『正戦と内戦』その3 モンロー主義

前回のつづき。

モンロー主義

元来はアメリカ大陸の防衛を目的としていたモンロー教書は、シュミットの見るところ、米欧両大陸間の単なる不干渉原則ではない。むしろそれは、アメリカ大陸内の一国であるアメリカ合衆国の利害関心によって規定された、干渉政策と不干渉政策との独特の融合物なのである。(略)
すなわちモンロー主義は、アメリカ合衆国が他のアメリカ大陸諸国へ干渉するための規範的根拠として利用されたというのである。
(略)
アメリカ合州国はたしかに他のアメリカ諸国の主権的独立を認めてはいるが、しかし、キューバ、ハイチ、サン・ドミンゴパナマニカラグアなどとのあいだで、それらの国が私有財産の保護や公安と秩序の維持などの主権国家としての機能を果たせなくなったと判断したときには干渉することも可能にするような、「干渉条約」を締結している
(略)
しかし、アメリカ合州国自身に対してはもちろん、それが主権性を濫用しているかどうかを誰も決定できない。
重要な問題はやはり、〈誰が決定するのか〉である。(略)干渉の是非の決定権を握っているアメリカ合州国こそが、事実上の主権者なのである。
(略)
干渉条約というこの新たな国際法的な帝国主義は「形式的な国際法的同権を基礎としている」が、「とらえようもなく柔軟に」運用されることで、かえってますます強力な支配力を発揮するのである。だがシュミットは、19世紀にはモンロー主義に基づいてアメリカ大陸内でのみ機能してきたこの支配法が、いまやその性格を変質させつつあると考える。つまり、アメリカの帝国主義実践は、その行使の範囲をアメリカ大陸にとどまらぬ全世界に拡大させつつあるというのである。
(略)
 アメリカの要求により、国際連盟規約はその第21条において、「一定の地域に関する了解」としてのモンロー宣言に配慮し、アメリカがアメリカ大陸で従来持っていた諸々の特権に対してある種の承認を与えることになった。シュミットの見るところ、これによって国際連盟は、アメリカの意志に反してアメリカ大陸に介入するいかなる可能性も失った。というのも、国際連盟アメリカ大陸の諸事項に関与しようとする場合、それがモンロー宣言を侵害するものでないかどうかは、事実上、まさにアメリカによって決定されるからである。アメリカの柔軟な解釈を許すモンロー宣言が、国際連盟規約より優位に立っているわけである。
(略)
一方、国際連盟に対するアメリカの影響力のほうは、アメリカ自身の連盟不参加にもかかわらず、そのコントロール下に置かれた中南米の連盟加盟国を通じて確保されている。この点でシュミットは、国際連盟に対するアメリカの関係が、「公式には欠席しながら実質的には出席しているという奇妙な混合」とも呼べるものであることを主張する。(略)アメリカは国際連盟にとって、いわば「間接権力」として機能しているのである。
(略)
シュミットが1920年代にこの議論を展開したとき、彼は両者のこのような関係を必ずしも否定的に捉えていたわけではない。というのも、20年代の彼は、英仏両国を始めとしたヨーロッパ戦勝列強の支配下にあるヴェルサイユジュネーヴ体制の外側にいるアメリカに対して、勝者と敗者のあいだの仲裁者としての役割さえ認めていたからである。

アメリカ帝国主義批判

32年になると、明らかにアメリカヘのドイツの経済的従属を意識して、こう言われる。「アメリカ的な〔帝国主義の〕形式が基礎とする新たな区別とは、債権国と債務国の区別である」。
(略)
重要なのは、軍事的手段に訴える場合は「侵略」や「帝国主義」として弾劾されるのに、経済的手段による支配は定義上「平和的」とみなされるというのが、一つの法学的フィクションであるという点にほかならない。
(略)
こうして、規範化された戦争、すなわち「正戦」という問題系が浮かび上がってくるのである。
帝国主義は国民戦争を行なうことはなく、これはむしろ排斥される。帝国主義はせいぜいのところ、国際的な政策に役立つ戦争を行なうだけである。帝国主義は、不正の戦争ではなく、正戦だけを行なう。いやむしろ、さらに帝国主義は、軍隊・戦車・巡洋艦によって他国が行なえば明らかに戦争であることをしたとしても、まったく戦争を行なっていないということが分かるだろう」。
(略)
パリ不戦条約によって、戦争は一方では断罪されたが、他方では、法的には平和的措置とみなされる「正戦というかたちで復活する。しかも、ある実力行使が断罪されるべき戦争であるか否かの決定は、この不戦条約の条項を定義し、解釈し、運用する力を事実上掌握したアメリカに依存する。
(略)
ケロッグ条約[パリ不戦条約]は、モンロー宣言がアメリカ大陸で持っていたのと似たような機能を、全世界でもつことがありえよう」。
 戦争を排斥したパリ不戦条約に繋がるようなアメリカの道徳主義についてシュミットが指摘するようになるのは、1930年代に入ってからである。とりわけ30年代後半になると、アメリカがしばしば「人類、民主主義、国際法の名のもとに戦争の正不正を決める仲裁者」として現れることが言われ、大統領ウィルソンの自由民主主義的なイデオロギーに基づいたアメリカの第一次大戦参戦などは、その一つの決定的な徴候とみなされる。この出来事こそが、第一次大戦後に発展した正戦論あるいは「差別化する戦争概念」の端緒とされるのである。
(略)
アメリカに対するシュミットの評価は、両義的であり続けている。(略)
アメリカの帝国主義的な世界干渉を批判しつつも、19世紀の「本来のモンロー主義」を「国際法的広域原理の先例」として評価し、アメリカがこの「本来のモンロー主義」に回帰することで、広域に基づく新世界秩序の理念に与することを期待することになるのである。

ソ連

シュミットの理論体系においても、このソ連はある特異な位置価を持っている。つまり、近代ヨーロッパが産み出した経済−技術的思考がロシア・ボルシェヴィズムによってその極北まで導かれたのが、共産主義ロシアにほかならないというのである。その唯物論的思考は、政治的なものの本質をなす理念性を否定する。

満州事変

総力戦を抑止するために考案された過渡的・中間的方途は、別のかたちの戦争を作り出しているに過ぎない。しかもそれは、シュミットにとっては、直接的な軍事衝突よりも過酷な総力戦になりうるのである。
(略)
 にもかかわらず、事実上の総力戦である経済戦争が「合法的」で「平和的」な措置であるとみなされてしまうところに、今日の国際法の欺瞞があるとされる。(略)
[その]典型的な例証として頻繁に引き合いに出すのが、満州事変のさいの中国での日本の軍事行動を「法学的には」なお「平和的措置」であるとみなした国際法学者ハンス・ヴェーベルクの見解である。第一次大戦後の普遍主義的国際法制は、戦争と平和の区別をこのように不分明にしてしまったというのである。

スイス 中立の危機

シュミットを触発したのは、国際連盟の制裁義務によってスイスの伝統的な中立政策が危機に陥っていることを論じたスイスの国際法学者ディートリヒ・シンドラーの議論である。シンドラーによれば、「スイスは国際連盟への加入によって条約違反国に対して経済制裁を講じる義務を負った」が、「〔連盟規約〕第16条の諸義務と〔中立権を認めた1907年の〕ハーグ協定との衝突が起こる限りでは、後者のほうが優越しなければならない」。
(略)
シンドラーはスイスの中立政策を守り抜こうとする意図に導かれていたのだが、30年代後半のシュミットは中立性の危機を、スイスのみならず、今日の国家一般の問題とみなすことになる。
(略)
ジュネーヴ国際連盟の内部では、従来の中立性の本質をなしてきたような、戦争に対する法的な無差別は存在しない」のであり、「平和を侵害する者に対しては、中立性は存在しない」というのである。中立性の喪失は、「差別化する戦争概念」すなわち正戦論への転換を顕著に示している。(略)
 シュミットにとって、こうした正戦はもはや「戦争」と呼ぶことさえできない。そこでは、従来の国際法では同権の闘争相手であった敵が、法学的フィクションによって犯罪者へと変貌させられる。
連盟規約第16条に規定された加盟諸国の共同制裁措置は、そのような正戦にも等しいわけである。

民主化による「世界革命」、「少数民族」問題

例えば、ギュルケによれば、フランス革命以来、ウィルソンの国際連盟構想に至るまで、国際秩序の前提は民主主義的な国内秩序であるとみなされるようになってきた。(略)世界の秩序は諸国家が民主主義へ体制変化することで打ち立てられるわけであり、これはいわば、民主化による「世界革命」の発想にほかならない。「民主主義は世界の救済および解放という使命を確信しており、それゆえ、世界革命の担い手となる」。そして、「1789年の理念」であれ、「1919年のヴェルサイユの強制」であれ、こうした「民主主義的革命」は、西欧列強のヘゲモニーの表現にほかならず、「ドイツから自決権を奪うような理念」として機能しているというわけである。
 かくして、西欧列強が自立的な国家として承認するのは事実上、自由主義的な立憲国家だけであり、他方、そのような立憲国家でないとされた「不正常な」国家は内政干渉の対象となる。シュミットの見るところ、まさにこうした事情を示しているのが、ヴェルサイユジュネーヴ体制による東欧の少数民族保護政策であった。
(略)
ヴェルサイユジュネーヴ体制のもとでは、西欧列強諸国内には「少数民族」問題は存在しないとされる。なぜなら、個人主義に基づく公民的平等を前提とする自由主義的立憲国家においては、「少数民族」として特別に保護されるべき個人はありえないからである。
(略)
したがって、「少数民族」問題は非自由主義国家に固有の問題とされ、これが第一次大戦後の東欧の新興諸国に対する西欧列強の干渉を許している、とシュミットは考えるのである。
 国際法共同体の自立的構成国であるためには、そもそも西欧列強からその国内体制が「正常」であるとの承認を受けねばならない。
(略)
かくして、自由主義法治国家に対するシュミットの批判は、同時に、主権国家中心の国際法体制の限界という認識へと至ることになる。そして彼は、1939年から新たな国際法秩序構想として展開される広域秩序論とともに、30年代に入ってもなお長らく固執していた国家概念そのものを相対化する方向に向かっていくのである。

本来のモンロー主義

[否定的だった]モンロー宣言に対する評価は、1939年に広域秩序構想が開始されるとともに肯定的なものへと反転する。
(略)
我々にとって決定的なのは、1823年の本来のモンロー主義が、広域について述べ、域外列強の不干渉の原則を広域のために打ち立てた、近代国際法史における最初の宣言だということである。
シュミットはこの「本来のモンロー主義」を、セオドア・ルーズヴェルト帝国主義政策とともに普遍主義的干渉の手段と化した19世紀末以降のモンロー主義から区別する。モンロー主義が広域秩序のモデルたりうるのは、それがヨーロッパ大陸アメリカ大陸の相互不干渉を定めた防衛的原則にとどまっていた限りにおいてである。
(略)
広域秩序は、「モンロー主義の根本思想の有意味な利用と転用、そして同時に、モンロー主義帝国主義的な誤用と普遍主義的な曲解の克服」のなかから生まれてこなければならない。(略)
シュミットは、不干渉という原理にこそ、こうした「核心」があると見て取ったのである。
 こうしてモンロー主義をモデルとしたシュミットの広域理論は、ある種の「ドイツ・モンロー主義」の表明として受け止められることになった。シュミット自身は、単にモンロー主義の模倣とみなされかねないとして、「ドイツ・モンロー主義」を標榜することを避けようとしている。だが、同時期のヒトラーの演説でははっきりと「ドイツ・モンロー主義」が明言されたことから分かるように、当時のドイツでは、モンロー主義のドイツ版として広域思想を展開しようとする者が多く現れたのである。
 その場合、しばしばこのドイツ的なモンロー主義の特有性は、人種−民族的な秩序であるという点に見出された。一方、アメリカのモンロー主義はこうした人種−民族的固有性に基づく空間的限定を欠いていたがゆえに、普遍主義的な世界干渉へ逸脱してしまったのだとされる。
(略)
シュミットはあくまで、「本来のモンロー主義」から不干渉思想という核心を取り出すだけにとどまっており、域外列強の干渉を排除する具体的空間秩序を、人種−民族的に根拠づけようとはしていないのである。
(略)
アメリカに対するシュミットの見方は非常に両義的なものとなる。(略)
この時期のシュミットにとっての敵は、アメリカよりも、むしろイギリスであった。そしてアメリカに対しては、イギリス世界帝国の側につくのか、あるいは「本来のモンロー主義」に基づく広域秩序形成に向かうのかを絶えず問い質すことになる。1940年の時点では次のように言われる。(略)
アメリカ合州国が、モンロー主義の本来の改竄されていない大陸的な広域思想へ決断するのか、もしくは、イギリス普遍主義の富や伝統と結合し、あるいは完全に融合してしまうのか、というものである。
そしてシュミットは、アメリカが広域秩序に回帰しつつあることを示すひとつの徴候を、アメリカ大陸諸国が大陸沿岸300マイル以内を中立的な安全地帯として設定した、1939年9月から10月までのパナマ会議のうちに見出そうとする。(略)
パナマ宣言の意義は、空間をもたぬ自由な海を具体的な広域のうちへ取り込む試みであるという点にあるわけだ。こうしたシュミットの期待はすぐに、アメリカ参戦によって裏切られることになる。

次回につづく。