憲法近代知の復権へ

こちら(id:kingfish:20060821)の流れで「近代国民国家憲法構造」を借りようとしたけれど読めそうになかったので、こっちにしてみたという、ヤリナゲなノリでナゲヤリなせいかナガメな引用。

憲法 近代知の復権へ

憲法 近代知の復権へ

近代法が想定する人権

何事によらず、解放されるということは、放り出されるということでもあります。ここでも、ひとは、自己決定の主体として、その結果をひきうける「強い個人」だというフィクションに耐えなければなりません。(略)
他方で、それでは額面どおりに、人権主体としての個人が自己決定しようとすると、どうでしょうか。「知」を抑制することなくつらぬき、その成果を使って自己決定をつらぬくところに、どういうことがおこるでしょうか。
「強い個人」の意思は、「生命」を否定することができるでしょうか。「生命」の定義いかんによって、妊娠中絶への態度決定がわかれるでしょう。いま、問題は、「強い個人」の意思で、現在と将来の「生命」を操作することができるのか、という形で提起されています(略)
自己決定だから何でもできる、ということになると、それは、人権のもうひとつの核心、人間の意思で手をふれてはいけない価値がある、という要請を否定することになります。もともとこれは、人権という考え方自体に内在する二律背反なのです(略)
この、自己決定=「知」の権力性という難問を前にして、自己決定の要素を相対化しようとする方向があります。「強い個人」モデルから訣別して、自己決定できない人びと、さらには生きとし生けるもの一般、動物や樹木の「権利」を語る方向です。それとは別に、自己決定への外側からの社会的コントロールとして、自己決定の集結としてのデモクラシーというモデルから多かれ少なかれ距離をとり、専門家ないし「賢人」(略)の出番を求めるという考え方があります。

インサイダー取引の「自由」といった「感性的自由」の優位と「規範創造的な自由」の欠落は世間ならず裁判所も同様。「喫煙の自由」の場合。

というのは、判決文の説示でも、いったん憲法上の「自由」を「拘束の欠如」一般にまで拡げておいて、”それでは困るから公共の福祉のために制限する”というアプローチがとられてきたからである。たとえば、「喫煙の自由は、憲法13条の保障する基本的人権の一に含まれるとしても、あらゆる時、所において保障されなければならないものではない……」(最高裁大法廷判決1970/9/16)というように、である。これは、「人欲の解放」一般にまで「自由」をいったん拡げるが、まさにそのために、”それでは困るから”それを制約する論理としての「公共の福祉」の中身をも、無限定に拡げることとなった。
判例を批判する学説も、そのような論理の枠組に乗ったうえで「公共の福祉」の出番を抑える議論をすることにもっぱらで、「自由」のほうの内容を「規範創造的な自由」にまできたえあげようとするいとなみは、手薄だった。

なぜその自由でなければならないのか。人権のインフレ対策。

これまで、判例が無規定的な「自由」を前提にすることによって、それを制限するために無規定的な「公共の福祉」を持ち出してきたのに対抗して、それを批判する学説は、いってみれば、”自由への制限をできるだけ制限する”というアプローチで議論をしてきた。(略)
それに対し、「自由」そのものの中身を吟味して、”なぜその自由でなければならないのか”を問題とするアプローチが登場した。「有象無象の生活領域」に関する人権のインフレ状況を批判して、「表現物が一定の実体的価値を有するがゆえに」その自由を擁護するのだという主張(奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』)や、「人格的自律」という実質価値によって人権を道徳的に根拠づけようとする見解(佐藤幸治憲法』)は、その点で共通する。

そのような主張とは対照的に、最近あらためて、「基本権の基底について、脱道徳論への転回を試み」ようとする主張が説かれている。

「何か価値ある目的、道徳的目的にとって望ましい目的を追求しているか否かを問う」自由論をしりぞけ、「卑近な人間の欲求を軽んずるおそれ」を問題とする点で、自覚的に「脱道徳」の立場に立っている。「理性、合理性、人格、個人の尊厳、人間性、意志の自由等、大陸的超越論が依拠してきた人間の特性に回帰する議論」から「抜け出る」必要を説く点で、自覚的である。そうであるだけに、「人欲の解放」としての「感性的自由」と、「規範創造的な自由」との対置の意味を、いまあらためて提起されている論点に重ねあわせて議論することは、有益なはずである。
(略)
二つの自由の対比は、「拘束の欠如……に尽きている」自由と、「理性的な自己決定の能力」としての自由との対比であり、後者は、「からの自由」の中身を自分自身の判断によって充たすことを意味しているのである。そのような意味で、前者は「非理性的動物にも、いな植物にすら適用出来る」のに対し、後者は、近代のえがく人間像についてはじめて語られる。そういう文脈があるからこそ、「近代」を疑う時局的背景のもとで、自覚的に、「理性」や「意志の自由」から離れた「脱道徳」の主張が出されているのであり、それに対しあらためて「近代」を擁護する立場が呼び出されてくるのである。

批判的普遍主義

おきまりの単純な西欧中心主義によりかかって人権の普遍性を論ずるのではなく、文化の相対性、「相違への権利」の主張が持つ意味をうけとめたうえで、しかし「もういちど普遍を考える」という問題意識は、人権宣言200年の節目に人権をさまざまな仕方で議論してきた1789年宣言の母国の思想界で、自覚的になってきているといえます。「ナイーヴな普遍主義への復帰」を拒否しながら、しかし、「絶体的な相対主義」は「あらゆる文化が等価だと主張」することによって、かえって対話交通の道をとざしてしまうことが、自覚されてきたからです。1980年代以降のレイシズムは、「人権」にかえて「エスニシティ」や「文化」を、また、逆説的なことですが「差別」といわないで「相違」、「異種嫌い」にかえて「異種ごのみ」をそのディスクールとして用いており、例えばフランスの人種差別論者ル・ペンの言説にもそれは見てとれます。そうであるだけに、このことは重要です。「相違への権利」「伝統」「共同体的価値」と集団のアイデンティティを尊重するという名目で、諸個人間の対話交通を切ってしまうこの傾向に対抗し、しかし同時に、「普遍」の名のもとに「相違」を地均ししてしまうことをも拒否しなければならないとしたら、とどまるべき均衡点はひとつしかないでしょう。それは、「普遍」を、「どんな具体的な歴史的実在ともとりちがえない」ことであり、「ひとつの引照基準、ひとつの願望、ひとつの指導理念」として位置づけることです。

19世紀憲法学をゆさぶる二人

シュミットは、近代憲法の安定性をやぶる決断主義を主張する。(略)
ドイツでの近代憲法史の到達点だったワイマール体制を「根本からひっくり返す」には、決断主義思考という梃子が不可欠だったのである。
それと対極的にケルゼンは、法のイデオロギー性を暴露してみせる傍ら、その近代憲法原理を、実践的にあえて擁護する立場に立つ。支配の欠除を理念とし、社会的拘束、特殊には国家の否定を意味するはずの「自然的自由」から、「社会的あるいは政治的自由」への転化を問題とし、後者はデモクラシーと必然的に結びつくとして、議会制民主主義を擁護するのである。そこでは、決断でなく「ますます妥協の政治となる」ものとして、デモクラシーが再確認される。

ドイツ公法学の伝統ある専門誌にのった最近の一論説は、「経済的不平等、排除、貧困は、『理性』とコンセンサスが支配するハーバーマスの理論には居場所がない」として、「啓蒙の『理性』を救い出そうと試みる」彼を、「近代『理性主義』の擁護の最後のモヒカン」と評する。
もともと、彼の「コミュニケーション理論」に対しては、「カール・シュミットによって想定されていたような事態をカッコに入れ」、「例外事態を度外視したときだけ可能」という批判があった。この指摘は、それとして全くその通りというほかない。そのことを十分承知したうえでハーバーマスは、あえて「例外」時でなく平時を想定して対話の徳を説いているという意味で、「二〇世紀」前半のシュミットに対してケルゼンが足場を定めた地点に立っている。
憲法裁判へのコンセンサスにあらわれているような、立憲主義法治国家の表層の安定を、あえて剥ぎとりたい知的関心。それが欧米の学界の一傾向を触発しているのだとしたら、日本の場合、状況はあまりに離れて遠い。