槍投げで三冊/藤原帰一/映画

モテ教授の薄い映画談義をカルブタ女がうっとり拝聴現場を目撃しちゃった映画珍宝がDT汁大噴火で前が見えなくて読めません。貶しているわけじゃなくて、ただコチラとしては職業柄の面白い視点を期待するわけで、ネタふりからオチまで完全予定調和、展開が見えてしまって読書欲がわかないとかエラソーな口調でスマソ。これならまだサービス精神旺盛なゴリラーマン樹の方が。そんなわけで唯一ふーんと思った箇所を。

映画のなかのアメリカ (朝日選書)

映画のなかのアメリカ (朝日選書)

帰国子女の『ロスト・イン・トランスレーション』へ複雑な心境

登場する日本人が、またいかにもという人ばかりだ。何よりも、言葉がまったく通じない。日本では英語が上手といわれているであろう通訳の話す英語は、とても英語を言葉としてわかっているとは思えない。(略)英語が話せる人になると、今度は不気味に流暢で下品なアメリカ英語で盛り上がる。もう全部が全部、共感なんてあり得ない変な人たちである。

だが、日本が「変な国」としてここまで徹底して、しかも正確に描き出されたことはなかった。(略)
特に日本への反発も共感もないアメリカ人の目に映った日本の姿、その心象風景をこれほど的確につかまえた作品ははじめてだろう。そして、登場する日本人と心が通うという場面は、映画の始めから終わりまで、ただの一回もない。
この映画は、もう最初から大嫌いだった。それは日本が変に描かれているからではない。むしろ、ごくふつうのアメリカ人から見た日本の姿があまりに的確に映し出されているために、何か皮膚感覚のようなもので私はこの映画を拒絶していた。帰国子女であるためか、私のなかにも「アメリカ」の目を通して「日本」を見るところがあり、その痛いところをこの映画が突いていたからかもしれない。

日本映画はアメリカでどう観られてきたか (平凡社新書)

日本映画はアメリカでどう観られてきたか (平凡社新書)

が下記の本の内容紹介してる部分。
小津安二郎―映画の詩学

小津安二郎―映画の詩学

たとえば、1923年の関東大震災の後、一気にハリウッド映画が流入して日本に市場を固め、日本映画に次ぐ人気となったこと、また、松竹をはじめとした「アメリカ映画を模倣する」製作体制の改革が急速に推進されたことを詳細なデータを挙げながら説明します。つまり、映画の消費と製作はすでにアメリカ化されていたことを強調します。
また、映画技法的に当時の日本映画をみれば、「1920年代と30年代を通じ、ごくまれな例外を除くと」、日本映画は「ハリウッドの古典的なドラマツルギーと文体にしっかりと基礎を置くものとなっていた」と、また作品例を詳細に挙げながらの主張もします。当時一種のブームだった「日本の伝統」に関しても、ボードウェルは自らの見解を述べています。大正時代には「国内のみならず海外においてもまた消費されることを見越して、パッケージ化された」状況があったのだと分析するのです。

十八世紀における他者のイメージ―アジアの側から、そしてヨーロッパの側から

十八世紀における他者のイメージ―アジアの側から、そしてヨーロッパの側から

イエナチツァ・ヴァカレスク
あるルーマニア人の見た東洋
(ミハエラ・ムドゥレ)

イードは、彼の古典的ともなった著作から単に極東を排除しているだけでなく、中央ヨーロッパや東ヨーロッパがオリエントをどのように眺めたかという点についても排除している。ここでも彼は、自らの出生地である中東に特権的位置を与えている。また、サイードのオリエントは大西洋-ヨーロッパ的な、従属を強いる言説上の実践の押しつけに対して受動的でもある。しかしながら、アフマド・アイジャズが既に明らかにしたところでは、オリエントは全く受動的ではなかった。オリエントは、軍事的、政治的行動を通して極めて具体的に抵抗しただけでなく、言説においても、そして学問的にも抵抗したのであった。これらの声が沈黙させられたのは、中心部分に特権を与えたことによるものであり、サイードは疑問を抱くこともなく、この立場を引き受けた。オリエントのために語るふりをしながらも、サイードは実際には周縁の立場を装った中心のために語っていたのである。

録画したタモさんメロメロ「恵麻」ショッキングを三回リピートしちゃった、俺に、喝。