試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

 

「職業としての政治」

[ミュンヘン大からの講演依頼に]ヴェーバーは乗り気ではなかったものの、どうやら学生たちがクルト・アイスナーを代役に考えていると知り、引き受けることにした。フリーのジャーナリストで生粋の社会主義者であるアイスナーは、一九一八年一一月八日、ドイツ皇帝がベルリンで退位するより前に、バイエルンで共和国樹立を宣言した──これにより、ヴェーバーが「血のカーニバル」と呼んだ革命が引き起こされたのである。ヴェーバーはアイスナーのような人物をただただ軽蔑していた。

(略)

ヴェーバーが考えるに、アイスナーは、カリスマ型であったが、その危険な変種だった。新しいバイエルンの人民国家の首長を自ら公言したこの男が、途方もない社会主義の夢で学生たちを唆すよりも、政治的現実主義の苦渋に満ちた教訓を自ら学生に与えたいとヴェーバーは考えたのである。

 一九一九年一月二八日、ヴェーバーは、のちに政治思想史上最も有名な講演となる「職業としての政治(Politik als Beruf)」を語った。ここでBeruf という言葉は、職業と、個人の召命の感覚という二つの意味をもっている。この講演をヴェーバーは、醒めた調子で始めた。

 

この講演は.…みなさんをきっと失望させるでしょう。……みなさんは、時事問題についてわたしが何らかの立場をとることを直感的に期待しているでしょう。けれども

(略)

本日の講演では、いずれの政策を……採用すべきなのかという問いをすべて除外せねばなりません。というのも、そのような問題は、わたしたちの一般的な問題とは何ら関わりがないからです……

 

この「一般的な問題」とは何だったのか?(略)

大雑把に言えば、ヴェーバーが脱魔術化した世界と呼んだもの、つまり宗教や形而上学、および他の意味(とりわけ集合的な意味)の源泉がすべて懐疑に晒される世界のなかで、責任ある政治行動と安定した自由主義体制はどうしたら実現可能なのか、という問題である。ヴェーバーは、先例と慣習に依拠した伝統的正統性が消えつつあり、ヨーロッパ人が民主的な時代に突入したことを確信していた。君主のカリスマ(略)は、君主が概ね無能であることを露呈させた戦争の惨劇によって消え去った。また、臣民たちが信頼し、崇めた皇帝が見守るハプスブルク帝国のように、民族や宗教を異にする構成員がひとつの政治的連合体のなかで平和的に共存するという信念も消滅した。ヴェーバーにとって、民主主義は同質的な国民国家のなかでしか実現しえないことは確かだった。そして、いまや民主主義から引き返す道は残されていないのである。ヴェーバーの頭のなかでは、脱魔術化と民主主義はともに進むものであり、どちらも西洋で始まった発展経路に固有のものだった。責任を持ってこれらに取り組むことが、二〇世紀の最初の数十年において、ヨーロッパ人にとっての最大の政治的挑戦だったのである。

(略)

ヴェーバーの思想は、一九世紀的な自由主義の頂点(略)「安定の黄金時代」(略)に形成された。一九四二年、ツヴァイクはブラジルで亡命者の醒めた視点から(自殺する直前に)回想録を書いた。彼は、戦前の「理性の時代にあっては、過激なもの、暴力的なものすべてが不可能だと思われた」と回顧している。彼の同世代の人びとは、第一次世界大戦以前にはまだ若く、比類なき楽観主義と、世界への信頼を抱いていた。より多くの自由へ、そして「真のコスモポリタニズム」へと向かう途上にあると考えられた世界を。

(略)

 ヨーロッパの人びとは、国際平和という意味での安定を単なる幸運な休息とは考えていなかった。モノ、カネ、そしてヒトの循環を通じて、ヨーロッパの諸国家と諸帝国の相互依存が深化しており、平和はそのことと結び付いていると思われた。第一次世界大戦以前の数十年間は、しばしば「グローバル化の最初の波」と呼ばれるものを経験した。(略)

自由貿易や、経済的利益のために標準[スタンダード]を制定し、主権を共同管理するという意味での国際協調という点で、国際主義の黄金時代だった。たとえば、欧州郵便連合や、スカンジナヴィア通貨同盟およびラテン通貨同盟が存在した。何より、すべての主要通貨を結び付ける金本位制が存在した。加えて、移動の自由が皮膚感覚と現実の両面において存在し、その結果として移民の大きな波が生じた。

(略)

 ヨーロッパの自由主義者は、国境を越えるヒトやモノの移動の自由と社会の自己決定の自由とを両立不可能なものとは見なさなかった。しばしば指摘されるように、綻びなき進歩への確信、特に科学的進歩への確信が、およそ第一次世界大戦まで存在した。注目度は低かったものの、自由主義者の間には同様に、個人の自己決定と集団の自己決定が調和的に同時に進行するという、強固で原理的な確信も存在していた。

(略)

自由主義者は、時が経てば、より多くの人びとが教育と財産を通じて、選挙権を得る資格を備えるだろうと信じこんでいた。教養あるいは財産を持たない人びとには、政府の選択を任せるわけにはいかなかった。彼らは「安定の時代」が依拠していた、まさに根幹の部分を破壊するように思われたからである。それゆえ、つねに自由主義者にとって、完全な民主化は、はるか先の将来にしか実現しそうもない、理論上の可能性にとどまっていたのである。

(略)

 しかし(略)女性は投票権を要求し(略)

広大な多民族帝国のなかで、さまざまな民族集団が発言権を求めた。そして、政治的特権を世襲してきた支配エリートが攻撃の的になった。

(略)

 自由主義者保守主義者のエリートはともに、徐々に姿を現した代表制の包括的な危機を制御できるものと考えていた。

(略)

 平和と進歩は続くという希望に加えて、時代の底流には第三の直感が存在した。それは、世界が最終的にヨーロッパ化されるという、ほとんど信念と呼べる感覚であった。すなわち、世界はヨーロッパに支配され、ヨーロッパの文明が模範として世界中で受容されるというわけである。

 君主なき共和制

 こうして、ヨーロッパ史上初めて、君主なき共和制が、例外ではなく通例の政治体制となった。その結果(略)

ヨーロッパの人びとは「憲法制定のお祭り騒ぎに」突入する羽目になったのである。多くの憲法起草者が主要な課題と見なしたのは、君主制という「超越的要素」なしに、いかにして国家を安定させるかであった。実のところ、どんな実定的な原理に依拠して憲法を制定すべきかは、明瞭とは言い難かった。

(略)

戦争は、人民の未曾有の動員を要求し(略)国家権力の例を見ない増大を必要とした。(略)「総力戦(全体戦争)」が意味したのは、何よりも兵員と資金の全体的な動員であった

(略)

A・J・P・テイラーの言葉を再び引用すると、

 

大半の人民が、初めて活動的な市民になった。彼らの生活は上からの命令によって形づくられ(略)国家に奉仕するよう求められた。(略)

イギリス人の食糧は政府の命令によって制限され、質も変化した。移動の自由は制限され、労働条件も規制された。……表現の自由にも縛りがかけられた。街灯は薄暗く、神聖な飲酒の自由は勝手に変更され(略)

国家は市民の掌握を確立した。それは平時には緩和されたが、二度と廃止されることはなかった。……イギリス人民とイギリス国家の歴史が初めて混ざり合ったのである。

 

国家はまた、かつてないやり方で経済とも混ざり合った。特にドイツでは、産業生産のな集中が事実上のカルテルを生み出し、これが諸官庁によって調整された。

(略)

観察者たちは「組織化された資本主義」について語り始めた。また他の者たちは、自分たちの目の当たりにしているものが、およそ資本主義ではなくなったと考えた。オーストリアマルクス主義者カール・レンナーは「見渡せる限り社会主義だ」と熱く語った。

(略)

国家と社会を分離する厳格な境界線というものはつねにフィクションではあるが、それがいまやよりいっそう曖昧になった。

(略)

社会全体が、自らを根本的に変えるために、国家を利用しうるという考えが広まった。

(略)

選挙権が大規模に拡大され

(略)
 選挙権の性急な拡大をつねに恐れてきた自由主義者たちは、どのような態度をとっただろうか?(略)

戦間期のありふれた文化批判は、スペインの自由主義哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットの手により、最も華麗で影響力ある表現を与えられた。

(略)

オルテガは「国家主義とは、基準と化した暴力と直接行動がとりうる、より高次の形式である。そして大衆は、国家という匿名の機械を通じ、またそれを手段として自ら行動するのである」と警告した。

「世界を支配する教授」ウィルソン

しかし、ナショナリズムは、既存の国家や新たに創られた国家と地図上でぴったりと一致したわけではなかった。

(略)

ウッドロー・ウィルソンの一四か条は、ロシア革命と同じくらい重要な、国家を組織する方法を示し、革命に火をつけた。民族自決の規範と、住民の同質性に基づく国家のあり方は、新たに設立された国際連盟によって支えられ、「欧州協調」の理念に対する代替案として明示的に使われるようになった。そして、「プリンストン大学政治学者で自由主義の情熱を持ったウィルソン大統領が、それらを頑固なヨーロッパの政治屋に力説した」。マックス・ヴェーバーは、「最初の真の世界の支配者」が大学教授であるという「世界の奇妙な運命」について驚きを隠すことができなかった。

(略)

ウィルソンが思い描いた自由主義革命は同時に、カーゾン卿が軽率にも「諸民族の純化」と名付けたものを呼び出した。実践では、この言葉は、しばしば物理的暴力(略)

脅し、迫害、強制移住、さらには殺害にも転じたのである。ロシアの作家ナジェージダ・マンデリシュタームは、「大衆の強制移住は全く新しいもので、二〇世紀だからこその産物である」と述べた。

ケマル・アタテュルク 

 ケマル・アタテュルクは、ルソーや一九世紀フランスの哲学者オーギュスト・コントの著作に通じており、西欧諸国の優れた力はおそらく国家と教会の明確な分離によって説明できるという結論を出した。それに従い、アタテュルクは、彼が「未来の人間」と呼んだ助言者や官僚を集めると、反教権主義的なフランス共和主義から着想を得た文化革命に着手した。たとえば、人びとはトルコ帽を脱がなければならなくなった。というのも、一九二七年にアタテュルクが、その帽子は「われわれ国民の頭上に、無知、怠慢、狂信、そして進歩と文明への憎しみの象徴として載っている」と述べたためである。加えて、庶民生活に表れるイスラム的なものすべてが弾圧され、ダルウィーシュ[イスラム神秘主義の修道者]は逮捕され、ときには処刑された。アタテュルクは「国はそれぞれ異なるが、文明はただひとつである。国民の進歩の前提条件はこの唯一の文明に参加することである」と主張した。新たに創出されたトルコ共和国は「自ら文明たることを証明」しなければならなかった。この精神で、イスラム法は、見境なくイタリア刑法やスイス民法に替えられた。アラビア文字表記もラテン文字のアルファベット表記に替えられた。

  こうした措置を理解させるため、アタテュルクは遂には国家の原理として、ナショナリズム世俗主義、共和主義、人民主義、革命主義、そしてとりわけ国家資本主義(実際、これはトルコ語の語彙になった)を公に示した。これらは六本の矢として象徴化され、アタテュルク自身によって監視された──そもそも「アタテュルク」は「トルコの父」を意味し、これは一九三四年に議会が彼を称揚して贈った姓だった。

(略)

トルコの実験は、単なる一周遅れの国民建設とも、二〇世紀版の啓蒙絶対主義の一形態とも見えなかった。むしろ、それは新しい何かであって、その新しさは、人民を望ましい形にするために近代官僚国家をとことんまで利用するところにあった。(略)

 理論上、トルコ国家の正統性は、国家は同質的な国民の自己決定に基づくというウィルソン主義の教えに則ったものだった。新しいトルコ議会の建物は「あらゆる公的権力は人民に由来する」という格言で飾られた。しかし「人民」という抽象的な理念は、実際の人民とほとんど関係がなかった。ナショナリズムや人民主義といった原理が主張されたにもかかわらず、ケマル主義者のほとんどがアナトリアの農民やイスラムの民衆を脅威としか見なかった。

(略)

 こうして世俗エリート──その多くは軍隊や官僚機構にいた──は、権威主義的な父なる国を発展させた。一九三一年には、トルコは自らが一党政体であると宣言した。アタテュルクの死後、後継者たちはアタテュルクへの個人崇拝を飾り立てた。ヴェーバーのカテゴリーで言えば、トルコの正統性は、カリスマ──いまや実際の父から父なる国へと移転した──と、よく機能する官僚制との双方によって支えられることになった。だが、それはとりわけ国民国家の主権を無条件に肯定することに依拠していた。このことはさらに、伝統的正統性が特に君主制においては永久に消滅したというヴェーバーの指摘を、その結果が自由民主主義とは似ても似つかないものになるだろうという指摘もふくめて、再度立証するものであった。

 「塹壕民主主義」と「溶融した大衆」

「世界を支配する教授」ウィルソンとは別に、あらゆる学者や専門家がヴェルサイユに集った。他ならぬマックス・ヴェーバーも含め、彼らはナショナリズムの熱狂を超越した覚書(略)や計画を提出し続けた。しかし、官僚たちと自由に浮動するコスモポリタンの知識人らを、国境を越えて一緒に作業させる試みは、ほとんどの場合、失敗に終わった。この失敗により、最良の意思をもった人間でさえ根深い敵対を乗り越えることができないのであれば、大戦後の秩序はまさに基礎から欠陥を抱えているはずだ、という一部の人びとの確信は強まった。イギリスの経済学者ケインズは、「ウィルソン的なドグマ」を期笑した。なぜならそれは「貿易や文化のつながりよりも人種や国籍の分離を賛美して権威づけ、幸福ではなく国境を保証する」ものだったからである。

 この失敗はまた、大戦後にヨーロッパのエリートの間に広まりつつあった、信頼に対する全般的危機をさらに深めた。ヨーロッパは、物質的のみならず、道徳的にも疲弊していたのである。ケインズは次のように書いて、普遍主義からの全体的な後退を的確に表現した。「物質的な安寧という喫緊の問題を超えて、[他者を]感じたり労わったりするわれわれの力は一時的に失われている。……われわれはすでに限界を超えて動いてきたので、休息が必要である。いま生きている人間の人生のなかで、人間の魂の普遍的な要素がこれほど暗く燻って消えそうになったことはなかった」。多くの人びとが、アメリカに政治的・道徳的リーダーシップを求めた。(略)

マサリクは「われわれがアメリカ化しても害はないだろう。数世紀もの間、われわれはアメリカをヨーロッパ化してきたのだから」と公言した。けれども、ヨーロッパという家を整える責任をアメリカに継続して負ってもらいたいと心から望んだ人びとは、戦後のアメリカの孤立主義に失望する羽目になった。とはいえ、経済、そしてとりわけ文化のアメリカ化は進み、多くのヨーロッパの文化批判者の目には、それがヨーロッパの「大衆社会」への堕落を加速させたように映じた。

 世界が最終的にヨーロッパ化すると単純に信じることも、もはや不可能になった。

(略)

戦争が残したのは、信頼の喪失と文化的なペシミズムだけではなかった。戦争は水平化と同質化ももたらした。すなわち、前線における「塹壕民主主義」と、ロイド・ジョージの言う国内の「溶融した大衆」である。

(略)

 戦争は、二つの政治的なイメージを遺産として残したように思われる。ひとつは、国家、労働者、資本家の妥協の政治、言い換えれば、合理的な利益追求の政治である。もうひとつは、国民を救済することに意思を集中させる、軍事化された政治である。どちらも、一九世紀の古典的自由主義の否定であり、しばしば「大衆の政治への参入」と呼ばれる挑戦に独自のやり方で対応する試みだった。

次回に続く。