トッド・ラングレンのスタジオ黄金狂時代 その4 XTC

前回の続き。

XTC《スカイラーキング》話がたっぷり。

トム・ロビンソン・バンド、ピーター・ゲイブリエル

 チューブスのオケ録りを終えたトッドは、すぐさま次のプロジェクト――パティ・スミス・グループのアルバムに移行した。同時に彼は奇跡的に時間を捻出し(略)トム・ロビンソン・バンドのセカンド・アルバム《TRB2》もプロデュースしている。きっかけはトロントでのライヴ終了後に、トッドとロビンソンが顔を合わせたことだった。

(略)

たぶんトムは、トッドと一緒にレコードをつくって、一度も不快な思いをしなかった数少ない人間のひとりだろう。(略)

《TRB2》には〈ブリィー・フォー・ユー〉というロビンソンとピーター・ゲイブリエルの共作曲が収められているが、このふたりは一度、ヴェニューのショウにも飛び入り出演している。トッドによると、彼とゲイブリエルがはじめて出会ったのは一九七六年(略)「ピーターがベアズヴィル・スタジオを訪ねてきたんだ、ぼくにプロデュースの打診をするためにね。スタジオで一緒に腰かけ、彼が持参した新曲を何曲か聞いたのを覚えている。とてももの静かな、内気な男で、なんだかおばつかない感じがした。なににつけても、この先に自信が持てていないというか。たぶん彼はぼくに“よすが”になるものを求めていたと思うんだけど、正直ぼくには、その時点でどうすべきなのか、判断がつかなかった。たしか、最終的にボブ・エズリンを起用したはずだ。そのあとも、思い出したように電話がかかってくることがあって、そのたびになにか一緒にできないだろうかと話すんだけど、なんやかんやの理由で、一度も実現していない。だから彼とぼくのあいだには、ちょっとしたつながりがあるんだよ。

パティ・スミス・グループ《ウェイヴ》

 一九七八年の一一月までに、パティ・スミスとトッド・ランクレンをめぐる状況は(略)はじめて出会った一九七〇年以来、いずれも大きく変化していた。当時のスミスはニューヨークのアート・シーンに足を踏み入れたばかり

(略)

セント・マークス・ポエトリー・プロジェクトで朗読やパフォーマンスをおこない

(略)

トッドも、そうしたショウの常連のひとりだった。「ぼくは彼女のショウの激しさに魅了された(略)インプロヴィゼイションがはじまると、それはもう、たったひとりの人間がやっているとは思えないぐらい激烈で、客席をとりこにしてしまう。そして彼女のパーソナリティが持つ、さまざまな側面を見せつけていくんだ」

(略)

[パティ回想]

「わたしは書店で働きながら、詩を書いたり、それを人前で朗読したりしはじめたところだった。

(略)

数ある将来の選択肢の中で、コメディアンの道が有望に思えていた時期もあったと彼女は認める。「ジョニー・カーソンが大好きだったので、トッドに秘密の夢を打ち明けたの。いつかはジョニーに代わって『トゥナイト・ショウ』の司会をやってみたい、って。そしたらトッドはコネがあるからと言って、わたしを実際に『ローワン&マーティンズ・ラーフ・イン』に出そうとしたのよ!(略)

トッドはわたしの人生を出たり入ったりしていたけれど、ずっと大切な友だちだったわ。〈ビー・ナイス・トゥ・ミー〉を書いたときには、レコードが出る前にカセットで聞かせてくれたんだけど、あの時はこんな特権が許されていいのかしらって、すごくワクワクしたのを覚えている。彼がわたしのところを訪ねてきて、ふたりで買ったカーヴェルのアイスクリームを、全部いっしょに食べてしまったこともあった。街を出ていることが多かったけど、わたしが朗読やパフォーマンスをやるときは、かならず顔を出してくれたわ」

 曲づくりの道に進んではどうかというボブ・ニューワースのアドヴァイスを受けて、スミスは自作の詩を歌詞に書き替えはじめ(略)

その間もずっと、スミスはロック評論家というもうひとつの顔を通じて、トッドの音楽を熱烈に支持しつづけていた。

 「ぼくがいろんなレコードを出すようになると」とトッドはふり返る。「彼女は、たとえば小さなバンドエイドの詩[《魔法使いは真実のスター》のジャケットに封入]のようなかたちで貢献してくれただけじゃなく、熱烈なレヴューも書いてくれた。だからほんと、彼女にはものすごく助けられている」

(略)

[アリスタからの]三枚のアルバムで、ランボーに触発されたスミスのポスト・ビートニクな文学的パンク・ロックは、彼女とニューヨークという街の存在をロック界に知らしめると同時に、女性ロック・スターのルックスに対する概念を永遠に変えてしまった。

 遠方からながめながら、トッドはスミスの「パワーとカリスマ」のファンでありつづけたが、彼女がより一般的なロック・シンガーになるにつれて、初期のワン・ウーマン・ショウにあった繊細さと親密さが薄れていったことを、ひそかに嘆いてもいた。それでも彼女がロック・バンドを組むのは、必然だったのかもしれないと彼は言う。「つまりね、当時は誰もがそうしてたってことさ」と彼は嘆息する。「でもけっこう残念なことではあったけど。

(略)

ファンとして、彼女のバンドを追いかけてはいたんだけれど、七〇年代に出たレコードではいっさい、ぼくが彼女をプロデュースする話は持ち上がらなかった」

(略)

 

[しかし《イースター》]のリリースから数か月後に、スミスのほうから旧友のトッドにアプローチがあった。

(略)

スミスに言わせると《イースター》は、新たな関係のパワーに触発された、とても「肉体的な」レコードだった。

 「フレッド[・スミス]と出会い、この男が自分の人生にいてくれることで、すごく力を得た気持ちになれたの。《ビコーズ・ザ・ナイト》はブルース・スプリングスティーンとの共作だけど、わたしの歌詞はフレッドのために書いたものだった。

(略)

 当時はほとんど誰にも知られていなかったが、パティ・スミス・グループの四枚目のアルバムは、同時に彼らの最終作となるアルバムだった。スミスはひそかに、やっとのことで勝ち得た成功を犠牲にしてでも、デトロイトに居を移し、「フレッドと引きこもる」決意を固めていた。《ウェイヴ》というアルバムのタイトルは、スミスにとって、さまざまな意味合いを持っていたが、中でもとくに重要だったのが、さよならと手を振る行為だったと彼女は言う。一周して原点に戻ったスミスは、最後の作品をつくることになった今こそ、初期の時代からの友人――現在ではプロデューサーとして、独自の成功を収めている友人を招き入れ、共同作業をするべき時だと感じていた。

 スミスのためにいい作品をつくることはもちろんだが(略)人間関係の面でもプレッシャーは相当なものだったとトッドはふり返る。「(略)メンバーにはいっさいその話をしていなかったし、ぼくからも話さないでくれと言われてね。だからぼくは、けっこうむずかしい立場に置かれていた」

「レニーだって知らなかったの」とスミス。「トッドには話したと思う。彼なら黙っていてくれると思ったから。(略)

 トッドによると、当時のスミスは、精神的にも肉体的にも「ふたつの世界のあいだ」を行き来していた。「彼女は半分がこっち、半分があっちにいた。少しでも時間が空くと、デトロイトに戻っていたからね。フレッドは一度も現場に姿を見せなかったけど、影の共作者的存在になっていた。録った曲はそのたびに彼女がフレッドに聞かせ、ふたりで入念にミックスをチェックする。そして自分の意見の中に、彼の批判を取り入れるんだ。パティがなにかで不満を言うときは、たいてい、フレッドがあまりのってくれなかったから、というのが理由だった。ぼくにはちょっと意外だったけど、彼女はずっと、自分のやってることに自信を持っていたからね。だからもう彼女は片足をドアの外に出していたと思って聞けば、あのレコードも理解しやすくなるかもしれないな」

(略)

 《ウェイヴ》は、楽しいと同時に辛い旅だったとスミスはふり返る。「おかしな話だけど(略)《ホーセス》をレコーディングする前は、レコードなんて一枚もつくれないんじゃないかと思っていた。それが自分の夢だったこともないし。わたしはとにかくアーティストか、本かなにかを書く人になりたかったの。なのにもっとレコードをつくってくれないかと言われて、《ウェイヴ》のころになると、とうとうわたしにはなにも寄与できるものがない、というところまで来てしまった。たぶん、あのころのわたしには、それぐらいしか言うことが思いつけなかったし、それ以外に言うこともなかったのよ」

 レニー・ケイはまた、トッドを見てプロデュースのやり方を学んだとも語る。「(略)『ほしいものがわかっていたら、手に入れてやる.…ほしいものがわかってなかったら、代わりに見つけてやる』というトッドのやり方には、多大な創造力が必要とされるんだ。《ウェイヴ》のトッドは、そんなに目立ってないと思う――彼は自分のまわりで起こることを、すべて起こるがままにしていた。今、ぼくがレコードをプロデュースするときは、影の男でいたいと思うし、《ウェイヴ》の時のトッドは、たしかにそうだった。彼はぼくらを通じてしゃべっていたんだ。トッドはすばらしい冒険心の持ち主だし、あのレコードもまちがいなくそれを反映している」

 もし親しい友人同士でなかったら、パティ・スミスにあそこまでスタジオで苦労を強いることはなかったかもしれない、とトッドは言う。「音楽のつくり方をパティ・スミスに指図するのは、ぼくの仕事じゃないからね。でもあのアルバムはけっきょく、大部分がスタジオでかたちになっていったし、結果にはみんな満足そうにしていたよ」

 締めくくりにパティ・スミスは、このレコーディングを次のようにふり返る。「奇跡のようだった。だって一九七〇年にウッドストック・プレイハウスに足を踏み入れたときには、彼とわたしがいつの日か、一緒にアルバムをつくるなんて想像することすらできなかったのよ。なのにわたしは四枚のアルバムをつくり、世界をツアーすることがでた。トッドとつくったあのレコードが実際に最後の作品になっていたとしても、わたしはきっと満足だったでしょうね。彼は決してレコード業界のお気に入りじゃない。音楽業界に公然と反抗し、独立独歩の姿勢を貫いている。でもわたしのことはいつも心からサポートしてくれたし、ほんとうに楽しい人なの。そりゃ浮き沈みはあったけれど、トッドとあのレコードをつくったことについては、いつもよかったと思っていたわ。彼はわたしが最初に出会ったプロデューサーだった。だからあの時期のラスト・アルバムを彼とやることになったのは、原点回帰というか、完璧なエンディングだったのよ」

 

 

《スウィング・トゥ・ザ・ライト》

 「《スウィング・トゥ・ザ・ライト》は」とカシム・サルトンは語る。「言ってみればぼくらの反体制レコードだ(略)こっちからお願いしないと、ベアズヴィルはリリースしようとすらしなかった。たぶんアルバートユートピアにちょっと食傷していて、トッドにはもう、あまりバンドにかまけないでほしいと思っていたんじゃないかな。みんなそうだったからね。ユートピアはトッドのソロ活動の邪魔になると思っていたんだ。そっちのほうがずっと成功していたし、経済的な見返りも大きかったから。でもトッドは連中に、これが自分のやりたいことなんだ、それが気に入らないのなら、どこかほかのところに行く、と宣言した。なのにアルバートは『このレコードは絶対に出さないからな!』の一点張り。たぶんあのふたりのあいだには、そもそもあのレコードを出すべきかどうかについてもちょっとした対立があったんだと思う。(略)」

(略)

おそらくは《ミート・ザ・ユートピア》が反感を招いたことを受け、《スウィング》のジャケットには、六〇年代なかば、ジョン・レノンキリスト教をめぐる発言に抗議して、ビートルズのレコードを火にくべるアメリカの南部人たちの写真が使われていた。ただし今回、若者たちが燃やしているのはユートピアのレコードだった。

 この破壊のイメージは、決して的を外したものではなかった。バンドの内側でも外側でも、ユートピアは激変をくぐり抜けていたからだ。サルトンが一時的にグループを離れ、「半年ほど」姿を見せなくなってしまったため、バンドはトッドが先ごろプロデュースしたタッチのメンバー、ダグ・ハワードを迎え入れた。

(略)

 バンド内の亀裂は最終的に修復されるが、レコーディンの段階ではまだ進行中だった。にもかかわらず多作だっこの時期には、グループ内での共作がごく自然におこなれ、「出会いがしらの幸運」が多発していたとサルトンはふり返る。

(略)

ユートピアをめぐってベアズヴィルと闘ったトッドは、ソロ・アーティストとしても、以後数か月でこのレーベルを離れることになっていた。(略)

彼としては珍しく一貫性のない内容となった10枚めのソロ・アルバム《トッドのモダン・ポップ黄金狂時代 (The Ever Popular Tortured Artist Effect)》(略)

トッド自身も認める通り、タイトル[直訳すると「つねに人気の虐げられた芸術家効果」となる]はベアズヴィルに対する直接的な当てこすりだった。彼は前年の“シリアス”なアルバム、《ヒーリング》が、レーベルから「見捨てられた」ことに不満を抱いていた。「《トッドのモダン・ポップ黄金狂時代》は、ぼくがいちばん“いじけてた”時期の作品だ。レーベルがぼくのレコードを真剣に受け取らず、プロモーションする気もないことはわかっていたので、『だったらちょっと手を抜いたアルバムをつくっても、別に事態に変わりはないんじゃないか』と考えたのさ。(略)アルバムはつくらなきゃならなかったけど、正直、あまりやる気にはなれなかった」

(略)

収録曲の中では唯一“ヒット”に近い曲となった〈一日中ドラムをたたけ(Bang The Drum The All Day〉にしても、実際に火がついたのは、さまざまなスポーツ・イヴェントで、観客の盛り上げ用にスタジアムのPAを通して流されるようになってからの話だったのである。じきに有力なラジオ局は、自分たちの判断でこの曲をオンエアしはじめた。

(略)

「もしかすると“ドル箱”になっていたかもしれない。スポーツの讃歌みたいな感じでね。あの曲でしか知られていない、なんてことになるのは嫌だけど、とりあえずヒット曲並みの低価はあるだろう。どっちにしてもアルバムとはタイミングがずれていたし、レコード会社もシングルは切らなかった。ラジオでかかるようになったあとで、出そうとはしたんだけれど、そのころにはもう、時機をちょっと逸していたんだ。ただ、どんなかたちであれ、あの曲が注目を浴びたのはよかったと思うよ。

XTC《スカイラーキング》

「たしかにプロデューサーはいたけれど」とコリン・モールディングは語る。「彼らはたいてい、アンディの言うなりになっていた。彼は、言ってみれば“エグゼクティヴ・プロデューサー”的な立場だったわけだ。もしプロデューサーが自分の意に添わないことをやりはじめたら、遠慮なくそう言っていた」(略)

[しかし売上げ低迷からヴァージンは]

客観性を持った外部の有力なプロデューサーをつける必要があるのではないかと考えはじめた。(略)

[パートリッジ談]

「ヴァージンのアイデアは、ぼくらの"田舎くさいイギリスっぽさ"をアメリカの市場向けに翻訳できる、アメリカ人のプロデューサーを見つけるというものでね。

(略)

[ヴァージン側の候補者リストはビル・ボットレル、グレッグ・ラダニー、そしてボブ・クリアマウンテン]

ぼくは『誰も選びたくない』と答えた。するとヴァージンは二番めのリストをよこし、そのいちばん下に、トッド・ラングレンの名前があったんだ」

(略)

一瞬だけ、《サムシング/エニシング?》を持ってたんじゃないかな」とパートリッジはふり返る。「いくつか気に入った曲もあった。〈ザ・ナイト・ザ・カルーセル・バーント・タウン〉とか。[《未来神》の]〈宇宙炎に関する論文〉も好きだった。でも正直言ってトッド・ラングレンのことは、その程度しか知らなかったんだ。あと、彼にはちょっとイギリスびいきなところがあったから、ぼくらのことを“わかってくれる”かもれないという期待は、メンバー全員が持っていたと思う」

 パートリッジやモールディングと異なり、デイヴ・グレゴリーはすでに、トッドの作品を熱心にフォローしていた。(略)グレゴリーはトッドをプロデューサーに起用するべきだと、ほかのメンバー、とくにパートリッジを必死に口説いた。「ぼくはアンディに、彼が大好きなニューヨーク・ドールズのレコードをプロデュースしたのはトッドだったことを思い出させたんだ」とグレゴリーは言う。「ほかにこれといった代案もなかったので、アンディも首を縦にふってくれた」

(略)

 さいわいトッドはすでにバンドの音楽に親しみ、彼らの多作ぶりについてもよく知っていた。「(略)ぼくの仕事には通常、レコーディングをはじめる前にソングライター陣をしごき抜くというのも入っているからね。でも《スカイラーキング》は、ぼくがすでにバンドの以前の作品を知っていただけじゃなく、“曲づくりのための尻叩き”をしなくて済んだという意味でも、珍しいケースだった」

 モールディングによると、パートリッジは決して、スタジオでの主導権を喜んで明け渡したわけではなかった。「トッドの言う通りにしなきゃならないのははっきりしてたけど、アンディはそれをやすやすと受け入れるような男じゃなかったんだ」

(略)

[トッド談]

レーベルからあまりなじみのない、高圧的なプロデューサーを受け入れるように強要されたんだろうということも、おおよそわかっていた。ひとつまちがいなく言えるのは、ぼくがいつものように“全部こみ”の定額料金 [テープ代、スタジオの使用料、宿泊費、プロデューサーのギャラなどをふくむ、一括払いの料金]を提示したことが、予算を気にするヴァージン・サイドのお気に召したんじゃないかということだ」

(略)

[XTCのデモ]から彼はアルバムに使いたい曲だけを選んで、仮の順番に並べ替えた。「コリンとアンディの曲には、テーマの選定にいたるまで、はっきりとしたスタイルの違いがあった。あの時期のコリンはいつになく生産的だったようで、普段よりもずっとたくさんの曲を出してきた。だから曲もテーマも“田園”的なコリンの作品と、“ポップ・アンセム”的な曲に悪戯っぽい歌詞をつけたアンディの作品とのあいだに空いたギャップをどう埋めていくかが、ぼくにとっては最初の課題になった」

 コンセプト・メーカーのトッドは、さまざまなスタイルやテーマをすべて取りこむことができる、広がりを持った連作歌曲のパターンを思い描き、その中にいくつかの曲を当てはめていった。彼はさらに《デイ・パッセズ (Day Passes)》という仮のタイトルも考案した。「アルバムのテーマはある一日であり、ある一年であり、ある一生でもある」とトッドは自分のコンセプトを説明する。「このテーマには進化という側面もあるから、別の場所に移ろっていくこともできたし、その道中で行き遭う重要なマイルストーンを曲であらわすこともできた――誕生、初恋、家族、労働、病気、死。そしてそのふしぶしで、驚嘆の気持ちが湧いてくる。この枠組みを使って、ぼくはじゅうぶん納得が行く曲順を考え、それをバンドに提示した」

(略)

パートリッジは自分たちのアルバムのタイトルまでつけてしまおうとするトッドに呆れ、と同時に脅かされた気持ちになった。「(略)トッドはジャケットのデザインまで考えていた。電車の“一日券”が二枚載ってるってやつだ。いや、実際、よく考えてくれたと思うよ。なにしろまったくなんのつながりもない、種々雑多な曲のあつまりをコンセプト・アルバムに仕立てあげたんだからね。

(略)

 パートリッジにとってはなんとも癪なことに、トッドはモールディングの曲を、通常のXTCのレコードでは考えられないほど数多く選んでいた。「ぼくはもうすでに、ヴァージンからのけ者にされたように感じていた。すると今度はアメリカ人のプロデューサーを押しつけられ、しかもそいつと来たら、コリンの曲のほうがいいと思っていたんだ。ただ、正直言ってコリンがあれだけいい曲をいくつもアルバムのために用意してきたのは、それまでにないことだったし、曲の雰囲気も、トッドがつくりたがっていたレコードにぴったりマッチしていたと思う」

 モールディングは逆に、大いに胸を躍らせていた。「『おいおい、ぼくの曲が五曲も入ってるぞ!こんなの聞いたことがない』と思ってね。(略)これはまちがいなく、主導権がアンディのものじゃなくなったおかげだった」

(略)

 思わぬ抜擢を受けたにもかかわらず、モールディングは自分のお気に入りが数曲、トッドの考えるコンセプトの輪の中に入らなかったことを嘆いた。「〈ファインド・ザ・フォックス〉はかなりがんばってつくった曲だったし、出来にもけっこう自信があったんだけど、コンセプトに合わなくて、あれはちょっとしたショックだったね。アンディもカットされた自分の曲について、同じように感じてたから、ぼくらはどっちも“ブーたれるイギリス人”と化していた」

(略)

 トッドの指示には基本的に喜んで従ったというデイヴ・グレゴリーも、何週間もかけてストリングス・アレンジをほどこしたパートリッジ作の〈1000アンブレラズ〉が、当初、アルバムからはずされてしまったせいで、ちょっとした失望を味わった。「ただ、トッドのために言い添えると」とグレゴリー。「その時点で彼は、アンディがギターの弾き語りでつくった、簡単なデモしか聞いてなかったんだ」その後、トッドはグレゴリーの念入りなストリングス・アレンジを聞いて、この曲の価値を認め、《スカイラーキング》への収録を決めた。

 四月六日、XTCニュージャージー州ニューアーク行きのヴァージン・エアライン便――「たぶんあの時期、いちばん安いチケットだったんじゃないかな」とグレゴリーは笑う――に搭乗し、横殴りの暴風雨の中、夜の闇に包まれたアメリカに降り立った。

(略)

キャンピングカーの後部座席にすしづめになったまま、レイクヒルへの長いドライヴを開始した。(略)

「(略)雨がますます激しさを増す中で、ウッドストックに向かう暗い田舎のわき道に入ると、まるで自分たちが古い恐怖映画のオープニング・シーンに紛れこんだような気がしてきた――雷鳴、稲妻、そしてあの土地!」

 ゲストハウスに到着すると、眠い目をしたメンバーたちは、先を争って寝室を確保した。デイヴ・グレゴリーが選んだ部屋にはステレオのターンテーブルがあり、その上にはトッドの《ア・カペラ》のテスト盤が載っていた。「今だから話すけど」とグレゴリー。「ぼくはその盤をかすめ取り、家に持ち帰ったんだ」

(略)

[ユートピアサウンド・スタジオを探索するグレゴリー]

トッドが《ミンク・ホロウの世捨て人》の曲づくりに使ったストーリー&クラーク・ベイビー・グランド・ピアノの“実物”も放置されていた。大ファンのグレゴリーにすれば、長年の夢が現実になったようなものだった。

(略)

 トッド狂を自認する彼は、トッド自身のレコーディングを収録した二インチ・マスター・マルチトラック・テープの箱の山を、畏敬の目で見つめた。

(略)

コントロール・ルームに足を踏み入れたとき、彼の目はさらに大きく見開かれた。片隅に、クラプトンの高名なSG“ザ・フール”を改造した“サニー”が置いてあったのだ。

 「ギタリストとしてのぼくは」とグレゴリー。「クリーム時代のクラプトンのサウンドに、最大の影響を受けていた。その時代の彼が使っていた楽器が、実際に目の前にあったわけで、あれはまさに青天の霹靂だった。とうとうロックの天国に行き着いたんだ、と思ったね

(略)

 数日のうちにトッドはユートピアサウンドに帰還し、いよいよ本格的にレコーディングを開始する態勢が整った。

(略)

全曲の構成をフェアライトCMI上にマッピングし、アレンジを微調整した上で、必要なパートをバンドに演奏させる計画を立てていた。しかしコリン・モールディングは、本物のドラマーがいないスタジオでベースを弾くことを拒否した。

(略)

自分の意見をはっきり口にしたのは、実のところ、セッションがはじまって三週間ぐらいたったころだった。まずドラムのトラックを録らないと、これ以上やっても無意味だ、ってね。ほかのみんなもぼくと同意見だったので、けっきょくはトッドも賛成してくれたよ」

 「だから実際にトッドのフェアライトを使ったのは」とパートリッジがつけ加える。「シューシュー音を立てて走り去る蒸気機関車とか、ガチャガチャ音を立てるいろんなエンジンとかの、ヴィクトリア朝っぽいインダストリアル・ノイズのサンプルをシーケンスした〈ミーティング・プレイス〉のような曲だけだった。あと、〈サマーズ・コールドロン〉のリズミックな虫の鳴き声にも使ったな。

(略)

 セッションの詳細な記録をつけていたグレゴリーによると、ベーシック・トラックは、正確にアルバムの曲順通りにレコーディングされ、サイド1とサイド2が、それぞれ一本のテープに収められた。「三本目のテープもあって、それにはたぶん〈ディア・ゴッド〉とか〈アナザー・サテライト〉とか〈エクストロヴァート〉とかの“あまり”が入っていたはずだ」

 テープを節約するという名目で、アルバムの曲順通りにバンドに演奏させたトッドのやり口を、パートリッジは「ちょっとおかしいんじゃないか」と思っていた。「『テープで編集するんじゃないの?』と訊くと、『いやいやいや、きみたちは〈サマーズ・コールドロン〉が終わったら、その場で楽器の音をぴたっと止めてくれ。そしたら〈グラス〉のあたまで全部の楽器をパンチインするから』と言うんだ。貴重なテープを節約するにしても、こりゃちょっとケチケチしすぎじゃないかと思ったね」

(略)

 XTCはトッドが提案するアイデアの豊富さに感銘を受け、一方でトッドも、このプロジェクトにはかつてないほどの参加意識を持って臨んでいた。

(略)

 「なにからなにまでむずかしいことだらけだった」とパートリッジ。「行儀よくしろと言われていたし、このアメリカ人が、ほかのアメリカ人にアピールする要素をぼくらのサウンドから見つけだしてくれる可能性も決してなくはなかったから、それをつぶしてしまうわけにはいかなかったのさ。皮肉にも彼は、ぼくらのイギリスっぽさを、余計に目立たせる結果になっちゃったけど」

 「でもぼくはこうも考えた」とモールディング。「せっかくプロデューサーに大金を支払ったんだから、いっそ白紙委任状を渡してしまったらどうかな、って。最初の数週間、アンディは何度もぼくのところに来て、『つらいよ、わかるだろ?』と言っていた。こういうのがえんえんつづいたし、彼はほんと、かなりきつい毎日をすごしていた」

 トッドは《スカイラーキング》でひとつの実験をおこなった。メンバーに、それぞれの曲が呼び起こす感情をもっともうまく表現した画像を集めてくるよう指示したのである。「バンドはみんな、ぼく自身もふくめて、その曲がうたっている場所をヴィジュアル化することになった」とトッドは説明する。「それも、できるだけ完全なかたちでね。たとえば野草が生い茂る、青々とした庭の画があったんだけど、それは〈サマーズ・コールドロン〉の舞台になった。

(略)

 パートリッジも、デモではやたらと感傷的だった〈ザ・マン・フー・セイルド〉――彼はそれを「レナード・コーエンとカンの出会い」と評していた――が、スウィンギーに変貌を遂げたことを喜んでいた。(略)

トッドにどういう風にアプローチしたいかと訊かれ、ぼくは歌詞の面でいうと、タイトルはジェームズ・ボンドの紛いものっぽい感じをイメージしてると答えた。『知りすぎた男』みたいな。すると『スパイ映画の音楽みたいにしたいってことかい?』と言われてね。けっきょくふたりで実存主義的なスパイ映画っぽい曲に仕立て上げたんだよ。自分はここにはいないと思いこんでいる男って感じの」

(略)

 グレゴリーは、バンドがゲフィン・レコード(略)のお偉方の誘いで夕食に出かけた夜も、トッドはスタジオに居残って、アレンジの作業をつづけていたとふり返る。「翌日、ぼくらがスタジオに集まると、トッドは夕食のあとでスタジオに戻ってこなかったと言ってぼくらを責め立てた

(略)

そしてシーケンサーのスイッチを入れ、彼がひとりでやったパートを聞かせはじめた。〈サクリフィシャル・ボンファイアー〉と〈グラス〉のストリングスに、〈ザ・マン・フー・セイルド・アラウンド・ヒズ・ソウル〉の金管木管……実のところ、ぼくらが演奏しない、担当外の装飾的な要素は全部できあがっていた。みんな、あれだけの短時間にこれだけの仕事をしてしまうなんて信じられない、という感じだったよ」

「彼のアレンジに合わせて、このささやかなコンボでプレイをはじめると」とパートリッジ。「ぼくは、なんてこった、完璧じゃないか、となった。トッドのアレンジ能力は、恐ろしいぐらい強力だった」

(略)

 デモの段階では「中近東っぽい感じ」だったというパートリッジの〈マーメイド・スマイルド〉は、トッドの助けで、より“ジャズっぽい”仕上がりになった。

(略)

ぼくはおマヌケなスチール・ギターと“ズ・ズ・ズ”なんてコーラスが入った安っぽいジャズ――マーティン・デニーとかエスキヴェルとかレス・バクスターとか―――にすごく弱くてね。ほら、レーベルに“Hi-Fi”と銘打たれてて、“最大級のステレオ効果”を楽しむには、どういう位置に座ればいいかが指示してあるようなレコードのことさ」

(略)

 トッドによると、〈ディア・ゴッド〉のアレンジは、彼とバンドが共同で考え出したものだった。「ブルージーなパッセージを入れたのは、ジョージ・ガーシュインや、南部のバイブル・ベルトのイメージを呼び起こしたいと思ったからだ」

「ぼくらだけだと、いくら考えても」とグレゴリー。「子どもに〈ディア・ゴッド〉の冒頭のヴァースをうたわせるなんてアイデアは、絶対に思いつけなかったはずだ。

(略)

〈スーパーガール〉はバンドがすでに別のかたちでレコーディングをこころみていたにもかかわらず、トッドに力ずくで改変させられた曲だった、とグレゴリーはふり返る。パートリッジも、この曲でトッドが弾くキーボードのパートは、XTCというよりユートピアにふさわしいものだと語る。「いかにも“トッド”っぽいキーボード・プレイだろ。ちなみに、シーケンサーはいっさい使っていない。トッドのキーボード・テクニックは、実のところ、びっくりするぐらいお粗末で原始的だった……一度に二本の指しか使わないんだ」

 「トッドに欠けているものがあるとしたら」とグレゴリー。「それは忍耐力だろう。同じ曲を何度も何度もやり直すなんてありえないし、たいていは間に合わせでOKしてしまう。少しくらい雑な演奏でも気にしないんだ。

(略)

アンディがあるパートも“もっといい”ものに差し替えようとしても、トッドは彼をじっと見つめ、『アンディ、それでもっとよくなるとは限らないだろ――単に、違ってるだけかもしれないじゃないか』と言うだけだった」

 レイクヒルでパートリッジは、〈スーパーガール〉のスネアにはとくに金属的でビートルズっぽい“音味”を持たせてほしい、とトッドに頼んでいた。「するとトッドはライブラリーからマルチトラックのテープを持ち出し、リールにかけると、スネアのトラックだけを再生して『こんな感じの?』と訊いてきた。『すばらしい。まさにぴったりの音だ。これはなに?』と訊き返すと、『ああ、《ミート・ザ・ユートピア》のマスター・テープさ』。というわけで〈スーパーガール〉のスネア・ドラムは、《ミート・ザ・ユートピア》のマスターからそのままサンプルした音なんだ。あとでぼくらがサンフランシスコに行ったとき、あわれなプレイリーはシーケンスされたスネアのサンプルに合わせてハイハットとバスドラを叩く羽目になって、かなりキツい思いをさせられたはずだよ」

(略)

 ついに我慢しきれなくなったグレゴリーは、トッドに頼みこみ、クラプトンのSGを使って〈スーパーガール〉のリード・ソロを弾いた。「むろんエリックよりはトッドっぽい音になったけど、それはそれで問題なかった。ソロはロックマンや、それ以外にもいろいろ、トッドがあのいかにもユートピアらしい効果を生むのに使う仕掛けを通したネック・ピックアップを使って、コントロール・ルームでレコーディングした。あのSGはすごく弾きやすかったし、ごてごてペイントされてはいたけれど、ネックのプロフィールも悪くなかった。

(略)

 セッションはしばしば対立的な雰囲気に包まれたが、緊張が走っていたのは、なにもパートリッジとトッドのあいだばかりではない。プレッシャーがモールディングとパートリッジのあいだで長年くすぶっていた対立に火をつけ、ついにはパートリッジの〈アーン・イナフ・フォー・アス〉のベースラインに関する口論がもとで、モールディングがサンフランシスコのスタジオを飛び出し、一時的にグループを脱退するという事態を招いたこともあった。

 「基本的に」とモールディングは語る。「トッドとはなんの問題もなかった。ぼくの場合、問題だったのは、ずっと欲求不満気味だったアンディが、その鬱憤を少しばかりぼくにぶつけてきたことだ。ぼくとしてはすごく熱のこもったテイクが録れたと思っていたし、トッドもまちがいなくそう思っていた。なのにアンディは、もっと上手く弾けるはずだと言って聞かない。

(略)

 パートリッジはホームシックや現実の疾患にも苦しんでいたことを認め、だがその日のモールディングとのもめごとは、純粋に音楽的な問題だったと主張する。「コリンとトッドはぼくが望んでいたよりもブルージーな方向に、ベースラインを持っていこうとしていた。でもあれはぼくの曲だったし、そんな風にはしたくなかった。たぶんコリンはどっちにしても、切れる寸前だったんじゃないかな。そしてあの機会を利用して、ずっと貯めこんでいた鬱憤を全部、一気に吐き出してしまったんだよ。おかげでトッドはぼくらが泊まっていたホテルに出向き、戻ってきてレコードを仕上げるように彼を説得する羽目になった」

 パートリッジは現在もなお、《スカイラーキング》を「ストレスの度合いと内紛という面では、いちばん苦労させられたXTCのアルバム」と評する。「なにしろ曲の作者でもない男の指図に、黙って従えと言われていたんだからね。ぼくは絶対、そんな仕打ちに甘んじる男じゃなかった。でも逆らうような真似をしたら、レーベルから切られると思っていたコリンとデイヴは、ぼくに口をつぐめと言ったのさ」

(略)

 「ぼくは皮肉が嫌いだ」とパートリッジ。「なのにトッドは巨大な皮肉筋の持ち主で、ことあるごとにそれをピクピクさせた。そうやってこっちを消耗させ、自分の言うなりにさせようとしていたフシもあったな。

(略)

 《スカイラーキング》セッションに公平な立場でバランスをもたらすのは、またしてもデイヴ・グレゴリーの役どころとなった。以前からのファンだった彼は、トッドの意図を、ほかのふたりよりも正しく汲むことができたのだ。

 「トッドはぼくらの好きなようにプレイさせてくれた」とグレゴリーは語る。「よっぽど自分の意に染まなかったときは別だけど、世間で思われているのとは逆に、そういうケースはほとんどなかった。さっきも言ったけど、トッドはとてつもない能力と洞察力の持ち主だから、どうしてそんな真似を?なんのために?と訊くのがためらわれてしまう。ただ、こういった個人間のやりとり不足には、ネガティヴな面があったことも言っておかなきゃならないだろう。トッドはちょっとよそよそしい感じがしたし、絶対にプロフェッショナルの立場を崩さなかった。それまでのプロデューサーはみんな、レコードが完成するころにはただの“仲間”って感じになっていたからね。

(略)

最後のオーヴァーダブが終わったとき、トッドはバンドに、ニインチのマスター・テープをほかのエンジニアに渡してリミックスさせるような真似はしないと約束させた。「たぶん、ぼくらがミックスに文句を言うのを見越していたんだろう。ミキシング中はぼくらをそばに寄せつけなかったし」

(略)

トッドのミックスを聞いた(略)バンドのうろたえぶりを、グレゴリーは次のようにふり返る。「寒々しくて、刺々しくて、めりはりに欠け、周波数のレンジもすごく狭かった。もしかするとラジオにはぴったりだったのかもしれない。でもXTCにはまるで向いてなかった。ヴァージンのお偉方も、さいわいぼくらと同意見で、彼にリミックスを要求した。何週間かして、少しはましになったミックスが届いたけれど、これがまた破裂音やこすれ音やデジタル・ドロップアウトの嵐でね。どうしてトッドは気づかなかったんだろう?と首をひねるレヴェルだった。アンディは激怒して、プロジェクトは全部ご破算にしてやる、と息巻いていたし。でもヴァージンがなんとかトッドに、マスターは欠陥品だってことを納得させて、テープを送り返したんだ」

 ある日、グレゴリーは朝の三時三〇分にアメリカからの緊急電話で叩き起こされた。それはトッドがリミックスに同意したことを伝えるメアリー・ルー・アーノルドからの電話だった――ただし彼はその前に、バンドと話をしたがっているという。「すると彼が電話に出て」とグレゴリーはふり返る。「すごく不機嫌そうに、今回のリミックスで聞きたいのはどういう音なのかと訊いてきた。ぼくはドロップアウトディストーションのことを説明し、あと、もう少しベースが聞こえるようにしてもらえないだろうか?とお願いした。すると彼は相変わらずむちゃくちゃ不機嫌そうな声でこう言ったんだ。『きみたちのおかげで大好きな作業に取りかかれるよ――リミックスさ』」

(略)

現在のコリン・モールディングは、XTCがつくったすべてのレコードの中で、《スカイラーキング》は、サウンド的にもっとも満足できるアルバムだったと語る。「あのアルバムにはラジオで聞くと、最高にイケてる曲がたくさん入っている。中心部にすごく堅い、木のような感触があって、それがぼくにはとても魅力的なんだ。

(略)

 アンディ・パートリッジもやはり、このアルバムにおけるトッドの「すばらしい仕事」を称賛し、「トッドはとにかくふたりといないアレンジャーだ」とつけ加える。「圧倒的に優秀だし、仕事が早くて徹底している」

(略)

[デイヴ・グレゴリー談]

「はっきり言おう。トッド・ラングレンXTCのキャリアを救ってくれた。彼は自分が依頼された仕事を、きっちりとやりとげた――ありとあらゆる困難を乗り越えて、ぼくらにアメリカでのヒット曲をもたらしてくれたんだ。

 

SKYLARKING

SKYLARKING

  • アーティスト:XTC
  • Dgm
Amazon

 

 

ニューヨーク・ドールズ再び

 二〇〇九年の一月初旬、クーニンを除くドールズの現ラインナップが、冬の雨季のまっただ中だったハワイのトッド宅に集まった。

(略)

 トッドはドールズのレコーディングでもやはりテープを使用せず、「いつものように厄介者だった」というプロトゥールズLEを起動した。

(略)

[スティーヴ・コンテ談]

「このレコードをトッドとっくったおかげで、“デジタルは冷たい”とか、“箱の中”じやミックスはできないなんて話は、完全に葬り去られた。オレもいろいろ金を使って、外づけの真空管の機材を借りたり、デジタルのトラックをテープに落としたりして、温かみを持たせようとしたりしてきたんだ。でもトッドの場合は熟練のミュージシャンとエンジニアの耳を使い、マイクを正しい位置に配置するだけで、サウンドはおのずとミックスされてしまう。彼はよく、『レコーディングしながらミキシングしてるんだ』と言っていたけれど、まさにその通りだった」