ムーンダンス』が出たばかりで、レコーディングのバンドを率いてた。あんなすごいライヴを観たのは初めてだったよ。(略)

そして自分たちがどれほど大きな間違いを犯してしまったのかって、どんどん怖くなってきてしまったんだ」

(略)

 ロンドンに帰る機内は、行きとはうって変わって白けた空気だった。ブリンズリーのメンバーは肩身の狭い思いでメディアの人間の間に座らせられた。

(略)

[帰国後]

印刷機のカタカタと回る音とともに、近代エンタテイメント史上最も"大ゴケした"プロモーション作戦の一部始終が語られることになる。

(略)

帰国1週間後、僕らはウォーダー・ストリートに集まり、ドキュメンタリー映画のラッシュを観た。その頃にはNMEやメロディ・メイカーのライヴ評が出ていて、どれもが僕らの無能なアホっぷりを書きたてていた。多感で世間知らずな若造の心を砕くには十分だった。試写室に入って行くと、みんなが振り返ってこちらを見るんだ(略)さらに悪いことに、フライトアテンダントにちょっかい出してる身内のボンヤリした映像ばかりが編集されてる。いい物笑いの種だったよ。

(略)

皮肉だったのは、メディアの鼻つまみ者になったおかげで、ブリンズリー・シュウォーツはショウビズ的慣習に一切背を向け、音楽だけに没頭出来るようになった

次回に続く。