トニー・ヴィスコンティ自伝・その2

前回の続き。

スプリングスティーン

[ラジオを聴いていたらスプリングスティーンが出ていた]
デヴィッドはスプリングスティーンの音楽が大好きで、彼のファースト・アルバムを私に聴かせてくれたこともある。それにちょうど彼の“都会で聖者になるのはたいへんだ”のカヴァーをレコーディングしたところだった。(略)
[DJに頼み込んで、どうにか連れてきてもらった](略)
スプリングスティーンはとてもシャイな男で、なぜ他の人が自分の曲をカヴァーしたがるのかわからず、当惑しているように見えた。しばらくすると周囲の雰囲気にも慣れて、最後にはデヴィッドと長くて深い会話を交わしていた。

ジョン・レノン

[『バンド・オン・ザ・ラン』でストリングス・アレンジをやったがクレジットしてもらえず。25周年記念盤リリース時にポールから「君をクレジットしたよ」という手書きのメモが届いたという話が少し前にあって]
ある日、ヒット・ファクトリーで作業していると、デビットから電話がかかってきた。
ジョン・レノンが今晩、ホテルの僕のスイート・ルームに来ることになっている。君に来てもらってその場を和ませてもらえるとありがたい」。そう話すデビットの声からはひどく緊張している様子がうかがえた。その一方で私はレノンに会えるのが待ち遠しくてたまらなかった。(略)
[ホテルを訪ねるとなかなか出てもらえず]
レノンとメイ・パンは私が警官かもしれないと思い、バスルームに隠れていたのだ。コカインがあちこちにあったから、ジョンは巻き込まれたくなかったのだろう。数分もしないうちに[コカインとコニャックで]その場がすっかりリラックスしたムードに包まれ(略)
デヴィッドはやけに遠慮がちで、レノンに近づこうとせず、床に座って大きなスケッチ・ブックに何やら描きつけていた。(略)
 私はレノンの方を向いて言った。「もし良かったら、聞いてみたい質問が山ほどあるんだけど」
 彼はとてもチャーミングな人で、こう答えてくれた。「いいよ、もし僕で答えられることならね」
 私はいかにも技術屋らしい好奇心から、ビートルズのレコーディングについていろいろな質問を投げかけた。特に知りたかったのは“ア・ハード・デイズ・ナイト”のオープニング・コードについてだった。彼は親切にも何から何まで答えてくれた。それに、ポールの仕事を受けたときに[クレジットしてもらえなかった話をすると](略)
 「何とまあ、教えてくれてありがとう。もし僕がアレンジャーに口笛であるフレーズを教え、それが自分のアイディアだとしても、アレンジャーを“編曲者”とクレジットするだろう。ちょうど明日にでもポールに電話して会おうと思っていたところだったが、君のおかげであいつがどれほど嫌なヤツかってわかったよ」(略)
メイ・パンからジョンと彼女が後日、マッカートニー夫妻に会ったと聞かされて心底ホッとした。
 ジョンは私と何時間も話したのち、デヴィッドの緊張感を解いてやろうと決めたのだろう。「なあ、デヴィッド。スケッチ・ブックもう一冊あるかい?」
 「もちろん」。デヴィッドは自分のスケッチ・ブックを二つにざっくり分けて、ページの束と鉛筆をジョンに差し出した。すると彼らはお互いの似顔絵をサラサラと描き始め、どちらが面白おかしく描けるか競争を始めたのだ。これがきっかけで、やっと会話が生まれるようになった。
(略)
[ロンドンに戻って、ミキシングしていたら、ボウイから電話]
「ジョンと新曲を作ったんだ。カルロス・アロマーがずっとお遊びで弾いていたリフをベースにしてね。“フェイム”ってタイトルにした」
「そんなセッションがあるって教えてくれていたら、自腹でコンコルトに乗ってでも大喜びで駆けつけたのに」と私は彼に言った。

ボウイのサイド・プロジェクト

 『ヤング・アメリカン』を制作している間、デヴィッドは奇想天外なサイド・プロジェクトを実行に移している。彼は『ダイアモンドの犬』をベースにして、未来を描いた衝撃的な映画の制作を考えていた。そしてその構想を脚本のような形にする代わりに、ホテルの自分のスイート・ルームでデモ・ヴィデオを制作しようと決めた。(略)
核爆弾が使われたあとの都市を、比率を縮小して再現したセットを組み立てた。(略)黒の幕を背景に、自分で作ったセットを30分ほどヴィデオ撮影した。あとで録画したテープを再生しながら、彼は背景の黒幕に向かって歩いて行き、映画の内容を解説した。(略)2台目のマシーンで結合させて、彼が実際に都市の中を歩いているように見せかけた。(略)何もかもが説得力満点に見えた。私はあれ以来、そのヴィデオを見ていないが、あのままでもヒットするに違いない。

『ヤング・アメリカン』のヒットでトミー・モットーラからホール&オーツのプロデュースを頼まれたが、既にスパークスとの録音が決定していたので断った。

[ジョージ王朝様式の7LDKに引っ越す]馬屋の一角は、広いホーム・スタジオに改装した。(略)
メルローズ・テラスに立つ家は後に、ジェイク・リヴィエラが買い取ってスティッフ・レコード社の拠点にすることになる。私が造ったホーム・スタジオで、彼が抱える数多くのアーティストがレコーディングをしたわけだ。

Low (2017 Remastered Version)

Low (2017 Remastered Version)

 

『ロウ』

[ボウイから電話]
「ブライアンのアンビエントな音楽テクニックを盛り込んだロック・ナンバーを書きたいんだ。トニーもブレーンストーミングに参加して何かインプットをくれるかな?」(略)
「新しい機材があるんだ。イギリスにはまだ2台しかなくて、名前はハーモナイザーという。これで毎日実験しているけれど、今まで聴いたことのないようなサウンドが生まれている」
 「そうか。で、どんなサウンド?」とデヴィッド。
 「時空の定義をいたぶるサウンドだ」(略)
 「これさえあれば、テープの速度はそのままにピッチだけを変えられるし、その逆も出来るんだ。フィードバック・コントロールを使えば、不気味なサウンドだって作れる。しかもシンセとは違って、自然界の本物の音を魔法みたいに加工出来るんだ」(略)
[ギターを]誰か探してほしいと言われていたので、グッド・アースで一緒にシングルを作ってくれたリッキー・ガーディナーを推薦してあった。(略)リズム・セクションはすでに、カルロス・アロマー、ジョージ・マレー、デニス・デイヴィスという、アメリカのブラック系ミュージシャンで固められていた。(略)
 セッションは「ドカン!」と始まった。アンビエントな実験よりも、このようなロック・バンド的な環境に突入してスタートさせてみたら、最高のバッキング・トラックが初日からバンバン浮上した。例のごとく、メロディや歌詞は一切なく、あるのはグルーヴやコード進行のみだった。
(略)
私は、スネア・ドラムのマイクをハーモナイザーに直結して、ピッチを半音下げては、そのサウンドのフィードバックをオリジナルの音に加えていった。要するにすごく深みのあるスネア・サウンドの音程がどんどん下降していく状態にしたのだ。初めはパリッとしていた音が、ドスッと重みを帯びたかと思うと、やむ気配がなく延々と続き(略)まるで腹を殴られた男のように「うぐっ」と唸っていた。全員が度肝を抜かれたサウンドだ。(略)
私はエフェクトをそのままの状態にして、デニス・デイヴィスのヘッドフォンだけに送り続けることにした。すると彼は即座に、自身のドラミングの音量次第でハーモナイザーの反応が変わるのだと悟り、楽器のようにハーモナイザーを操りながら、個性豊かなサウンドをちりばめるようになった。
(略)
イギー・ポップが来てくれたのはありがたかった。一ヶ月フルに居て、バックを務めてくれたのだ。プロジェクトをいい形で引っ張り、アルバム全体の創造性を広げてくれ、ほとんどのセッションに参加してくれた
(略)
『ロウ』と『イディオット』のミキシングの境目はベルリンの靄のようにぼやけている。記憶では、『ロウ』のミキシングを終えて一ヶ月後に、イギーのアルバムを整えるために戻ってくるよう依頼されたはずだ。

バッド・レピュテイション

バッド・レピュテイション

 

シン・リジィ

『バッド・レピュテイション〜悪名』

[“ヤツらは町へ”が大好きだったのでオファーを受けたが、メンバーがクスリでヘロヘロで仕事がはかどらない。マネージャーに電話し]
「俺にプロジェクトから降りてほしくなかったら、バンドのやる気と根性を叩き直せ」と私は最高に乱暴な言葉で訴えた。
(略)
このバンドはただの子供の集まりだ。こんな態度でいられては、かえって仕事の邪魔になる。私の尺度はイギーだ。イギーはシン・リジィの誰よりもワイルドだが、スタジオではビシッとキメる。彼らにもそのくらいのことを、やってもらいたいものだ。
 次の日、フィル・ライノットがやけに低姿勢で私をなだめにかかった。
 「スコットとロボがクスリや酒をやりすぎているのはわかっている。俺の場合は13歳のときにお袋がマリファナを教えてくれたんで、扱いにも慣れているけど、アイツらはそれが出来ないんだ。俺から話しておくよ」
 セッションを台無しにしたのはフィルも同罪だと言うと、彼はまさかそう来るとは思っていなかったようだ。「あのさ、トニー、俺も控えると約束はするけど、完全にやめるのは無理だ」

『ロジャー』

[ギリギリにヒット・ファクトリーを予約したため“Dランク”のスタジオDでやることに。大きなスタジオを使っていたキッスが挨拶に]
正直言って、メイクをしていないと彼らが誰だかわからなかった(略)
ボウイのジギー時代の音楽、衣装、ステージ・パフォーマンスがなければ、キッスは生まれていなかったと彼らは謙虚な様子でデヴィッドに言った。デヴィッドは凍てつくような目で彼らを眺め、控えめに礼を言った。彼は、新曲を聴かせてほしいという彼らのリクエストを巧みに避け、いかにも仕事を続けたいという態度を見せたので、ニ人は早々に退去した。彼らが部屋から出て行くと同時にデヴィッドがこう言った。「ふん、やっと認めたか!」
(略)
[NYの高級レストランで食事していたら、ジョン・ベルーシ一行が]
身長170センチくらいのコメディアンが、12人ほどのセキュリティに囲まれていた。デヴィッドがベルーシに挨拶に行[くと](略)ベルーシは、大勢のセキュリティについてこう説明した。「6人のセキュリティは、俺の安全のため。あとの6人は、俺がドラッグを手に入れないか見張っているんだ。でも俺は部屋に入ったらすぐに誰がドラッグを持っているか見抜けるし、いつもまんまと手に入れるのさ」

パワー・ステーション、ボウイの友情

70年代の成功物語は80年に入った途端にすべてがうまくいかなくなり、80年という年は、私にとって最悪の一年となった。そしてその後の10年は(略)失意に満ちた、本当に最低の10年となってしまった。(略)
[ボウイとの新しいアルバムのための]ニューヨーク行きの準備中に[妻の]メリー・ホプキンとは既に別居の話が出ていた。(略)[家族と離れたくなかったが]最終的にはいつものように仕事を優先してしまった。
 スタジオはパワー・ステーションだった。オープンしてからそれほど経っていないにもかかわらず、このスタジオは世界一のスタジオだと評判になっていた。このスタジオのオーナーは、ジョン・ボン・ジョヴィの従兄弟のトニー・ボンジョヴィだった。彼は、レコードを聴いただけでモータウン・スタジオの反響室のサイズを割り出した天才だ。モータウンで録音されたレコードのリヴァーブの減衰値を基に計算したという。その結果を添えて彼はモータウンに手紙を書き、仕事をもらえないかと頼んだ。彼のように頭がいい子は使えるということで、モータウンで働くことになった。仕事を始めると、モータウンのスタジオにはさらに多くの秘密があることがわかったという。24トラックすべてのインプットとアウトプットにパルテック真空管イコライザーが常設で接続されていたのだ。(略)設備のいいスタジオでもパルテックが6つあればいい方(略)それにパルテックはとても高価で、世界的にもあまり出回っていない。それがこのスタジオには48もあったのだ!(略)アナログ・サウンドの絶頂だ。(略)
 デヴィッド・ボウイのアルバムを作るときにはいつも、「このアルバムを我々の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』にしよう」が合い言葉だったが、本当に100%真剣にそう思っていたのは、多分『世界を売った男』を作ったときだけだったと思う。(略)
[デヴィッドたちは]ヘッドフォンが接続されているその小さな箱に夢中になっていた。(略)カルロスが大声で叫んだ(略)「うわ、音がデカい、それにすげえいい音だ!」。デヴィッドは、それまで誰も目にしたことがなかった初代のソニーウォークマンを持っていたのだった。皆が交代で聴き、その音の素晴らしさに同様に感動した。もちろん皆、ほしくてたまらなくなった。
(略)
[曲はまだできてないと言われて、私生活&仕事のストレスから辛辣な言葉を吐いてしまう]
ホテルの部屋に戻って、きっとデヴィッドからクビを言い渡されるのだろうな、と思った。それも悪くないかもしれない。彼もそろそろ自分一人でやるか、他の人と組む時期なのかもしれない。私に至っては結婚生活は崩壊寸前だし、二人の子供たちにもほとんど会えていない。横になって自分を哀れんでいたら、ドアがノックされた。デヴィッドだった。
 「大丈夫かい?トニー」(略)「トニー、何があったんだ?」
 その瞬間に完全に我を忘れ、私は彼の腕の中で震えながら気が済むまで泣き続けた。
 「結婚生活が破綻したんだ、デヴィッド」(略)
そして子供たちを失うことがとても怖い、とも。彼は黙って私の話を聞き、その後に、もう一日休みを取って、このままここに残るのか家に帰るのかを決めるように言った。彼は、私の状況がよくわかると言っていた(デヴィッド自身の離婚問題は大々的に報道されていた)。その瞬間、私はデヴィッド・ボウイの中に昔から変わらぬ友の姿を見た。彼のことをみくびっていた。ここまで私のことを思ってくれていたとは……。

“アッシュズ・トゥ・アッシュズ”

[パワー・ステーションでレコーディングしていたスプリングスティーンと5年ぶりの再会]
以前のシャイな面は姿を消し、彼には大物の風格が漂っていた。(略)
 今回のセッションでは専任のキーボード・プレイヤーがいなかったので、Eストリート・バンドが隣にいたのはとても便利だった。(略)[ボウイがウーリッツァーがほしいと言いだし、Eストリートのロイ・ビタンに来てもらったが、ウーリッツァーが不調。時間がないので普通のピアノで録音し、インスタント・フランジャーに通してウーリッツァー風にしようとして]
さらにいじりたい衝動に駆られてもっとやってみたらビリビリと震えるようなすごいサウンドになった……スタジオにいた皆が瞬時に気に入った。それが“アッシュズ・トゥ・アッシュズ”のイントロとアウトロだ。

“イッツ・ノー・ゲーム”

デヴィッドは歌詞を東京在住の友人の大学教授に翻訳してもらったが、日本語の音節を旋律に合わせるのに苦労していた。(略)[著者の個人秘書が『王様と私』に出演していた日本人女優ミチ・ヒロタ見つけてきた。彼女は]即座に「翻訳は直訳で、詩的な文章になっていない」と指摘した。音節が多過ぎて旋律に乗らなかったのだ。デヴィットがこの歌を日本語で歌うことは無理だとわかったが、彼は代わりに、ヒロタ女史に音楽をバックに日本語歌詞を朗読してもらうという素晴らしいアイデア思いついた。

ストラングラーズ

かなり根暗なバンドで、ミキシングは楽勝とはほど遠かった。(略)態度が悪いせいで日本の松濤館空手道場から追い出されたという話を自憎げに話すベーシストのジャン・ジャク・バーネルは、とても横柄な人物のように思えた。彼を私の空手練習用の部屋に案内すると、彼はそこにあった詠春拳用の木のダミー人形をドクター・マーチンの靴で繰り返し蹴った。ダミーはボロボロになり、壁から残骸がぶら下がっているだけになってしまった。これには腹が立ったので、かなり長いこと彼を無視してやった。しかし皮肉なもので、どういうわけか結局、メンバーの中では彼と一番親しくなった。ヒュー・コーンウェルについては、声が気に入った。彼はカリスマ性があったがとてもよそよそしかった。デイヴ・グリーンフィールドはいつも神経質そうに微笑み、汗かきだった。革製の大型のバッグを肌身離さずに持っていて、トイレに行くときも手放さなかった。一体中に何が入っているのかと尋ねると彼はこわばった微笑みを浮かべて言った「ああ……本だ」。(略)
このアルバム『ラ・フォリー』からは彼らの初のNo.1ヒットが生まれた。“ゴールデン・ブラウン”というラヴ・ソングだ。私はあまり歌詞の意味をアーティストに尋ねることはないのだが、この曲には感銘を受けて尋ねてみた。ヒューが、これは中国産のヘロインのことを歌っていると教えてくれた。私はゆっくりとつぶやいた「なるほど……」

OMD、ディフォード&ティルブルック

オーケストラル・マヌーヴァーズ・イン・ザ・ダークはいい人たちだったが、バンドのメンバーがドラム・マシーンをいじったり、簡単なプログラミングに四苦八苦している様子を3日間も見続けていて、これは我慢の限界が来そうだと思った。私はきちんと演奏出来ない(この場合は、プログラミング出来ない)ミュージシャンに対する偏見の壁にぶち当たっていたのだ。(略)結局彼らの作ったベース・パートのアレンジを1曲分だけやったところでこの仕事を降りた。こんなことをしたのはそれまで仕事をやってきて初めてのことだった。
 スクイーズは私の大好きなバンドで、クリス・ディフォードとグレン・ティルブルックは素晴らしい曲を書くと思っていたので、彼らがデュオとして出すアルバムで仕事をすることを楽しみにしていた。最初はすべてうまくいっていたが、なぜか途中で仕事を取り上げられ、他の人がミキシングをすることになってしまった。こんなことも今までのキャリアで初めてだった。(略)最低だったのは、エンジニアがライヴのスネア・ドラムでサンプリングをトリガーしているのだが、それが間違った箇所で音が出たり、音が遅れたりしていたことだ。世間では絶対に私のせいだと思われているに違いない。

ジョン・スクワイア

ストーン・ローゼズジョン・スクワイアとは一緒に仕事をしていて楽しかった。彼はギターがとてもうまかったのでギターのレコーディングはとても楽だった。それに、今まで仕事をした中で、ここまで素晴らしいギターとアンプを備えているミュージシャンは珍しかった。