昭和天皇の戦後日本・その3

前回の続き。

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

 

吉田・ダレス会談

「アムール・プロプル――自尊心――をきずつけられずして承諾できるような」平和条約によって「独立を回復したい」(略)この吉田発言に対しダレスは、「日本は独立回復ばかり口にする」「今、アメリカは世界の自由のために戦っている。自由世界の一員たる日本は、この戦にいかなる貢献をしようとするのか」と反論した。
(略)
二回目の会談でダレスは、日本に対する武力攻撃には「米国も援助する。日本が防衛できるようになるまで米国の軍隊がいる。しかし、永久駐兵というわけにはいかぬ」と、米軍駐留はあくまで米国側の「援助」であることを強調したうえで、「自由世界の防衛に……何らかの貢献をしてもらいたい」と、再軍備による「貢献」に踏み切ることを執拗に求めた。
 このダレスの議論には、その後に米側が展開する基本的な論理が鮮明に打ち出されている。つまり、日本への米軍の「駐兵」は、朝鮮戦争を戦うためにも、アジアで軍事戦略を展開するためにも、米国にとって「根本的な問題」であるにもかかわらず、それを米国が与える「援助」と位置づけて日本側に“借り”を負わせる形にしたうえで、その“借り”を返すために日本はいかなる「貢献」を果たすのかと問いかけて再軍備を迫る、という論理である。本来であれば、日本が基地を提供し米国が日本を防衛することで双方の“貸し借り”の関係が成り立つという論理が、日本の再軍備による「貢献」如何という問題に、見事に“すり替え”られたのである。
(略)
[パケナム邸で開かれた天皇の料理人による「夕食会」でダレスを鳩山一郎、野村吉三郎、石橋湛山に引き合わせる。この鳩山チームが天皇のメッセージにあった「志をもった人々」だった。]

「親米一途」の吉田茂

昭和天皇の立ち位置の“一貫性”との対比で、吉田茂の立ち位置の“変容”を見ておこう。(略)
「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」というダレスの論理を全面的に受け入れた(略)安保条約に調印して以降、吉田は「堂々と親米一途に徹すべく」との立場を公にしていくことになる。ところが皮肉にも、この吉田外交を「対米追随一辺倒」と非難する「政敵」の鳩山一郎が“反米ナショナリズム”の世論を背景に、1954年末に政権を奪取
(略)
 こうして吉田は、次第に外交リアリズムを喪失していくことになる。象徴的な例が、当時の日ソ交渉に強く反対したことであった。考えてみれば、講和条約によって「独立」を果たしたとはいえ、真に国際社会に復帰するためには、国連に加盟することが不可欠の課題であった。とすれば、安保理で拒否権をもつソ運との間で国交を回復することは至上命題であった。ところが吉田はダレスの強い意向を背景に、外務省に圧力を加え、いわゆる北方領土の「四島返還」を掲げさせるなどして、交渉の進展を抑え込もうと図った。これは、「政敵」たる鳩山が主導する外交路線への反発によって、国連加盟という「国益」を損なう対応であった。
 吉田はこれ以降も「親米一途」の姿勢を変えることなく、政権の座を降りてからも外務省に大きな影響力を発揮し続けた。その結果、日本外交の目標は長きにわたり「日米機軸」におかれることとなった。つまり、「米国の機嫌を損なうことなく良好な関係を維持する」ことが日本の外交の要諦とされてきたのである。例えば、1960年代から80年代にかけて条約局長や北米局長を担い日本外交の中枢を歩んだ中島敏次郎は、外交交渉をめぐるインタビューにおいて研究者から「日本外交が達成しようとしている目標は何であると認識されていましたか」と問われ、「やはり日米関係のゆるぎない紐帯だと思っております」と答えたのである。
 インタビュアーが問うたのは日本外交の戦略目標であったにもかかわらず、出てきた答えは「日米関係の紐帯」の維持であった。つまり、本来なら何らかの目標を達成すべき手段であるはずの日米関係が、目的と化してしまっているのである。しかし、これは中島個人の問題ではなく、今日に至るまで外務省の本流を呪縛し続けている認識に他ならない。さらに言えば、これは昭和天皇が求めてきた基本路線そのものなのである。

「聖断」の理由

[徹底抗戦から一転した終戦の「聖断」の理由]「敵が伊勢湾付近に上陸すれば、伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り、神器の移動の余裕はなく、その確保の見込みが立たない。これでは国体護持は難しい、故にこの際、私の一身は犠牲にしても講和をせねばならぬと思った」と述べているのである。
(略)
保阪正康は、「天皇は平和主義者ではないし、戦争主義者でもありません。彼にとって一番大事なのは「皇統を守ることです。そのために必要とあれば、一生懸命に戦争する。戦争をして「このままでは皇統を守れない」と思えば、懸命に終戦の道を探る。それが実像です」と指摘している
(略)
 以上のように見てくるならば、なぜ昭和天皇が新憲法のもとで「象徴天皇」となってからも「憲法逸脱行為」を繰り返したのか、その理由は今や明らかであろう。天皇にとっては「象徴天皇」といった憲法上の規定よりも、「皇統」を守り抜くこと、天皇制を防衛することが至上の課題であった。従って(略)[共産主義者天皇制打倒をめざしてくるなら]
外国軍によって天皇制を防衛するという、まさに「安保国体」の道になりふり構わず踏み込んでいった昭和天皇の、徹底したリアリズムを見ることができる。

天皇が退位しなかった背景

[そのひとつに高松宮が摂政につくことになるのは嫌だという個人的感情があった]
昭和天皇高松宮は戦争末期以来、深い対立関係にあった。そもそも高松宮は、「大体日米戦争と云うものは、あの状態では必然のものであって、一部の者が云うように、支那の撤兵をすればよかったと云うものではなかったと思う」と述べているように、基本的には対米戦やむなしの立場であったと考えられるが、戦局が悪化するなかで反東条・早期和平派に転じ、先に述べた、仁和寺への天皇の“幽閉”を策した近衛文麿とも密に連絡をとっていた。
 こうした高松宮の行動は昭和天皇の不興をかい、当時の関係者の日記によれば、「御上と高松宮殿下と最近ますます御工合悪き由」とか、「聖上と高松宮と御宣しからず、御二人きりにては可成り激しい御議論を遊ばされて困る」と記されるような状態であった。かくて、こうした感情的対立は戦後にまで持ちこされ、昭和天皇が「高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢にいた関係上摂政には不向き」と評するのに対し、高松宮は「あの戦争は陛下がお停めになろうとすれば、お停めになれたはずだった」と批判するような関係にあった。