ビリー・ジョエル 素顔の、ストレンジャー

ナチスに迫害された裕福な祖父母

 ビリーの父親、ヘルムート(のちにハワードと改名)・ジュリアス・ジョエルは1923年6月12日、カール・ジョエルと妻メタ・フライシュマンのひとり息子として、この世に生を受けた。(略)

諸外国において衣服会社がメール・オーダーで業績を伸ばしていることを知ったカールは(略)28年、ニュルンベルクにジョエル商会を創立。メール・オーダーのカタログを扱う会社で、既製服が専門だった。(略)

[ビジネスは成功したが、33年、ヒトラーが権力掌握]
狂信的な親ナチ派の新聞が、カール・ジョエル個人やその商売について中傷的な記事を掲載しはじめたことから、事態は深刻化していく。(略)

[記事は根拠なく]カールの詐欺的行為を告発し、"ドイツ国民にとって不倶戴天の敵"と決めつけた。(略)

たびかさなる逮捕に彼とその家族は神経をすり減らされ(略)店を閉めてニュルンベルグを去る以外に、道は残されていなかった。しかし、カールが選んだ移転先は国外ではなく、なんとナチの首都"ベルリン"だった。ヒトラーこそが天敵であり、けっしてドイツ政府ではない、と合理的に解釈していたようだ。(略)

ベルリンで商売を再開するにあたり、事業の経営陣にアーリア人の代表者を迎える必要があった。(略)手を結んだのは、ベルリンの財政顧問役であるフリッツ・ティルマンという人物。しかし、このティルマンこそが、後にドイツ中のユダヤ人を一掃する組織的作戦の中心人物であった。(略)
34年から37年にかけて(略)ビジネスを復興させようというカールの目論みは、財政的には成功した。
 一方で(略)政治的風潮は、ユダヤ市民にとって、ますます不気味な様相を呈しはじめていた。ジョエル家でも、すべての窓にシャッターが降ろされ、すべてのドアが施錠された。家族みんなが、自宅にいながら囚人のような気分で暮らさねばならなかった。35年当時、12歳だったヘルムートは、こう振りかえる。
ヒトラーユーゲントやSA師団やSS師団が、週末になると、うちのすぐ近くの森で訓練を受けていた。母はすごく怯えていた。体中がふるえるほどね」(略)

両親は息子の身の安全を考慮し、スイスの学校へ彼を転校させた。

 35年(略)ユダヤ人の権利をすべて剥奪する法律が定められた。悪名高き"ニュルンベルグ法"であった。(略)

[37年]ジョエル商会の商売は繁盛を極めていた。(略)
「父の商売は、ドイツで2番目に大手のテキスタイル・メール・オーダー店だった。(略)」
 だが、その良き時代も終焉へと向かいつつあった。

 38年、およそ28万人のユダヤ人が家を追われ、ベルリンからの退去を命じられた。(略)

 ユダヤ人の経営するすべての会社を"アーリア化"するようにと、政府の決議がなされたのだ。ユダヤ系の商人は、アーリア人に売りわたすのか、もしくは廃業するのか選択を迫られた。それでも、誇り高きドイツ系ユダヤ人の多くは、これは政府の一時的な見解にすぎないと信じていた。彼らは、勢力の均衡の振り子は、じきに反対の方向に振れるだろうと思っていた。しかし、事態は"最悪"へと向かっていた。

 この頃、ユダヤ市民が所持していたドイツ政府のパスポートには、ナチスかぎ十字がついているだけでなく、ユダヤ人を表す赤い"J"のスタンプが押されていた。38年、カール・ジョエルのメール・オーダー衣服工場から85万人の顧客へと出荷される荷物にも、同じ赤い"J"があった。
 いよいよカールの商売にも魔の手がかかった。突然、地元の新聞に商品や会社の広告を載せることを禁じられ、アーリア人の布供給元が工場へのテキスタイルの出荷を拒んできた。さらに雇っていたアーリア人の経営者が、内部から商売をボイコットするにいたり、カールはついに閉店を余儀なくされる。どんな価格であれ、すぐさま会社を売りに出すしかほかに術はなかった。

(略)

ジョエル商会は1200万ライヒスマルクと評価されていたにもかかわらず、ネッカーマンにわずか250万ライヒスマルクで譲りわたすしかなかった。

(略)

ゲシュタポは両親を捕らえて、モアブ刑務所に死ぬまでぶちこんでおくつもりだった」
 夫婦は偽のパスポートを使い(略)汽車は、スイスのチューリッヒに向かって、夜どおし走りつづけた。(略)
 「母が電話してきた『今、スイスにいるの。もうドイツへは戻らないわ』。私はまだ子供だったから、『はい』とだけしか言えなかった。すると、母は『言ってることが分かる?もう戻らないのよ。もう2度と戻ることはできないの』。それでも、私は『はい』と答えるしかできなかった」
 やがて、家族はチューリッヒの下宿屋で暮らしはじめた。

 そこに、ジョセフ・ネッカーマンから一通の手紙が届く。(略)
カールに支払う額に不明な点があるという内容で、事態を収拾するためベルリンに帰ってきてほしいと綴られていた。(略)[罠だろうが]全財産を無駄にすることはできるはずもなく、彼は妻と息子を残し、事態に決着をつけるべく、内密にドイツへ戻った。(略)
フリッツ・ティルマンはカールが受けとるべき金を取りもどす(略)報酬として、10万ライヒスマルクを求めてきた。カールはその場で、ティルマンに小切手をきった。すると、ティルマンはすべてのドイツ系ユダヤ人は、資金と銀行預金を法的に没収されることになった、と告げた。カールに嘘の情報を与えたティルマンは、カールの小切手を現金化し、10万ライヒスマルクを手に入れた。
 他方、ジョセフ・ネッカーマンはカールのメール・オーダー衣服会社のオーナーに収まり、彼とその家族はカールが購入した屋敷に移り住み、カールの所有していた家具もそっくりそのまま手に入れた。さらには、カールのお抱え運転手まで雇い入れた。ネッカーマンは、まるでカール・ジョエルの人生そのものを乗っとったようなものだった。
(略)

[ジョエル一家は、スイスからイングランドキューバへ]

米国への入国は、割り当て番号によって選ばれることになっていた。そして40年の初め、彼らはついにキューバから米国への入国を許可された。一家はニューヨーク・シティに移り、ブロンクスの小さなアパートで暮らしはじめた。
(略)

カールは、かつての商売(衣服と装身具)をふたたび始め(略)ヘッドバンドやアクセサリーを製造することで、市場における自らのアイデンティティを取りもどしていった。
 そうしたなか、ヘルムートはUS陸軍に徴兵される。(略)
ハワードと改名したヘルムート・ジョエルは、アメリカの兵士として故郷の土を踏んだ。
 「私はジープでニュルンベルグに入って、旧友たちを捜しだそうとした。しかし会えたのは、元運転手のシュローデルだけだった。父の昔の工場も見にいったが、建物はすでになく、辺りは瓦礫の山だった。そして、そのなかに、ジョエルとペンキで描かれた煙突が立っていたのを見つけた(略)

ミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所を解放するために、陸軍部隊として、そこに赴いた。(略)死体の山の写真を撮った。ダッハウは……むごい光景だった。(略)」

(略)
「親父はイタリアで戦って、その後、パットン第3部隊に入り、自分の故郷が吹きとばされるのを目の当たりにしたんだ。親父のシニシズムと気難しさは、彼の戦争体験からきてるものなんだ」
 60年の初め、カールとメタ・ジョエルは(略)[ドイツに戻り]残された日々を、賃貸アパートで過ごした。

シニカルで暗鬱な父

[父ハワードは正式な音楽教育を受けたがクラシック音楽のピアニストにはならなかった]
「(略)父の望みどおり、エンジニアになった。あの時代は、誰もが父親の言いなりだった」(略)
[一方で]シティ・カレッジ・オブ・ニューヨーク(CCNY)の演劇集団に加わ[わり、未来の妻、ロザリンド・ハイマンと出会う](略)
「おふくろはうたってた。CCNYのギルバート&サリヴァン・カンパニーでね。(略)」

(略)
[46年戦争から帰還し結婚。47年長女ジュディス]

49年5月9日、長男ウィリアム・マーティン・ジョエルが誕生(略)

ハワード・ジョエルはゼネラル・エレトリック社で働いていた。(略)

「親父は、ある意味、風変わりに見えた。ドイツ人だったし、ヨーロッパ的なユーモアのセンスを持ってた。シニカルで、辛辣で、暗鬱だった。幼い僕に話しかける時でさえ、同年配の大人と話すような感じだったから、親父が話してる内容が分からないこともあった。ある時、親父が僕に『人生は汚水だめみたいなもんだ』って言った。幼い子供にはけっこうキツい言葉だよね

(略)
両親はふたりともユダヤ人の家系だった。けど、宗教にかんしていえば、僕はユダヤ人として育てられてない。割礼だけはユダヤ式だったけどね」(略)
少年期、彼の遊び仲間はみなイタリアン・カソリックだった。(略)

「友だちとカソリック教会によく行ったもんさ。11歳の時には、ヒックスヴィルのチャーチ・オブ・クライスト洗礼も受けた。僕は文化的なユダヤ人なんだ。(略)」

 ビリーは成長するにつれて、母方の祖父、フィリップ・ハイマンを深く崇拝するようになる。

「(略)おじいちゃんはメチャクチャ勉強家で、ありとあらゆる本を読んでた。代数学だとか、古生物学の本とかね。彼のおかげで僕も読書家になったんだ。フィッツジェラルドとかヘミングウェイとかトウェインの本を読んで、ロマンティックな妄想を膨らましたもんさ。(略)」
 母ロザリンド・ジョエルはこう回想する。
「7歳になった頃、ビリーはすっかり本の虫でした。図書館に行くと、いつも20冊くらい借りてくるんです。絵本やら、おとぎ話やら、歴史の本やら。とても独立心の強い子で、キッチンの椅子を与えておくと、それを汽車ポッポに見立てて何時間も遊んでいました。ちょっとしたことですぐにハッピーになれる、そんな子でしたね」

(略)

ジョエル家に(略)溢れていたのはクラシックやジャズだった。
 「親父はポップ・ミュージックを完全にバカにしてた。(略)彼にとってポピュラー音楽は、ビッグバンドの時代の到来とともに止まってしまったんだ。親父はエロール・ガーナーみたいなジャズ畑の人たちをみとめてた。それとナット・キング・コールのことは褒めてた。けど、それ以外はみとめてなかったね(略)

子供の頃の僕にとって、ピアニストとしての親父は尊敬の対象だった。クラシックの教育を受けてたし、楽譜も読めたからね。家にはおんぼろのアップライトピアノがあって(略)親父が弾くとすごくいい音がした。(略)ノクターンバルトークをよく弾いてたな。勤め先のゼネラル・エレクトリック社から帰ると、すぐにショパンバルトークの曲を懸命に練習してた。(略)素晴らしいピアニストだったよ」

(略)

ビリー少年にとって、クラシック音楽を学ぶこと自体はそれほど好きではなかったようだ。(略)

ベートーヴェンの曲を新しく覚えなきゃならない時に、譜面を読むのが面倒だったりすると、ベートーヴェンっぽいスタイルの曲を自分で作ったりしてた。けど、よっぽど納得させるものを作らないと、おふくろはすごく耳がいいからバレちゃうんだ。『新しい曲、ずいぶん早く覚えたわね』とか言ってね。翌日、自分で作った曲は忘れちゃってるんで、また違う曲を弾いたりすると、『え?その曲はなに?』って聞かれるから、『これは第2楽章だよ』とか言って、ごまかしたもんさ」

(略)

[ベートーヴェンを]ふざけてブギウギっぽく弾いてたんだ。そしたら親父が2階から降りてきて、おもいっきりぶっ飛ばされた。子供時代の記憶で、殴られたのはあの時だけだね」

(略)
クラシック音楽の演奏者になることは考えていなかったという。
「コンサート・ピアニストになってもあまり楽しい人生じゃなさそうだと思ってた。(略)でも習っててよかったよ。クラシック・ピアノを弾いて育ったおかげで、緊張と緩和の哲学が身についた。だからブギーのためのブギーっていうのは嫌いなんだ。緊張と緩和がないからね。ひとつのアイディアをずっと繰りかえすのは耐えられない」

(略)
「ふたりがよく喧嘩をしてたのを憶えてるよ。だから別れた時は正直ちょっとホッとした(略)

離婚がきつかったのか、親父はヨーロッパに帰っちゃったんだ。(略)
それから大人になるまで、親父には会えなかった。おふくろが、僕と姉さんを、女手ひとつで育ててくれたんだ

(略)

親父は僕たちを見捨てたわけじゃない。毎月、小切手を送ってきてたよ。それでも、僕らはいつも腹を空かしてた。(略)おふくろは知性もスキルもある女性だったけど、簿記とか書記のような仕事しかもらえなかった。だから収入が減って、テレビすら買えなかったんだ。僕らは赤貧とまではいえなかったけど、試合をリードしてるってわけでもなかった

(略)
成長するにつれて、父親を恐れる子供がすごく多いことに気づいた。父親が子供に暴力をふるうんだ。野蛮だよね、ぞっとするよ。(略)独裁的な父親に抑えつけられてる友だちにくらべて、僕はあまり怒りっぽくなかったような気がするね」

ビリーの母親は、息子と娘を社会的かつ文化的なイヴェントにも参加させた。

(略)

「家にテレビがなかったから(略)僕らはバレエやオペラから交響楽団まで、なんでも観たよ。クラシック音楽は退屈すぎるっていう人が多いけど、僕にはすごく刺激的だね。チャイコフスキーラフマニノフ、それにショパン。どれも、本当に情熱的な音楽なんだ。子供の時に〈ペーターと狼〉を聴いたけど、まさにゾクゾクしたよ。(略)」

エルヴィス、JB

「(略)決定的だったのは、姉貴の聴いてたロックンロールだった。エルヴィス・プレスリーとかスモーキー・ロビンソンとかね。そんなのが大好きだった

(略)

4年生の時に、エルヴィスの物真似をやったのを憶えてる。人前に出たのは、その時が初めてさ。たしか〈ハウンドドッグ〉をうたったんだ、エルヴィスみたいに腰を振ってね。5年生の女の子たちがキャーキャー騒ぎだした。(略)教師が僕たちをステージから引きずりおろした。僕が腰をくねらせてたのが気にいらなかったらしい

(略)

あれが、そもそもの始まりだったね。(略)システムをぶち壊す快感を覚えたような気がする。やつらに止められるまでは、してやったりって感じだったよ」

(略)
 ビリーが初めて観たロックンロール/R&Bショーは(略)アポロ・シアターでのジェイムズ・ブラウンだった。
「僕は完全にぶっ飛んだね。あのフットワーク、あのビート、あの歓声!あんなにエキサイティングなものは、それまで体験したことがなかったよ」
(略)

「(略)僕らはチンピラのなかでも"ディッティ・ボッパーズ(気どり屋)"って呼ばれてた。上級生の真似をしてチンピラみたいな格好してたけど、喧嘩はやらなかったんだ。仲間でつるんで行動してるだけの"ヒッター"っていうやつさ。昼間はずっとハンドボールをやって、ゴミ箱を蹴っとばしたり、シンナー遊びをしたり、偽物の徴兵カードでビールを買ったりしてた。毎晩、おふくろにおやすみを言って、2階の自分の部屋に上がると、こっそり屋根伝いに抜けだすんだ。(略)」

(略)
[ビル・ザンピーノ談]
「(略)10代の頃は、ブロードウェイまで一緒に出かけてミュージカルの『マイ・フェア・レディ』を観たり、映画館で『ウエスト・サイド物語』を2回も観たり、家で『オクラホマ』や『南太平洋』のサウンドトラックを聴いたり、アーロン・コープランドの音楽を聴いたりしたな。あいつはいつも、『あれくらいなら僕にもできる!』って言ってたよ」

(略)

[ビリー談]
「ライチャス・ブラザーズの〈ふられた気持〉が大好きだった。それからロネッツの曲はどれも全部ね。ラジオ以上にインパクトがあったよ。僕にとってフィル・スペクターは、作曲家のリヒャエル・ヴァーグナーみたいな存在だった。それから、オーティス・レディング、サム&デイヴ、それにウィルソン・ピケット、初期のモータウンサウンドが好きだったな」

ビートルズ

 「自分でレコードを買うようになったのは、64年にビートルズが登場してからなんだ。『エドサリヴァン・ショ―』で初めて彼らを観て、完全にノックアウトされた。とくにジョン・レノンの目の表情に、僕は何かを感じとった。そして顔に浮かべた作り笑いで分かったよ。彼らは、僕らとなんら変わらないじゃないかってね。ビートルズを聴いたとたん、『これだ!』って思った。『そうさ、僕にだってできる。とにかく、やってみよう』って!

(略)

僕は基本的にメロディ・フリークだし、それにかんして彼らは名人だったしね。ビートルズのアルバムを買いにいって、うちに帰って1曲目から最後まで聴いてみると、好きな曲ばっかりだった。それから彼らの真似をして、ビートルズっぽい曲を自分で作曲してみたよ。"Close to me ……you should be"みたいに、歌詞で韻を踏んだりしてね。『プロのミュージシャンになって、金を稼ごう(略)ありきたりな生き方なんて絶対しないぞ』ってね

(略)

学校じゃ、いつもコーラスの授業を選択してた。コーラスなんて軟弱だって思ったけど、わりと簡単な授業だったし、うたうのが好きだったからね」
 当時、コーラスの授業を選択するのは"お堅いやつ"と思われていたが、彼がこの時期に習得したヴォーカル・ハーモニーにかんする知識は、後におおいに役立つことになる。

(略)
ビートルズが登場してすぐに、2万組ものガレージ・バンドが生まれたんだ。そんなバンドのひとつに僕も入ったのさ。ピアノじゃなく、歌でね。学校なんか、まるで目じゃなかった。

(略)

いわゆるゴールデン・オールディーズをよくプレイしてた。〈ウーリー・ブーリー〉とか〈ワイプアウト〉とかね。しかも、ギャラももらえたんだ!わずか5ドルくらいのものだったけど、『へえ~、こんなんでギャラもらえるの?』みたいな感じで(略)あとは、もうまっしぐらさ」

(略)

[ボクシングジムに通う]
「(略)『俺をなめんなよ!』ってな感じ。たぶん、男らしさを追求したかったんだろうな(略)

僕は女手で育てられた。(略)愛情にかんしてはなにの問題もなかった。けどその反面、アイデンティティクライシスにはいつも脅かされてた。だから男らしさを確立するために、ボクシングで自分を試したかったんだ。(略)」

(略)

〈若死にするのは善人だけ〉に(略)登場するカソリックの娘とは、ヴァージニア・キャラハンという同じ学校に通う同級生だった。ビリーは彼女にかなりのぼせていたみたいだが、彼女のほうは彼の存在にすら気づいていなかったようだ。

初体験

 ビリーは、スタジオ・レコーディングを初めて体験する。プロデューサー、シャドー・モートン[が](略)シャングリラスの2大ビッグ・ヒット・ナンバー〈ウォーキング・イン・ザ・サンド〉と〈リーダー・オブ・ザ・パック〉をプロデュースしていた時、ピアノのパートを録音するため、ビリー少年が招聘されたのだ。しかしリリースされたシングルに、果たして自分のヴァージョンが使われたかどうか、ビリーには分からないという。だが、そんなことはたいして重要ではなかった。レコーディング・スタジオという世界がどんなものか、彼は生まれてはじめて体験したのだ。

(略)

エコーズというグループが50も60もあることを知ったビリーらは(略)ロスト・ソウルズと改名。(略)

ハイスクール・ダンスからホーム・パーティ、さらには教会が主催する行事まで、ありとあらゆるギグに出演した。(略)
ビリーは、一躍、オーディエンスの女の子たちの人気者になっていた。(略)

性的にも"初体験"を経験した。彼の場合は、年上の女性だった。
「ロマンスとはまるで関係なかった。僕は誘惑されたんだ。焦れば焦るほどうまくいかないってことが分かったね。(略)」
 さらに、この時期ビリーが"初体験"したことのひとつに、ジャズ・アルバムとの出会いがあった。彼が夢中になったのは、デイヴ・ブルーベックの名盤《タイム・アウト》だった。(略)

以来、ピアノの巨匠ブルーベックは、彼にとって真のアイドルとなった。

(略)
彼がロックやポップ・ミュージックで興味をそそられるのは、まず音楽であり、歌詞ではなかった。

(略)

「50年代後半とか60年代初頭の頃、ロックンロールには歌詞カードがついていなかった。(略)ストーンズなんか、なにをうたってるのか聴きとるのに苦労したよ。ミック・ジャガーはイギリス人のくせに、黒人みたいな歌い方をしてたからね。(略)

ロックンロールを聴いて分かったのは、歌詞はそんなに重要じゃないってこと。だから、僕はまず曲から先に作ることにしてる。実際、僕は小さい頃から曲を作ってたんだ。自分なりのオペラを、自分なりに作曲してた。言葉なんか必要なかった。そのうちバンドをやるようになって、曲を作るようになったら、歌詞まで担当するようになってね。『なんで、僕が歌詞を?』って聞くと、『おまえ、よく本を読んでるじゃないか』って。いつのまにか、曲に歌詞をつける役目が僕に回ってきたってわけさ」

(略)

新生ハッスルズ

[ロスト・ソウルズはハッスルズのマネージャー、アーウィン・メイツァーと知り合う。親族のダニー・メイツァーはマイ・ハウスというロック・クラブを経営]

ロスト・ソウルズのリードギター・プレイヤー、ジム・ボッセも回想する。
「(略)ダニー・メイツァーは、このふたつのバンドをひとつにまとめようと思いたった(略)67年に、ふたつのバンドから巧いほうのプレイヤーが選ばれて、新生ハッスルズとなった。(略)俺は結局、選ばれなかった。残ったのは、ビリーとハウイーだけだった。(略)」
ハッスルズにおける自分の座をビリーに奪われたハリー・ウェーバーは、そのショックと薬物依存による気分の落ち込みで鬱状態となり(略)[線路に]体を横たえ(略)列車に轢かれて死んだ。(略)
[ドラマーのジョン・スモール談]
「(略)[ビリーは]165センチのチビで、ルックスもロック・スターには似つかわしくなかったけど、そんなことどうでもよかった。あいつはうたえた、からね。(略)おまけにキーボードの腕も文句なかった!(略)ところが、やつは自分のバンドを抜けたがらなかったんだ。(略)[俺は]最後の手段に出た。やつにハモンドB-3を差しだしたんだ。5000ドルもするオルガンさ。ビリーにはとても手が出せない代物だった。(略)ビリーはついに、ハッスルズのメンバーになったのさ」(略)
[アーウィン・メイツァーは音楽業界にコネを持つため]

ルーレット・レコードの社長モリス・レヴィーのもとで、スタッフとして働きはじめた。(略)
トミー・ジェームズ&ザ・ションデルズで大儲けしたにもかかわらず、モリス・レヴィーがバンドにほとんどギャラをわたしていなかった事実は、今やロックンロール界の伝説にもなっている。(略)17歳のビリーが加入したハッスルズは、突然、こうした音楽業界のビジネス・パワーの渦に巻きこまれることになったのだ。

(略)
67年、ハッスルズはルーレット・レコードの親会社であるユナイテッド・アーティスト・レコードと契約を結ぶ。(略)

バンドは解散。ジョン・スモールはハッスルズの消滅について、こう語る。
「ユナイテッド・アーティストからアルバムを2枚出したあとで、ビリーと俺はもとからいるハッスルズのメンバーと険悪な仲になった。(略)」

サイケ・デュオ・アッティラ

ビリーは、ジミ・ヘンドリックス・フリークだった。
「ジミは本物の天才だよ。べつに"天才"を安売りするつもりはないけどね。僕が天才とみとめるのは(略)モーツァルトにジョージ・ガーシュインアーロン・コープランド、あとバッハ。彼らと同様、ジミ・ヘンドリックスは正真正銘の天才さ
(略)

ウッドストックには行ったけど、ひどいもんだった。雨と泥とアシッドの世界さ。(略)1日過ごしてみて分かったよ。ぶっ飛んでなきゃ、とてもやってられないなって。僕はドラッグはやらなかったからね。ヒッチハイクして、うちに帰ったよ

(略)

マリファナさえ吸ったことがなかった。(略)その後2年間くらい、なんとかヒッピーになろうとがんばってみた。けど、僕には向いてなかった。どうやってみても、いい気持ちになれなかったし、"フラワー・パワー"にも夢中になれなかった。カウンターカルチャーそのものが、システム化されてるような気がしてたし。(略)」

[それでも時流に乗ってビリーとジョン・スモールは]

サイケデリックなキーボード&ドラム・デュオ、アッティラを結成する。スモールが回想する。
「(略)俺がドラムで、ビリーがハモンドB-3の担当だった。10マーシャル・アンプを使ってね。まさにヘヴィ・メタルさ。エピック・レコードと契約し、5万ドルのアドヴァンスをもらってツアーに出たんだ。いやあ、痛快だったね。ロック・スターになるなんて、ちょろいもんさ。イギリス風のファッション、イースト・ヴィレッジのグラニー・テイクス・ア・トリップ(1969年代風のヒップなファッションの店)のブーツ、長髪にロックンロールっぽい態度。トラフィックジェスロ・タルレッド・ツェッペリンなど英国バンドが俺たちの目標だったのさ」

 ビリーはこう説明する。
「(略)レッド・ツェッペリンをもっとヘヴィにしたみたいな、ヘヴィ・メタル・バンドさ。僕はハモンドオルガンをアンプに繋いで、ギターみたいな音を出せるように工夫した。それからキーボードでベースも弾けるようにもした。(略)さらにはハーモニカを吹いたり、頭のてっぺんから声を出したりして叫んでた。その間、ジョンはドラムを叩いてたよ

(略)

アッティラは、アンプが命だった。なにしろ、でっかいアンプ10個もあったんだ。みんな、そのセットアップ目当てに、観にきたくらいさ。結局、僕らはアルバムを1枚出したあと、ギグを5、6回やったのかな

(略)

アンプリファイアー・ファイアー〉(略)はヘヴィ・メタルというよりは、もっとジャズっぽい雰囲気だよね。(略)僕は当時、ジャズ・オルガニストジミー・スミスにすごい影響を受けてたからね」

絶望、鬱、自殺未遂、精神科病棟

「いろんなタイプのにわかマネジャーにいいようにあしらわれながらも、少しずつシャングリラスとかチャビー・チェッカーといった著名なアーティストのバックで演奏するチャンスをもらえるようになった」
 その後、てっとりばやく金を得るため(略)地方向けの雑誌『ゴー』と『チェンジ』の2誌で、コンサート・レヴューを担当したのだ。
 「1回のレヴューで25ドル!悪くないだろ?」
 ところが敬愛するミュージシャンを悪く批評することに、自分は向いていないと、彼は改めて感じた(略)アル・クーパーのコンサートにお粗末なレヴューを書いて以来、彼は評論家という職業からきれいさっぱり手を引いた。
 「僕は今でも、クーパーには謝りたいって思ってるんだ」
(略)

 自信をなくし、金も底をついた彼は(略)カントリー・クラブの壁のペンキ塗りをしたり、しばらくのあいだ工場で働いたこともあった。
 「僕の人生は恐ろしいことになってたよ。ハイスクールの卒業証書もない。音楽的になにひとつうまくいってない。一世一代だと思ってたロマンスも破局を迎えた。金もなきゃ、住む家もない。家賃が払えないから、コインランドリーで寝てたことだってある。ニューヨークの冬は半端じゃないからね。(略)」
(略)

絶望のあまり(略)鬱状態のビリーは、プレッジ社の家具用光沢剤を選んだ。

(略)

「僕は21歳で、『ここから抜けだすには自殺しきゃない』って、マジに思ったね。クローゼットを覗くと、塩素系の漂白剤が入ってた。(略)家具用光沢剤も入ってた。あとは香りの問題だけだった。僕は家具用光沢剤のほうを飲んだ。忘れもしない。椅子に座って、死が訪れるのをじっと待ってた。すると突然、胃袋がこの異物を処理しようと活動しはじめた。結局、最後には家具用光沢剤を吐きだすしかなかったよ」

(略)
「僕はメドーブルック病院の監視病棟に自分から入院した(略)

3週間は出られないんだ。まず着てるものを全部脱がされた。それから、尻が丸見えのスモックを着せられて、ひっきりなしにソラジン(精神分裂病の鎮静剤)を投与。寝る時も、大部屋でほかの患者たちと一緒さ。つねに薬で症状をおさえながら、四六時中、監視されてるんだ。まるで映画『カッコーの巣の上で』みたいな世界さ。鉄格子の窓と電動式のスライディングドアがついてる病棟にいるのは、すごく奇妙な気分だった。(略)

僕はナースステーションに行っては、窓をノックして『カッコーの巣の上で』みたいに、こう訴えるんだ『ねぇ、僕はもうだいじょうぶだ。ここにいるのはクレイジーな連中ばっかりだけど、僕はもう正常さ。ここから出してくれよ』。けど、やつらときたら『分かりました、ミスター・ジョエル。さぁ、あなたの分のソラジンですよ』って。(略)飲まなかったけどね。舌の裏側に隠して、あとから吐きだしてた。2日ほどしてから、担当の精神科医と話をした。(略)『ここから出してくれ!自殺願望に取りつかれてたから入院したけど、もう自殺する気はなくなった』って言ったんだ。(略)

こうして、僕は表に出ることを許されたんだ。後ろでドアが閉められたとたん、振りむかず僕は全力疾走したよ。あれは、マジで恐ろしい体験だった

(略)

 人生でいちばん大切なものに気づくための、ショック療法みたいなものだった。僕は物事をすごく深く感じるようになった。(略)

監視病棟に入って、深刻な問題に悩んでる人たちを実際に見たことで、僕は30秒ほど自分を憐れんだら、すぐにスイッチを切りかえて、『さ、やるぞ!』って思えるようになったよ。『僕には音楽が作れるし、また恋だってできるんだ!』ってね。(略)」

不倫、不利な契約

 ビリーは、しばらくのあいだ、ジョン・スモールとその妻エリザベスの家で暮らすことになった。(略)

[二人]には幼い息子ショーンもいたが、ジョンはかなりの浮気者で、妻との仲はすでに冷えきっていたという。孤独で、魅力的な21歳の若者ビリーとエリザベスが(略)愛しあうようになるのに、それほど時間はかからなかった。

(略)

[70年、ビートルズ解散]

ビル・ザンビーノは語る。
「ビリーはビートルズが大好きだったから、解散したあとよくぼやいてたよ『これからはビートルズの曲がもう聴けないなんて!こうなったら自分で作るしかない!』。そして、あいつはほんとに作っちまうんだよな」

(略)
後年、ネイバーフッド・レコード会社のオーナーであるピーター・シェケリクは、こう語った。
「(略)アーウィン・メイツァーが私のところにきて、ビリーのソロ・シンガー・ソングライターとして初のデモテープに、金を出す気はないかと言った。ビリーの歌を聴いてみると、なかなか将来性があると思ったので、デモ・レコーディングの制作費を出すことにしたんだ。(略)ビリーがデモのレコーディングを終えた頃、ちょうど私のオフィスが(略)同じビルの12階に引っこした。アーウィンはできあがったデモテープを私に聴かせようと、ビルの11階に上がってきた。ロビーに寄って受付嬢に聞けば、オフィスが12階に引っこしたことが分かったはずだが、アーウィンは(略)パラマウント・レコードのドアをノックしたんだ。そこで彼は、アーティ・リップと出会った。当時、金に困っていたアーウィンは、アーティ・リップがビリーのために提示した契約金にすぐさま飛びついてしまった。(略)アーウィンがひとつ上の階まで来て、私に会ってさえいれば、真っ先にビリー・ジョエルをネイバーフッド・レコードのアーティストとして契約を結んだのに。アーティよりはるかにいい条件を提示できたはずだ。ビリーはかなりの契約金を手にするはずだった。アーウィンは、ジョエルとのレコード契約を結ぶきっかけとなったデモの制作費を払わないばかりか、彼の才能を見いだしたレコード会社の社長としての名声まで、私から奪ったのだ。(略)」

 図らずもビリーは(略)作曲家印税、出版権、そして著作権のすべてを譲りわたしてしまう結果になった。その後何年にもわたって、苦しめられることになったこの契約について、ビリーはこう語る。

(略)
「自分がなにに署名してるのかさえ知らなかった。けど、契約するためなら、きっとどんな書類にでもサインしてただろうな。なにしろ、もらった前払い金で、ピアノも買えたし、家賃も払えたからね」

(略)
《コールド・スプリング・ハーバー》ツアーで(略)プエルトリコで催された"マリソル"なる野外音楽フェスティヴァルに出演。(略)

観客のひとりに、コロムビア・レコードの社長がいた。この事実が、後にどれほど自分にとって重要になるか、当時のビリーは知る由もなかった。
 そんななか、フィラデルフィアのシグマ・スタジオで行われたコンテスト入賞者のための特別ライヴ・コンサートにビリーは出演。まだレコーディングしていない曲で、麻薬の売人をうたった〈キャプテン・ジャック〉を演奏した。この催しは録画され、スポンサーでもあったWMMR局が頻繁に流した。ニューヨークのラジオ局にも目を付けられ、ビリー・ジョエルの名は"カルト"アーティストとして知れわたるようになる。

(略)

「ツアーは6カ月にもおよんだ。誰ひとり、ギャラさえもらえなかった。いつもピーナッツバターサンドばっかり食べてたよ。どの店に行ってみても、僕らのレコードは棚に並んでなかったしね。うちに帰ったら、家賃分の小切手が送られてくることになってたけど、結局、それもこなかった」
その間、ビリーの私生活にも様々な問題が生じていた。(略)

LAへ逃避行、ラウンジ・シンガーに

[離婚したエリザベスと暮らすように]

「(略)僕らはオフシーズンになると、水辺に近いその小さな家で過ごした。彼女はツアーにも同行してくれて、それからはずっと一緒だった」
 そして不運な人生の軌道修正をするためには、カリフォルニアに移るのが最良策かもしれないと、ふたりは考えた。
 「持ち物を残らずエリザベスのステーションワゴンに積みこんで、アメリカ横断の旅に出たんだ。不当な音楽ビジネスとおさらばして、まともな弁護士と新しいマネジャーを見つけるつもりだった。僕を騙した張本人たちはロスアンジェルスにいた。まさかすぐ目の前に僕がいるとは思わないだろうしね」
リバティ・デヴィートはこう語る。
「(略)ショーンの親権はジョンが持っていた。ビリーとエリザベスはショーンを連れて、カリフォルニアに逃げたんだ。(略)」
(略)

ビリーは"ビル・マーティン"と改名する。
 「ビル・マーティンって、僕の本名だからね。(略)ピアノ・ラウンジ・シンガーとして、半年間、演奏した。なかなかいい仕事だったよ。飲み物はタダだったし、最低賃金も保証されたし。生まれてはじめて、ちゃんとした定収入を得ることができたんだ。僕はもうひとりの自分に完全になりきることにした。バディ・グレコばりに、シャツの襟を立ててボタンを半分ほど外してね」
 他方、ビリーは当時のカウンターカルチャーの営みを、すべて経験する。
「カリフォルニアにいた頃は、マリファナを吸ってた。あそこにいると、それが当たり前の日常だからね。彼らの言う"メローライフ"ってやつさ。あそこじゃ、すべてがレイドバックしてる。もちろん、口にするものはすべて自然食品だったしね。アシッドも経験したよ。岩が動くのをほんとに見たんだ」
 こうして、ビル・マーティンを演じているうちに(略)自らのアイデンティティが、はっきりと像を結んでくる。そして、ついに、彼の代表作となる〈ピアノ・マン〉が生まれた。歌詞に登場するピアノ・マンは、もちろん、ビリー本人だ。
「ジョンはバーテンダーだった。それから、デイヴィーっていう海兵隊のやつがいた。ポールは不動産ブローカーだったけど、ほんとは小説家をめざしてた。エリザベスは、あそこでカクテル・ウェイトレスとして働いてたんだ。すごいミニのカクテルドレスを着て、せっせとチップを稼いでたよ。ふたりが同棲してたことは、みんなに内緒にしてたけどね」
(略)

父と再会、コロムビアと契約

 カリフォルニア時代、ビリーは父親ハワード・ジョエルと再会を果たしている。父子は10年以上も会っていなかった。

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ビリーの予想に反して、父親は(略)ウィーンで暮らしていた。だが、もっと驚いたことに、父ハワードはオードリーという女性と再婚し、息子までもうけていた。

(略)

「(略)とにかく、最初は互いにすごくぎこちなかった。(略)なにを話したらいいのか分からなくてね。(略)

親父も、僕と同じように眼が飛びでててね。すごく不思議な気分だった。親父は僕を見て、自分も昔はあんなふうだったのかって思ってるし、僕も彼を見て、将来、自分もあんなふうになるのかなって思ってる。親父はクラシック界では素晴らしいピアノ・プレイヤーだよ。厳格なプロイセン人に鍛えられたらしい」
 だが、父子のあいだに本当の意味での親密さが通うことはなかった。ビリーのなかでは、"捨てられた"という思いが、まだ消えていないことが原因なのかもしれなかった。
 そんななか、ビリーはついにパラマウント・レコードとの契約から解放されることになる。
「結局、僕と契約してた連中は、僕が姿をくらましたもんだから、ここは妥協して契約の再調整をしないかぎり、なんの進展もないと判断したらしい。72年のことさ」
 いくつかのレコード会社からのオファーを受け、ビリーは最終的にコロムビア・レコードと新たに契約を交わすことにした。(略)

『ニューヨーク・デイリー・ニュース』には、後にこんな記事が掲載された。
プエルトリコのフェスティヴァルでジョエルのステージを観たコロムビア・レコードの社長クライヴ・デイヴィスは、エクゼクティヴ・ラウンジに足を運び、好条件での契約を申しでた」

(略)

「(略)ロスで演奏してるビル・マーティンが、実はビリー・ジョエルだっていう噂を聞きつけた社長のクライヴ・デイヴィスが、わざわざ会いにきて、僕にオファーを出してくれたんだ」

次回に続く。