帝都東京ブラックアウト計画

前回のつづき。

戦前昭和の国家構想 (講談社選書メチエ)

戦前昭和の国家構想 (講談社選書メチエ)

  • 作者:井上 寿一
  • 発売日: 2012/05/11
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

帝都東京ブラックアウト計画

 都市と農村の格差是正を求めて、橘は合法的な社会改革による国家改造を構想した。その橘をテロとクーデタの非合法・直接行動に走らせたのは、昭和恐慌下の農村の惨状だった。「これだけ農村がだめになっているというのに、農民を救う政治運動はない」。橘は政治運動に乗り出す。血を見るのもやむを得ない。そう覚悟した橘の下に農民だけでなく、海軍の青年将校や陸軍の士官候構生も集まる。決起を促す熱情が橘を動かす。
 ところが青年将校たちの計画は、軍部独裁政権の樹立による国家改造だった。農村革命をめざした橘は、軍部独裁に反対する。橘の対案は、クーデタと呼べるかも怪しい、奇想天外なものだった。
「そう発電所だ。電気を消すのだ。東京じゅうの電気を消す。そうすれば少しはわしら農民のこともわかるだろう」。帝都東京ブラックアウト計画。これはユニークな政治的示威行動の一つではある。しかし断じてクーデタ計画ではなかった。
(略)
[「微温」な橘だったが西田悦(北一輝の影響下で青年将校運動を組織)暗殺計画は別]
 橘が西田を嫌ったのは、西田以上に北一輝を嫌ったからだった。(略)北一輝の思想は軍部独裁だと思えた。“北のいうとおりにやったらめちゃめちゃになる。日本は内乱になる。日本を救わねばならん”
(略)
 橘たちの構想は軍部の計画を抑制する。たとえば軍部の関係者は、当初、議会を襲撃する予定だった。首相の演説の際に、爆弾を投げつけて議場を混乱に陥れる。逃げ出す「代議士等を一網打尽に掃蕩」する。橘はこの計画に反対した。「代議士中にも相当国家を憂えて居る者もあるので、議会を襲撃して是等を一挙に掃蕩して仕舞おうと云うことは考慮の余地がある」。軍側は「其点は考えて置こう」と答えた。結局、議会襲撃計画は取り下げとなった。
 橘はもう一つの日本銀行襲撃計画にも反対だった。「日本銀行は普通の銀行とは違うから国民の感情上面白くないと思う故止めたらどうだろう」。(略)日銀の代わりに財閥系の銀行が選ばれる
(略)
ふたりが東京変電所を襲う。屋外の変圧器めがけて手榴弾を投げた。手榴弾は不発だった。同じ頃、鳩ヶ谷変電所では手榴弾が爆発した。変電所の機械の一部が壊れた。淀橋変電所でも設備の一部が破壊された。亀戸変電所では手榴弾は不発に終わった。目白変電所を襲撃する予定の者は、現地まで行きながら、恐怖心にかられて襲撃できずに逃走した。田端変電所では、塾生がひとりでポンプ室の配電盤を破壊する。物音に気づいた所員が騒ぎ始める。彼は手榴弾を投げるひまもなく、逃走した。
[事件当日、橘は軍人に農業技術者として招かれ奉天にいた。事件への関与を告白した橘を満州国側と関東軍は保護、満州国視察の便宜を与えた]

米穀統制法で国家と農民が結合

[事件後]農村更生運動は全国規模に拡大する。(略)
農村の状況が改善されたのは、政府の国家官僚の主導する「新農村国策」が実施されたからである。(略)国家と農民が直接、結びつく。それは農村からの国家社会主義の萌芽だった。この国策の下で米穀統制法が施行される。農林省は農民に呼びかけた。(略)
何の懸念の必要はありません。政府は公定米価による売渡しの申込に対しては、いつでも、いくらでも応ずる用意をしています。ですから公定値段以下で米を手放すことはみすみす損をすることであり、且農家全体の大損失だと云う点をはっきり御記憶下さい」
(略)
 このような国家による農村救済策は、農民に歓迎されたものの、新たな政治対立を引き起こすことにつながる。それは〈自由〉対〈統制〉の対立である。(略)
[商人が統制は機能しないと宣伝したせいもあり、米の市場価格は最低価格を下回った]
昭和八年度は米の豊作の年だった。しかし「中農以下の者は持米は売りつくし、高い米を買って食べなければならぬという矛盾の現象を呈し、苦悩の叫びが各地にあげられてきた」(略)
[千石英太郎は商人が]「統制法が資金関係からは破綻するとか、倉庫が不足のために行詰るとか、買入の手続が面倒だから農家が売渡を回避するとか言いふらして」いると非難した。(略)
[米穀商も二万人動員の統制法反対運動]「過剰米の統制は、その結果として消費大衆の生計をおびやかすことになり、同時に生産者の自由を拘束するのであって、農業者にとっても有利とは限らない」。

時代は「ファッショ」

 他方で「ファシズム」が接近する。『家の光』の解説記事(昭和八年七月号)は、「ファッショ」を「危険思想」、「非常手段」としながらも、「民衆の幸せをはかるには、その道を行くより差当っての良い途がない」と肯定している。「今日の文明が、都会文化である為に、都会の商工階級が、農村の金を搾り取る仕掛けになっている。それがいかぬ」。
 こう批判する同記事が「ファッショ」を容認する背景には、政党への失望があった。(略)
[ドイツ、イタリアだけではない「世界ファッショ時代」の到来と『家の光』]
「政党あっても国家なき腐敗せる政党政治は、到底この非常世界を救う力がない。この意味において、英国も米国も、表面は立憲主義をとっているが、事実は非常にファッショ化していることに注意せねばならぬ。……今ではマクドナルドの『協力内閣』が非常時局に当っている。米国では、今年から民主党ルーズヴェルトが大統領となって、まず先に議会に財政的独裁権を要求し、そして内閣以外に、産業統制の『超内閣』をつくったりして、国務次官モーレー以下の所謂『智脳トラスト』を中心として、どんどん非常国策を断行している」。主要国のすべてが「ファッショ」化している。日本もためらうことはなかった。農民は自己の地位の改善を求めて、政党から国家へと接近する。
(略)
日本は農本主義運動の展開の挫折を間に挟んで、「デモクラシー」から「ファシズム」へと転換していくことになる。

官僚の台頭

満州事件にはじまるこの『非常時』のおかげでいちばん損をしたのが政党だとすると、いちばん得をしたのは官僚だといわれる。そして、官僚の復活だの、官僚政治の再生だのという文句があちこちでさかんに使われる」。
 憲法学者宮澤俊義の見るところ、「政党は年来のポピュラリティを失った。政党の攻撃をすることが流行にすらなった。政党内閣は古い政党人であった犬養首相と共に殺されてしまった」。それゆえ後継の斎藤(実)内閣は「官僚内閣」となった。(略)
それでもなお宮澤は政党を擁護する。なぜならば「『官僚』はいわば選挙民の支持を欠く政党にほかならぬ……官僚政治が政党政治の欠陥を匡正しうるもののように考えるのは決して正常な見解ではない」からだった。

蠟山政道

宮澤同様に政党を擁護する政治学者蠟山政道は、政党復活のためには

「現在の如き腐敗した選挙」を改める。蠟山は選挙粛正運動への関与を深めていく。
 のちの歴史家は、選挙粛正運動を国家(内務省)による反政党の官製国民運動として、きびしく批判する。
(略)
 蠟山は選挙粛正運動が官製国民運動であることを隠そうとしない。「真面目に運動をつづけるならば、政党も改善せられ、議会の振粛せられ、立憲政治も強化される」からである。(略)
「それが徹底すれば如何なる形態にせよ独裁政治の襲来に対する防衛となり」、「従来政治に望みを絶ち、公共生活から逃避していた健全にして穏健なる各方面の人物が政治に興味を有つに至り、政治は条理と政策とによって動き、輿論の力が政界に認められるに至ろう」。

蠟山らの昭和研究会がブレーンとなった近衛内閣下での新党構想は3タイプ。
1.政友会・民政党などの既成政党の革新運動
2.軍部を中心とするナチス型一国一党体制
そして昭和研究会がめざした
3.今までの政党の基盤とは違った、若い、まったく新しい層を組織化、各分野の指導者である中堅の人びとを結びつける、新党構想。

ナチスに注目

宇垣政権案が頓挫し、矢部貞治を中心とした昭和研究会の一部がナチス・ドイツに注目。

近衛と矢部らのブレーンたちは、一国一党体制としての近衛新体制の確立をめざす。(略)
独伊に依存しない、自立した体制を確立する。それはどうすれば可能になるのか。近衛に対する矢部の答えは心もとなかった。「海軍を引張ることでやったらどうか、それに清明な陸軍軍人を加えたらいい」。近衛は不納得だった。
 矢部のような昭和研究会系の知識人の助言に飽き足らなくなった近衛は、もう一つのブレーン・トラスト=国策研究会へと軸足を移す。国策研究会は直接の起源を内閣調査局に持つ。(略)
[その中の鈴木貞一陸軍大佐が重要な役割を演じた]
 「要するに国防をやるにしても民心が一つにならなければいかん、民心を一つにするのにはどうしたらいいか」鈴木は考えた。「国民の当時の不平というものがどこにあるのか」鈴木は格差社会の歪みに求める。「分配の方面のことを考えてやらなくてはいかん」。国家による富の再分配をとおして格差社会を是正する。そうなれば「民心が一つ」になって「高度国防国家」の建設が可能になる。
 若い頃から「非常に左によった思想を持って」いた鈴木の国家改造案は、日本の疑似社会主義国家化をめざす。たとえば私有財産の制限である。鈴木の主張は過激だった。「千坪を限度としてそれ以上の邸宅は全部没収してしまえ」(略)小作がみんな困っているんだから。だから地主をみな解放して、そして小作人に土地を分けろ」。
 鈴木の議論は華族制度の廃止に及ぶ。(略)
 内閣調査局において鈴木は例外的な存在ではなかった。(略)
統制による富の再分配を志向していた。彼らは革新官僚と呼ばれた。

厚生省創設

1937年盧溝橋事件による日中全面戦争の展開加速により、「戦力増強のためには国民体位の向上」が必要と厚生省創設。

 新体制運動は近衛首相の再登場によって活性化する。日中戦争の早期解決に失敗して政権を投げ出した轍を踏んではならなかった。(略)新体制運動とは何か。近衛は言う。「凡てを包括して公益優先の精神に帰一せしめんとする超政党の国民運動たるべきものである」。「公益優先」こそが新体制運動の理念だった。
(略)
 どうすべきか? 国家と国民が直接、結びつかなくてはならなかった。邪魔だったのは介在する政党である。政党は解党すべきだった。解党だけでは不十分である。新体制に即応するために[根本的に改革されねばならぬ](略)大政翼賛会が成立する。

 新体制(=「公益」優先)を推進する側からすると、旧体制(=「私益」優先)の復元力は強かった。中央協力会議において在郷軍人会副会長(小泉六一陸軍中将)は苦言を呈する。新体制運動の以前に国民精神総動員運動があった。その時は女性の髪型を簡素なものに制限したはずだった。ところが今では「毛唐の真似をして短く断髪」にしたり、黒髪を「わざわざ赤くなるように色をつけ」たりするようになっている。学生の通学も一キロ以内は徒歩だったのに、電車やバスに乗っている。
(略)
 新体制と旧体制の対立は、別の言い方をすれば、統制経済自由経済の対立だった。(略)
 国家統制下での物資の不足は闇市場を生む。(略)
 求めたのは「不公平、不均衡なる配給並消費の規正」だった。少なくてもかまわない。平等でさえあれば。(略)
 中途半端な統制経済は社会の不平等化を促進し、国民の怨嵯の的となる。賃金統制令によって、政府は労働者の賃金を抑制する。その結果、1934-1936年平均の六割台にまで労働者賃金が下落する。ところが戦時インフレ経済によって、物価は上がる。労働者の生活は困窮する。勤労意欲の減退と職場環境の悪化のなかで、生産効率の低下にともなう損失が莫大なものとなった。
 一事が万事である。新体制運動はあらゆる分野において行きづまる。近衛は大政翼賛会の改組によって切り抜けようとする。しかし統制経済に抵抗する旧体制の側からのイデオロギー批判(「新体制は『赤だ』」)が近衛をたじろがせた。(略)
 近衛に期待した人々がつぎつぎと去っていく。国民の失望も大きくなる。(略)万策尽きた近衛は、政権を投げ出す。(略)
置き去りにされた国民が新体制運動を続けるはずはなかった。ここに戦前昭和における最後の国家改造の夢は破れた。
(略)
すでに四つの国家構想は挫折していた。その日本に何らかの体制が成立したとすれば、それは戦時体制と呼ぶ以外になかった。