誰も書かなかったビートルズ 中山康樹

誰も書かなかったビートルズ

誰も書かなかったビートルズ

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リンゴ・スター

(略)

リンゴからの売り込みでなく「3人が頼んだ」という一点においてリンゴ・スターというドラマーがいかに「特別」であったかうかがい知ることができます。(略)

自分たちが求めているサウンドを表現するにはリンゴしかいないと判断したのです。 しかし(略)ジョージ・マーティンはリンゴがいたにもかかわらずアンディ・ホワイトというセッション・ドラマーをなかば強引に起用します。(略)

リンゴの腕を買っていなかった、いやリンゴの個性とビートルズにおける絶対性に気づいていなかった(略)

 アンディ・ホワイト版、リンゴ版、ふたつの《プリーズ・プリーズ・ミー》を聴いてください。

 リハーサルとはいえ前者が個性に欠け、後者が完全に「ビートルズのサウンド」になっていることがわかります。

(略)

 そうです、マーティンはセッション・ドラマーを起用したことによって逆説的にリンゴの絶対性に気づいたのです。

 《シー・ラヴズ・ユー》はそのリンゴのドラムから始まります。

 なんという疾走感、一体感でしょう。

 リンゴが存在して初めてビートルズになる。

 初期において《シー・ラヴズ・ユー》ほどそれを実感させる曲はありません。

《ア・ハード・デイズ・ナイト》

(略)

この曲ならびにアルバム『ア・ハード・デイズ・ナイト』こそジョン・レノンの最高傑作である(略)もちろん、これは極論であり(略)個人的見解 です。

 しかしそう断言しないではいられないほど、この曲とアルバムは、どこを切ってもあまりにも「ジョン・レノン」だと思うのです。

 まず13曲中、ジョン一人で作った曲が10曲も収録されています。これはもう「ジョン・レノン作品集」といっても過言ではありません。

 次にその10曲がまたとんでもない名曲揃いときます。どの曲をとっても 「スキ」や「ユルミ」がありません。

 しかし最も重要な点は、ジョンがこれらの曲を「ビートルズのために書いた」ということではないかと思います。

 つまりジョンは、「自分のため」ではなく「自分たちのため」にこれらの曲を書いた、いやいいかえれば「書けた」のです。

 その象徴がほかでもない、1曲目を飾る《ア・ハード・デイズ・ナイト》です。(略)いちばん「おいしい」ところを歌っているのは作者であるジョンではなくポールです。

 この一点からもわかるように、ジョンはビートルズのために曲を書き、ビートルズとして最高の表現になるよう考え抜いた

(略)

 ジョンからポール、そしてポールからジョンへの巧みなリード・ヴォーカルの移行。

 間奏におけるジョージの鋭い、まさにハードボイルドなギター・ソロ。

 ぼくはこの曲を聴くたびに、「これぞザ・ビートルズなのだ!」、そう叫ばずにはいられないのです。

 

『ネイキッド』

(略)

びっくりしました。これがあのさんざん聴いてきた《ゲット・バック》なのか!?

(略)

ポールが目の前で歌っている。その瞬間、ぼくは『ネイキッド』がただ者でないことを実感(略)

 最初の深い感動、胸が打ち震えるような思いを抱いたのは、3曲目の《 フォー・ユー・ブルー》でジョージの声が聞こえてきたときです。

(略)

ジョージの声があまりになまなましく、身近に聞こえたことに驚き、感動のアメアラ レ状態と化したのです。

 そう、『ネイキッド』ではジョージとリンゴの存在感が浮上し(略)ポールやジョンと横一線に並び(略)"ザ・ビートルズ"というバンドがくっきりと浮かび上がっている。これこそが『レット・イット・ビー』に欠けていたものでした。いわばライヴ・バンドとしてのザ・ビートルズ。しかもリアルな音質とミックスダウンによって、あのビートルズがまるで『ピットイン』や六本木『キャヴァーン・クラブ』で歌っているような距離感で迫ってくる。これには驚きました。その距離感は、ビートルズを"聴いた"というよりも"会った"という感覚にかぎりなく近い。

(略)

ジョージの《アイ・ミー・マイン》が流れてきます。おお、ジョージってこういう声だったのか。このさびれ具合、微妙な陰影、決して単色でない(略)「濃」と「淡」のちょうど中間にあるような色彩感をもった声。ぼくは決してオーヴァーでなく、はじめてジョージの声を"つかまえた"ように思いました。

 

 

At Big Pink

At Big Pink

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ディラン『ジョン・ウェズリー・ハーディング』

(略)

ディランの『ジョン・ウェズリー・ハーディング』のジャケット(略)

4人のむさくるしい男が写っているでしよ。真ん中はいうまでもなくディランです。前作『ブロンド・オン・ブロンド』のジャケットで着ていたハーフコートをここでも着ています。アハハハ。いかにもディランらしい無頓着ぶりに頬もゆるみます。

 問題は、右端の太った人物です。この人は、プルナ・ダス・バウル(Purna Das Baul)といって、インド、ベンガル地方の民族音楽の有名な歌手であり、コモク(khamak)という、バングラデシュに伝わる楽器の名手でもあります。(略)

当時のマネージャー、アルバート・グロスマンが(略)ラヴィ・シャンカールを中心としたインド・ブームに便乗しようとしたのです。(略)

 プルナ・ダス・バウル一行はアメリカ西海岸で短いツアーを行ない、その後(略)ウッドストック、ベアズヴィルに招待されました。(略)ジャケットは、そのときに撮影されたものです。左端のインド人はバウル一行のメンバー、右から2人目のアメリカ人のおじさんは、当時グロスマン邸の修理に雇われていた大工さんということです。

 これだけのことなら「なるほどね」ですむのですが、しかしカントリー路線を走っていたディランが一方でインド音楽を熱心に聴いていたという事実を知れば、その「なるほどね」も少しは「へ~」に変わるのではないかと思います。プルナ・ダス・バウルの証言によれば、ディランはインドの音楽のみならず料理や文化にも多大の関心を寄せていたといいます。しかもディランだけでなく(略)ザ・バンドの面々もインド音楽に大変な興味を示していたそうです。(略)ガース・ハドソンがプロデュースした『ザ・ベンガル・バウルズ・アット・ビッグピンク』というアルバムもあります。ザ・バンドとのジャム・セッションが収録されています(レーベルはブッダ)。

(略)

ジョージとディラン、そしてその2人が魅了されたザ・バンドという三者を結ぶ線として「インド」を配置することは、決して不自然ではないと思うのです。(略)

 さてウッドストックを旅立ったプルナ・ダス・バウルですが、やがてミック・ジャガーの関心を引き、ニースにあったストーンズのスタジオに招かれるなどVIP待遇を受けます。なにやら「ビートルズにシャンカールがいるなら、こっちはプルナだ」といわんばかりのライヴァル心を感じさせます(略)

プルナ・ダス・バウルは自分を招待した人物が誰かわからず、たんなる大金持ちと思っていたといいます。(略)世界的に有名なロック・グループのヴォーカリストだということを知ったのは、ミックをテレビのニュースで観たときだったそうです。

 

『ジョンの魂』は2枚組

(略)

 結論からいきましょう。『ジョンの魂』は2枚組です。(略)1枚目は『ジョンの魂』、2枚目はヨーコの『ヨーコの心』なのです(略)日本では(略)別々のタイトルがつけられていますが、この2枚、そもそもは同じタイトルです。『プラスティック・オノ・バンド』です。ジャケット・デザインもほとんど同じです。(略)イギリスでは同時に発売されました。(略)

 シングル盤は、もっと明確です。同時期に発売されたジョンのシングル《マザー》は『ジョンの魂』の1曲目ですが、そのシングルのB面に入っているのは、『ヨーコの心』の1曲目の《ホワイ》です。つまり、このシングルは、『ジョンの魂』と『ヨーコの心』をつなぐものであり、この2枚のアルバムは2枚組ですよということを告げるものでもあったわけです。

(略)

現在では、『ヨーコの心』という邦題が「なかったこと」にされて、原題の『プラスティック・オノ・バンド』になっています。これはこれでいいとは思います。しかし、これではますますジョンの意図と離れていってしまい、本当は2枚組だったという、そのヒントすら奪いかねない。

(略)

2枚組として意識して聴くと、いろんなものがみえてきます。(略)

『ジョンの魂』はヴォーカリストとしてのジョンを、『ヨーコの心』はギタリストとしてのジョンの才能が究極のかたちで表現されたアルバムです。

(略)

 『ジョンの魂』でのジョンは、ほとんどピアノを演奏し、ギタリストとして過激な一面をみせてくれません。しかし『ヨーコの心』では、一転して、しかも1曲目の《ホワイ》から、「なにもそこまで」と後ずさりしてしまうような過激でノイジーなギターをかましてくれます。

 そうなのです、ジョンは最初から2枚組として考えていた、したがって自分が演奏する楽器を使い分けていたのですね

(略)

かねてからジョンはギタリストとしても天才的な才能の持ち主であることは知られていました。ところがギタリストとしてのジョンの全貌を捉えたアルバムは、ありそうでなかったと思います。ところがあったのです。それが『ヨーコの心』をはじめとする、ジョンがギタリストとして参加しているヨーコのアルバムです。思い出してください。悲劇の直前にレコーディングされたヨーコの《ウォーキング・オン・シン・アイス》におけるジョンの過激かつ超かっこいいギターを。

(略)

エリントン'66

エリントン'66

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デューク・エリントン『エリントン'66』

(略)

ビートルズ1964年のアメリカ上陸を契機に訪れた空前のブームがアメリカのジャズ・ミュージシャンに与えた音楽的ならびに商業的影響(略)

 前回(略)取り上げたのは、カウント・ベイシー・オーケストラ『ベイシーズ・ビートル・バッグ』(1966年)『ベイシー・オン・ザ・ビートルズ』

(略)

 さらにもう一点、そしてこれこそがこの「ビートルズとジャズの関係」の音楽的バックボーンになっている最大の要因でもあるのですが、ビートルズの楽曲はジャズに転化しやすいのです。(略)

[瞬間的に人気では上回った]デイヴ・クラーク・ファイヴやハーマンズ・ハーミッツのヒット曲がジャズの世界でカヴァーされることはなく、ストーンズにしても、その例はごくごく数えるほどでしかありません。

(略)

 そこでデューク・エリントンの登場です(略)

エリントンは、[ヒット曲をカヴァーした]『エリントン'65』というアルバムで(略)ビートルズの曲を選んでいないところに、この時点におけるエリントン(あるいは制作者側)のビートルズに対する認識度が表れているようにもみえます。(略)ジャズ・ファンからは無視されましたが、セールス的には成功を収め、エリントンは第2弾にあたる『エリントン'66』に着手、ここでついにビートルズの曲がレコーディングされます。しかも《オール・マイ・ラヴィング》と《抱きしめたい》という、 どちらかといえばエリントンらしくない楽曲です。

(略)

さすがはエリントンです、これがじつにもってすばらしい。

 ここからあとの文章はベイシー・ファンの目に永遠に触れないことを祈るばかりですが、やはりエリントンとベイシーとでは、音楽的品格があまりにも違いすぎます。つまりエリントンの場合は、どんな曲をどんなアレンジで演奏しても「毛並みのよさ」は微動だにしないのです。機会があれば、ぜひ『エリントン'66』を聴いてください。これほど優雅な《オール・マイ・ラヴィング》が、《抱きしめたい》があったでしょうか。ジョンとポールも、「おいおい、オレたちってこんなお上品な曲、書いたんだっけ!?」と、たがいに顔を見合わせたのではないかと想像します。 よりビートルズ的なカヴァーとしては、ベイシーに軍配が上がるでしょう。しかしエリントンのカヴァーは、ビートルズの曲をもってしてもエリントンの高貴な雰囲気と音楽性にまったく揺らぎがみられないという点において、ミュージシャンシップの威厳を痛感させられると同時に深い感動を覚えるのです。

トニー・ウィリアムス、マイルス・デイヴィス

[ビートルズ上陸の64年、トニー・ウィリアムス18歳も夢中になり]

マイルスに以下のような進言までしたといいます。

「マイルス、ぼくたちはスーツを着て演奏していますが、もう古いと思います。ビートルズやロックのミュージシャンのように、もっと自由でカラフルなファッションでステージに上がりませんか。それからマイルス、ビートルズと合同ツアー、しませんか。第1部がぼくたち、第2部がビートルズなんです。どうですか、このアイデア?すごくウケると思うんですが」

 この話を聞いたマイルスには、まったくウケなかったそうですが(当然でしょう)、すこしは効果があったのかもしれません。マイルスはスーツを脱ぎ捨て、一夜にしてサイケなファッションで飾り立てるようになります。その背景には、当時の奥さん(ベティ・メイブリーという歌手兼モデル)のアドヴァイスがあったことは知られていますが、トニーの意見も反映されていた可能性はあります。(略)

後年、トニーは当時のことを、こんなふうに回想しています。「ぼくは部屋の壁にビートルズのポスターを貼っていた。つまりぼくは、マイルスとの仕事が終わった深夜、ビートルズ一色の部屋に帰っていたというわけさ」

(略)

ジョナス・メカスが1985年に発表したドキュメンタリー映画に『時を数えて、砂漠に立つ』という作品があります。(略)なんとマイルス・デイヴィスとジョン・レノンがバスケットをして遊んでいるではないですか!(略)

メカスが撮影したマイルスとジョンの共演シーンは、この作品だけでなく、同じときに撮影されたものが、ジョンのDVD『レノン・レジェンド』などでも使われています(曲は《ノーバディ・トールド・ミー》)。また別のシーンでは、マイルスとベティ・デイヴィス(略)、そしてジョンとヨーコという強烈な2大カップルが一堂に会した映像も残されています(略)

 さて、この奇跡の2ショットが撮影されたのは、1971年の春、場所はセントラルパークとされます。(略)じつはマイルスとジョン、近所に住んでいたのですね。(略)マイルスが(略)77丁目のウエスト・サイド、そしてジョンが同じ区域の72丁目のダコタ・ハウス(略)徒歩で10分もかからない距離です。これでは会わないほうがおかしいですね。

(略)

ブルース・スパイザー『スワン・ソング』

 ビートルズのアメリカ盤を研究しているブルース・スパイザー(ニューオリンズ在住)と、彼が著したシリーズ本に関してはご紹介したことがありますが、先頃、最後の一冊『スワン・ソング』が刊行され、ついにこの壮大なシリーズもジ・エンドを迎えました。ちなみに第1弾のヴィージェイ・レコードに関する本が出たのが1998年でしたから、ほぼ10年がかりの大河ドラマだったわけです。ここで改めてシリーズの内容をお伝えすると、

「Beatles Records on Vee-Jay」

「Beatles' Story on Capitol Records : Singles」

「同 : The Albums」

「Beatles on Apple Records」

「Solo on Apple Records」

「Beatles Are Coming!」

「Swan Song : She Loves You & Other Records」

というわけで、これはもう拍手パチパチの偉業といってもいいでしょう。決してお安い本ではありませんが、すくなくともマニアは絶対に入手しておくべき貴重な資料(略)(はっきりいって、この本をもっていないマニアはモグリです)。

 ぼくもこの本にずいぶんと助けられました。(略)この本があったからこそ書けた文章もすくなくありません。それは正確にいえば、参考になったとか引用させてもらったという意味ではなく、「思いっきり刺激された」といったほうがいいでしょう。(略)この10年間は、このシリーズ本が最大の刺激供給元として、ついついなまりがちになる身体にパワーを注ぎ込んでくれました。

(略)

 定説では、ビートルズのアメリカでの最初のアルバム『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』は、1963年7月22日に発売されたことになっていました。しかしぼくは(略)「そんなことはありえない」と考えていました。(略)[シングルが不発だった]無名のグループのアルバムなど出すわけがないと思ったからです。(略)

 そして出会ったのが、ブルースの最初の本というわけです。狂喜しましたね。そこには、ぼくが長年にわたって抱いていた疑問に関する明確な解答が提示されていたのです。(略)『イントロデューシング・ザ・ビートルズ』は、やはり1963年には発売されず、キャピトルが『ミート・ザ・ビートルズ』を1964年1月20日に発売するという情報を得て、それに便乗するかたちで10日前の1月10日に発売されたものでした。 どうでしょう、これなら辻褄が合います。ブルースが解明してくれなかったら、この定説はいまも事実として定着したままだったかもしれません。

(略)

 彼が解明したことは、定説や伝説に関する疑問点だけではありません。たとえば発売中止になったシングルやアルバムに関しても、なぜ中止になったのかということまで洗い出して(略)教えてくれます。(略)

『スワン・ソング』には、シングル《ガール》がなぜ発売中止になったのか、その答えが載っています(略)

 ビートルズ解散後、キャピトルは、『ロックンロール・ミュージック』という企画盤をひねり出し、その成功を受けて、第2弾として『ラヴ・ソングス』を発売します。その前祝いとして、1977年10月に、A面《ガール》、B面《恋のアドバイス》のシングル発売を決定、ジャケットが印刷されます。ところが同時期にポール&ウイングスのシングル《ガールズ・スクール》のシングル発売も予定され、ビートルズ関連のシングル、しかも3曲も"Girl"という言葉が入っているのは混乱を招くだろうとの理由から、《ガール/恋のアドバイス》のシングルは発売中止になった、というわけです。

 ちなみにポールのシングル、イギリスでは《夢の旅人》がA面でしたが、アメリカでは《ガールズ・スクール》がA面扱いになっていました。つまりイギリス同様、《夢の旅人》がA面であれば、ビートルズの《ガール/恋のアドバイス》は発売されていたことになります。こういうところにまで、ビートルズとアメリカ盤の屈折した関係はつづいていたのですね。

 

ビリー・プレストン

(略)

ビートルズは、とくにジョージ・ハリスンは、ビリー・プレストンの「何に」惹かれたのだろう。自分たちとは異質の「ファンキーなノリ」ということであれば、あえてプレストンである必然性はさほど認められない。「キーボードがうまくて、人柄がいい」というのは事実だったとしても、それだけでビートルズの相手がつとまるとは思えない。とくにジョージの傾倒ぶりに焦点を合わせて思いを巡らせたとき、「ファンキーさのなかに潜む敬虔さ」という要素が浮上してくる。おそらくジョージは、プレストンの演奏と歌に「敬虔な響き」を聴きとったのだろう。つけ加えれば、ジョージに《マイ・スウィート・ロード》を書かせたものは、プレストンの敬虔さだったように思う。そう考えれば、プレストンの初リーダー作が、16歳のときにレコーディングした『シックスティーン・イヤーズ・オールド・ソウル』というゴスペル・アルバムだったことにも納得がいく。同作は62年、当時サム・クックが経営していたダービー(Derby)・レコードから発売された。また65年には、『ヒムズ・スピーク・フロム・ザ・オルガン』と題された2枚目のゴスペル・アルバムも発表している。ただし一般的には、65年発売の『ザ・モスト・エキサイティング・オルガン・エヴァー』が初リーダー作として定着している。

(略)

62年、リヴァプールでビートルズと初めて会う。プレストンはリトル・リチャードのメンバーとして訪れ(略)ビートルズは前座として出演した。

 この時代のプレストンのアルバムで最も注目されるのは(略)66年、2枚目のリーダー作(略)『ワイルデスト・オルガン・イン・タウン』だろう。プロデュースと楽曲の作者として、スライ・ストーン(当時の名前はシルヴェスター・スチュアート)が参加している。これは当時のプレストンがいた位置、ならびにスライ・ストーンの「孵化する前の姿」を知る上で重要なドキュメントになっている

(略)

 オルガンでグルーヴといえば、ジャズの世界ではジミー・スミス、リズム&ブルースの世界ではブッカーTが有名だが、ビリー・プレストンは、そのどちらでもない新たな道を開拓し、ビートルズやローリング・ストーンズと互角に共演できる存在になった。

(略)

デラニー&ボニー

(略)

 ビートルズの「最後」と、4人のソロ時代の「最初」にかけて、最も大きな影響力を与えた存在は、まぎれもなくデラニー&ボニーだったと思う。もちろん、この場合はジョージ・ハリスンという限定つきだが、そのジョージから発展してエリック・クラプトンまで巻き込むムーヴメントを生み出したことを考えれば、デラニー&ボニーは、ロック全体を揺るがす「静かなる震源地」だったといっても過言ではないだろう。 ジョージの『オール・シングス・マスト・パス』とクラプトン(デレク&ドミノス)の『いとしのレイラ』は、極論すれば、デラニー&ボニーとの出会いがなければ生まれていなかった(とくに後者)。さらにデラニー&ボニーは、ジョージやクラプトンをグループのメンバーに迎え入れたことによって、アメリカとイギリスのロックの橋渡しの役割をも果たすことになった。

(略)

[『オリジナル・デラニー&ボニー』を発売前に聴き]ソウルフルな歌と演奏に感動したジョージは(略)アップル・レコードを通じてイギリスで発売しようと奔走する。

 結果的にアップルから発売することはできなかったが、それでもなお入れ込んでいたジョージは、単独でメンバーに加わり、短期間ながらツアーに出る。すでに参加していたデイヴ・メイソン、エリック・クラプトンに次ぐ3人目のイギリス人ミュージシャンがジョージ・ハリスンというのは、どう考えても「ものすごいこと」ではないだろうか。 いわゆるスーパー・グループといえば(略)クリー ムやブラインド・フェイス、あるいはクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなどが一般的に挙げられるかもしれないが、デラニー&ボニーが率いていたグループこそ、「本物のスーパー・グループ」と呼ぶにふさわしいように思う。とくに"アンド・フレンズ"と付け足された一時期のグループのメンバーは、空前絶後といっても決して大仰ではないだろう。 (略)

[デラニー&ボニーに加え]エリック・クラプトン(リード・ギター)、デイヴ・メイソン(ギター)、カール・レイドル(ベース)、ジム・ゴードン(ドラムス)、ボビー・ウィットロック(キーボード)、ジム・プライス(トランペット、トロンボーン)、ボビー・キーズ(サックス)、テックス・ジョンソン(パーカッション)、リタ・クーリッジ(ヴォーカル)、そしてジョージ・ハリスン(ギター)が加わる。

(略)

おそらくジョージは、ボブ・ディランやザ・バンドと同じ匂いのする音楽として、デラニー&ボニーに惹かれたのだろう。

(略)

ジョージ以上に感銘を受けたのがクラプトンであり、カール・レイドルやボビー・ウィットロックらとデレク&ドミノスを結成したことは、なによりもクラプトンの没頭ぶりを物語っている。

(略)

ピーター・アッシャーとウィルソン・フィリップス

(略)
[妹のジェーンがポール]と交際していたことから、デビュー曲の《愛なき世界》をはじめ、ポールとジョン・レノンが書いた曲を贈られ、次々とヒットを飛ばした。

(略)

たまたま妹がポールと付き合っていたことの幸運の「おこぼれ」をもらったようにも受け取れる。(略)[だが]その後のプロデューサーとしての成功を思えば、いま少し音楽的な側面に目が向けられてもいいような気がする。

(略)

69年、ビートルズがアップルを興したことによってプロデューサーに転身、ジェームス・テイラーのデビュー作を制作する。幸運にも(といってもいいだろう)、このアルバムが商業的に失敗したことによって、アップルとイギリスを離れ、ジェームス・テイラーが住んでいたアメリカ西海岸へと活動の拠点を移す。

 2作目『スウィート・ベイビー・ジェームス』がヒットしたことによって、プロデューサー=ピーター・アッシャーは、アメリカの音楽業界で、かつてのピーター&ゴードンのとき以上に脚光を浴びる。以後アッシャーは、ジェームス・テイラーをはじめ、リンダ・ロンシュタット、ダイアナ・ロス、シェール、ランディ・ニューマン、トニー・ジョー・ホワイト、10,000マニアックス、ニール・ダイアモンド、ボニー・レイット、マイケル・シュリーヴ、ビリー・ジョエル、オリヴィア・ニュートン・ジョンのアルバムや楽曲をプロデュースし、ポップス界を代表する売れっ子プロデューサーとなる。

(略)

[ウィルソン・フィリップス『カリフォルニア』]

ピーター・アッシャーは、このアルバムで、ある意味ではウィルソン・フィリップスを活用することによって、自分の夢を実現させたように思える。(略)ピーター&ゴードンとしての青春時代からアメリカ西海岸への移住、そして常に時代のサウンドトラックとして流れていたママス&パパスやビーチ・ボーイズの音楽に対する愛情といったものが凝縮されているように聴こえる。

(略)

リンダ・ロンシュタット(略)ニール・ヤング、ジョニ・ミッチェル、バーズ、フリートウッド・マック、ママス&パパス、ヤングブラッズ、ジャクソン・ブラウン、ビーチ・ボーイズなどのカヴァーが次から次へと、まるでラジオのヒットパレードのように流れてくる。ビーチ・ボーイズの《ダンス・ダンス・ダンス》ではピーターとミシェル・フィリップスがコーラスに加わっている(つまりは変型のピーター&ゴードンとママス&パパスの共演が実現した?)。

 さらに最後に収録されている、やはりビーチ・ボーイズの《イン・マイ・ルーム》では、ブライアン・ウィルソンがウィルソン・フィリップスといっしょにヴォーカルを聴かせる。(略)親子共演をピーター・アッシャーがプロデュースするという不思議な、しかしワクワクするような光景。いうまでもなく、その背景には、ブライアン・ウィルソンとポール・マッカートニーの関係、そのポールとピーターとの関係など、さまざまな物語が織り込まれている。

(略)

 

ブレイズ+17(紙ジャケット)

ブレイズ+17(紙ジャケット)

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ハーマンズ・ハーミッツ『ブレイズ』

(略)

[『ブレイズ』の一曲目は、ビートルズと親しかったドノヴァンが書いた《ミュージアム》]
ドノヴァン自身も吹き込んでいるが、バックトラック=伴奏はハーマンズ・ハーミッツのヴァージョンとまったく同じものが流用されている。(略)ドノヴァンのヴァージョンは『メロー・イエロー』に収録)。(略)『ブレイズ』は67年に発表された。しかしイギリスでは当時発売されず、すでにハーマンズ・ハーミッツの人気が母国であるイギリスでは下火になっていたことを物語っている。

(略)

サウンド的には、『ラバー・ソウル』と本家『ペパーズ』の一部が間接的に投影されているように思う(いいかえれば『リヴォルヴァー』の要素はまったくない)。とくに《ミュージアム》では、かすかにシタールが鳴り響き、インドとサイケデリックという当時流行のサウンドがうまく溶け合っている。

(略)

サイケデリックな誘惑とポップな感覚の見事なバランスがこのアルバムの最大の魅力だろう。そして67年当時、このような微妙なアルバムを作りえたのは、おそらくハーマンズ・ハーミッツしかいなかった。事実はどうあれ、そう実感させるだけの説得力がこのアルバムにはある。

(略)

マーク・ボラン

(略)

ビートルズのメンバー、とくにジョンとリンゴがマーク・ボラン&Tレックスについて語った言葉や賛辞も、アップル上層部としてのものだったのか、それとも純粋に同業者としての視点に立ったものだったのか、いまだによくわからない部分がある。

(略)

アップルの部門で最も高い収益を上げていたのは(略)ビートルズを(略)抱えていたレコード部門だった。一方、映像部門のアップル・フィルムはヒット作がなく、閉鎖の危機に見舞われていた。そこで72年、リンゴを監督に、マーク・ボラン&T・レックスのドキュメンタリー・フィルム『ボーン・トゥ・ブギー』が制作される。つまりビートルズは、自分たちが解散したことによってできた空席にマーク・ボラン&T・レックスを座らせようとした。あるいはもっと単純に、フィルム部門の不振をマーク・ボランの人気に便乗して挽回しようとしたのかもしれない(当時ジョンやリンゴは、マーク・ボラン&T・レックスをビートルズの後継者として見立てたかのような発言を残しているが、前述したように、どちらの立場に立った発言なのかは不明)。

(略)

ジャッキー・デシャノン

(略)

 60年代当時、ジャッキー・デシャノンはアメリカを拠点に活動していたが、イギリスにおける楽曲の管理と著作権は、ビートルズと同じ会社に帰属していた(略)。一方、アメリカでは、ジャッキーとビートルズは同じ系列のレコード会社(キャピトル・レコード)に 所属していた。

 以上のような経緯から、ジャッキーは、ビートルズの初の大々的なアメリカ・ツアー(1964年8~9月)の出演者として参加する。扱いとしては前座だったが、ビル・ブラック・コンボ、エクサイターズ、ライチャス・ブラザーズそしてジャッキーという出演順は、ジャッキーに対する敬意と当時のアメリカにおける注目度を物語っている。

 ジャッキーの回想によれば、ツアー初日(略)ポールは、「キミのデモ・テープは全部聴かせてもらっていたよ」といったという。

(略)

[ポールはジャッキーに]ブライアン・ウィルソンと同質の才能と「アメリカ西海岸のテイスト」を感じていたのではないだろうか

(略)

このツアーについて、ジャッキーは「最も印象に残った、ビートルズに関するふたつの出来事」として、次のように回想している。

 「ひとつは、ジョージから《ホエン・ユー・ウォーク・イン・ザ・ルーム》のギター・リフを弾いてほしいといわれたとき。もうひとつは、ジョンが私の前で《アイム・ア・ルーザー》を歌い、『どう思う?』と聞かれたとき」

(略)

ジョンとしては、才女の意見を聞いてみたかったということかもしれない。一方、ジョージは、ただたんに《ホエン・ユー・ウォーク・イン・ザ・ルーム》が好きだったということだろうが、同曲や《ニードルズ・アンド・ピンズ》など、ジャッキーのレパートリーをカヴァーしていたサーチャーズとジョージの関係を思うとき、このジョージの個人的なリクエストは、たんなる「好き」以上のものがあったとも考えられる。

 以下は邪推に近い想像だが、ジョージは《ホエン・ユー・ウォーク・イン・ザ・ルーム》をヒントに新しい曲を書こうとしていたのではないだろうか。バーズの《リムニーのベル》を元に《イフ・アイ・ニーディッド・サムワン》を書いたように。

 そして、ジョンもまた同じようなことを考えていた。その結果、生まれたのが《チケット・トゥ・ライド》ではないだろうか。《ホエン・ユー・ウォーク・イン・ザ・ルーム》と《チケット・トゥ・ライド》の相関関係に ついてはあまり言及されることはないが、前者の冒頭のメロディー(リフ) をヒネれば後者に転化するように思う。

 ともあれ、ジャッキーとジョージそしてサーチャーズとバーズという「四角い交流」は、12弦エレクトリック・ギターとフォーク・ロックそしてビートルズの側に立てば、当時の新作『ラバー・ソウル』(とくにアメリカ盤)という複数の視点とキーワードによって、じつに多くのことが想起され、想像力を喚起する要素を秘めている。

(略)

デイヴ・クラーク・ファイヴ

 ビートルズのライヴァルといえば、ローリング・ストーンズ。

 というのは、ごく最近の「常識」で、少なくともぼくが洋楽を聴きはじめてから約45年の間に、ストーンズがビートルズのライヴァルになった、あるいはなりえたことは一度としてなかった。つまりストーンズは不人気時代が、それほど長かった。

(略)

 では誰がビートルズのライヴァルだったのか。それはもうヴェンチャーズに決まっている。時期によってはヴェンチャーズのレコードのほうが売れ、ビートルズを完全に追い抜いたこともある。

 一方イギリス勢では誰がライヴァルだったかということになると、これはデイヴ・クラーク・ファイヴしかいない。しかもDC5の場合は、ヴェンチャーズのように「日本だけ」という地域限定型ではなく、アメリカでも人気を呼び、それはビートルズに匹敵あるいは場合によっては凌駕するものだった。

(略)

 冒頭のビートルズVSストーンズの話題に戻れば、ビートルズのお坊ちゃんに対して、ストーンズがあえて不良を演じたことはよく知られているが、アメリカでは、ビートルズが「不良」とみられていたふしがあり、デイヴ・クラーク・ファイヴが逆に「お坊ちゃん」として厚遇された面がある。つまりビートルズはストーンズの役柄を与えられ、しかしながらストーンズはまだその存在をアメリカで広く知られていなかった。

 そういう状況下、DC5が「おいしいところ」を全部もっていったとも考えられる。64年から66年のわずか2年間とはいえ、DC5が異常ともいえる人気を呼んだ背景には、各家庭の親の理解と体制側の「DC5なら大丈夫」とする大いなる誤読と期待があった。

 そうした「安心・安全」のマークに加えて、DC5の音楽には、「わかりやすい熱狂」が完備されていた。そしてそれは他のグループには求められないものだった。

 ビートルズをはじめとするイギリス出身のグループは、事前に申し合わせたようにギター中心に編成されていたが、DC5は、ギターよりもサックスとオルガン、そしてなによりもデイヴ・クラーク自身が叩きに叩きまくるドラムスを前面に押し出し、より具体的なエキサイトメントを提供した。しかもそれをお坊ちゃん風ユニフォームを着て歌い演奏する。そんなグループは、DC5以外にいなかった。

 アメリカ進出後のDC5の快進撃を物語る記録をいくつか挙げておこう。まずはツアーから。DC5は64年3月から64年末にかけて、計6回もアメリカ・ツアーを行なった。これはビートルズの2倍にあたる。人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』には計18回も出演した。これはいかにDC5が、アメリカの茶の間に融け込んでいたかを示している。

(略)

 ところでビートルズとDC5に交流はあったのだろうか。マイク・スミスによれば、初対面は63年、イギリスで放送されていた人気テレビ番組 『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』(略)主役は、《悲しき街角》の(略)デル・シャノンだった。ビートルズとDC5のメンバーはその場で旧友のように打ち解け、番組収録後は近くのパブで盛り上がったという。

レイモンド・ジョーンズは実在するのか?

(略)

 もしもレイモンド・ジョーンズが(略)レコード店「ネムズ」に行って《マイ・ボニー》のレコードについて質問していなかったら、おそらくブライアン・エプスタインとビートルズが出会うことはなかった。

(略)

 ぼくは長く「実在していない」説をとっていた。たしかにエプスタインの回想録には、レイモンド・ジョーンズとのやりとりが詳細に記されているが、それが詳細であるだけに逆に怪しいと睨んだわけです。はたしてレコード店主が、レコードを探しにきた青年の名前や住所を鮮明に覚えてあるものだろうかとか、逸話として「できすぎている」ことが、どうにも腑に落ちなかった。(略)

それがアリステア・テイラーが書いた内幕本を読んだときに変わった。(略)テイラーは「レイモンド・ジョーンズは自分だった」と告白しているのです。その理由として、たしか「注文するのが面倒だったから別の名前を使った」とか、そのようなものでした。ぼくはここを読んで、怪しいと思いました。理屈に合いません(ですよね?)。(略)

 案の定、このアリステア・テイラーの回想録がひとつのきっかけとなって、ついにレイモンド・ジョーンズ本人が登場することになりました(後述のインタヴューで本人がそういっています)。

(略)

 当時ジョーンズ青年は、KBプリントという印刷所で働いていた。そして昼休みになると、「キャヴァーン・クラブ」に行き、いろいろなバンドのライヴを聴いていた。(略)

 初めてビートルズを聴いたときは、「ぶっ飛ばされた」そうです。それまで見たこともないアクション、聴いたこともない歌と演奏。その日はピー ト・ベストが《マッチボックス》を歌ったとも。

 ではジョーンズはどのようにして、ドイツでしか発売されていない《マイ・ボニー》の存在を知ったのか。(略)マーク・ピーターズ&サイクロンズのリード・ギタリストをつとめていた(略)義兄のケニー・ジョンソンから、ドイツでビートルズがレコードをつくったという情報を得るのです。そして次の日曜日、ジョーンズは「ネムズ」に行き、エプスタインにあの歴史的な質問をします。

 そのとき、エプスタインはこう聞いたそうです。「彼らは何者なの?どこで演奏しているの?それはどういう音楽なのかな?」。(略)

 次に「ネムズ」に行ったときには《マイ・ボニー》が入荷しており、ジョーンズは念願のレコードを手に入れる。その2週間後、「キャヴァーン」に行くと、専属DJのボブ・ウーラーが《マイ・ボニー》のレコードをかけていたそうです。

(略)

船員が持ち帰ったレコードという定説

[ビートルズの情報源は、船員がアメリカから持ち帰ったレコードという定説]

 ぼくは前から、このことに疑問をもっていました。果たして一般の船員が、マニアでもないのに黒人が歌っているような、アメリカでさえマイナーなレコードをそんなに大量に持って帰ってくるものだろうか。

(略)

どうやら「ネムズ」で聴いて発掘していたらしい。つまりマニアックなブラック・ミュージックの多くは、わざわざ船員が持ち帰るまでもなく、イギリスでリリースされていた、そして「ネムズ」は発売されたレコードはすべて取り揃えることを売り文句にしていました。これで謎が解けます。そしてむしろこのほうが自然に思えます。だからこそカヴァー合戦のような状態が引き起こされたわけです。

 そうなってくると、ミック・ジャガーがアメリカのチェス・レコードから通信販売でレコードを取り寄せていたという話もがぜん怪しくなってくるのですが、ひょっとしてLPはイギリスではあまり出回っていなかったのかもしれません。ということは、ビートルズはシングル派、ストーンズはアルバム派だったのかも、という極論も成立しないことはないのかも。

(略)

ビートルズの世代が青年期を迎えたころ、すでにリヴァプールは廃れ、貿易港として栄えた時代は遠い過去になっていた。ビートルズの親の世代こそが、船員や兵隊が持ち帰る、当時イギリスで発売されていなかったレコードに喜び、ダンスに興じていた。

(略)

したがってポール・マッカートニーの次のような発言は、正確なものではなく、親の世代の逸話が「自分のもの」にすり替わっている。(略)「(略)大西洋を越えて帰ってくる船員たちは、アメリカ土産としてレコードを大量に持って帰ってきた。ぼくらはそれを聴いては、ああでもないこうでもないと議論し合い、レコードを参考にギターやドラムスの練習をした。当時のリヴァプールは、音楽の坩堝のようだった。(略)」

 一方(略)リンゴの次の発言は、先に挙げたポールの発言を否定するものとなっている。「ぼくにとっては、カントリー&ウエスタンのハンク・ウィリアムズがヒーローだった。ぼくは、船員がアメリカから持って帰ってきたレコードの中古を持っていた。オリジナル盤だった。リヴァプールは、イギリスにおけるカントリー&ウエスタンの中心地だったんだ」

 この発言の「中古」という部分に注目したいと思います。そしてロックンロール以前の話だったことも。

(略)

ビートルズの世代の若者がアメリカン・ポップスに魅せられ、エルヴィス・プレスリーやチャック・ベリーのロックンロールに夢中になるころ、イギリスではアメリカのレコードが大量にプレスされ、イギリス盤として国内に出回るようになっていた。したがって船員がわざわざアメリカから持ち帰る必要はなく、またそのような時代もとっくに去っていた。

(略)

マージーサウンドの生みの親

 結論からいうと、ビートルズを筆頭とする「マージー・サウンド」と称された一群のグループと音楽は、ブライアン・エプスタインが経営していたレコード店「ネムズ」(NEMS : North End Music Store の略)から生まれた。というのが、新しい情報に基づいた、かなり真実に近い推論です。

(略)

過去の在庫も含めて、それらのほぼすべてを取り揃えていたレコード店ともなると、そうは多くなかった。最大都市のロンドンでさえ、かぎられていたでしょう。ここでリヴァプールとその他の都市や町と大きな差が出る。つまりリヴァプールには「ネムズ」があり、その「ネムズ」はイギリス屈指の在庫数を誇っていたからです。エプスタインが自伝やその他のインタヴューで次のように語っています。「私が知っていたレコード店は、お粗末な店ばかりでした。あるレコードが有名になると、すぐ在庫が切れてしまった。どんなレコードでも、たとえどんなに知られていないレコードでも必ず揃っているようにするのが、私の狙いでした。社員に対しては、どんなレコードであろうと絶対に"入手不可能"という言葉を使ってはならないこと。お客には、どんなに時間がかかっても当店が必ず入手すると伝えるよう、指示しました」

(略)

ジャズのブルーノート・レコードに関しては、ニューヨークのブルーノートの本社からオリジナル盤を取り寄せ、常に全作品を完備していたといいます。それを思えば、より若者向きのブラック・ミュージック系のレコードが取り揃えられていたとしてもおかしくはないでしょう。ちなみにエプスタインのアシスタントとして「ネムズ」に勤務していたアリステア・テイラーは『ビートルズ:シークレット・ヒストリー』で次のように記しています。

 「ブライアンは、不器用だったのかもしれないが、とにかくすべてをきちんとしていないと気がすまないところだけは誰にも引けをとらなかった。だからイギリス北西部で最高のレコード店になった。やがてイギリス北部で最高の店になり、最後はイギリス国内でトップのレコード店になったんだ」

 アリステア・テイラーによれば、エプスタインがビートルズとマネージメント契約を結んだ60年代初頭には、「ネムズ」の店舗はリヴァプール内で9店舗に達し、取り扱いレコードの総数は常に50万枚を維持していたといいます。

(略)

店舗を拡大・拡張していた「ネムズ」には、一度に何人もの客に対応できるように複数の試聴コーナーが設けられていた。そしてビートルズは、その試聴コーナーで、気になるレコードを片っ端から聴いては、「ああでもないこうでもない」と意見を戦わせていたといいます。もちろん、それはビートルズだけではなかった。リヴァプール周辺の無名のグループが「ネムズ」にきては、タダで聴き、情報を交換し合い、切磋琢磨していたのです。まさに「マージー・サウンド」誕生の瞬間です。

(略)

ピート・ベストが回想しています。 「ぼくたちはカウンターで働いている女の子たちと仲よくなった。試聴コーナーに行くと、彼女たちは最新のレコードを何枚も聴かせてくれた。気に入った曲があれば、急いでコード進行を書きとめ、レコードを買わないでさっさと帰った。忘れてしまう前にリハーサルをして曲を覚えるためだった。ブライアン・エプスタインはイヤな顔をしていた。店主としては当然だろうね」

(略)

チャック・ベリー『セントルイス・トゥ・リヴァプール』

(略)

今回は逆にチャック・ベリーがビートルズを筆頭とする ブリティッシュ・インヴェイジョンに影響を受けて作ったアルバムをご紹介したいと思う。

(略)

『セントルイス・トゥ・リヴァプール』は(略)ブリティッシュ・インヴェイジョンが猛威をふるっていた64年の後半に(略)名門チェス・レコードから発売された。

(略)

ビートルズが襲来しつつあったとき、チャック・ベリーは、未成年者を他州に連れて行った罪に問われ、刑務所に入れられていた

(略)

[出所して]驚いたことだろう。なにしろイギリスの若者たちが自分の古い曲を「かなりうまく」カヴァーしているのだから。

(略)

「これは黙っているわけにはいかない」と考えたのも当然だろう。しかしそれは否定的な意味ではない。自分の音楽が、出身地であるセントルイスからリヴァプールまで届いていたんだという感動。どこの誰だか知らないが、とにもかくにも髪の毛の長いイギリスの白人青年たちが自分の曲を歌い演奏しているという、あり得べからざる現象に対する驚異。

(略)

 ビートルズと「イギリスの侵攻」に対する回答ともいうべき《リヴァプール・ドライヴ》は軽快なシャッフル・リズムに乗ったロックンロール。意外にもインストゥルメンタル・ナンバーとして料理され、冒頭からベリーの長いギター・ソロが堪能できる。

(略)

アルバート・アイラー

 ぼくたちは、いつごろまで「ジョン・レノンは前衛であり、ポール・マッカートニーは保守的である」というふうに思い込んでいたのでしょう。そしていつごろから、「じつはそうではなく、どうやら反対のようだ」ということを知らされた、あるいは気づいたのでしょう。

(略)

「ジョン=保守的、ポール=前衛的」と逆転したことによって、それまでぼやけていた部分がくっきりと見渡せるようになった。それまで自分のなかでビートルズに対して説明がつかなかった部分や辻褄の合わなかったあれこれが、あっというまに整理がつき、より身近にビートルズが感じられるようになったのです。

 ジョンは保守的だったがゆえに、跳躍台としてヨーコを必要とし、そのヨーコの志向に合わせて前衛の旗手のようなフリをしたと結論づけるのはいかにも短絡的ですが、そのように考えを拡大させていくと、ジョンがとった言動のほとんどに納得がいくように思います。音楽的にも理解が進む。(略)『ダブル・ファンタジー』は、そういう意味で、いかにもジョンらしい着地点だったと思います。

 一方、ポールの、王道を歩んでいるようにみえて(略)とんでもなく挑戦的なことを平然とやってのける精神と生き方そして創造性の質は、明らかに「前衛」といえるものでしょう。ファイアーマンの諸作や『リヴァプール・サウンド・コラージュ』を思い出してください。

 さてビートルズ時代で最も前衛的な作品といえば(略)《ユー・ノウ・マイ・ネーム》あたりが前衛曲投票の最上位かその前後に挙げられるのではないでしょうか。

(略)

この曲の前衛色をいっきに高めているのが、ブライアン・ジョーンズが吹く、ヘンテコなサックスです。この曲には、いまのところショート・ヴァージョン(シングルになったヴァージョン)とロング・ヴァージョン(『アンソロジー』収録)がありますが、どちらもヘンテコで、それはもう前衛の極北です。

 ブライアン・ジョーンズが吹くハチャメチャなサックスをいちばん気に入っていたのがポールだということを知ったのも、ずいぶんあとになってからでした。そしてそのとき、前述した「じつはポールのほうが前衛好きだった」という事実と合体したのでした。

(略)

あるとき、ポールが「マイ・フェイヴァリット・ミュージシャン」の一人として、アルバート・アイラーの名前を挙げていたのです。これには驚きました。(略)まさかアイラーを聴いていた、しかも好きだったとは。

(略)

ジャズの分野では「フリージャズの代表選手」のように認識されています。

(略)

 ぼくはアイラーの音楽とジミ・ヘンドリックスの音楽は背中合わせの関係にあり、底流ではつながっていると思っています。つまりジャズとロックの最先端同士を本立てのように見立てて、その本立てに挟まれた空間のなかにブラック・ミュージックの歴史が凝縮されている。いいかえれば、アイラーはロックの耳にも聴きやすく、まったくフリー・ジャズではないというのが、少々極端ではありますが、ぼくのアイラー観ではあります。

(略)

 ジミ・ヘンドリックスに心酔していたポールが、だからアイラーを好んだという話も非常に納得がいきます。アイラーのサックスは、通常のサックスの音色を発さず、何か得体の知れないサウンドとなって襲いかかってきます。しかし根底にたっぷりの歌心があることによって、ノイジーですが騒音として聞こえず、過激ですが、訴えかけてくるものは十分にやさしい。この落差がアイラーの魅力でもあります。

 ポールが好きなアルバート・アイラーに興味をもった人には、デビュー・アルバム『マイ・ネーム・イズ・アルバート・アイラー』をお薦めします。(略)メロディーはコナゴナに破壊されたかと思いきや、とんでもない経路を経て、ちゃんとつながっているという「本能的に計算されたムチャクチャ」が圧倒的にすばらしい。恐れずに聴いてください。ポールの音楽的志向のど真ん中に一歩、近づけるかもしれません。

スティーヴ・ガッド

(略)

彼らのルーツといえば(略)黒人ブルースが挙げられますが、クラプトンもストーンズも、たしかにブルースを愛聴していたのでしょうが、実際に生み出し、表現したものはブルースと遠い場所にある、彼ら自身の音楽でした。

(略)

 そこで踏み絵のような存在として登場するのが(略)スティーヴ・ガッドです。ビートルズ関係では、ポール・マッカートニーといちばん近いようです。ポールの『タッグ・オブ・ウォー』や『パイプス・オブ・ピース』ではガッドがドラムスを叩いていました。当時は意外に感じたものです。というのもポールはリンゴのような「バラけたサウンドを構築するドラマー」が好きだと思っていたからですが(現在のエイブ・ラボリエル・ジュニアも同じタイプだと思います)、ガッドはその正反対のスタイルをもったドラマーだったのです。これはポールの方向性が大きく変わったことを示唆していましたが、ぼくには成功とは思えませんでした。

 ここで話は戻ります。なによりも「正しく叩くこと」を身上としているスティーヴ・ガッドを積極的に起用しているのが、エリック・クラプトンです。レコーディングは別として、ツアーでは決まってガッドが起用されています。そしてぼくはこの点に、前述した「原点と結果」の典型例を見る思いがするのです。それはまたクラプトンが、一般的にいわれるほどにはブルースから影響を受けていないことを物語っています。その意味で、クラプトンのルーツや原点をブルースとするのは、まちがいではないでしょうが、しかしながら正解ともいえないような気がします。

 結論をいえば、スティーヴ・ガッドは黒人ブルースのレイジーなノリやグルーヴと正反対に位置するドラマーであり、ガッドを起用するクラプトンは、したがって(少なくともガッド起用以来)ブルース的なるものを求めていないということになります。それほどまでにスティーヴ・ガッドというドラマーは技能的に完璧であり、ブルースのようなツッコミを許さない、それはそれは厳しいタイプなのです。

(略)

スティーヴ・ガッドはアメリカ人ですが、イギリス人ミュージシャンの「ギター以外の余白」に何らかのヒントを与える最も重要な存在だと思います。それはある意味でイギリス人ドラマー以上に。

"音楽を書く"同志 あとがきにかえて

ザ・ビートルズ・クラブ代表 斉藤早苗

 中山さんとご一緒に仕事をさせていただいたのは、『カインド・オブ・ブルーの真実』が最初でした。(略)「御社はビートルズの本ばかり出されていますが、ジャズもいいんじゃないですか?」というようなオファーを頂いたと記憶しています。

(略)

 それまで中山さんは、多くの音楽書(主にジャズ関係)を書かれるかたわら、『ビートルズを笑え!』という書籍を出されていて、すでにビートルズ・ファンであることは知られていました。ただ、その挑発的なタイトルから反感を買ったりし、ファンにとっては異端の存在だったかもしれません。

(略)

 書くという情熱だけでなく、書籍を出すということへの熱の高さは、文章に携わるものなら誰でも見習うべきところがあったと思います。中山熱を浴びた私は、『カインド・オブ・ブルーの真実』を出版するべく、レコード会社に出向いたり、写真使用の許可を取ったりと、まるでアシスタントのように、言われるがまま行動しました。中山さんの関わった書籍だと聞いて、決して快く受け入れてくれるところばかりではなかったのも、いまでは懐かしい思い出です。

(略)

 音楽はいつまで読まれるのか分かりません。でも、中山さんのように人生をかけた方がいらっしゃることで、音楽がさらに世界に響くようになっていったのではないでしょうか。

 中山さん、ありがとうございました。

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