JAZZ TALK JAZZ 小川隆夫・その2

前回の続き。

JAZZ TALK JAZZ

JAZZ TALK JAZZ

モード・ジャズの真の主役は誰?

[ジャズにモードを導入したのはマイスルでその後ろにギル・エヴァンスがいたという定説、当のエヴァンスは、最初に実践したのはジョージ・ラッセルと答えた]
(略)
[マイルス証言]
「ギルから学んだ一番大切なことは、ヴォイシングについてだった。モードがどうだとか、リリシズムがどうだとか、みんなが言うけど、そんなことは関係ない。そんなものは無意識のうちに出てくるからだ。意識しなくちゃいけないのは、ヴォイシングだった。ギルはいつも意表を突くヴォイシングで《さあどうだ》って迫ってきた」
(略)
 ただし、マイルスは本能的にモード・イディオム導入の必然性も感じていた。
 「(略)ビバップでは、音符がたくさん使われていた。だがおれは、ほとんどのミュージシャンの演奏について、音符が多すぎるし、ソロが長すぎると感じていた。だから、少なくしたいと思っていた。
(略)
 こうした意図のもとに、エヴァンスがマイルスのために選んだのは、現代音楽や民族音楽で用いられていたモードだった。
(略)
[ガンサー・シュラーが、アンサンブルの監督および指揮を務めた一九人編成の録音(『ザ・ブラス・アンサンブル・オブ・ザ・ジャズ&クラシカル・ミュージック・ソサエティ/ミュージック・フォー・ブラス』に収録)で]フリューゲルホーン奏者としてソロを吹いたことが、再びオーケストラ・ワークヘとマイルスの興味を駆り立てる。
 「(略)ある日、マイルスが家にやってきて(略)一枚のアセテート盤を取り出したんだ。それがガンサー・シュラーとのセッションを収めたものだった。《こういうサウンドの演奏がしたい》って言うんだが、それはまさにわたしが考えていた音楽と同じタイプのものだった。クロード・ソーンヒル楽団で実験的に演奏していた音楽の現代版的なサウンドだったからね」
(略)
「(略)単にソロを吹き流すプレイにはうんざりだった。もっとフォーメーションがあって、内容も吟味されたソロを吹きたいと思っていた。(略)その何かを求めて、ギルのところに出入りしていたのかもしれない」(マイルス)
(略)
「『マイルス・アヘッド』では、まだモード・イディオムが完璧に消化されていなかった。しかしマイルスは、誰も教えなかったのにモード・イディオムをきちんと理解して、レコーディングにやってきた。わたしは、カールハインツ・シュトックハウゼンだとか、南米の民族音楽だとかを分析して得た手法でアレンジしたんだが、彼はスタジオでオーケストラのサウンドを聴くなり、ベストと思われるフレーズを次々に吹いてみせた。しかもソロ・パートでは、通常のコード進行から離れて、オーケストレーションにフィットする音を選びながら演奏してみせたんだから驚いた」
(略)
死刑台のエレベーター』でマイルスが試したコード進行のない演奏。それが、『マイルストーンズ』である程度の形になっていた。
(略)
「マイルスに頼まれて、「マイルストーンズ」にぴったりの旋法を、ジョージ・ラッセルの本から探し出した。それがドリアン・モードとエオリアン・モードだった」
(略)
「モードが弾けるピアニストを教えてほしいとジョージに頼んだらモー(ビル・エヴァンスのニックネーム)を紹介してくれた」(マイルス)
 ラッセルのモード理論に習熟したビル・エヴァンスの参加によって、マイルスのグループはさらにモード・ジャズを究めていく。

《ファンキー・ジャズとは何ですか?》

[ホレス・シルヴァー証言]
「わたしは一般にファンキーなピアニストと思われているが、それはすべてアルフレッドのせいなんだ。(略)本当はバド・パウエルのように流麗なタッチが好きだった。メカニカルなフレージングが得意だったんだよ。でも、アルフレッドはもっとブルージーに弾けって、それは口を酸っぱくして言っていた。曲もブルースやブルージーなものを書くようにってね。レコーディングのときは必ず一曲ブルースを書いていかなくちゃならなかった」
(略)
「ファンキーは《かっこいい》を意味する形容詞だ。音楽のスタイルを意味したわけじゃない。だから「オパス・デ・ファンク」は、《かっこいい作品》の意味でつけたんだよ。でも、そこからわたしのスタイルがファンキー・ジャズって呼ばれるようになったのかもしれない」
(略)
恒例の《ファンキー・ジャズとは何ですか?》という愚問をベニー・ゴルソンにも問いかけてみた。
「ゴスペルにルーツを持つ音楽だ。教会音楽に通じているジャズと言ったほうがわかりやすかな?」
さすが音楽理論を熟知しているゴルソンだ。単純明快、なるほどと納得ができる。
(略)
「ファンキー・ジャズは複数のホーン・アンサンブルで演奏したほうが表現しやすい。(略)サックスにトロンボーンやトランペットのブラス楽器を組み合わせると響きがソウルフルになるんだね」
 これについてもシルヴァーは似たようなことを言っていた。
「わたしはクインテットにこだわって曲を書いたり活動したりしてきた。ピアノ・トリオで演奏することはめったにない。曲を書く段階で、頭の中にはホーン・アンサンブルが一緒になったサウンドが響いているからだ」
(略)
 面白いのは、ゴルソンのプレイ自体はそれほどファンキーなスタイルでないことだ。ところがそこにトランペットやトロンボーンなどのブラス楽器が組み合わさってくると、俄然ファンキーな響きを伴ったサウンドが現出される。
(略)
 ぼくはファンキー・ジャズに対してひとつの結論に到達した。ゴスペルにルーツを持ち、アンサンブルでゴスペル・ライクなフィーリングを強調する。
(略)
「ファンキー・ジャズはスタイルやテクニックじゃない。わたしたち黒人の叫びや生活から出てきた音楽と考えてほしい」
 ロスの海岸でシルヴァーが語ったこの言葉がずしんと心に響いた。

ジャズ・ロック

 「五〇年代のジャズ・レーベルでジュークボックスをマーケットとして考えていたのはブルーノートぐらいだった。当時、全米で二万台とも三万台とも言われるジュークボックスがコーヒーハウスやレストランを中心に設置されていた。(略)そこにブルーノートは売り込みをかけたんだ」
 六〇年代に『キャッシュボックス』誌の編集者だったジョエル・フランクリンの証言である。
(略)
「ほかのレコード会社はあまり力を入れていなかったけど、ブルーノートはわたしがプロモーションの専任になって、ジュークボックスとラジオ局にシングル盤を売り込んでいたの」
 こう話してくれたのはルース・ライオン(当時の名前はルース・メイソン)だ。
(略)
これがなければ八○年代半ばから始まる《ジャズで踊ろう》というムーヴメントも起こらなかった。つまり、ジュークボックスはジャズにふたつのものを与えている。ひとつは肥大化した音楽マーケットにおける商業性であり、もうひとつはダンス・ミュージックとしてのジャズをのちの時代に残したことだ。
 それでも五〇年代のジュークボックス・ビジネスは、まだジャズにとって安定した資金源にならなかった。
(略)
[初のジャズ・ロック「ペンタコスタル・フィーリング」(ドナルド・バード)は大して話題にならず]
「別にジャズ・ロックを意識していたわけじゃない。あの手の演奏は、ニューヨークのハーレムでも、シカゴのサウスサイドでも、ロスのワッツでも聴けたんだ」(略)
「8ビートを用いてレコーディングしようと言い出したのはハービーかもしれない。彼もシカゴ時代にああいう演奏をしていたはずだからね。わたしもまったく抵抗がなかった」(バード)
(略)
[「ウォーターメロン・マン」でジャズ・ロックが話題に]
 「あの曲を形にしてくれたのはビリー(ヒギンズ)だよ。彼が、具体的なリズムを考え出したのさ。最初は8ビートと言っても、ロック的じゃなかった。それをビリーがジャズ・ロック調にしたのさ」
 興味深いのは、オーネット・コールマンのカルテットでレギュラー・ドラマーを務めていたヒギンズが、ドナルド・バードの『フリー・フォーム』やハンコックの『テイキン・オフ』に参加していたことだ。彼はコールマンと共演することで、フリー・ジャズのドラミングを開拓したパイオニアである。そのヒギンズが、フリー・ジャズとはまったく様相を異にする8ビートを叩いていたのは不思議だ。ここは本人に説明してもらおう。
 「どんなリズムでも演奏できることを目指していた。R&Bのバンドにいたこともあるから、ああいうプレイは得意なんだよ。それで、あの曲(「ウォーターメロン・マン」)でも8ビートにR&Bのフィーリングを加えてみたら、ハービーが《それだ!》って言ったんだ」
(略)
 ハンコックのジャズ・ロックが売れるしばらく前から、ブルーノートジミー・スミスのオルガン・ジャズにも力を入れていた。[『ミッドナイト・スペシャル』が大ヒット](略)
 「あのころは、それこそアイスクリーム・パーラーのような、子供が集まる店のジュークボックスにもブルーノートのレコードは入っていた。そうした場所でよく聴かれていたのがジミー・スミスのレコードだ」
(略)
 以下はハンコックの考えだ。
 「ジュークボックスというメディアがなかったら、ジャズはビジネス的にもっと苦戦を強いられただろうね。それから、ジャズ・ロックというジャンルも明確にはならなかった。それらを考えると、のちに登場してくるフュージョンやクラブ・ジャズも存在しなかったかもしれない。音楽の方向性にある意味で指針を与えたのがジュークボックスだった。そのことは無視できない」
(略)
 ビバップ以降、ジャズは観賞用の音楽になっていた。それが一部ではあるが、ダンス・ミュージックとしてジュークボックスの世界で人気を集めるようになった。そして、再び最新のダンス・ミュージック・ファンの間でもてはやされるようになったのである。(略)
 「面白いよね。ジュークボックス・ビジネスから生まれたジャズ・ロックが最新のダンス・ミュージックにもなりえるんだから」(ハンコック)

渡欧したジャズマン

何よりヨーロッパ・ジャズが大きく発展するきっかけとなったのは、ケニー・クラークが五六年にパリに移住したことだ。以後はモダン・ジャズ・カルテットのドラマーだった彼を頼って多くのアメリカ人ミュージシャンが渡仏する。
(略)
[ジョニー・グリフィン証言]
「パリでは、来てくれるお客の誰もが真剣に耳を傾けてくれた。とてもいい雰囲気だった。中でも最大のクラブが『ブルーノート』だ。そのほかにもたくさんのいい店があったよ。(略)
ピーター・セラーズ』っていうのもあったな。メンフィス・スリムがよく出ていた『ジャズランド』も好きなクラブのひとつだったし(略)
『クラブ・サンジェルマン』はジャズ・ファンだけにとどまらず、観光名所のひとつとして世界的に知られていた。パリ在住の、いわゆる知識階層や文化人と呼ばれるひとたちがよく集まる場所でね。店はそんなに大きくないが、雰囲気は最高だった。わたしたちみたいに国を離れたボヘミアンがいるかと思えば、当時のファッションだったビートニクがいたり、一方では詩人が自分の詩を朗読していたりと、騒がしい中にも将来の活力となるような勢いに満ちていた。ラディカルでポリティカルで、それでいて自由なムードに溢れていて、人種差別もなければ、言葉の障害もあまり気にならない。(略)[一方]『ブルーノート』はアメリカ的なムードが漂うクラブだった。(略)
飲みものつきでアメリカの倍くらいだったことは覚えている。それでもいつも満員だった。やっぱり本場のジャズに接するチャンスが少なかったころだからね」
(略)
アメリカでは、わたしの音楽に耳を傾けてくれるひとなどほんのわずかだった。いくら本気でプレイをしても、所詮は酒場で聴く音楽でしかなかったんだね。あの時代、同じような不満を抱いていたミュージシャンはたくさんいた」
(略)
ケニー・クラークを頼ってゴードンはパリに落ち着く。クラークが紹介してくれたホテルは、安宿といった感じでかなりみすぼらしい。ところが、そこで働いていたひとたちが驚くほど親切だった。
 「ニューヨークやロスでは、安い宿に泊まればそれなりの待遇しかしてもらえない。それがパリでは、貧しくてもひとびとの心がすさんでいなかった。そうした親切に触れて、一時は生きていくことにうんざりしていたわたしだが、再びやる気をとり戻すことができた。それに、パリのひとびとは(略)ジャズをアートと考えていたからね」
(略)
 ドナルド・バード、テッド・カーソン、デイヴ・パイク、ジェームス・ムーディ、ポニー・ポインデクスター、レイ・ナンス、ハンク・モブレーフィリー・ジョー・ジョーンズ、フランク・ライト、デューク・ジョーダン……。短期と長期の滞在者を合わせれば、この時期のパリでは数え上げればきりがないほどアメリカからやってきたミュージシャンが活躍していた。
 「で、こうした連中にとって、クラブ・ギグ以上に大切な仕事が、[ヨーロッパ各地の]ラジオ局のスタジオ・オーケストラで演奏することだった。(略)
 「レギュラーのジャズ番組に出演するのと、地元周辺でのコンサートや、ヨーロッパ中で行なわれるジャズ・フェスティヴァルで演奏するのが主な仕事だった。ラジオ局がジャズのオーケストラを持つなんて、アメリカでは考えられない。そんな需要はないからね。ところがヨーロッパではクラシックのオーケストラと同じように、ラジオ局や市がジャズのオーケストラを運営していた。しかも超一流のメンバーが揃っていたし、作・編曲にも手間ひまをかけていた。だからスタジオの仕事と言っても、常に最高の演奏が要求されたんだ」(アイドリース・スリーマン)(略)
 グリフィンもそんなオーケストラのひとつに名を連ねていた。
 「(略)スタジオ・オーケストラとなればリハーサルの時間が十分あって、それぞれが持ち寄った曲を納得がいくまで練習できた。ヨーロッパのミュージシャンがこれまた熱心なんだ。そこではみんな本当に演奏したいものが演奏できたし、クリエイティヴであることがむしろ義務だった。アメリカでは信じられない素晴らしい現実だ。アメリカにいてはとてもじゃないけど不可能に近い音楽生活が、ヨーロッパでは普通に存在していた」(グリフィン)

新主流派ってそもそもスタイル?

新主流派ジャズとはモード・ジャズとほぼ同義語である。名づけ親であるアイラー・ギトラーにも少し説明してもらおう。
「五〇年代後半にマイルスが始めたモード・ジャズが六〇年代になるとジャズの主流になったことから、そう呼ぶことにした。五〇年代の主流はビバップやハード・バップだった。六〇年代になるとモード・ジャズが主流になってくる。そこで新しい主流という意味で新主流、そのイディオムで演奏するミュージシャンを新主流派と呼ぶことにした」
(略)
 「ハービーがいなければ、マイルスの音楽もあそこまで完成したかどうかわからない」
 こう語るのはショーターだ。
「マイルスのグループで実質的に音楽のストラクチャーやハーモニーを考えていたのはハービーだからね。グループに入るまで、マイルスがすべてを考えているものとばかり思っていた。曲は全部マイルスが書いていたんだから。ところが、最初のスタジオ・レコーディングで初めてわかった。彼は簡単なメロディを譜面に書いて持ってくるだけなんだ。それにハービーがヴォイシングをつけながら弾いていく。マイルスもそれに合わせてトランペットを吹きながら、少しメロディをベントさせたりアウトさせたりする。今度はそれをハービーがひとつかふたつのモードに置き換えていく。そうやって曲を完成させていた。だから、新主流派ジャズはハービーが生み出したとも言える」
 それを横でサポートするのがベーシストのロン・カーターだ。新主流派のスタイルで演奏するときのベース奏者は、コード進行で演奏するときより役割の比重が大きい。
 「コード進行に沿ってウォーキングをすれば、自然とその中からビートが生まれてくる。しかしモードを用いているときは音の使い方がシンプルだから、ウォーキングをするにしても単調になってしまう。だからと言ってさまざまなビートを盛り込めば、せっかく新主流派的なスタイルで演奏している雰囲気を損なうことにもなりかねない。いかに少ない音で躍動的なビートを生み出すか、そこがポイントだ」(カーター)
 ぼくも昔はモード・イディオムのことがよくわからなかった。その見分け方は、ベースの動きを聴くこと。そう教えてくれたのは、セミプロ時代にバンドで一緒になったベース奏者だ。
(略)
「ドラマーはコード進行がないから、モードだろうがコードだろうが関係ない――そう思ったら大間違いだ」
 これはトニー・ウィリアムズの意見である。モード・ジャズ=新主流派ジャズはドラミングによっても決まる、というのが彼の主張だ。
「ハード・バップまではシンバルとスネアの比重が五分五分か六分四分だった。それが新主流派的な演奏をするときは、シンバルが多用されてスネアはアクセント的に使われることが多い。そういう奏法を始めたのはエルヴィン・ジョーンズが最初だと思う」
(略)
「わたしのグループより、マイルスのグループのほうがハービーの才能は伸びると思った。ちょうどマイルスが新しいピアニストを探していたから推薦したんだ」(ドナルド・バード

フュージョンへの道程

 この時期、マイルスはジミ・ヘンドリックスなどのロック・ギタリストを盛んに聴いていた。そして翌年、さらにロックの要素を強めた『イン・ア・サイレント・ウェイ』を録音する。そこに呼ばれたのがジョー・ザヴィヌルだ。マイルスとの出会いは、こんな風だった。
 「たしか『バードランド』で会ったんだ。彼のほうからやってきたんだよ。次のレコーディングに参加しないかと、その場で言われた。わたしはキャノンボールのバンドにいたから、無理だと答えたんだ。そのとき、マイルスは面白いことを言ったんだね。《お前のエレクトリック・ピアノでノイズを出してほしい》とか何とか。それがずっと頭に残っていた」
 スケジュールをやりくりしたザヴィヌルは、レコーディングのためにフリーに近いリズム・フィギュアとスケッチ程度のフレーズをスタジオに持ち込む。マイルスはマイルスでジョン・マクラフリンをセッションに呼び寄せた。演奏はほとんど即興的なものである。こうして完成したのがザヴィヌル作のタイトル曲「イン・ア・サイレント・ウェイ」だ。
(略)
 「あのアルバムはほとんどわたしが作ったものと言っていい。音楽のコンセプトはすべてわたしのアイディアに基づいていたし。マイルスは「マーシーマーシーマーシー」が気に入って、ああいうサウンドをもっとロック的なテキスチャーの中で試したがっていた。複数のキーボードを使って、ベース・ラインを強調したサウンドの中でね。それを具現化したのがわたしなんだ。もっとも「マーシーマーシーマーシー」とは随分違う音楽になってしまったけど」(ザヴィヌル)
(略)
 ザヴィヌルがニュー・グループのウェザー・リポートで目指したのは、ロックとジャズのビートを掛け合わせて、それまでに聴いたこともないリズムの複合体=ポリリズムを生み出すことだった。ソロを取るのも順番は決めずに、取りたいところで誰が取ってもいいと決められた。
 「(略)ウエインがサックスを吹いているときにわたしがキーボードを弾きたくなったら、そこに入っていっても構わない。そのときの気持ちに正直に演奏することが重要と考えた」
 これはニューオリンズ・ジャズやフリー・ジャズで認められた集団即興演奏にも通じる手法だ。しかし、ザヴィヌルの考えは少し違った。
 「そうではなくて、ソロの自由性というのかな?いつでも始められて、どこででもやめられる。ソロが重なったって構わないし、誰もソロを演奏したくないときはテーマだけで終わってもいい。演奏する上で気持ちが自由でありたかった。そんなところから発想された手法だ」
 それに対してウエイン・ショーターはこう語っている。
 「あのグループでは新しいリズムを試してみたかった。ロックはあまり意識してなかったけど、ジャズのビートから解放されるには、あのころだとロックのビートをある程度取り入れることになる。そこにマイルスのバンドで学んだことが生かされていた」