試される民主主義 その2

前回の続き。

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

試される民主主義 20世紀ヨーロッパの政治思想(上)

 

官僚制とデマゴギー  

多くのドイツの同時代人同様、ヴェーバーは法形式主義者であって、国家を脱神秘化しようと試みていた。国家はいかなる種類の「有機体」でもないし、特定の目的と同一視されうるものでもない。ヴェーバーは国家を[こう定義した]

(略)

「国家とは、ある一定の領域の内部で正統な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」(略)

 強制力の強調は、ヴェーバーが政治を永続的な闘争として、社会生活を終わりなき苦闘としてイメージしたこととよく一致した(略)

しかし、より重要なのは暴力の正統性であった。近代国家では、正統性は、特定の目的を追求する約束によってではなく、合法性を通じて獲得される。これは正しい法の制定手続きに従い(略)行政手段から明確に分離された行政官に執行を任せた結果である。ヴェーバーが近代の「大衆国家」と呼んだものは、このように必然的に官僚制をともなって出現したのである。

 他の法実証主義者同様、ヴェーバーは、法をいかなる道徳的基礎づけからも切り離す。(略)

憲法の範囲内での命令として立法される場合にかぎって、法は妥当性を有し、そうして服従されることになる。

(略)

ヴェーバーは、自由主義的な「法の支配」が福祉国家の出現と実質的な「正義」の要求によって侵食されていることを懸念していた。透明性があり、政治家が説明責任を負う一般規則による統治が、特定の状況や特定の市民に向けられた手段や法令と混同されてしまうおそれがあった。正義といった理想は、議会によって象徴的に是認できるかもしれないが、そうした理想を、一般的で予見可能な法に書き換えることは不可能だとヴェーバーは感じていた。むしろ、それは新しい家産制もしくは封建制の台頭を招くかもしれない。そうなれば、説明責任を負わない行政官たちが貴族に変化し、特定の集団を贔屓することになる。

 官僚制化は、ヴェーバーが西洋独自の成果と見なした近代国家にとっての挑戦というだけではなかった。それは自由な個人という考えも疑問に付したのである。

(略)

ヴェーバーは啓蒙が約束した個人の自律というものの将来について、おおいに憂慮していた。ただし、彼は「大衆」の劣った性質という問題よりも、肥大化し続ける官僚制とデマゴギーのような社会現象の方により大きな危険を見出していたのである。官僚制もデマゴギーも、民主的な「大衆国家」では不可避だというのが彼の考えだった。

ヴェーバーの処方箋 

ではヴェーバーは、その代わりに、どのような望ましい、あるいは少なくとも我慢できる程度の政治的倫理を提案したのか?(略)

ヴェーバーは、彼が生きた時代のドイツ社会の寓意を『プロテスタンティズムの倫理』のなかに忍ばせていた。彼が称賛する自律的で責任を果たせる人格を指し示し、ドイツ人を従順にしてきたルター主義を攻撃しつつ、ブルジョアジー中産階級に対して、闘争を通じて自らを鼓舞し、最終的には自己決定できるようにと訓戒した。ヴェーバーは、一般的には君主制が最良の国家形態だと考えた。しかし、ドイツ帝国の政治体制は政治的には未成熟なままだった。この帝国では、責任を取らない文官が現状すべての決定を下しているなかで、君主は実際に統治できるなどと誤った主張がなされた。空威張りする、子供のようなヴィルヘルム二世がカリスマ的な指導者を気取っており、ときには本当に権力を行使しようとし(略)

国民に重大な政治的損害を与えた。近代の君主制は、才能豊かな王や皇帝が偶然即位するという例外を除き、官僚による統治を意味する、とヴェーバーは主張した。したがって真の問題は、この官僚制が監督されるかどうかだった。

(略)

 ヴェーバーの処方箋は明快だった。才能のない君主を中立化し、官僚を抑制し、政治的判断力を訓練する場を提供するためには、本当に力を持った議会が決定的に重要だった。理想的には、そうした議会は、カリスマ的な指導者を、競争を通じて選び出す助けにもなるだろう。そのような指導者は、政治の方向性を示し、政治生活に活力を与え、それによって官僚支配の危険に対抗するだろう。しかし、にもかかわらず、これを実現するためには、それなりの対価が必要だった。すなわち、カリスマ的指導者は、非民主的で魂のない、そしてもちろん官僚制的でもある政治組織によって支援されなければならなかった。この組織が指導者のために票を動員するのである。のちに実際生じたことだが、議員たちは、ヴェーバーが「議会の人民投票的独裁者」と呼んだものと、彼を支援する政党機構の両方に依存するようになった。議員は「陳情に応えるだけのよく躾けられた政治屋」に成り下がった。

 ヴェーバーは選挙権の拡張にはっきりと前向きだった。結局のところ平等な地位の承認は、近代秩序にとって不可欠なものだった。名士が自分たちのために政治を運営した一九世紀のシステムは、もはや完全に存続不可能だった。彼はまた、戦場から帰還した兵士たちに、銃後で快適に暮らしていた資産家たちよりも少ない政治的権利しか与えないという考えに我慢ならなかった。さらにヴェーバーは、高学歴者により多くの投票権を与えるという流行の考えを厳しく退けた。教育、とりわけ人文学の教育が、しばしば政治的判断力の欠如につながるとも主張した(アイスナーがそうだったが、彼はジャーナリズムと政党政治に転身する以前は哲学者で、いまや「自らのデマゴギー的成功の虜」になっていた)。

 政治的包摂こそ、政治責任を涵養する最良の方法である、とヴェーバーは考えたのである。しかし、人民が実地に権力を行使できるという考えを彼は決して受け入れなかった。「直接民主主義」は、スイスの特定の州のような、誰もが互いに顔見知りの、きわめて小さな舞台でしか可能ではない(略)と、ヴェーバーは力説した。他のどこであれ、民主主義は必然的に委任を意味し、それゆえ一部の人間が他の者たちを統治することを意味せざるをえない。それはまた、必然的に官僚制化を示唆する。そして、ここでも真の問題は、官僚制を備えるか否かではなく、いかに官僚制を封じ込めるかなのである。

(略)

彼は手紙にこう書いている。「「人民の意思」や「人民の真の意思」といった概念は、わたしのなかではとっくの昔に存在しなくなった。それらはフィクションだ」。せいぜい選挙は、より優れた政治技術をもち、大衆の希望に関心を示す指導者が報いられる、一種の人民的フィードバックを形成するに過ぎない。そして、得票を求めて闘争することによって、官僚とも純粋なデマゴーグとも異なる、果敢で政治的な責任を果たせる政治家だけが頂点に立つことが保障される。

(略)

 だから、ヴェーバーの正統性の三分類、すなわち伝統、カリスマ、合法性・合理性を用いて言えば、彼は最後の二つの組み合わせを提唱したことになろう。法と官僚制による合理化と、指導者がもつはずの人格的ヒロイズムとの融合である。ヴェーバーは、党の政治機構によって支えられる「指導者型民主主義」に代わるものは、党官僚と名士が舞台裏で影響力を競い合う「指導者なき民主主義」しかない、と頑なに主張した。いかなる政体も後者になれば、もっと悪いものになるだろう。

信条倫理と責任倫理は相互に補完的

 ヴェーバーの講演「職業としての政治」を聴いた学生にとって、ヴェーバーが次のような区別を明確にしていたことは初めから明らかだったに違いない。その区別とは、「信条倫理」(あるいは純粋な意図)と、責任倫理との区別である。そして、彼が明白に後者を好んだことも。信条倫理は無条件なもので、実践者は自らの良心に対してのみ責任を負う。信条の政治家、たとえば急進的平和主義者やユートピア社会主義者は、自分の意図の純粋さを保持することに最大の関心がある。ヴェーバーの見るところ、彼らは善からは善だけが生じ、悪からは悪だけが生じるという素朴な信念に固執している。彼らは政治領域の自律性を全く理解することができず、意図せぬ結果に満ちた世界のうわべの倫理的不合理さに耐えられなかった。しかし、政治を否定する一方で、彼らは政治の内的なロジック、すなわち不可避的な暴力の存在から逃れることはできなかった。彼らは、そうした信条の人間らしく、自らの意図が純粋である限り、いかなる結果責任も受け入れなかった。

(略)

 他方、責任倫理は、政治家が自らの行為の結果についての説明を引き受け、政治において働いている矛盾し悪魔的でさえある諸力の玩具に自らがなってしまう倫理的危険を受け入れ、妥協することを意味した。しかし(略)

ヴェーバーは、責任倫理に従う政治家を、純粋なプラグマティスト、あるいは機会主義者として描きたいとは思わなかった。彼はまた、いかなる合理的基礎づけも欠如したなかで人間は選択を行うという、究極的な世界観を受け入れねばならなかった。加えて彼は、おそらくどこかで、自らの立ち位置を合理的に正当化できない地点に達し、「ここにわたしは立つ、それ以外何もできない」[破門されたルターがヴォルムスの帝国議会で言ったとされる]と宣言せざるをえなかった。

 しかしながら、そうした不合理な魂の叫びによって、責任倫理は崩壊して信条倫理に変ずるように見えた。ヴェーバーは、これが倫理の問題ではなく、「真に人間的で感動をよぶこと」だと主張し、続けてこう述べた。

 

われわれのうち、内面的に死んでいないものは皆、こうした状況が生じうるのだと覚るに違いない。その意味で、信条倫理と責任倫理は完全に反対のものではなく、むしろ真の人間、すなわち「政治を天職」としうる人間を作り出すうえで相互に補完的なものである。


それゆえ、真の責任倫理は、政治世界からの自己中心的な逃走と、冷徹な機会主義の間の進路を進むことになった。

 どうすればこの着想を、自由主義的な政治的実践に具体的に変換できるのだろうか? ヴェーバーは、自由主義の社会的基礎が侵食され、その理念の多く──特に進歩と個人の権利──が、多くの同時代人の目からは信頼できないものになったことに、強い懸念を抱きながら気づいていた。確かに、啓蒙の理念を不用意に、あるいは本当に放棄することは、全く無責任であると彼は考えた。そして、あらゆるタイプの反動家たちに、「「人間の権利」の時代の成果を反故にしても、最も保守的な人びとを含むわれわれの誰もが、自らの生活を続けられるなどと信じることは、紛れもない自己欺瞞である」と警告した。しかし脱魔術化された世界では、自然法への信念や、権利の形而上学的な基礎づけが、維持されえないことは確実だった。むしろヴェーバーにとっては、自由主義的な成果を歴史化し、相対化することが望ましかった。そして言うまでもなく、功利主義的な「幸福」によって自由主義を正当化するという方法に訴えることは彼にはできなかった──彼にとってそれは家畜の群の幸福のようなものだっただろう。

 では、大衆民主主義の時代に自由主義を保持することはいかにして可能か?ヴェーバー政治学社会学で張った論陣からすると、最も妥当な理論的回答は以下のようなものであろう。自由主義は、新しい文化(ヴェーバーにとってはもちろん国民文化を意味した)の捉え方とその課題をつくり出すべきであった。そして、それは政治によってのみ達成されえた。公共圏がその尊厳を肯定され、その結果として単なる権力政治と物質的便利さをめぐる争いを超越できれば、それによって公共圏から離れてしまった「最も崇高な価値」のいくつかを回復できるであろう。加えて、自由主義者は価値多元主義に訴えることもできた。適切な環境、とりわけ自由への人間の意思が所与となれば、価値多元主義自由主義を正当化できるのである。それは価値多元主義自由主義に確実な哲学的基礎づけを提供することによってではなく、プラグマティックなやり方によってなされる。価値の多元性と、価値の選択を通じた意味の創出が人間にとって必要と認められれば、個人主義(そして寛容)は、少なくとも提案として魅力的に見えるであろう。各個人はそれぞれの価値を選択する自由な余地が与えられなければならなかった(そしてまた、選択から生じる苦痛を伴う結果とともに生きねばならなかった)。そして、個人それぞれの選択は、客観的に正しいという意味からではなく、ヴェーバーの言葉を借りれば、次のような意味で認められるべきである。「客観的な価値があるのは、「人格」の最深部の諸要素であり、われわれの行動を規定し、われわれの生に……意味を付与する、最高かつ究極の価値判断であると考えられる」べきなのである。

 しかし、こうした一般的考察はつねに一般的なものなのであって、具体的な環境で具体的な政治選択をすることとは別である。一九一九年の悲劇的な環境におけるヴェーバーの判断は厳しいものだった。ヴェーバーの講演の直後、クルト・アイスナーはバイエルン共和国での最初の選挙で敗れた。辞任を予定していたまさにその日、アイスナーは若い右翼の貴族に撃たれた。

(略)

すでに見たように、ヴェーバー直接民主主義を信じなかったし、また政治的自己決定の手段としての評議会や、個人的判断の余地がない、いつでも撤回可能な「人民の代理」といったものを、一瞬たりとも信じたことがなかった。一般の人びとの理解力がつねに及ばないことがその理由ではなかった。実際にハイデルベルクヴェーバーは、評議会に参加していた。そして後に、単純労働者や兵士が備えていた純粋な良識、規律、即物性、あるいは現実主義に対して好感をもっていたことを明かしている

(略)

 民主党から立候補しようとして失敗したヴェーバーは、苦い思いで一九二〇年四月には党を去り、その後魂なき政党政治家を攻撃し続けた。ただ彼は、新しいドイツ憲法に一定の影響を与えた。全般的には新憲法は、ヴェーバーが望むよりもずっと多くの権力を議会に付与したが

(略)

その結果、再び憲法は鵺のようなものになった。具体的に言えば、比例代表に基づく自由主義的な議会、人民投票、大統領という形での疑似君主のつぎはぎである。

(略)

 マックス・ヴェーバーヴァイマル共和国の不運な出立を目撃した後、一九二〇年に世を去った。

(略)

 戦争は新しい規範を残した。(略)

同質的な国家による民族自決の理念は、自己統治する政体どうしの間に調和的な関係を導くのではなく、さらなる「民族浄化」のための行動を要求していると言ってよかった。

(略)

早くも一九二二年にケインズは、「国際統治の最初の実験がナショナリズムを強化する方向に作用するという逆説」を見てとった。

 もしヴェーバーが生きていれば、深く失望しただろう。とりわけ、指導者民主主義を作り上げるはずだった制度の運命には失望しただろう。国家官僚制への、そして国家の監督のもとで妥協点を決める経営者と労働者の代表への、議会の影響力は失われていった(略)

これは一転して、まだ残っていた議会主義への僅かな信頼を動揺させた。(略)

[カール・シュミット]は、議会とその中核的原理、すなわち公開性と討論に対して、思想上の死亡診断書を書いていた。

(略)

議会は見かけ倒しになってしまった。(略)

シュミットは、ヴェーバー立法府に割り当てた他の役割も公然と否定した。

(略)

一九二九年、イギリスの首席裁判官ヒュワート卿は、市民に向けて次のような警告を発した。行政国家の台頭は「専制的権力」を生み出している。「その権力は、政府の省庁を議会主権の上に置くとともに、裁判所の管轄の届かない場所に置いてしまう」。「省庁専制」、すなわち「科学的であると同時に慈恵的な」専門官僚による支配は、「自己統治(自治)」を破壊し、「行政による無法状態」を生み出している、と。

多元主義 

 多元主義という考え方は、左派の独占物ではなかった。(略)

国家が強大化し続ける近代的条件のもとで、自律を求める自由主義の切望を救うことができる唯一の手段が集団的多元主義であった。一九一三年、J・N・フィッギスは「今世紀における自由のための闘いは、すべてを貪り食う全体というリヴァイアサンに抗いながら、沢山の小さな結社が自らに備わっている生命を守り続けるための闘いである」と主張した。(略)

 多元主義の思想家たちは、ドイツの文化闘争に深い感銘を受けていた。彼らから見れば、ビスマルクカトリックの間の対立は(略)一見全権力を掌握しているかに見える国家主権が、実は幻想であったことを証明するものであった。国家中心的な政治思想の伝統において可能だと考えられていた以上に、労働組合や教会のような中間集団に自由裁量を与えることで、国家は全体の文化的同質性が欠けていても、なお機能しうるように見えたのである。

 このような反国家主義的な着想を強化するために、法共同体の古い形式が掘りおこされた。一九世紀後半のドイツの法制史家オットー・フォン・ギールケは、政治的結社の「古代的=近代的」概念である「多数性のなかの統一」と、その中世的概念である「統一のなかの多数性」の間の相違点を指摘していた。(略)

仲間団体の古ゲルマン的理想は、集団生活のモデルとして役立ち、ローマ法に基づいた上からの画一的な法規制へと向かう近代的傾向に対抗するはずであった。

 イギリスの多元主義者たち(略)が共有していたのは、国家という状態を解体し、単一主権の概念に反論しようとしたギールケの野心だった。そのうえ多元主義者たちは、イギリスの方が、多元主義の計画に有利な場所だと考えた。イギリスは統一的公権力としての国家という大陸的伝統に従ったことは一度もないと彼らは論じたのである。

(略)

多元主義者たちは、できるだけ多くの集団の間と内部における分権化と民主主義を模索した。その点で彼らは、とりわけアメリカ合衆国という範例に刺激を受けた。アメリカは、強力な国家的伝統を全くもたずに繁栄し、対外的にも権力を誇示しているように見えたのである。

(略)
コールは国家はもはや強制すべきではなく、自治的集団の活動を単に「相互調整」するだけでよいと主張したが、ある種の国家的課題には、中央の権威、あるいは彼が国民的「コミューン」と呼ぶものが必要かもしれないと認めた。批判者が指摘したように、このような権威を動かす公務員はおそらく「朕は国家なりとほくそ笑む」ことだろう。言い換えれば、近代の複雑な社会は、ヴェーバー的な線に沿った中央集権的な官僚制国家以外の手段では立ちゆかないように見えた。

(略)

 他方では、カール・シュミットが、主権は緊急時にはつねに存在するのであって、国家は単に数ある結社、集団のなかの一つではないと主張し、ラスキとコールを攻撃した。(略)

国家だけが自らの市民の生命を要求できる(そして、誰が国家の友であり誰が国家の敵であるかを、権威によって決断できる)という冷厳な真理は残されたままである。

(略)

 そこまで厳しくない批判者たち(略)は、多元主義が可能となるのは、多くの相互的寛容と、政治の限界に関する包括的な道徳的合意とが存在する場合だけだろうと指摘した。

(略)

 結局、ラスキとコールは国家主義的な彼らの敵対者の批判に同意するにいたる。一九二〇年代半ばには、二人は多元主義的理念と距離を置き始める。その頃には、戦後の好況は明らかに終わっていた。一九二六年の炭鉱労働者による大ストライキは失敗に終わり、産業民主主義の説得力ある構想と思われたものはことごとく退却を余儀なくされてしまった。

(略)

かつての多元主義者たちは、いまや社会主義を実現する最も有効な手段として、「議会制という方法」──すなわち、多数派を得ようとする労働党を支持すること──に賭けた。

次回に続く。