昭和天皇の戦後日本・その2 「非武装中立」論

前回の続き。

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

昭和天皇の戦後日本――〈憲法・安保体制〉にいたる道

 

カリフォルニア州を守るように日本を守る」の真相

[憲法改正東京裁判という]最初の危機をともかくも乗り切った昭和天皇にとって、次に直面することになった危機は、天皇制の打倒を掲げる共産主義の脅威であった。
(略)
[共産主義封じ込め政策トルーマン・ドクトリンから五日後、対日占領政策の成功を翌年の大統領選立候補の手土産にしたいマッカーサーは突如]早期に対日講和交渉を始めるべきとの声明を発した(略)
講和条約締結後に、いかなる形にせよ、軍事的な組織を残そうとは考えていない、銃剣による支配などは笑うべきことであろう」と、米軍の撤退方針を明らかにした。それでは、講和後の日本の安全保障は何によって保障されるのであろうか。
 この問題についてマッカーサーは、「日本人は強制されずに、戦争放棄の新憲法をつくり、ポツダム宣言にしたがって、軍事施設を廃止した、したがって、われわれが撤退すると日本人は無防備状態に陥るであろう」と指摘した上で、「日本を保護する上においてこのような欠点を補うためには二つの方法しかない、一はわずかの軍事施設を許可することである(略)
[もう一つは]日本の安全を「国連の管理下に委ねていく」という方向性をもって「連合国が日本の中立を保証する」という枠組みを提起
(略)
[新憲法施工三日後、天皇マッカーサーの第四回目会見。(引用者注:著者は「象徴天皇」となりながら政治介入していることを問題視している)]
まず昭和天皇が「日本が完全に軍備を撤廃する以上、その安全保障は国連に期待せねばなりませぬ」と述べつつも、「国連が極東委員会の如きものであることは困ると思います」と、四大国が拒否権をもつ現状では事実上国連に依存できないとの認識を示した。
 これに対してマッカーサーは、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障であって、これこそ日本の生きる唯一の道である」と憲法九条の意義を強調するとともに、国連についても「将来の見込みとしては国連は益々強固になって行くものと思う」と、天皇とは異なる国連への評価を展開した。
 ここにおいて昭和天皇は、あたかも痺れを切らしたかのように、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と、事実上、米軍による日本の安全保障の確保という、いわば“本筋”に切り込んだ。これに対しマッカーサーは、「米国の根本観念は日本の安全保障を図る事である。この点については十分御安心ありたい。日本の安全を侵す為には戦術上にもっとも困難なる水陸両用作戦によらなければならないが、これはアメリカが現在の海軍力及び空軍力を持つ限り絶対に為し得ない」と述べたのであったが、実は児島襄によれば、「会見記録」はこれより「以下の部分は切除」されていた
、というのである。しかも児島は、「後半部を破棄したのは奥村部長〔外務省情報部長〕自身であった、といわれている」と推測
(略)
 ところで、なぜ奥村が後半部を破棄したのか(略)
[会見翌日AP電が「マッカーサー元帥は天皇裕仁に対し、米国は日本の防衛を引き受けるであろうことを保証した」と報じ、マッカーサーが「真剣なコメントに値しない馬鹿馬鹿しいもの」と激怒したから。この余波で](略)
会見内容を「漏洩」したとして、通訳を務めた奥村が責任を取らされ、懲戒免職の処分を受けたのである。これが、いわゆる「漏洩事件」である。
(略)
AP電の報道が大きな波紋を及ぼした結果、天皇との会見でマッカーサーが「カリフォルニア州を守るように日本を守る」と言明した、との“噂話”が長く一人歩きをしてきた経緯があった。(略)
奥村の下で渉外課長をしていた松井明は「松井文書」において、「切除」されていた後半部の全文を記述したばかりではなく、「漏洩」の背景についても興味深い事実関係を明らかにした。問題の後半部においてマッカーサーはまず、大陸につながる朝鮮の場合はソ連や中国が「何時たりとも侵攻し得るものであるが日本についてはこの危険はない」と述べたうえで、「日本としてはいかなる軍備を持ってもそれでは安全保障を図ることは出来ないのである。日本を守る最も良い武器は心理的なものであって、それは即ち平和に対する世界の輿論である。自分はこの為に日本がなるべく速やかに国際連合の一員となることを望んでいる。(略)」と、憲法九条の理想と国連を結びつける発言を行っていたのである。
(略)
[松井は奥村が記者へのオフレコ発言で意図的に米国が日本を守ると確約したような誤情報を流すことで]
口コミで日本人に知らせたいと考え決心したのではないか」と語った(略)
マッカーサーが激怒したのが、外部に漏らさないという「男の約束」が破られたばかりではなく、自らの発言内容が完全に捻じ曲げられて報じられたことにあった、という背景も頷けるというものである。

マッカーサーによる「非武装中立」論

[49年11月第九回目天皇マッカーサー会見]
天皇は「ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを懼れます。(略)
 あたかも、七ヵ月後の朝鮮戦争の勃発を予見していたかのような昭和天皇の発言には驚く外はないが、「国民が甚だしく動揺する」とは、ソ連の侵略に呼応して日本共産党が「革命」に決起することを意味しているのであろう。とすれば天皇の主張は、講和に進む前提条件は、内外の共産主義の脅威から日本を防衛する体制を確立することにある、ということであった。
 この天皇の発言を受けてマッカーサーも(略)「日本が完全中立を守ることによってその安全を確保し得るならそれに越したことはありません。然し米国として空白状態に置かれた日本を侵略に任せておく訳には行きません。日本が不完全な武装をしても、それは侵略から守ることは出来ないでしょう。それは反って避雷針の役割をなし侵略を招くでしょう。日本に安全を与えないばかりか日本の経済を破綻に導くでしょう」と、「空白状態」の日本に対する米国の“責任”と日本の再軍備がもたらす危険性を説いた。
 こうしてマッカーサーは、「数年間過渡的な措置として英米軍の駐屯が必要でありましょう。それは独立後のフィリピンにおける米軍やエジプトにおける英軍やギリシャにおける米軍と同様の性格のものとなりましょう」と述べ、「過渡的な措置」としつつも、講和後にも米軍が駐留を続けるという考えを初めて表明したのであった。
(略)
[前年]ロイヤル陸軍長官はロサンゼルス演説で日本の占領問題にふれ、占領初期からの「成果」は認めつつも、今や非軍事化や財閥解体公職追放などの占領政策が「日本の復興の最も重大な障害」になっていると事実上のマッカーサー批判(略)日本を「全体主義の防壁」にすると言明した歴史的な「ロイヤル演説」として知られることになった。
 しかし、実はこのすぐ前段でロイヤルは、「日本が再び他の国々に対し、およそ正当化できない侵略的で残忍な戦争に乗りだすことを阻止するために、なし得るすべてのことを行う不退転の決意」を表明していた。つまり、共産主義と日本の軍国主義復活の脅威に対する「二重の封じ込め」という、その後に続く米国の基本戦略が明確に示されていたのである。(略)ロイヤルの「米軍撤兵」論は、国連の枠組みに依拠するかの如きマッカーサーの持論へ“揺さぶり”と受けとられた。(略)[かくしてマッカーサーも]立ち位置の変更を余儀なくされた。つまり、日本への侵略が米国との全面戦争を意味することをソ連に明確にさせるという目的のために講和後も日本に海空車基地を保持する、という考え方をとるに至ったのである。(略)
こうして、二年半以上も前の第四回会見以来天皇が求めてきた「米国のイニシアティヴ」がようやく満たされることとなり、天皇は「安心致しました」と「安心」を語ることができたのである。
(略)
[記者からソ連の脅威について問われ]
占領がいかに軍事的・財政的負担を強いるものであるかを指摘し、「日本が非武装で中立であることが、世界中のいかなる国にとっても利益になると信ずる」と笞えた。
 ここには、「これほど根本的に堅実で現実的な憲法の条項はない」とか「最も気高い道徳的理想に基づいた条項」として憲法九条を評価するマッカーサーの信念、あるいは飽くなき“執念”を見ることができる。もっとも、マッカーサーによる日本の「非武装中立」論の大前提にあるのは、米軍の沖縄支配である。沖縄に24の滑走路をつくれば、B29が一日に3500回以上も出撃でき、太平洋の制海権と制空権を確保できる、従って「日本本土に米軍の駐留は本来必要ない」という“構想”であった。

ダレスへの天皇のメッセージ

 「講和条約、とりわけその詳細な取り決めに関する最終的な行動がとられる以前に、日本の国民を真に代表し、永続的で両国の利害にかなう講和問題の決着にむけて真の援助をもたらすことのできる、そのような日本人による何らかの形態の諮問会議が設置されるべきであろう」。
 この昭和天皇の「口頭メッセージ」の重要性は、受けとったダレスの言葉に示されている。つまりダレスはこのメッセージを、「今回の旅行における最も重要な成果」と評し(略)「宮中がマッカーサーをバイパスするところまできた」ことを挙げた。(略)
 ところで昭和天皇は右のメッセージで、マッカーサーを“バイパス”ばかりではなく、講和問題や日本の安全保障の問題を、首相である吉田茂に任せておくことはできないという立場を鮮明に打ち出した。(略)
総選挙を経て国会で首相に指名された吉田茂を、天皇は「日本の国民を真に代表」していないと見なしていたからである。
(略)
カーンに送られたパケナムの「ノート」によれば、作業のあいだに「天皇の側近たち」とも率直な議論を交わしたが、側近たちは「占領の最悪の失策」として警察組織の弱体化をあげ、戦前の強力な治安組織ならば、当時地下に潜行中の共産党指導者・徳田珠一も簡単に逮捕できるであろうと嘆いたという。さらにパケナムによれば、「トップ・サイド」の人々の間に、仮に朝鮮戦争で米国が負けるならば、全員が「首切り」にあうのではないか、という恐怖感が広がっている、とのことであった。このパケナムの報告は、「天皇の側近たち」、そして当然ながら昭和天皇自身が、自らの“運命”と朝鮮戦争の帰趨を、文字通り“直結”させて捉えていたことを示していると言えよう。
(略)
ダレスに送られた昭和天皇の「文書メッセージ」は、当然ながら「口頭メッセージ」とその基調を同じくしているが、占領改革と追放政策への批判がより鮮明に打ち出されていた。
(略)
天皇は、これまで「無責任で〔日本を〕代表していないアドヴァイザーたち」が占領当局の「処罰」をおそれ、彼らに迎合し、彼らが「聞きたいと思う」ことをアドヴァイスしてきた結果、「日本の制度」を「日本人の思考方法で理解できるやり方」ではなく、「アメリカの型」にあてはめて「こねあげる」ことになってしまったと批判する。さらに天皇は、この間の日本は「悪意を持った日本人たちのもとで苦しんできた」のであるが、その彼らのアドヴァイスを占領当局が受け入れた結果、「多くの誤解が生じてしまったのではないか」と指摘する。
 以上を踏まえて天皇は、日米両国に「最も有益な効果」をもたらすであろう行動は「追放の緩和」であると主張する。なぜなら、「追放の緩和」によって、「現在は沈黙しているが、もし公に意見表明がなされるならば、大衆の心にきわめて深い影響を及ぼすであろう多くの人々」「多くの有能で先見の明と立派な志をもった人々」が自由に活動できるようになるからである。(略)
それでは、「基地問題をめぐる最近の誤った論争」とは何であろうか。
[朝鮮戦争勃発により基地提供の「バーゲニング・パワー」が増し対米交渉における切り札になってきたことで、吉田があえて国会答弁で]
「私は軍事基地は貸したくないと考えております」「単独講和の餌に軍事基地を提供したいというようなことは、事実毛頭ございません」と明言し[「ダブル・シグナル」を駆使し“駆け引き”を行ったことを指す]
(略)
 しかし昭和天皇や側近からすれば、こうした吉田や外務省の対応は根本的に「誤った」ものであった。[北朝鮮軍がソウルを陥落させ、内外の共産主義者天皇制打倒に乗り出す](略)日本はまさに、未曽有の事態に直面しているのである。
 従って問題は、交渉における「バーゲニング」にあるのではなく、講和条約の締結後も、米軍によって昭和天皇天皇制を防衛する体制を間違いなく確保することにあった。だからこそ懸案の基地問題は、「文書メッセージ」の結論にあるように、「日本の側からの自発的なオファ」によって解決されねばならないのである。しかも「自発的なオファ」である以上、それは無条件的でなければならない。なぜなら、基地提供を日本から申し出ることによって初めて米軍駐留が確実なものとなり、非武装日本の安全が保障されるからである。

次回に続く。