〈現実〉とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

〈現実〉とは何か (筑摩選書)

 

「場」とは何か

 [「二重スリットの実験」で説明]

 写真の乾板を用意し、そのまえに光を遮る衝立を置く。ただし、その衝立には二本の細いスリットを開けておくとしよう。そこに弱い光を当ててみる。すると乾板は、ポツポツとまばらに、そして点状に感光していく。ところがこれを繰り返していくと、初めまったく無秩序にみえていた感光点の分布は、しだいにはっきりとした縞模様として立ち現われてくる。

 古典的な光の理論によるなら、光は波なので、全体にうっすらと縞状に感光しそうなものである。しかし、そうはならず、ポツポツとまばらに感光する。どこに感光するかは、予測がつかない。にもかかわらず、それを蓄積していくと、全体のパターンとしては縞模様が現われてくる。これが「光は粒子であり波動である」と一般に言われる所以である。

(略)

「光はまず粒子としてあって、その粒子一つ一つの着弾点は予測がつかないが、それを積み重ねていくと、統計的に言えば波動のパターンが現われる」(略)

多くの物理学者も、さしあたり「そう言っても問題はない」と思っている。ところが、「粒子である」ということを、あまりにも額面通りに受け止めてしまうと、困惑するような事態が至るところで起こるのである。

(略)

[スリットの一方を塞ぐと]縞模様は現われず、スリットに近いところは密度が高く、遠くなるにしたがってまばらになっていくような単純な感光のパターンが現われてくる。

 これはとても不思議なことである。

(略)

もし光が粒子であるとすれば、一つの粒子は、一方のスリットを通るはずであり、他方のスリットがふさがれているかいないかは、関係がないはずである。

(略)

ということは、ここまでの推論のどこかがおかしいということである。

(略)

あたかも光の粒が、発射されるときにすでに、一方のスリットがふさがれているか否かをあらかじめ知っているかのようなのである。

(略)

そこで浮かび上がってくるのが、「場」の概念である。

(略)

つまり「粒子」はもはや額面通りに「粒子」として受け取ることはできず、「場」の方から捉えなおされねばならないのである(この場合の「場」は「量子場」と呼ばれる)。要するに、もはや主人公は粒子ではなく、主役の座は「場」の方に移ってくる。

(略)

「場」というのはそもそも何なのだろうか?

「動いているとは」とはどういうことか 

日常では、見ている人に対して、何かの空間的な位置が変化していくことを言うだろう。この点を極端に言うなら、つねに止まっているのは自分の視点で、それに対して世界の一切の風景は動いてゆく、とも考えられる。

(略)

「動いている」ということの基本は、「私にとって動いている」ということである。もちろんその「私」は、絶対的に固定しうるものではなく、「それぞれの、そのつどの私」にならざるをえない。それゆえ、いいかえるなら、「動いている」ということは、「誰かにとって動いている」ということである。ここで先ほどの荷電粒子と磁場の話に戻ろう。

(略)

荷電粒子に対して動いている人にとっては磁場があり、止まっている人にとっては磁場がないということを、いかなる事実も否定することなしに、矛盾なく理解するためには、特権的な観測者を想定するのではなく、「どの観測者から見るか」という点を含めた変換の理論が必要になる。それがすなわち相対性理論なのである。

(略)

要するに、「いつでも誰にとっても、つまりどのような観測者にとっても同じようにある」というあり方が、「物」についての素朴な見方であるのに対して、「場」(いまの場合は電磁場)において問題になっているのは、「誰がどのようにそれを見るかによって変わってくる」ようなあり方である。そのような見方の転換が、相対性理論において行われているのである。

(略)

「観測者から独立である」という恒常性から、「観測者をも考慮に入れた変換規則の恒常性」の方に、力点が移っている。まさにこれが相対性理論の核心の一つである。

 ここから逆に、「観測者から独立である」とされる「物」のあり方は、それほど自明なのか、とあらためて問うことができる。

 答えは「活動」として与えられる

[コラム]

 本節で述べたことは、物理学者の実感にも沿うものである。ある高名な物理学者は、講義の中で「場とは何か」を説明しようとして言葉に詰まり、しばらく沈黙した後、「場ですね」と言うよりほかなかった、というエピソードがある。実際に、「場とは何か」という問いに対する答えは、定義としてではなく、「活動」として与えられる。

(略)

しかし、だからといって「場についてあれこれ思案しても仕方がない」というきわめて一般的な傾向を正当化するものではない。まさにこういう点に関する無反省が、一方では経験とか測定可能性ということを軽視する傾向(「理論の内部で辻褄が合えばよい」という傾向――多くの場合それさえも保証されているとは言いがたいのだが――)を物理学の内部にもたらしており、また他方では「物理的現実」の学であるはずの物理学を単なる計算手段としてのみ位置づける傾向(「実験データと計算結果が合えばよい」という傾向)を招来している。理論的な整合性や、実験と計算の符合が重要でないというわけではもちろんないが、それらがそもそも意味をもつのはなぜか、という問いを消去することはできない。それなしには、物理学そのものが意味を失ってしまうからである。

粒子の実体論

 一方には粒子概念を実体として保持したいという人々がおり、彼らにとっては量子論というのはある種の神秘であって、その神秘を説明するために、ある種神話的なものを導入してみたり、人間の意識の役割を過剰に称揚してみたりといった傾向が厳然としてある。

 たとえば、二重スリットの実験で言えば、光の粒はずっと光の粒なのだが、「それにもかかわらず」、「両方のスリットを同時に通過する」のであり、この粒子は、人間が関わるまでは、「不思議な重ね合わせ」という仕方で、ずっとどこにでも遍在しているのだが、人間が測定することによって、突如として「重ね合わせ」が消えて一点に収縮すると説明される。この「不思議なもの」は何なのか、と問うならば、このような説明を採る人々は、「とても理解しにくいかもしれないが、でも粒子なのだ」というのではないか。その他の実験においても、「粒子が一つ一つ飛んでいく」という描像を前提しなければ、そもそも理解できないような仕方で、実験自体の説明がなされている。「どういう実験なのか」を理解するために、もうすでに、ある種実体化された粒子の表象を前提ないし共有することを強いられるのである。

 だが、実際は、そういう実体化された粒子の描像では理解できない出来事についての実験なのだから、結果が「パラドクシカル」に見えるのは当然である。前提されている現実の描像自体を問題として吟味せずに、あたかも自然自体がパラドクシカルであるかのように述べ立てるのは、自然そのものをいたずらに神秘化することにほかならない。それでも、量子力学の数学的理論によって実験結果と計算が合うというこの一点を根提として、その「神秘」が「科学的に証明された」と称しているのである。「自然の神秘」を称揚するのも、直観不可能な「数学的証明」を賛美することも、理解の努力を途中で止めてしまうという点では、同じ傾向を示している。

場の実体論

 他方には、こういった傾向全体に嫌気がさして、「こうした考え方が出てくるのは、要するに粒子を実体と考えているからであって、本当の実体は場なのだ」と考える人たちも少なくない。(略)

実際、場の理論の立場に立てば、先ほどの二重スリットの実験で「両方のスリットを同時に通過する」と言われていたことにしても、水の波(水面の振動)が局在しているわけではないということ以上の直観が必要になるわけではない。水の波は複雑な障害を全体として乗り越えるだろう。同様に光が場として捉えうるということ自体は、まったく自明とは言えないが、もしそう考えてよいなら、「両方のスリットを同時に通過する」と言われていたことは、決して不自然なことではない。

 このように、粒子の立場に立つと「神秘的」に見えることが、場の立場からは合理的な自然のあり方として理解できるようになる。しかも、現代の場の理論は、一見すると、形式的には大変綺麗に整っているように見え、そこには先ほど述べたような神秘めかした解釈など少しも必要ないかのようにも見える。

(略)

 さらにもっと明らかで根本的な問題は、場の立場に立つにしても、粒子的な現象(たとえば二重スリットの感光)が点状であるという事実、しかも、点のでき方が決定論的ではないという事実を説明できなければならないということである。そこでは通常ボルンの確率解釈を通じて、場の理論と粒子的な現象(感光)の確率分布との対応をつける。ボルンの確率解釈とは何かというと、場の強度と粒子の発見確率との間に相関関係があるということである。

 さて、そうすると、確率「解釈」という言葉からもわかるとおり、まさにここには解釈があるのであって、先ほど思われたほど場の一元論の立場に立つことによって、すべての問題が解決するわけではないことが見えてくる。「粒子」などといったものにかかずらう必要なく、「場という実体だけを相手にしていればよい」ということには必ずしもならないのである。

(略)

こういうと、「それは観測という(人間が関わる)特殊な出来事に関する場の振舞いの問題であって、〈なまの現実〉とでも言うべきものは、それとは関係がない」と言う人もいるかもしれない。実際、理論家のなかにはそう言って済ませてしまう人さえもいる。たとえば、自然は場の理論の言葉で語っているのに、人間にはそれが理解できないため、確率というようなものを導入して、人間が理解できるように現実を一つの射影の形に落とし込んで理解しているにすぎないというのである。つまり、この考えの背後には、「人間が現実を確率的に理解するということは、まさに人間が引き起こしていることなのであって、自然はそれには無関心である。自然自体は賽を振らず、偶然性を含まない」という考えが潜んでいる。ではその「偶然性を含まない現実」についてどうやって知るのか?やはり具体的な現象に関する実験を通して知るほかない。それら一切の現象ならびに「あまりに人間的な」実験を超えた「現実」を想定するなら、それはある種の不可知論ないし「神話」にコミットしていることになるだろう。

(略)

 粒子の実体論も、場の実体論も、つきつめれば、現にある現象そのもの(略)から遊離した、不自然な考え方に陥る。これに対して、より自然な仕方で、現象に即した考え方はないのだろうか。

「現われているけれども、つかめないことがある」

「場」の概念の考察を通じてわれわれが導かれたのは、「現われているけれども、つかめないことがある」という洞察である。しかも、「本来はできるが、たまたま事実的な制約によってできない」というのではなく(略)

自然そのものの核心的な何か、さらにいえば、「現実」一般の核心的なあり方に関わっていると考えられるのである。

 このような考え方の転換を明確に理解するためには、代数学における「文字」の概念の発展を振り返ることが有益である。代数学における文字は、周知のとおり未知数として登場した。たとえば、未知な一片の長さであるとか、未知なものの重さであるとか、である。それは本当は決まっている。だがわれわれは知らない。そこでこれを仮に「x」といった文字で表し、式変形を通じて、その正体を明らかにしようとする。これが未知数としての文字の役割であった。

 ところが、この式変形において、「その正体が何か」を抜きにして操作できるということから、むしろ「その正体が何でもよいもの」=「変数」としての文字概念へと導かれる。これが「関数」という概念を考える基礎となり、近代の科学の基盤となった。しかしここでも、「値」というものは、不可欠のものと考えられていた。すなわち、文字はいろいろな値を取りうるものとして考えられるのである。しかし、これはさらに、そもそも値というものがあらかじめ定まっていないようなあり方を扱う可能性を開いた。これが現代の代数学でいう「不定元」としての文字概念にほかならない。それ自体はそもそも値というものをあらかじめもっていない。ある状況が設定されたとき、場合に応じて「値を取りうる」のである。これはまさに、場が「粒子になる」というあり方(あるいはむしろ「なり方」)と類比的である。

 いや、むしろ「類比的である」というのでは足りないかもしれない。まず歴史的にいえば、現代の代数学(そこでは不定元の概念が当然のように現われる)によってはじめて量子論の数学的な基礎づけがなされたのであり、不定元という考え抜きに量子場を考えることはそもそも不可能である。(略)さらにいえば、「場」とは、自然の認識における不定元であるのではないか。それこそが「場とは何か」というわれわれの問いに対する一つの答え方ではないのか。

(略)

 現実の世界では決まっているものを、数学の世界では「仮に」「不定」と見なして、思考のなかで様々なヴァリエーションを考慮に入れ、それらの一般構造を考える、というのではない。むしろ、自然そのものが、根本的に「決まっていない」もの、「不定元」的なものとして姿を現わしてきている。量子論は、このような考え方の転換をわれわれに促している。ここでは、「数学の世界は〈仮想〉〈仮定〉の世界であり、それとは別に〈現実〉の世界がある」という考えが、もはや維持しえない。むしろ、「現実」というものが一つの「形をとる」ということ、つまり究極的にいえば「現われる」ということが、不定元を用いる数字によってまさしく表現されている。

 ここで「数学」という言葉を完成された体系という狭い意味で理解するなら、この言い方はおかしな言い方に見えるかもしれない。しかし、われわれが主張したいのは、「数学」とは本来このようなものなのだ、ということでもある。つまり、「数学」というものの核心には、どこまでも「不定」なものがあり、眼を逸らすことなく、それをどこまでも「不定なもの」として持ちこたえ続けることが、まさしく数学を数学たらしめているとわれわれは考えるのである。そしてそれが、ほかならぬ「現実」そのものの本質的な現われ方でもある、ということを主張したいのである。

 現代物理学が迫る思考上の革命

二重スリットの実験から出発して、「現実」が単なる粒子としての実体でもないし、場としての実体でもないということを示した。それでは「現実」とはいったい何なのか、という問いに対して、「現実」を「不定元」として考えるという見方が示された。現実を不定元と見なすと単に「便利」であるというのではない。単に方法上の操作であるというわけではなく、現実がまさに不定元として現われていると言った方がよい。「不定元」という考え方は、歴史的には数学のなかで現われてきたものであるが、それはそもそも現実そのもののあり方を形として表現するものだったのである。

 われわれがここまで議論してきたような、現代物理学が迫る思考上の革命は、われわれの現実観を大きく転換させるものであったが、その転換の姿が、「不定元」を核心とする数学の姿とそのまま重なるということは、われわれの数学観もまた、大きな転換を迫られているということである。

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