- サディスティックス
- 再びソロ活動へ 『それから先のことは』
- 『ガーディニア』
- 『パパ・ヘミングウェイ』
- YMO
- カメリア・レコード、内田裕也
- 『あの頃、マリー・ローランサン』
- 『ボレロ・カリフォルニア』
- 洋楽と邦楽
- 作詞
- セルフカヴァー・アルバム
前回の続き。
サディスティックス
――加藤さんは、サディスティックスをどう見ていましたか?
ミカ・バンドがなくなって、単に僕とミカが離婚しちゃったからやめちゃったっていう説もあるけど、それも正しくて(笑)。あとみんなやる気がなくなっちゃった。僕は常に未練がない人だから、なくなったらなくなったでいい。でも、あちらは未練を捨てきれずに、ビクターから出したんで、 いわゆるエスプリが何もないアルバムでしょ。
ミカ・バンドのイギリス・ツアーの時に、もうみんなバラバラだから(略)「帰ったらトノバン、ミカ抜きでやろう」みたいな話は、悪気のない発言で出てくるわけ。僕も知ってるしさ、「やれば」って。あれをやったことで、結局、僕のこともかえってみんな解った。幸宏なんかは前から解ってたけども。
あのサディスティックスやって、みんな解ったんじゃないかな、僕がなにをしていたか。そんな話したこと無いけど。
――サディスティックスという名前は彼らが勝手につけたんですか?
うん、勝手にやったの。そんなの別に、僕どっちでもいいけどさ。ビクターに一人いたのよ、好きな人が。凝ってるんだね、あれ。ジャケットとかいろんなの。一応、コンセプトアルバムで。だけどつまんないんだよ。
(略)
――当時のリスナーの感覚で言えば、ビートルズのような音楽は、日本人では絶対にできないと思いこんでいたところがあったと思います。
(略)僕は一切、日本人とかなんとかっていうことを考えたことはないんだよね。だから、たぶん、はっぴいえんどの方向に行くのと、ミカ・バンドとの違いがそこなんだよ。(略)営業戦略上、日本ぽくして着物着ましょうか、とかいうのはあるよ。でも、基本的に日本人て考えたことはないんですよね。 だから自分の中の日本人とかないの。喪失じゃなくてもとからないの。だからもちろん自然に日本語で歌ってるし、ロックやりたいと思ったら日本語でやる。(略)いまだにそうなんだけど、日本人ていうのが無いの、実は。
――逆に言えば、はっぴいえんどのほうが洋楽志向なんでしょうね。
いわゆる洋楽志向ね。すごい洋楽だもんね。
――洋楽的なものをやっていたけど、自分たちが日本人だって気づいた時に出来たのがはっぴいえんどの音楽なんだと思います。
コンプレックスというか、どこかに意識があるわけでしょう。(略)
はっぴいえんどが日本的テーマを選ぶのと、僕らがわざと日本的テーマを選ぶっていうのは、一見同じだけど、実はまるで裏返し。
――はっぴいえんどとサディスティック・ミカ・バンドは、表裏一体の存在だったのかもしれないですね。
(略)はっぴいえんどにしても、僕らミカ・バンドにしても(略)持っているグループ・エネルギーは近いものがあると思う。単純に向こうの音楽をコピーしてやってきましたっていうパワーじゃない。たとえばね、いくら今、ブラコンそっくりにやってたとしても、それは単におまえ本当に黒くなっちゃえば、っていうだけで、それとは違うんだよね。
――今の人のほうが、なり切りたいっていう気持ちが強い感じがします。
僕はなり切りたいと思ったことは一回もないもんね。たぶん細野君たちも、なり切りたいと思ってないと思うよ。でも、今はなり切っちゃうんだよね。鏡見ないで成り切っちゃうんだよね、平気で。
(略)
今だと裏返っちゃって、ワールドミュージックを逆に取って、東洋でございってやるんじゃない。あれも嫌いなのね、僕。だったら日本やれってんだよね。中国へ逃げなさんなっていう感じがあるんだよね。
(略)
いまだに僕にも謎なんだけどね。なぜ歌謡曲がかっこ悪くて、中国っぽくすると、かっこよく思えてしまうかっていうメンタリティー。
歌謡曲のメロディーっていうのは、音楽的に分析すると、コリアン・メロディーでしょ。いわゆる中国系、ペンタトニック系っていうのはコリアン系統じゃないよね。コリアンが悪いってわけじゃないけど、なんか歌謡曲、演歌に通じると。これは完全に日本のベーシック音楽だよね。本当は日本のベーシック音楽は純邦楽だけれども、またそれと一クッションおいて、中国っぽくやると、たとえば非常にうるさいミュージシャンでも許せてしまう、というのがあるよね。
一回、教授(坂本龍一)とその話をしてて、「教授も日本ていうけれども、結局やってるのは中国だろう、なんで日本じゃないの?」って話をしたことがあるわけ。そしたら、ポロっとね、「いや、実は本当は僕はね、フォーク・ソングみたいなのつくっちゃうんだ」って言うわけ。これが本当かもしれないっていう。だからそれはそうだけど、なんで中国っぽくするとかっこよく見えて、完全な演歌みたいなのかっこ悪いってわかんないね、って話を昔にしたことがあるんだけれども、いまだに僕わかんない。なんででしょうね。
――純邦楽や民謡に行ってしまえば、それほどかっこ悪くないという気がしますが。
でも、かっこ悪いよね。なんか変なのに「よー、ポン」って入ってかっこ悪いでしょ。ところが胡弓かなんかヒューって弾くとかね、中国のなんかが入ってると、これはいいんじゃないのって思っちゃうじゃない。三味線入れたらかっこ悪いでしょ、やっぱり。
(略)
日本でもせいぜい、平気なのは尺八。僕もちょっといじくって使うけれども、あれはぼけるから意外とあまり恥ずかしくならないんだけれど、他の日本ものが入ると、なかなか難しいっていうか。
(略)
それは永遠の問題として僕に内在してるわけ。
團伊玖磨さんを批判するっていうんじゃないんだけど、「夕鶴」は(略)最高に上演回数が多いオペラ。(略)観に行ったの、本当に團先生が指揮する公演。それはもはや赤くなっちゃうようなオペラなんだよね、感じが。台詞も「お腹が空いたベー」とかなんとか言っちゃって、すごいものなんだけども、それは彼が二〇何歳かの時に書いてる。それはちょっと違うなと思って。
(略)
やっぱり、黛(敏郎)さんはすごい。彼の作品は最高にすごい。雅楽とかやってても、現代音楽もちゃんと踏まえてるし。(略)
再びソロ活動へ 『それから先のことは』
ミカ・バンドのイギリス公演から帰ってきた後に安井と出会って、一年なにも仕事をしてなくて(略)僕、二七歳。もちろんミカ・バンドで全部使っちゃったし、全然金もなかったから、安井のところにころがりこんじゃった。
いっさいなにもしてなかったわけね、二人とも。(略)
一年くらいで持たなくなってくるからね。なんかしたくなるんですよ。よく考えたら作詞家と作曲家じゃないっていう話になって、アルバムをつくろうということになった。
(略)
どうしてもマッスル・ショールズでレコーディングやりたくて。 ポール・サイモンが好きっていうんじゃなくて、「ひとりごと」とかのリズム・セクションが好きだから。あれがなんとか出せないものか。それまでいろいろトライしてたわけ。ミカ・バンドとしても個人的にも、山ほど。でも、絶対ならなかったわけよ、あの南部の独特の感じに。
じゃ行くしかないな、って行って。いまだにあそこのエンジニアとか全部、友達だけどね。当時、海外録音は(略)アメリカはそれが初めてなんじゃないかな。それまでロンドンばっかりだもん
(略)
『それから先のことは』は、完全に私小説なんだよね。まるでなんにも考えなくて、彼女が勝手に詞を書き、僕はプライベートな曲をつくって、アレンジもなにもしない。どうせヘッドアレンジだから、バリー・ベケットに任せて僕はぶちぶち言ってるだけっていう。曲もそうだけど、非常にプライベート。今まで、プライベート・アルバムって、それ一枚しかつくったことないのよ
(略)
『ガーディニア』
ボサ・ノヴァ好きだったんだけど、でもブラジルへ行こうとは思わなかった。
行けば行けたんだけど。本当のサンバとかブラジルをやるんじゃないし、やっても本物にはかなわないって頭からあったから。
でもコピーはしたくない。日本でやりたいっていうんで、「教授(坂本龍一)、ちょっとジョビンの研究してよ」「う、う、うん、なんか違うメロディーやっとけばいいんでしょ」。でも必死に協力してくれて、研究して、全部日本でやった。
だからあれは変わったメンツが入っているんだよね。渡辺香津美とか、カクトウギ・セッションがズルっと来て、それが無理やりボサ・ノヴァやらされたっていう。幸宏なんか七分くらい、ハット踏んでるだけっていう曲があるんだよ、チッ、チッ、チッて。「トノバン、足痛いんだけど(笑)」「なんで七分やるの」「長いのがいいんだよ、長いのが」とかわけのわからない話をして。「足つっちゃうんだけど」。
(略)
ソロなんかも多いわけじゃない、トランペットとか。だから、向井滋春さんとか来て、ボサ・ノヴァのソロって長いから、みんな悩んじゃうんだよね。普段はせいぜい八小節とかそのくらいだから。
(略)
稲垣次郎さんとか普通のソロやるのに四時間くらいシリアスに考えて、渡辺香津美もずいぶん考えてたな。「こんなの無いや」って。その頃、ボサ・ノヴァなんて誰もやってなかった。好きな人は好きなんだけどね。(略)
[タイトル曲の「ガーディニア」]はケメが、(笠井)紀美子ちゃんが頑張ってやってくれた。「ガーディニア」は完全もう、サンバとつきあってた時代(略)
教授もオガーマンになりきってるし。二日に一回くらいはスタジオに来なかったりするんだけど、教授はすごいなと思った。(略)
遅れてスタジオにやって来て。弦なんかみんな待ってるから(略)ガーッて書いて、一曲やってて。その間自分はピアノ弾いて(略)次の曲書いてるの。なんていう奴だと思ったね。こういう頭の持ち主がいるのかなと。
(略)
[東芝EMI邦楽部トップの新田和長との軋轢で『ガーディニア』を最後に移籍]
(略)悪口は言いたくないんだけども、『ガーディニア』の時に、新田さんが、「加藤君はこんなことやってないで、やっぱり「あの素晴しい愛をもう一度」みたいなのがいちばんいいんだ」って言ったんで、「もう、あなたとはやりません」ていう話で、即、次の日に東芝をやめてしまった。(略)
理解してないなって思ったわけ。もう、こんな人とはやってられないって
(略)
折田(育造)さんも知ってたからワーナー行ったら、もちろん「ベリー、ベリー、ウエルカム」で。急に赤じゅうたんサービスみたいな。洋楽の強みを活かしちゃって、僕のこと知ってるから、好きそうなことやるんだ。「何でも好きなこと、やれな。ちゃんとやるから」。折田さんの一言が嬉しかった。
(略)
[『ガーディニア』]は全部、僕が一人でミックスしてる。(略)[新田]側のミキサーがあまりよくわかってなくて、ミックスしてるのをいじるといい顔しないっていう古いミキサーで、そのうち来なくなったから、勝手に僕一人でやった。(略)
コンピュータがない時代で、本当に一人だったから。(略)一人にしといてくれって言ったんじゃなくて、居なくなっちゃうの。(略)もはや孤高の世界。
それで僕はミキシングを覚えたの、こっちのフェーダー上げながら、こっち下げるとか、全部出来る。それが出来るのは、日本ではあまり居ない。マニュアルじゃなくて、全部聴きながら。耳は聴いてるから見てないんだよね。それで全部覚えてるわけ。こっち上げながら、こっち下げてとか。全部別々に動く。
『パパ・ヘミングウェイ』
ヘミングウェイは元から好きだったんだけど、それをなんとか音にできないかなと(略)思ってつくっているうちに、偶然に「スモール・キャフェ」って曲ができて。(略)
そこから『ベル・エキセントリック』へ行って、さらにベルリンに、という、べつに三部作とは思ってなかったんだけど、勝手になっちゃった。 その頃に、たまたま折田さんが洋楽部に異動になっ(略)てしまって居心地が悪くなって(略)リクルっちゃったんですよ。
(略)
「アラウンド・ザ・ワールド」は、ダブが流行りかけの頃で、ダブ・バージョンもあるんだけどね。それで一口坂スタジオの新品のコンピュータを壊しちゃったの。(略)
数千万円の損害を与えております。「スモール・キャフェ」って『パパ・ヘミングウェイ』のなかで、いちばん最後に出来た曲なんだよ。一曲目に入ってるからいちばん最初につくったみたいだけど。(略)これだけヨーロッパ的なのね。
(略)
ヘミングウェイの思想ってものを音楽に置き換えたらどうなるかってことで(略)あれをつくった。
(略)
『ベル・エキセントリック』の時は、一九二〇年代のパリでのいろんなアーティストのつながりとか云々に刺激されて、日本で手に入らない洋書まで読んじゃうから(略)半年はその話しかしないんだ。安井と二人で異常なくらい。だから、なに食べててもその話をしてるわけ。完全にその時代の人になり切っちゃってるんだよ。「あっ、だいぶ乗り移ったな」っ て時に、あちらはあちらで詞を書いてる。詞というより思いつく言葉かな。僕は曲をバンバンつくっちゃって渡すと、それにパッとはめてつくっていく。
(略)
[なぜ『うたかたのオペラ』が先にリリースされたのか]
安井のほうが、フランスはやっぱりサンクチュアなところだから、うかつには触れられないと。(略)なんだかんだ話しているうちに、僕がベルリンの一九二〇年代かな、興味を持って、山ほど本を買ってきて。(略)
でも(略)うちのはドイツが嫌いで(略)「つくりたいんだから、帰りにパリに寄ってあげるから、やろうよ」「じゃ、いいわ」そうなったらプロだから、ベルリンを徹底的に研究して(略)
それからはまた波瀾万丈。ベルリン・レコーディングはYMOの三人と大村憲司が行くはずだったの。(略)[明日ベルリンという時に]電話で、「すみません、坂本が体調が悪くて行けなくなりました。代わりに矢野が行きます(略)」って。(略)
で、アッコちゃんが本当に来てくれて、「すみません、うちの夫が」。急に不思議な組み合わせになった。(略)
みんな感受性がすごいから、ベルリンに行った途端に笑顔が消えちゃった。細野さんだけ喜んでいたな。細野さん、空港に着いて開口一番、空港が赤と黒で、車も幾何学的に停まってるんだよね。「あっ、構成主義」。(略)色もすごいの、「あっ、全部クラフトワークじゃない」。結構のってるわけよ。幸宏はなんか暗いのを察して、「トノバン、帰りたいよ(笑)」。アッコちゃんは「どうも、すみません」みたいな。憲司は憲司で、一人知らん顔。そんな感じだからね。だから毎日暗~いの。(略)いちばん奇妙なアルバムだよ。
変でしょ。この変さがベルリンなんだよ。(略)[安井は]書いてるわけよね、ホテルで。完全になんかこんなになっちゃって、圧倒されて。だからすごいアルバムでしょ、怖い。ベルリンのテンションをうまいこと移動できたと思うんだ。
――どうして、このメンバーでベルリンに行ってやろうと思いましたか?
(略)もうみんな巨匠になっちゃってるから、良い意味でスレちゃってテンションがないのよ。うまいから一〇〇パーセントの演奏はするけれども、僕はそんなんじゃ嫌なわけよね。(略)それをつくるには、日本に居ちゃダメだっていうんで[ 『パパ・ヘミングウェイ』の時]全員バハマとかマイアミに連れ出してみたら、意外と成功したの。(略)
[みんな]今だともっと背負ってるけど、その頃でさえ「大先生」やってるわけ。ところが、外国へ行っちゃうと普通の人になってプレイできる。この差が大きいんだよね。
だから大変なんだけどね。(略)三回で懲りた。(略)
ベルリンがいちばんテンションが高かったな。アッコちゃんがいちばん活躍してくれた。みんなの盛り立て役。幸宏なんかベルリンだからよけい暗くなっちゃうのね
(略)
で、『うたかたのオペラ』が終わった時に、やっぱりフランスはテーマにすべきだ、取り組んでみようと。(略)
教授が全快して、この前休んだからって一緒に行った。
(略)
YMO
――三部作の時期は、YMOともダブってますね。ちょうど同じ時期に、YMOでは出来ないことをやっているという印象ですね。
(略)『ベル・エキセントリック』なんて、YMO全員いる。だから彼らの発散にもなってたんだね。特に『ベル・エキセントリック』はパリ郊外のシャトーっていう隔絶された所でやったから。(略)ドラキュラ城なのよね、部屋が。(略)一時ドラキュラごっこが流行って、幸宏がまたうまいんだ、仮装が。ご飯食べてると、変な恰好でこんなやって出てくる。
夜中の遠吠え合戦てのもある。細野さんいちばんうまいんだよ。悪いんだよ、細野さん。幸宏が怖いから、一緒に寝るって細野さんと一緒の部屋で、幸宏が寝たのを見ると、「ウォーッ(笑)」。幸宏、ガバッと起きる。「なに、なに」、意外と細野さん悪いんだよ。
それで一応、全部発散させて、その次は教授が急に「『コンバット』に似てない?」って(笑)。コンバットごっこが始まって。コンバットごっこが歪んで、完全に日本軍になっちゃったの(笑)。みんな全部名前がついて、「坂本大尉殿」、「戦メリ」の前よ。なんだか知らないけど、教授がいちばん偉くて、坂本大尉、細野さんも大尉かな。幸宏も高橋なんとかってランクがついてて、僕なんかずっとトノバン。階級無しなんだよね。教授が一番ハジケるじゃない、ああいう時って。ピーター・バラカンなんか泣いてた。「おっ、異国の奴だな、敵性だ」とか。ハジケッ放し、みんな。「今日は敵性用語無し」。「よし、これから録音に行く」だもん。一日中やってた。
(略)
――『ベル・エキセントリック』にエリック・サティの「ジュ・トゥ・ヴー」を入れたのも新鮮でしたね。
僕が思い立って、「ジュ・トゥ・ヴー」を弾くことになった。教授も「覚えてるけど……、譜面が無いと」。ちょうど、アッコちゃんがなにも無い日で、「買いに行ってくるわ、あたし」とか言ってパリに遊びに行っちゃったんだけど、ちゃんと本当の出版社から買ってきて「はい」とか渡して。「おまえ弾けよ」「あなたが弾いたほうがいいわよ」。毎食後、三日三晩、密かに練習してた。あんな緊張した教授を見たことがない。なんか難しいんだって。譜面見ると簡単なんだけど、「難しいんだよ、これ」って言ってた。言い訳かもしれないけど。
サティなんて誰も知らなかったでしょ。いっぱい使いだしたの、あの後。それまでは、本当に真面目にやってる高橋悠治さんとかの例はあったけど、コマーシャルで使うとか、一切ない。他人の曲を入れたのも初めて。
本当は僕が弾きたかったんだけども、指がついていかないから。だいぶ弾けるけど、ロレっちゃうんだよ。シャトーの一番上の教会の所がスタジオになってるから、鳥の声なんか入ってるんだよ。全部窓を開け放って、ピアノが置いてあって、「朝一番にやろう」って、ほかのみんなが寝てる時に、わざと選んだに違いない、見に来られるから。三テイクくらいで録れた。
(略)
――加藤さんは、YMOには興味がありましたか?
興味というか、まあ傍観者ですね。僕流の分析でいくと、幸宏が完全にミカ・バンドの方法論を入れている。細野さんの持っている音楽性と教授のアカデミズムが、うまいことミスマッチしている。分析するとそういう見方で、好きなものもあるし、変なのもある。
(略)
違う人が集まって、お互いを認めつつ音をつくるって、意外と日本は少ないじゃない。喧嘩しちゃうでしょ。大人じゃないから。
日本人てやっぱり個が確立されてないから、個を認められないのね。集団で何かするっていう。(略)
サディスティック・ミカ・バンドとYMOだけでしょう。
(略)
幸宏はプロデューサーなのよ、ある種の。YMOはボディがうまいこと出来てるのよね。きっちり。なかなか、そううまい組み合わせはできないよね。僕らの場合もそうだけど、うまいことはまったというか。
(略)
幸宏は僕を助けてくれたし、僕も幸宏を助けたし。そういう部分があって、それにいろいろ艶やかな人たちが派手なことをしてくれたってのがミカ・バンドでしょ。それをもうちょっと現代的テクノロジーでやってみると、オリジナル時代のYMOになるでしょ。
(略)
あの三枚っていうのは、僕だけじゃなくて、みんなもそれぞれ、すごいいろいろ思い出を持ってるんじゃないかな。ちょうどみんなの転機でもあるし、全然YMOとも違うことをやってるわけじゃない?
(略)
『ベル・エキセントリック』も揉めたんだよね、裏面の金色で。「特色は構わないんだけど、金は勘弁してください」。値段が高いから。「構わないけど、金に見える色あります?」「そうですよね」って。その頃のデザインに渡邊かをるさんなんだけど、特色の金が高いって百も知ってるんだけどさ、使う。知ってて悪さをする。かをるさん、色校正に自分も行ってくれて、「僕のとこデザイン料もなにもいりませんから、これやってください」と言って、「そんなわけにいかな いでしょう」って話になるじゃない。「あ、そうですか」ってしっかり取っていくわけ。そういう人がこっちに居ればいいんだけどね。知ってて言ってる。職人芸が多くて大変なんだ、みんな。くたびれちゃう。(略)アーティスティックを貫くって大変ですよ(笑)。
カメリア・レコード、内田裕也
(略)
裕也さんとの関わりといえばカメリア・レコードですよ。だってメンバー、すごいもん。裕也さんでしょ。あと永島達司さん、周防郁雄さん、それに中井國二ってナベプロの生え抜きで、タイガースを全部やっていた人。(略)なんでこの顔ぶれなのかわからないんだけど、コアは裕也さんなんだよね。(略)
裕也さんは自分のレーベルをつくってロックンロールしたい。周防さんは新しい動きに参加したい。永島さんは裕也さんに誘われて、僕が居るから変なことにならないだろうという保険付きみたいな。中井さんは実務で動いて、あと牧村(憲一)が実務やってた。それでポリドールでレーベルをやることになって、いきなりホテルオークラのいちばんでかいところ借りてレーベル発表パーティー。
でも、一応BOROがヒットしたから、ポリドールとしてはトントン位なんじゃないかな。その前にEXというのつくっちゃっていたわけ。奈良君とか梅林のグループ。僕が全部つくり直して、出した。EX自体はインパクトあったんだけど売れなかった。結局、カメリア・レコードは空中分解。カメリア・レコードについては、あまり触れたくないというか、心苦しいものがある。
(略)
――裕也さんは、はっぴいえんどに対抗意識を持ってられましたよね。
うん、だって聞くもん、僕に。「おまえ、どっちなんだ」。野音なんかでも一緒に出たことあるけど、やっぱり、はっぴいえんどが出れば人が入るじゃない。裕也さんてアンビバレンツだから、商業的なことも考えるし、イデオロギーとかもあるわけよ、「おまえどっちなんだ」「どっちって、どっちですか」「いやまあ、そういう、あるだろ」(笑)「いやまあ、ロックならいいんじゃないですか」「ああ、ロックか」
(略)
裕也さん、今はちょっと音楽から離れちゃったからね。あれで、自分で歌をつくってアコースティックだったら日本のルー・リード行けたんだけどね。屈折した部分が、真面目に今つくったら面白いと思うけどね。映画で苦労してるから、意外とわかってるところあるのよね、本当に。真面目につくると、今のご時世に合うかもしれない。すごいだろうね。エネルギーがあるからね。そこがロッカーというか、不思議なものがある。
『あの頃、マリー・ローランサン』
――ヨーロッパ三部作を発表した後、ワーナーを離れましたね。
ワーナーをやめて、まだ新田さんがやってたから東芝にも帰りたくないなー。そしたら急に白川(隆三)さんが出てきて、CBSになっちゃった。(略)シラジイ(白川隆三)で二枚つくったんだけど、そこでまた彼が違うセクションになっちゃって(略)ソニーが好きなわけじゃないから、またやめて。
そしたら、新田さんが独立してファンハウスつくって、石坂さんが完全に東芝EMIを仕切るようになってたから、また「ベリー、ベリー、ウェルカム」で、こりゃいいやって古巣に落ち着いた。
(略)
―― 三部作の後は、何をしようと?
あそこでAORやってみたかったんだよね、僕にとっての。『あの頃、マリー・ローランサン』てのは、いちばん何も加工してないアルバムだから。
(略)
[東芝復帰第一作]『マルタの鷹』は失敗作ですね。コンセプチュアルなものはついてるはずなのに、それをやって失敗してしまったという。ハードボイルドの感じを出したかったんだけども、ジャズと結びつけたのは無理があった。
でも、ジャジーなアルバムをつくりたかったのは確かなのね。ジャズのミュージシャン使ったんじゃ本当のジャズになっちゃうから、三ヶ月くらい個人的にジャズを勉強しまして(略)自分でやるしかないなと思って、サックスを買って遊んで吹いてたの。だいたい吹き方とかわかったから、本当は全部、アドリブもしたかったんだけど、やっぱりそこまで至らなかったから、全部サンプリングでやった。(略)自分ひとりだけで遊んでジャズをしてしまったというジャムセッション的アルバムですね。
(略)
『ボレロ・カリフォルニア』
――その反省のもとに『ボレロ・カリフォルニア』があるんですか?
あれはだから、白紙に戻って、カリフォルニアってみんな馬鹿にするかもしれないけども、僕の判断によれば、なんとなく低く見られがちでしょ。
(略)
すごく変わったわけよ、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」からは。
だってロサンゼルスほどジーンズ穿いてる人が居ない街珍しいもん。居なくなってしまった、一掃されてしまった。普通の所歩いても、穿いてるのは旅行者だったり、間違ってカリフォルニアに来た人なの。地元の人ゼロ。そんなカリフォルニアの変化みたいなのを音で表現したいな、というのが漠然としたコンセプトだね。だから絶対生だし、絶対アル・シュミットでやるって決まっちゃって。それが先。
――アル・シュミット、ニック・デカロという人選は、どうして?
(略)カリフォルニアが触媒となって、そういう目に見えないものを形にできるのは、そのチームなの。ニックが後で嫌がっていた。僕が家でつくったデモテープ、一応アレンジした状態で送ったら、「僕、いらないじゃない。何すればいいの」って言われちゃった。「これ、譜面に写せばいいのか」って言うから、「いや、そうじゃなくて」(笑)。でも、楽しかったな。(略)
何もしなくていいんだもん。僕より年上の人と仕事をしたというのは久方ぶりで。(略)早いのよ。テイク・ツーくらいで終わっちゃうの。実際テイク・ワンだね。
(略)
十一時から始まって五時には終わってる(笑)。しかも三曲くらい録れてる。(略)
忘れていたものが蘇ったような。全員が一緒になってやる生っていう素晴らしさ。
(略)
面子がすごい。単にちょっとだけフルート入れた人も、「僕、全部バカラックやってます」みたいな人だから
(略)
みんな帰んないの、そういう人たちが。(略)老人ホーム状態。アル・シュミットも、七時過ぎるとミックスしながら寝てるっていう。「寝てるのかな、聴いてるのかな、寝てるよな」。肝心のところは寝ないけどね。
洋楽と邦楽
普通、洋楽のほうが好きじゃない、僕らはなんとなく、理由なく。(略)
[前にいた20代の秘書は]「洋楽は言葉がわからないし、日本のほうがいい。日本のほうがかっこいい」。ある意味では正しいかなとも思ったんだけどさ、日本人としては。僕らのほうが屈折しているのかもしれないけど、今の二〇歳前後の子、みんなそうでしょ。(略)
あながち悪いことでもないような気がする。でも、方向がちょっとずれてるような気がする。
あと、オリジナルを聴かないからさ。今売れてる日本のグループとかで、向こうのグループの、明らかに単純コピーしてたりするじゃない。でも、聴いてる人たちは、元のほうは知らないんだよね、全然。(略)
悪い意味でコピーし放題っていうか、恥ずかしさがない、平気で超かっこいいと思ってやってるわけでしょ、彼らにしてみたら。それがなかなか情けないっていうか、それを超ええるものが出ない。
――昔の人は、同じパクるんでも後ろめたさがあった。
ちょっと変えようかな。あれ風にしたいけど、二回くらい曲げてとか。そんな露骨なものやらないよね。グループの名前まで似てるみたいな。そっちのほうが大手を振って、「どうだ」っていう感じ。僕はね、桑田君くらいがいちばん最後だと思うの。こだわりのある、あそこで線を引けるような気がするけどね。
(略)
桑田君は、でも、出所不明だよね。そういう意味じゃ、完全になかで消化されている。普通なんかあるじゃない、出所が。彼の場合、出所不明だよね。
――彼のなかに洋楽と邦楽が両方あるでしょう。ザ・ピーナッツあり、ベンチャーズあり、ディランありですね。
それが妙に溶けちゃって、普通は分離して出るんだけど。歌にしてもそうだよね。だからオムライス状態になっちゃってるんだよね。
(略)
でも、洋楽でも同じ世代になっているから。外国は外国で、やっぱりオムライス状態になっているのよ。(略)
もう、世界中同じ音してるよ。(略)同じもの食べて、同じ格好してるでしょ、今。
(略)
何やってもオプティミスティックになったのは、一二~三年前、よく東南アジアへ行ってたの。(略)帰ってきて、その頃は羽田かな、梅雨時かなにかで、雨降って蒸し暑かった。道は混んでるし、暑いし、なんか嫌だなと思ってたわけ。その時、「あれ、東京もアジアじゃない?」と思ったわけ。(略)「あ、ここへ旅行に来たと思うと、これは面白い街だ。ここはとっても変わった所だな、東京は」。ふと思ったわけ。(略)
それ以来、なんでも平気になってしまった(略)東京に居ても旅行気分、どこへ行っても旅行気分。
作詞
――なぜ[自分で詞を]書かないんでしょうか?
(略)書けない。(略)自分が満足するものが書けない。なんでもいいから書けって言ったら書けると思うけど、(略)僕より優れた人がいればそっちのほうがいいわけで、全部同じよ、アレンジとかでも誰かが居れば頼んじゃうし。
――いままで作詞家としてやってきてる人は、大きく分けると、きたやまおさむさん、松山猛さん、安井かずみさんという流れですよね。詞のイメージに関する注文は事前に出すんですか?
(略)松山の場合は大昔よね。一日にノート一冊くらい書いてた奴だから、適当な良い言葉を選び出してはピックアップして、基本的には、曲先になるんだけど、良い言葉をくっつけて適当に歌っちゃうわけ。それで「この間を埋めろ」みたいな感じで。そういう辻褄合わせを。
きたやまの場合は完全に渡しちゃって「はい」。 あいつが勝手にやって(略)メロディーに乗りにくいところを直したりして(略)完全分業制。お互いに口出さず。
安井との場合は全然違って(略)最初にテーマを決めて、僕が音で一生懸命つくってる間に、彼女はメモをいっぱいとってるわけ。それで音を渡せば、そのなかから自分で合ってたのを選んでつくる。一応、曲が最初にあるけれど、同時、一緒にやってる感じ。
(略)
[アルバムのテーマとか]は自然発生的。片一方が押し付けたんでもダメだし。向こうから言って来ることは無いけどね、向こうは別に自分のレコードじゃないから、全然外圧がない人ですから、外圧はこっちにくる。「そろそろ」。そうなると、自分でやりたいこととか話したりとか。
(略)
夫婦だから、僕のことを知ってるから、僕のボキャブラリー内でつくるから、直すところはないのね。向こうが勝手に直す。自分で「これは嫌だ」とか「気に入らない」とか、自分で自分の言葉を。こっちが「ちょっと」と言ったことはない。
(略)
ただ、たとえば三番まである曲で、三番まである詞があんまり良くないっていうのは、メロディーが良くないから三番まで持たなかったとか、って、あるわけよね、曲としても、松竹梅が。(略)これはやっぱり二番まででいいか、って詞をはしょっちゃうとか。そういうことはやってたけども。
(略)
「さて、今度はどうする」っていう話はしたことない。自然にいらないものは消えていっちゃうから、毎日話してるうちに残るものがあるわけね。(略)
ふるいで無くなっちゃうこともあるけど、また砂入れて、残るものがあるわけ。それがテーマ。
――そういうふうになっていったのは、『パパ・ヘミングウェイ』からですか?
いや、『それから先のことは』で、いきなりそれに近い。いちばん私小説的な。僕、好きだけどね、あれ。純粋、いちばんフォーク・ソングかもしれない。マッスルショールズでやってるってところでもあるけど、自然体。
レコードを媒体としたラヴレター集みたいなの、ある種。そんなことを世に出して良いのかと思うけど、良いんだと思うんだ、僕は。だってみんな、個人的な動機じゃない。
(略)
一足飛びに『ボレロ・カリフォルニア』と対なんだよね。『それから先のことは』って。方法論というか、『ボレロ・カリフォルニア』は今度は全部がプロとして作ってるけどね。でも、対のブックエンドのこっちとあっちみたいなの。
(略)
セルフカヴァー・アルバム
[他人に書いた曲のセルフカヴァー・アルバム制作中のインタビュー]
――加藤さんは、オリジナリティについてどう考えていますか?
僕の場合、理想は、自分のつくるものと自分生活とがみんなイコールであるっていう状態に行きたいんだけど、なかなか行かせてくれませんね。でも、近くあるべく努力してきたのよ。
(略)
自分の身にならないものをつくるのは嫌いなわけですよ。
(略)
今度のアルバムでも苦労してるのは、どう肉体に取り入れるかって、毎日聴いてますよ。他人が歌ってるし。でも、曲は自分がつくってるしね。でも見えてきた、だんだん光明が。
(略)
岡崎友紀に書いた「Do You Remenber Me」ってやってるのね。それを、岡崎友紀のがカヴァーで、今度出すのがオリジナルであったっていうようなサウンドにしてしまおうと(略)日がな一日ニセ音源つくりで大変。(略)
ロニー・スペクターみたいな感じが、ぴったり(略)はまるでしょ。(略)僕は大滝君みたいに表スペクターじゃないけど、裏スペクターですから。
(略)
――話題は変わりますが、六〇年代、七〇年代から自分の音楽を貫いているということでは、浅川マキさんもすごいですね。
(略)
昔、ずいぶん仲良かったのよ、僕。彼女は新宿の変な所に住んでて、お金ないから、マンションじゃなくて、ビルの屋上にプレハブを建てさせてもらってて。もう、ほとんど夜になると下に降りられないみたいな所に住んでて。僕がヒッピーの頃だから、結構遊びに行ってたよ。(略)変な人だもんね、あの人も。
(略)
いい意味の時代性のコラージュみたいなのつくりたいわけね(略)詩が深いから、面白いと思うんだ(略)日本のエディット・ピアフみたいなところ、あるよね。一生、薄幸で、みたいな。
(略)
教授のピアノ一本で。すごい組み合わせだね。あと、溝口(肇)君くらい。チェ口をちょろちょろって。そういう刺激。(略)ピカソが絵を描いて、サティがなんかやって、みたいな感じのがあると面白いな。無理やりやるんじゃなくてね。ナマで、一回で終わり。アレンジも決めないで。これですよ、やっぱり(笑)。教授に電話かけちゃお。
しかし、このセルフカヴァー・アルバムはついに日の目をみなかった。このインタビューの直後に安井かずみの看護に集中するため、加藤和彦がすべての仕事をストップさせたこと。そして安井かずみの死去が、この企画を葬り去ってしまったのだ。
(略)
後書き(略)
一九九三年三月に、数時間ずつ三度にわたってインタビュー・セッションをした。
(略)
その時の興味のおもむくまま、あちこち脱線しながらのトーク・セッションという感じだった。
(略)
最後のインタビューの雑談中に、彼は「こんなイメージの本になったらいいね」と一冊のおしゃれな洋書を見せてくれたりもした。
このインタビューは、制作中だったセルフカヴァー・アルバムが発売される六月にあわせて本となる予定になっていた。(略)
加藤和彦サイドから、アルバムのリリースが延期になったという知らせが入った。もちろんその時は、安井かずみの看病に専念するため、加藤和彦がすべての仕事をキャンセルしたことによる延期だということは知らなかった。
(略)
三月、安井かずみの訃報が飛び込んできた。(略)鳥居坂教会で見た加藤和彦のやつれ切った立ち姿、そして驚くほどに多かった報道陣のことは、今も覚えている。
結局、加藤和彦のセルフカヴァー・アルバムは幻となり、この本の企画も立ち消えになっていった。
(略)
僕も少しお手伝いしたイベントで、加藤和彦の衣装やギターが展示されることになった。その窓口として、加藤和彦の最後のマネージャーだった内田宣政が協力していることを知った僕は、彼に加藤和彦のインタビュー原稿のこと、そして僕自身の思いを伝えた。その結果(略)牧村憲一が原稿を読んでくれることになった。そこから、本書の企画が動き出した。
(略)
二〇二四年の再出版に寄せて
(略)
ドキュメント映画『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』(略)の公開に合わせて(略)『エゴ 加藤和彦、加藤和彦を語る』の再出版というお話をいただいた。
(略)
書名を(略)『あの素晴しい日々 加藤和彦、「加藤和彦」を語る』と変更させていただいた。(略)二〇一三年時点では、加藤和彦に対する認識が現在よりも低かったこともあり、インパクトと主張が感じられる書名をあえて選んだ(略)
しかし、現在では(略)彼の音楽を次の時代に受け継いでいこうとする動きも生まれており、本書の書名も、よりストレートに内容を伝えるものにしたいと考え。上記のタイトルとさせていただくこととした。(略)
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