黒澤明という時代/小林信彦

黒澤明という時代

黒澤明という時代

リアルタイムで観ていない人間には役立つ時系列の説明

 「蜘蛛巣城」と「どん底」は、黒澤明の敏感な〈時代の風の受けとめ方と不安〉をシャットアウトしたところに成立した作品である。黒澤作品を第一作から観続けてくると、特にこの「どん底」で、監督が袋小路に入っているのを認めざるを得ない。
(略)
[「隠し砦の三悪人」は東宝の興行一位だったが、さらに儲けたい東宝は、黒澤プロを作らせて危険負担させることで製作費抑制を図った]
隠し砦の三悪人」は、祝祭的気分を持った幸せな作品だった。そしてこれが彼の最後の〈純粋東宝作品〉ということになる。(略)
〈黒澤プロができたら早速、もうけのための写真を作った、などと言われるのもシャクでね。いちばん難しいものに取組んでやろう、と思った。〉
 次の作品「悪い奴ほどよく眠る」[はやはり当たらず]
(略)
[「用心棒」冒頭]犬が人間の手首をくわえてくる。私は、いやなものを感じた。なんともいえぬ陰惨な気配である。
 黒澤明の映画で、こんな気分になったのは初めてである。「用心棒」がヒットしなかったら、黒澤プロはおしまいなのだ、などと、その時点では考える由もない。(略)
前年の「悪い奴ほどよく眠る」で〈たちまち赤字〉になった黒澤プロを再建(略)[するには〈面白い映画〉を作るしかない]
当時、邦画で元気があるのは、日活の無国籍アクション映画だけ(略)
 スコットランド製のマフラーを首に巻いた卯之助がリヴォルヴァーを片手に登場しても、いまや、文句を言う観客はいない。
[大ヒットの勢いで「椿三十郎」]
冷静に見れば、「用心棒」の〈殺気〉が「悪い奴ほどよく眠る」の失敗・赤字のトラウマから発しているのにくらべ、「椿三十郎」には〈演出技術に遊ぶ〉余裕が感じられる。
(略)
 「用心棒」「椿三十郎」の大ヒットで、監督は冒険ができる状態になっていた。用心深い東宝は、「天国と地獄」を「続社長漫遊記」と二本立てで、三月一日に公開している。(略)
 「天国と地獄」で私が胸をふるわせた昭和三十八年は、処女作「姿三四郎」で〈映画の面白さ〉を知った昭和十八年から、丁度、二十年目であった。
 黒澤明の映画製作がさらに困難になることは、当時でも常識であったから、私はこう考えた。
 (二十年間、わくわくし、楽しませてもらったから、まあ、いいじゃないか)
 そう思った昭和三十八年の私は三十歳。黒澤監督は五十三歳である。溝口健二はとっくに世を去り、小津安二郎は病気と伝えられ、成瀬巳喜男は盛りを過ぎたように見えた。
(略)
[次の「赤ひげ」に暴力描写批判の余波]
 「用心棒」の暴力描写は日本映画(特に時代劇)を変えたと言いきれる。もっとも影響を受けたのは東映時代劇で、たとえば、「武士道残酷物語」(略)
 映画だけではない。「用心棒」の翌々年(1963年)、フジテレビの「三匹の侍」が、テレビで初めて〈人を斬る音〉をとり入れ、放送した。(略)
 こうした残酷・流血の暴力描写の流行が批判される時、ひきあいに出されるのは、必ず「用心棒」と「椿三十郎」のラストシーンだった。(略)
 「赤ひげ」で三船が三船らしさを見せるとすれば、岡場所で、やくざたちを素手で叩きのめすシーンしかない。(略)
 だが、新出こと三船は、単に怪力なだけである。〈暴力描写の元祖〉説を黒澤明が不快に思っていて、そうなったことは、ご当人に説明されなくてもよくわかるが、全篇陰気な映画の中で、せめて、このシーンだけでも、ユーモアや〈圧倒的にダイナミック〉な見せ揚が欲しかった。

「縦に切ってくれ」伝説

[4時間25分で完成した『白痴』を短くしろと首脳部から命令された製作本部長高村潔は自分の責任で短くしようとして、助監督の野村芳太郎に相談]
 反対する野村はすぐに黒澤明に報告した。怒った黒澤明は、自分が縮める、と言い出し(略)三時間に縮めた。
[この三時間版は、札幌、東京、小樽で公開。松竹はみみっちく、さらに14分カットして一般公開]
 どうせフィルムを切るなら縦に切ってくれ、という有名な言葉は、師である山本嘉次郎あての黒澤の手紙にあるだけだ。当時の黒澤は〈天皇〉でも〈世界のクロサワ〉でもなかった。

どん底』と志ん生

 扮装テストと本読みのあと、リハーサルが約一ヵ月。スタッフや出演者たちが長屋の生活や雰囲気を理解できるように、と監督が古今亭志ん生を砧撮影所に招いて、「粗忽長屋」の一席を演じてもらった、と香川京子が回想している。志ん生が倒れる数年前、名人芸のピークの時である。

トラ・トラ・トラ!

[黒澤は]「ミクロの決死圏」の監督など問題にしていない。(略)[もっと格上の監督にしろと要求し]リチャード・フライシャーのことは、ずっと「ミクロ野郎」と言っていた
(略)
[黒澤は]真珠湾攻撃を、こう考えている。
 〈日本にとっても、アメリカにとっても、トラジェディなのです。ショーではない!〉(メモより)
 ダリル・ザナックにわかって欲しいという気持で、酔ってなぐり書きしたメモは、かえって本音を語っていると思う。
 陸軍士官学校の第一期生の父にきびしく育てられた男のマグマ、師である山本嘉次郎監督が作った“開戦一周年記念映画”「ハワイ・マレー沖海戦」を黒澤流にリメイクする意気込みのマグマが吹き出るような文章である。しかも、ダリル・ザナックは黒澤が敬愛するジョン・フォードの理解者だったはずだ。〈ダリル爺さんにそれをよく分かってもらいたい。それが分からない限り、ベトナムの愚行はつづく!〉とメモには記されている。

影武者

初めの構想では、[信玄の弟]信廉に、勝新太郎の実兄の若山富三郎を予定していた。(略)若山富三郎はすぐに話を断った。(略)
 「まことにありがたいお話ですが、私は受けるわけには行きません。先生と勝では必ずもめるでしょう。その時、私がまき込まれたら、立つ瀬がありません」