晶子とシャネル

題名でスルーしようとしているそこの、だんすぃー、これは要チェキですよ、ぎゅーん、。晶子の裏には、体制に風穴あけて雑誌創刊したけどマイナー文化、苦闘する鉄幹がいて、これがなかなか面白い。

晶子とシャネル

晶子とシャネル

詩歌革命。和歌を大衆化して短歌に。

師弟という「門」組織のタテ型人間関係を打破しようとする意思。詩歌の革命を志した鉄幹は、歌を門の「外」に解き放った。やがて、そこから晶子や登美子が生まれ、塚本や白秋たち、数々の新しい歌びとたちが生まれでてくる外の領野に。新詩社は、「お歌所」という閉ざされた権威の場に背を向け、言語表現の場を野に求めたのである。佐佐本幸綱『作歌の現場』は、こうしてできた「同人」という新しい組織を「短歌大衆化のために考案されたシステムだった」と指摘している。「自由に参加でき、自由に才能を発揮できる場、そんな場を理想的な原型として考案された組織」が「結社」であって、「東京新詩社」の場合を見れば、それが明らかである、と。

だが大衆化してみれば短歌はただのマイナー文化だった

短歌の大衆化は、歌の作り手の大衆化ではあっても短歌の消費市場の拡大を意味しはしないからだ。いや、拡大どころではない。宮廷の「雅び」の具であって商品ではなかった和歌は、宮廷の権威から解放されてもほとんど商品にはならなかった。むろん、売れた短歌がなかったわけではない。与謝野晶子の歌が当代きってのベストセラーになったのは周知のとおり。
しかしそれは話を狭く短歌の世界に限定してのことであって、近代の「文学のマーケット」の主力商品は詩歌ではなく「小説」なのである。

鉄幹、魂のさけび。高級紙を煙草二箱という廉価にして挑めど、『明星』は明治41年に1200部、44年には900部しか売れず。

「僕は詩が好きで詩を作る。詩は僕の道楽である。誤って虚名を喧伝されてはいるが、道楽で作る詩に何の野心があろう。………だから歌壇に対する僕の態度はもっとも自由でもっとも公平であると信じる」
「それに今の出版物は白紙を売って不当の高値を貪る。僕はその弊を矯めて出来るだけ内容を豊富にし、広く国民の購買力に考えてヒーロー二個の廉価をもって読者の手に致そうとした。僕が『明星』を発行した微衷は如此くである」

地におちて大学に入らず聖書読まず世ゆゑ戀ゆゑうらぶれし男
この鉄幹クンの歌にキューンときた全国の乙女の返歌が殺到。やがてその乙女同士が花の名のハンドルネームでお互いに歌を交換。

以後、『明星』詠草欄はこうした乙女たちの交情の場と化してゆく観があるが、それがいやがうえにも印象的なのは、彼女たちがたがいを花の名で呼びあうからだ。
(略)
同じ八号に載った晶子の文にも、登美子を指して「リリーの君」とある。鉄幹が好んだ白い花が娘たちの雅号となって、詠草欄はさながら乱れ咲く花園の観を呈してゆく。
(略)
これらの歌が稚拙なのは、情感の表出より、相手の花の名を詠みこむことに目的がおかれているからである。ただ相手の名を呼ぶ、その親密性じたいが快楽なのだ。あたかも愛の電話で大事なのが話の内容ではなく、呼び交わす声であるのと同じように。こういう乙女たちのたわいない親密性が長きにわたって誌面に独特な情緒をかもしだし、それが『明星』の主旋律ともなってゆく。この意味で『明星』は女性語ブームの波頭を切る女性メディアでもあった。

鉄幹は悩む。男としては質の高い短歌雑誌をつくって「名」を残したい、しかし、「恋の子」である乙女達の稚拙な世界にも何かがあるし。

花咲く乙女たちの浮薄な戯れが『明星』の紙面に華やぎを添える---おそらくこれは鉄幹の企図せぬものであったにちがいない。女性の参加は新詩社を彼の予期せぬものに変容させていったのだ。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子戀の子あゝもだえの子
後に歌集『紫』の冒頭歌となって名高いこの歌は、「名の子」の論理と「恋の子」の論理の対立をわたしたちに教えてくれる。鉄幹の言葉を使うなら、つまるところ結社とは「名の子」たちによって成立する党派にほかならない。対するに乙女たちは「群れる」ことにしか興味がない。彼女たちは群れて戯れつつ、今のときめきを共有しようとする。これに対し達成価値に賭ける「名の子」は未来のために現在を耐え忍ぶ。だが「恋の子」にとっては現在がすべてである。「春みじかきに何の不滅のいのちぞと」とうたいあげた晶子はまことに恋の子そのものである。新詩社はいつの間にか恋の子たちの集団と化していったのだ。
(略)なぜなら、「しろうと集団」である新詩社の同人誌は、「ひらかれたメディア」であり、参加型メディアだからである。参加型メディアでは参加者が内容をつくりだす。花咲く乙女たちは嬉々としてこのメディアにうち興じたのである。

トレンドセッター鉄幹

いずれにしろ大切なのは、それが仲間うちの合言葉、いわば「星の子のターム」として神という語が使われているということだ。そういう語彙はほかに幾つもあり、「春」「罪」、あるいは「星の子」「春の子」「恋の子」という言い方もそうである。(略)
選者としてすべての投稿に目を通している鉄幹は当然ながら同人の短歌の傾向に最もよく精通している。どの語、どの語法、そしてどの歌人が最もときめいているかも……。(略)
「幻影、神などを歌ふのが同人の中に流行している」と指摘したあと10首あまり例をあげ、次いで年を詠みこむ歌にふれて、「十七の春などと年を短歌に叙するのは、去年の秋からの流行である」と述べている。(略)
同人内部で語法のはやりすたりがあり、最新流行があったのである。「恋の子」たちがいかにたがいの歌に敏感であったかがわかる。なかには流行の語法だけをならべたような歌も少なくない。同じ号に載る増田稚子の一首。「花にそむき人にそむきて今宵またあひ見て泣きぬまぼろしの神」。「花にそむき」はあきらかに晶子の歌の踏襲であろう。「人」も「まぼろし」も「神」もすべての新詩社流行語を詠みこんでいて、おかしいほどだ。さすがに『戀衣』にこの歌は再録されていない。とまれ、こうして、それとわかる目配せのように語を共有することそれじたいが同人の悦びであったさまがよく伝わってくる。

誌面には限りがあり活字の大きさの違いが問題になる。白秋らが脱退したのも上田敏が破格の扱いをうけ四号活字だったのに自分達は五号二段組みで片付けられたのが一因。乙女達だって文句をつけてくる。だが鉄幹は小活字でプライベートメッセージを伝える手法を生みだす。マンガ余白に書かれた手書き文字みたいなもの。

いつもの活字より小さく、片隅にひっそりとおかれたそれらの歌は、そのおかれ方によって、「私的」な何かを直感させる。たとえば先に引いた鉄幹の歌、「戀と名といづれおもきをまよひ初めぬわが年ここに二十八の秋」はこの小活字の歌で、女流たちの華やかな競詠の末尾の余白に一首だけおかれたものだ。いったい誰への相聞なのだろうか。晶子だろうか登美子だろうか。もしかしたらそのどちらでもなく、鉄幹ひとりの独語なのかもしれない……。とにかくそれは、密やかな囁きのように読者の心を惹く。秘密めかした親密性のシャルム。小ささがメッセージなのである。

と、ここまでで未だ50ページ。面白いので引用が長くなっております。さて鉄幹はこのあと新手法でスキャンダラスに読者をひきつけていく。まさにモテ男逆ターザン山本、買い物中の猪木夫妻をタイガー・ジェット・シンが襲撃、そんな世界に突入していくのである。ええっ、うそーん。
明日につづく。