近代政治思想の基礎 ルネッサンス、宗教改革の時代

序文

(略)この物語を13世紀で始め16世紀まで進めるのは、近代的国家概念の主要素が見分けのつくほどまで徐々に獲得されていったのがこの時期だからであり、私はそのことを明らかにしたい。決定的なのは、支配者が「自分の国を維持する」――この場合は単に彼自身の地位を守ることを意味した――という観念から、自立した法的立憲的な秩序すなわち国家秩序があり、支配者にはそれを維持する義務があるという観念への変化であった。この転換の結果、支配者の権力ではなく、国家の権力が統治の土台として考えられるようになった。こうして今度は国家が近代特有の言い方で――それ自身の領土内の唯一の法源および合理的な強制力として、またその市民の唯一の正当な忠誠対象として――概念化されえたのである。

共和政自治

 12世紀の終わり頃には、この種の共和政自治は北部イタリアの主要都市のほとんどいたるところで採用されるようになっていた。これがそれらの都市に多少の実質的な独立をもたらしたのであるが、しかしながら、それらは法律上は神聖ローマ帝国の属国とみなされ続けた。
(略)
1312年末にはフィレンツェ自体から皇帝軍を撃退することにも成功した。(略)
 この長い戦いでロンバルディアトスカーナの諸都市は戦場で皇帝を撃退することに成功したばかりでなく、彼らの名ばかりの大君主に対するこの絶えざる抵抗を正当化するイデオロギーの武器庫を見事作り上げたのである。皇帝の諸要求に対する彼らの応答の本質をなすものは、自分たちにはいかなる外部の干渉に対しても「自由」を守る権利がある、という主張であった。
(略)
 しかるに、帝国に対するこれらの自由の主張には疑いもなく一つの弱点があった。すなわち、諸都市はこの主張に対して何らの法的な強制力を付与する手だてもなかったのである。この困難な問題の根源は、11世紀末にラヴェンナとボローニアの大学でローマ法研究が復活して以来ずっとローマ民法典が神聖ローマ帝国全体の法の理論と実際の基本的枠組みとして使用されるようになっていた事実にあった。
(略)
法学者たちが一致して神聖ローマ皇帝と同等視する皇帝はこの世の唯一の支配者としてみなされなければならないことに疑問の余地はあり得なかった。このことは、注釈学派の直解主義的方法がローマ法の解釈において使用され続ける限り、諸都市には帝国からの法律上の独立の可能性がまったくないことを意味し、他方皇帝は諸都市を支配する軍事行動において最強の法的支えを保証されたのである。
(略)
[この流れを大きく変えたのは]
中世で最も独創的な法学者サクソフェッラトのバルトルスであった。(略)
彼はローマ民法典を再解釈し(略)帝国に対抗する自由擁護論を提供しようとした。
(略)
バルトルスは法律上皇帝がこの世の唯一の支配者であると認めることからローマ法典注釈を始めている。(略)
にもかかわらず、その後で彼は、たとえ皇帝が法律上はこの世の唯一の支配者であると主張できたとしても、「実際は彼に従わない人たちがたくさんいる」のだ、と述べている。
(略)
「たとえ彼らが皇帝からの特許であることを証明できないとしても、彼らが現に最高権力を行使してきていることを証明できるならば、その場合にはそれを行使する彼らの権利主張は有効だと私は言う」と結論づけるのである。
 このイタリア諸都市とその最高権力の擁護論には明らかに革命的な政治主張が内包されている。すなわち、それらは完全に独立した主権的な団体として認められるべきだという主張である。
(略)
このあと、この理論をイタリアの諸都市から北方ヨーロッパの諸王国へと一般化し、こうしてすべての王は自国内では権威が皇帝と同等であるという見解に到達するまでは、ほんの一歩であった。

都市共和国と教皇庁

帝国との闘いの間じゅう、イタリア諸都市の主たる同盟者は教皇庁であった。この同盟が最初に作られたのは教皇アレクサンデル三世によってであり
(略)
インノケンティウス四世はフレデリック二世を破門し、公会議を召集して彼の廃位を宣告し、同時にロンバルディア諸都市をたて続けに軍事的勝利に導き、1250年には帝国の干渉を終息させた。
 しかしながら、諸都市が間もなく損害を被って悟ったように、この同盟にはある危険がひそんでいた。危険とは教皇たちがイタリア王国そのものを支配したいと熱望し始めたことであった。
(略)
フレデリックの最後に生き残った息子コンラートが1267年にドイツからイタリアに侵入して反撃しようとしたとき、シャルルはタッリャコッツォで運を味方にして皇帝軍に決定的な敗北を与え、その結果、教皇庁はイタリアの中・南部のみならず北部にまで及ぶ広大な範囲を支配する勢力となった。
(略)
既存の領土の北部前線を防護するためにフィレンツェに対する支配権を手に入れようともくろんだボニファティウス八世は(略)[フィレンツェ政庁全体の破門をもって]1301年敵対する「白派」政府を転覆するクーデターを促した。ついに教皇たちはこの時期、伝統的に皇帝びいきの主要拠点であったロマーニア地方にまんまと自らの権威を押しつけた。
(略)
13世紀の終わりまでには教皇庁は、中部イタリアの広大な地域に対して直接的な世俗支配権のみならず、イタリア王国の主要都市のほとんどに対してもかなりの影響力を得ることに成功したのである。
 これらの政策と合致したのが、きわめて攻撃的な教皇庁による世俗支配権の主張を正当化しようとするイデオロギーの形成であった。この展開の知的枠組みを最初に提供したのは1140年代のグラティアヌスであり、当時彼は徐々に蓄積されていた教皇教書を一つの体系にまとめ、結果的に教会法典を基礎づけることとなった。以後、法律家教皇が次々に登場し、その霊的な権力のみならずいわゆる大権の行使を要求する教皇庁の権利主張の法的土台を整え、拡大した。その第一は、ボローニアでグラティアヌスの教え子であったアレクサンデル三世であり、彼は教会を帝国の単なる大司教区に変えようというバルバロッサの試みを事実上挫いた。そのつぎは、教会法学者フグッチオの教え子インノケンティウス三世で、彼は世俗問題における教皇主権の教会法理論についての最も重要な解説者とみなされるようになっている。その教理は13世紀の半ばにインノケンティウス四世により、とくに彼の教書『ローマ教皇座について』でさらに拡大されたが、この教書はキリスト教社会を本質的に教皇をその最高の頭としていただく単一の統一体であるとみなす教会法学者による最初の体系的な説明であった。
(略)
 プロパガンダと政策における教皇庁のこの強引さを増す自己主張に直面して、多くのイタリア諸都市は抵抗を開始した。これが最初に起こったのは、地域共同体の自由を言い出したそもそもの中心地ロンバルディアにおいてであった。パドゥヴァ市は納税拒否をめぐって1266年に地元の諸教会と大論争を開始し、1282年には実質的にパドゥヴァの聖職者の法的保護を剥奪した。同種の不満が間もなくトスカーナと中部イタリアじゅうに広がり始めた。
(略)
 ロンバルディアトスカーナの諸都市は教皇たちに対し次々と抵抗を起こすだけでなく、教会の主張する諸権限や免除諸特権に対する自分たちの攻撃を正当化する政治的イデオロギーも展開し始めた。
(略)
 教会の世俗支配権の主張を攻撃する一つの明白な手だては、皇帝を呼び込んで教皇との均衡を取り戻すことであった。イタリア王国が実際神聖ローマ帝国の一部であるという皇帝の古来の主張を単純に認め

ダンテ

教皇に対する均衡を取る意味で皇帝に全幅の支持を示したこの頃のはるかに重要なフィレンツェ著作家は『君主政』論のダンテであった。(略)
ダンテは、教皇を「真理に逆らう」連中の指導者だとみなしているのであるが、それは教皇庁にはもともと世俗的な権力がないことを受け入れるのを教皇が拒んでいるからであり
(略)
  『神曲』におけるこれらの問題に関するダンテの最終的な考え方は政治の領域をはるかに越え出て、世界を教う唯一の手だてとして宗教的新生の理想、心を変える必要を力説する。
(略)
彼の小冊子『君主政』は、イタリアの諸党派を圧倒し平和をもたらすことのできる唯一の統一する力としての皇帝に全面的な信頼を置くことを求めた。
(略)
[しかしダンテ案は]干渉する教皇の権利を拒絶させてくれるが、一方それを飲んでしまうと自分たちに再び神聖ローマ帝国の家臣という恪印を押すことになってしまうのであった。
(略)
[共和国の自由を教皇から守るための]
 マルシーリオの答えは、教会の支配者たちは概して教会そのものの本質を誤解し、教会がいかなる法的、政治的、その他の「強制的な裁治権」をも行使できる制度だと思い込んできたとする、根本的に単純ではあるが大胆な主張からなっている。
(略)
マルシーリオの力説するところによれば、聖パウロの教義とは、すべての人は「より高い権力に従わ」なければならない、なぜなら、「すべての権力は神によって定められた」からであり、「その権力に逆らう者はだれでも神の掟に逆らう」というものである。この教義の意味は、教会の構成員はおそらく法廷ではいかなる特別扱いの権利も主張できない、なぜなら「人間はすべて等しく、例外なしに」「世俗の裁判官や支配者の強制的な裁きに従うべき」であるから、というものである。
(略)
彼は、それぞれの独立した王国ないし都市共和国における立法者という人物が「いかなる地位をも問わず個々人すべて」に対する完璧な「強制的裁治権」の唯一正当な所有者であることを証明した、と主張する。

専制君主の台頭

13世紀末頃には、大方の都市は、国内の党派抗争でひどく分裂してしまっていたため、もっと大きな市民的平和を達成するという名目のもとに共和主義憲法を捨て、たった一人の強力な専制君主の支配を受け入れ、自由な統治形態から専制的な統治形態へと転換せざるをえなくなった。
 この共和主義的な自由の腐蝕の根本原因は13世紀はじめに生じ始めた階級分裂に求められるにちがいない。商取引の迅速化が新しい階級の人々を傑出させ、彼らは都市とその周辺部で商人としてまたたく間に裕福になった。しかしこれらの市民は、富が増大したにもかかわらず、都市の統治諸会議体において発言権がなく、都市は牢固として古来の有力諸家族の支配下に置かれたままであった。このような分裂が拡大するにつれて、市民の間に暴力が頻発し始め、市民は認知を求めて戦い、一方有力者たちは自分たちの寡頭独裁の特権を維持するために戦った。

人文主義の出現

彼らが筆をとっていたのは都市共和国がシニョーリ(僭主)の急速な進撃とそれに伴う自分たちの統治制度に対する自信喪失に直面しているときであった。政治的伝統全体の消滅の可能性に直面して、彼らは都市共和国特有の政治的価値の最初の全面的擁護を行なって応戦した。我々が見てきた文学とレトリックの背景を描きつつ、彼らは単に共和国の自由という中心的な価値を支持するばかりでなく、その弱さの原因と、その継続を確保しようと試みる最良の方法とを分析することにも向けられるイデオロギーの展開を推し進めたのである。
(略)
 これらすべての著作家たちにとって出発点となるのは自由の理想であり、自由はその伝統的な意味において独立と共和主義的な自治のことだと考えられる。
(略)
[なぜシニョーレにより都市共和国の伝統的な憲法が脅かされたか]本質的な答えは、彼らすべてが同意するように、自由な諸都市は内部の派閥抗争によって危険なまでに弱体化されているということである。ボンヴェシンは「嫉妬による道徳的頽廃」と(略)「市民的一致」もないということを選び出す。
(略)
 これらの著作家たちが述べている市民的自由の喪失の第二の理由は私的な富の増大であり、彼らの何人かはこのことを政治的党派性の根本原因とすらみなしている。私益の追求は公徳にとって有害である
(略)
コムパーニは1290年代のフィレンツェの政治的混乱の原因を、単に「地位をめぐる自尊心や競争」にばかりでなく、「誤まった民衆の心」が「利得のために悪事を行なうほど堕落して」いた事実に見る。ラティーニは同様に「富をむやみに欲しがる人たちが美徳を滅ぼす」を公理として論じ、「富は悪臭を育む」という趣旨でユウェナリウスを引用している。
(略)
[ムサットは]パドゥヴァ没落の起源を、その指導的な市民たちが「高利貸しになり」始め、したがって「神聖な正義が彼らの強欲の増長によって押しのけられる」のを許す瞬間に求める。
(略)
[都市共和国伝統を保持するために]彼らが述べている根本的な答えはきわめて単純である。すなわち、人々は個人的党派的な利害をすべて脇に置き、自分自身の善と都市全体の善とを同等視することを学ばなければならないという。コムパーニは1301年フィレンツェの政府高官の一人に任命された際に行った演説のなかでこの理想を擁護している。彼が同胞市民に主として訴えているのは「互いに親しい兄弟として愛し合い」、「あなた方の都市への愛とその善」を最高善とみなすことである。

次回につづく。