中平卓馬論 江澤健一郎


中平卓馬論

中平卓馬論

 

美学的写真vs匿名的記録写真

近代日本では、西洋芸術(たとえばシュルレアリスム)を技術的に模倣することによって、内実なき表現模倣を行ってきた。このような系譜にある表現写真は、写真作品を媒介として、既存の観念と価値観を表現しようとするあまり、写真の根源的機能、つまり「物の記録」という機能を軽視してしまう。その最悪の例が、この展覧会では大きく取り上げられなかった戦争期の表現写真である。プロパガンダ写真からアマチュア写真にいたるまで、それらは大部分が美しき表現写真であり、つまり戦争美学、聖戦遂行というスローガンの表現に堕していた。そしてその麗しき表現世界においては、戦場の悲惨さ、苦しい銃後の生活は記録されず、忘却されていく。むしろこのような美学的写真は、その忘却のために存在していたとも言えるだろう。中平は、そのような表現写真の系譜に対して、まず歴史の匿名的な記録として、たとえば田本研造撮影と推定されていた北海道開拓写真を挙げる。

 田本は、開拓の進行によって変貌していく北海道の光景を、開拓使の依頼で職人的に記録していた。彼の写真には、新しく切り開かれた「日本の」北海道が記録されると同時に、必然的に失われゆく北海道が記録されている。中平は、そこに表現性や作家性を排した記録写真の原型を見いだしたのだろう。しかし、このように田本の写真を純粋記録写真とみなす観点は、現在では素朴すぎるとも言える。たとえば、田本のプリントを収めた台紙には、ときには「田本研造製」あるいは「K.TAMOTO」という署名が記されていて、この写真家が、けっして匿名性の写真家ではなく、作家性を意識した人物であることがうかがわれる。

記録論

40ページ

『デザイン』(一九六九年一月号)に掲載した「リアリティ復権」において、彼は短いながらも記録論を提示していた。

 そこで中平は、写真は記録に徹すべきであり、撮影主体にとって内面的なものの表白(表現)であってはならない、と説く。そして写真は、既存の言葉、世界の既成の意味を図解するのではなく、命名を拒否するなにものか、真の現実を捉えるべきであると説く。それらの写真は現実の断片にすぎず、それが提示するのは「特殊な」「限定づきの」現実にほかならないが、写真家はそれを積み上げ、構成することによって世界を再構成しようと試みる。そうして一枚一枚の写真は、「一つの疑問形の現実」として露わになるのだ。こうして中平は、「現実を記録する写真」という命題を前景化しながら、同時にその反作用として「写真家の消滅」、写真の無名性を要請する。

(略)

 だが、先ほど論じたように、当時の中平の写真は、撮影者の行為性を「アレ・ブレ・ボケ」として刻印した写真であり、そのような実践は、ここで彼が要請した「写真家の消滅」という命題と論理的に矛盾せざるをえない。しかし、中平にとって、この二つの要素は両立不可能ではなく、彼はそれらを連動した問題として理論的に考察していく。 

記憶喪失の男が写真を選別する 

中平は、それをこう語る。

 

たしかに膨大にひろがる世界の中で、写真家は眼前に生起する多くのものを"なぜだかわからないいろいろな理由から"、選択し、選別しそれを自らと他者に向かって提出してゆく。乞食同然の記憶喪失の男がていねいに一枚の写真を選別してゆくように写真家もまたある一瞬をまたある事物のある側面を他から切り離して切り取ってゆく。それもまさしくなぜだかわからないいろいろな理由からなのだ。(略)

この時〈記録〉はまず第一に自らが生きていることの間接証拠となり(なぜ間接かと言えば、それは自分にも何故だかわからないからだ)、同時に記録が必ず何かについての記録であるとすればそれはその対応において必然的に世界の〈記録〉となってゆかなければならないだろう。

自己批判、風景から物質へ

自分の撮影行為によって風景を生成変化へと導き、写真化する。そして同時に、写真を自己の生の間接記録とすることによって、自分自身が記録写真に生成変化していく。そこに現れるのは、そのような二重の生成変化である。

 しかし中平は、だんだんと自己の撮影スタイルに疑念を抱くようになり、苛烈な自己批判を行うようになった。そうして彼は、風景から物質へと向かう。

(略)

中平は、『プロヴォーク』が戦略的に採用したアレ・ブレ・ボケという方法が、瞬く間に公認の写真ボキャブラリーと化して、内実を欠いた装飾となる危険を感じていた。

(略)

[大量に流通する広告写真]に現れる手ブレは、自分たちの方法がもはや形骸化している証左であった。

バルト、コノテーション、トラウマ的写真

コノテーションとは、シニフィアンシニフィエによって形成される記号(記録写真)がシニフィアンとなり、別のシニフィ工を意味する事態を指す。たとえば、四月に生えるタケノコの写真と小学校入学式の写真が併置されるか、タケノコの写真に「すくすく育つ子供たち」というキャプションが付けば、その写真は育ちゆく人間の子供の比喩となり、それを同時に共示するだろう。この時期、バルトの写真論の主眼は、デノテーションではなくむしろコノテーションの分析にあった。たとえば彼は、「写真のメッセージ」においてさまざまなコノテーションの方式を分類していて、松永事件の新聞写真のような、複数の写真がシークエンス化されてコノテーション化されるケースも分析している。

 それでは、純粋なデノテーションとしての写真はありえないのか。バルトはその可能性をひとつだけ指摘していた。それは、「トラウマ的写真」、あるいは「ショック写真」である。つまり、その写真を知覚した瞬間に、知覚者が茫然自失して、言語の手前、言葉を失う状態になる写真である。

(略)

文字通りにトラウマ的な写真は稀である。なぜなら、写真においてトラウマは、その光景が現実に生じた、という確信に完全に従属しているからである。つまり、写真家がそこにいたはずだ(これがデノテーションの神話的な定義である)。そのように仮定するなら(実をいえば、これはすでにコノテーションになるのだが)、トラウマ的写真(「現場で」捉えた火災、難破、大惨事、暴力的な死)は、それについてはなにも語ることがない写真である。ショック写真は、構造的に無意味である。

(略)

この定義は、かつて中平が山端庸介の記録写真、原爆投下直後の長崎を撮影した写真に見いだした性質と重なる。

「記録という幻影」

中平は、記録写真がコノテーション化されて、逆に現実を覆い隠す幻影になる危険性を批判していた。

(略)

中平の方法であったアレ・ブレ・ボケもまた、対象世界の輪郭を溶解させて、さらにはその世界と対峙する者(撮影者や鑑賞者)が世界と結ぶ関係も溶解させて、不鮮明に曖昧化する危険性がある。それは、現実を見つめないための手立てとなるのだ。そうしてアレ・ブレ・ボケ写真もまた、記録から幻影になし崩し的に零落して、異質性や他性を覆い隠す「イメージ」、スクリーンと化す危険に陥っていた。国鉄の「ディスカバー・ジャパン」の広告は、中平にとってまさにその最たる例であった。そこでブレて曖昧になった美しき田畑のイメージは、悪臭がする肥だめの存在、農村の過疎化、貧困といった問題を覆い隠す遮蔽膜になるのだ。

 こうして問われているのは、単なるコノテーションの問題だけではない。意識産業の営為を批判する中平が問いに付すのは、われわれを取り巻くイメージ環境の権力構造であり、彼が要請するのは、その風景を引き裂くことである。われわれに見えるもの、われわれが意識産業によって見せられているものは、あらかじめフレーミングされ、選択されている。われわれはその可視性の限界内で与えられた映像を現実として受容して、それを現実として信じているが、しかしフレーム外に除去された現実は見えなくなり、そもそもなかったことにされ、忘却されていく。松永事件の捏造に貢献した『読売新聞』の二枚の写真、そのあいだの繋辞を消し去れば、そこに現れるのはフレーム外であり、そこに松永氏の無実が存在しているが、意識産業はそれをなきものにしようとするのだ。

 事物の視線

中平は「事物の視線」を論じる。

 

私にとってもはや〈イメージ〉は乗り越えられるべき対象である。私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染めあげるこのイメージは、いま、私の中で否定される。世界と私は、一方的な私の視線によって繋がっているのではない。事物、物の視線によって私もまた存在しているのだ。

 

 「私」と世界の関係は、「私」が世界を捕獲する眼差しだけによって、一方的に成立しているのではない。「私」は同時に世界によって、他者によって、事物、物質によって見つめられているのであり、われわれはそのような視線の交差配列のなかで存在しているのだ。だがわれわれは、自らの能動的な主体性を過信して、自分から見ていると思い込むことによって、見つめられていることを忘却する。しかし、中平がかまえるカメラのレンズは、私的な眼差しではなく、それとは偏差をはらむ目ならざるものであり、機械の目、中性的な目を世界へ向かって開いている。それゆえにカメラは、世界を私物化することなく受け取ることができるのだ。

(略)

 中平は、『なぜ、植物図鑑か』を刊行した年に、ウジューヌ・アジェ論を『アサヒカメラ』に寄稿しているが、その題名は「ユジェーヌ・アッジェ――都市への視線あるいは都市からの視線」であった。(略)

中平は、都市に視線を向けるアジェの写真に、逆に「都市からの視線」を見いだしていた。そして彼は、それと関連して自分自身の病的体験を告白している。彼は当時、睡眠薬を常用していたが、その副作用で恒常的な知覚異常を患い、入院することになった。その症状は、距離感を喪失した幻覚として現れる。幻覚といっても、非現実的な幻影を幻視するのではなく、日常的な事物のイメージが、自己と対象を隔てる距離を喪失した姿で現れるのである。そのため、能動的に事物を見る行為が、その事物が眼球に直接突き刺さってくる受動的な視覚体験、幻覚と等しくなってしまった。これは極端な病的症例であるが、しかし中平は、そもそも「見る」ということは、事物が自分に突き刺さってくる出来事、つまり見られる出来事を反転した言い回しではないか、と自問している。

 そうして中平は、自分自身の視覚体験から出発しながら、アジェの写真を分析する。アジェは、一見なんの変哲もないパリの光景を撮影したが、(略)

それは、「私」による情緒化、人間化、「意味化」が欠落したイメージとして、異化されたイメージとして現れる。アジェは、長めの露光時間が必要な旧式カメラを用いていたため、多くの場合、彼の写真には街路で動く人々の姿が写っていない、それらの写真は夢で見るような無人の街、犯人が立ち去った「犯行現場」(ベンヤミン)のようなイメージとなっている

決闘写真論

映像論集『なぜ、植物図鑑か』を刊行後、同じ年に、それまでの写真と決別するためだろうか、彼は逗子海岸で多くの自作ネガとプリントを焼却してしまった。この衝撃的な出来事は、後にあるエッセイで回想されている。

(略)

「白黒のプリントの束にも火がつき、一枚一枚大きく反りかえり、またたくまに燃え上がっていった。そのたびごとに記憶が喚びさまされた。生々しかった。いつ、どこで、どのようにして撮った写真なのか、燃え上がる一瞬にすべてが細かすぎるほど鮮明に思い出された。(略)そのひとつひとつ、それにまつわる人間関係がいま目の前で燃えてゆく。灰になってゆく。関係がひずみ、反りかえり、パッと燃え上がり、消えてゆく。何のためにノートを焼き、あれこれ書きちらした文字を焼き、写真を焼いているのか、いまになってようやくわかったような気がした。これから先、何をやってゆくのか、まったくわからなかった。ただもう二度と写真を撮ることはあるまいと思った。記憶の収集家にはなるまいと思った」。こうして語り手は、写真を焼き尽くし、「記憶」を消尽しようとする。

 そうしてネガとプリントを焼却した中平は、植物図鑑という概念から出発して、写真家として試行錯誤を実践した。だが、その新たなる撮影行為の試みは困難をはらみ、彼は写真を撮れないスランプにも陥ったとされる。

(略)

 そうしたなかで中平は、撮影者としてではなく、写真批評家として大きな仕事を成し遂げる。彼は、篠山紀信の求めに応じて、『アサヒカメラ』で一九七六年一月号から連載を担当した。篠山は、中平が書いたウジェーヌ・アジェ論とウォーカー・エヴァンズ論を読んで感銘を受け、自分のことを書いて欲しいと希望していた。その連載は、「決闘写真論」と題され、毎月掲載される篠山紀信の写真に対して、批評家中平卓馬が文章で決闘をするという形で発表された。

(略)

 当時の中平にとって、アジェとエヴァンズは、「事物の視線」を捉え、「あるがままの事物」を撮影した特権的な写真家であった。そして、意外なことに中平は、篠山紀信に図鑑的な写真の実現者を見いだす。彼は、篠山の写真を初めて見た頃は、自分とは対極的なその技巧性に興味を抱けなかったという。しかし、『オレレ・オララ』を見た瞬間、彼の篠山観は一変した。リオのカーニバルを撮影したそれらの写真には、貧しき人々を貧しき人々として表象するような観念の図式、思考の図式、文化の遠近法が欠落していた。それらの写真は、富める者も貧しき者も、誰もが法外極まる生に身を委ねて生きている姿を記録していた。中平にとって、それを撮影した篠山は私的な「表現者」ではなく、現実をあるがままに受容し、自分は語らずに現実に語らせる「工作者(オルガナイザー)」として現れたのである。

図鑑的写真

 図鑑的写真は明瞭であり、事物の微細な細部を克明に記録して提示する。中平は、アレ・ブレ・ボケ写真とは対極的な性質、アジェや篠山が撮る写真の明瞭さを強調していた。

(略)

無数の剥製、天使像、人形の首、植木鉢……。それらは、まるで夢で見るように明瞭であるが、同時に脈絡がなく、謎である。だからこそ、不安を抱かせる。それらの事物は、意味作用の網の目から抽出され、断片化され、事物そのものとなり、それぞれが図鑑の図版のように同一空間に併置されている。そして、篠山紀信の写真もまた、同様の図鑑的性質を示していた。とりわけ中平は、篠山のパンフォーカスに注目している。

(略)

中平は、篠山が住居を撮った「家」の一枚、蔵を住居にしたと思しき家の写真を分析する。画面手前では、蔵の扉が開け放たれていて、その入り口から畳敷の居間が見える。そこにはコタツがあって、一人の男性が座っている。その奥には開いた襖があり、収納型の階段、その奥に開いた障子、衝立、再び障子、というように奥行きが広がっている。一見、コタツにいる男性が写真の中心かと思われるが、画面全体にピントが合っているため、すべてが等価になり、この写真を見つめる視線は、焦点を定めることができずにさまよい続けるほかない。さらに、この写真には複数のフレームが共存している。入り口、襖、障子……。まるで一枚の写真のなかに複数の写真が共存しているかのようだ。さらに、その篠山の写真は、他の写真と並置されて、よりいっそう図鑑的に複数化していく。

「ブレボケ」写真の作成法

第1章 註10

[中平は]「ブレボケ」写真の作成法について以下のように説明している。(略)

比較的遅いシャッター・スピードでも、強引に、あるいは気軽にシャッターを押す。像は「ブレ」る。暗室作業も簡単である。高温のフィルム現像液での長時間現像、のりにのったネガをさらに四号ぐらいの硬調の印画紙に焼き付ける。むろん焼き付けの露光時間は、普通考えられるようなものではない。三十分から、ときには一時間もの露光。でき上がった写真の粒子は荒れ、像は当然〈ボケ〉てくる。まあこんな具合である。それさえわかれば、だれでも〈ブレボケ〉派だ」(中平卓馬「身振りとしての映像――ブレボケは様式ではなかった」『アサヒカメラ』一九七六年三月号

(略)

だからといって、中平がこれをそのまま実践していたとは限らないだろう。柳本尚規は、自分が立ち会った中平の現像作業を回想しながら、高温現像液の使用を否定している。「たしかに当時の中平さんの写真の美しさの源はその粒子のきちんとした並びにあった。だからこそ粒子が不揃いにならないよう、フィルム現像にはひときわ気を使った。高温の現像液を使うことなどは論外」(柳本尚規「中平卓馬をめぐる30年目の日記」

(略)

高梨豊は、それとは異なる証言をしている。「『プロヴォーク』の時に一緒だった中平卓馬森山大道はフィルムを煮たりしていましたね(笑)。現像液の温度を上げて増感現像していたんですよ」(高梨豊『ライカな眼』