吉本隆明と小林秀雄

呉智英がせこい印象操作で吉本隆明小林秀雄を結び付けていい加減なことを書いている本を後日検証するのですが、その前に吉本による小林秀雄論&インタビューを引用しておく。
「批判的継承」というのが「客観的」wな評価じゃないですかね、呉さん。

吉本隆明全著作集 (第7) 作家論 第1

吉本隆明全著作集 (第7) 作家論 第1

 

[なぜか肝心なところを読まない誰かさんのために、読むべき箇所をデカ文字にしておいた]

 わたしは、戦争中、小林秀雄の熱心な読者であった。敗戦直後の混迷のなかで、この文学者の声はもっともききたい声のひとつだったが、聞きえなかったという記憶をもっている。かれの沈黙はそのとき戦争の傷をなめていたことを象徴している。
(略)
他愛のない文学者のほうは、戦後にぎやかな転換の声をあげたが、かれは頑固に沈黙をひびかせていたのである。(略)
[小林の戦後第一作は]勝手につくりあげていた小林秀雄像にそむかないできばえであった。かれがオポチュニストでないということで、熱心な読者ははなはだ満足だったのである。当時、あまりにひどい文学者がおおすぎたからだ。しかし、わたしのききたかった声の半分は充たされなかった。戦争とはなにか、敗戦とはなにか、これから生きてゆくとは何かについてもはや小林秀雄からなにももとめえないのを知らねばならなかった。かれは「歴史と文学」や「文学と自分」の延長線では何も語らなかったし、いまもってまともには語っていない。このことは、かれが戦後、文壇をすてて社会的視野の外にでたのとふかくつながっているようにおもえる。
(略)
 たしか、単行本として出た『無常といふ事』で、古典をあらためてよみかえし、『私の人生観』まではもとめてついていった。しかし意識して文学の世界から遠ざかり美術論にはいっていった小林に、もうついてゆくことができなかったのである。すべてじぶんじしんで解かなければならないと思いきめた。以後、わたしは断片的にか、または戦争期の回想としてしか、小林秀雄を念頭においたことはない。
(略)
[この小文のために主な作品を読み返して]
小林秀雄にたいする驚嘆は驚嘆としてのこり、戦後十五年のあいだに小林秀雄があるいた道と、じぶんがまがりなりにもふみこんだ道との距たりが批判として浮き彫りされてきた、という平凡なことがわたしをおどろかせた
(略)
じっさいは小林秀雄のいうところとは逆である。わたしたちが現実から自立し自由であるとふるまうところにしか、歴史の必然はおとずれない。もし、わたしたちの思想が、歴史や現実をあるがままとかんがえるなら、偶然の連鎖のなかでしか生きていないことになる。
(略)
 わたしたちが、歴史の必然をものにしたいならば、わたしたちの思想が社会や国家や権力や、そういうもろもろのものから自立していることが必須の条件である。しかし一方で、わたしたちのなかの生活者は、いつもこれらのもろもろのものと関ることによってしか生きていない。ここに過渡的な問題の全てが表れる。
 わたしたちが、現実から背かれ、あるいは背いているということを自覚するとき、偶然の連鎖のようにしかみえない歴史は、ひとつの必然の過程へとびうつる。近くでみているとどこへいくのかまったくわからないようにみえた蟻のむれが、眼をはなしてみると巣の方へ向っていることを知るように。


 敗戦は小林秀雄を傷つけている。個人をたくさんの宿命にばらまいているただひとつの現実という思想におどろかなかったかれは、ただひとつの現実や歴史が、じぶんに何の原因もないのに突然頓座したということに当然傷つかねばならない。(略)
 もはや抵抗しようもない戦後の現実のなかで、ニヒリスムはますます深くじぶんのなかにもぐりこむ。現実がかれの自由を保証してくれないとすれば、第二の現実をもとめなければならない。戦後の音楽論や美術論への没入は、ほぼこういうモチーフからなされているようにみえる。音楽や美術品はかれにとって自由を約束してくれる必然として、いわば第二の現実として考えられている。まず、対象が贋物か真物かということが、とことんまで問われなければならないのは、それが「必然」として強固な役割を負わねばかれにとって意味をなさないからである。(略)
[良寛の書軸が贋物と指摘され一文字助光の名刀でバラバラにした挿話を]小林秀雄の美意識のきびしさとよむのは、おそらくまちがっている。じぶんの自由を保証してくれる「必然」がニセモノであることに耐えられないという生活者の思想をみるべきなのだ。贋物を必然と錯覚して、じぶんの自由を換起したとすれば、かつて戦争中、現実や歴史にたいしてやったとおなじことをやることになり、それはかれの生活者の思想にとって耐えられないことだからである。かれは、美術品のなかに流動する現実よりもずっとたしかな第二の現実を発見し、それがじぶんの自由を保証してくれるかどうかをたしかめる。かれの戦後の思想はあきらかに一歩をすすめているので、真贋の設定においてかれがみているのは、現実さえあれば自己の自由が保証されるというかつての思想から、すすんで対象そのものへ入ってゆく運動へという過程へふみこむことにほかならない。ただ、かれは敗戦の傷によって、社会的な現実をすてて、美的な現実をえらぶことを強いられただけだ。

本居宣長』を読む(1978)

(略)宣長の方法と思想は、小林秀雄が繰返し熱心に説くほど上等なものではない。せいぜい博学、読み込みを積み重ねたあげくの正確で鋭敏な経験主義のうち、近世で抜群に行き届いた成果というくらいにしか評価できない。(略)わたしは宣長にも、それに追従し「訓話」する小林にも哀しい盲点をみつけだす。日本の学問、芸術がついにすわりよく落着いた果てにいつも陥いるあの普遍的な迷蒙の場所を感じる。そこは抽象・論理・原理を確立することのおそろしさに対する無知と軽蔑が眠っている墓地である。「凡庸」な歴史家たちや文学史家たちや文芸批評家たちが、ほんとうの意味で論理を軽蔑したあげく、原理的なものなしの経験や想像力のまにまに落ちてゆく誤謬・迷信・袋小路に小林も陥ち込んでいるとしかおもえない。(略)

吉本隆明が最後に遺した三十万字〈上巻〉「吉本隆明、自著を語る」

吉本隆明が最後に遺した三十万字〈上巻〉「吉本隆明、自著を語る」

 
悲劇の解読 (ちくま学芸文庫)

悲劇の解読 (ちくま学芸文庫)

 

『悲劇の解読』

小林秀雄論が収録された『悲劇の解読』についての2007年のインタビュー。

聞き手は渋谷陽一

戦中なんかは、今で言えばちょうど追っかけとおんなじで。(略)雑誌に出れば必ず探してきて、買って読むとか。もちろん著作は全部集めて。批評するなんていうのは、褒めるにしたってある程度、距離を取れるようになってからですね。初めはもう、それどころじゃない。
(略)


――だけど『悲劇の解読』の小林秀雄論は、その温度ではありません。小林秀雄が後期に吉本さん的には納得できない仕事に向かうんですね。当時、小林秀雄の最高傑作で、日本批評が到達した最高峰といわれるほどの『本居宣長』。これについて吉本さんはシビアに、この本がどうしてこんなことになったのかという視点から、今度は自分が熱中していた時代の小林秀雄まで辿りながら、小林秀雄の全体像を見据えていくという。なかなか厳しい小林秀雄批評です。


吉本 そういう部分が出てきたんですね。つまり、「あ、ここが小林秀雄の批評家としての壁なんだなあ」っていうことを、『本居宣長』は如実に感じさせるわけです。(略)
日本の文学だから、日本の壁の中でやるのはいいんですよ。それを論じながらなお、世界に向かって開いていくっていうところがあってくれたらいいじゃないか、と思うんだけど。自分で閉じているところがあって、そういうのが不満なんですね。(略)


――(略)僕はそうした方法論の中においては超えていると思う。そこで面白いことに、ずーっと、吉本さんの中に小林秀雄コンプレックスというのがあるんですよね。


吉本 すごい人ですから。自意識を突き詰めて、批評言語が物質化するぐらいに研ぎ澄ましていくんですから。こんなことをやれた日本の評論家はこの人ぐらいですよ。

聞き手は渋谷陽一

――だけと吉本さんって無冠の帝王というか、戦後思想史の巨人とか言われ続けながらも、「あまり表立って吉本隆明を触るのもなんだかなあ」みたいな、それぐらい恐い存在だったから、世間があんまり賞とかなんとかってちょっかい出さなかったじゃないですか。


吉本 そうそう、文壇とか詩壇とかっていうところでなんか評価されたりってことはなかったですね。(略)
だから、香典の代わりかなと(笑)。(略)
本格的に本当になった時には誰もくれないんじゃないかっていう
(略)
小林秀雄は、僕はほとんど追っかけみたいなもんだったからね。(略)だからその名前にちょっとつられたっていうところがありますね。(略)


――吉本さんはある意味、ずっと文壇とか賞とかと距離を置いてきたわけじゃないですか。(略)
で、僕みたいな吉本さんの追っかけは、そういったところでも、吉本さんってなんかかっこいいなあと思ってたわけなんですが(笑)。(略)
だけどまあ、それがひと段落したっていうか、まあいいじゃないか、賞くれるって言うなら貰えばいいじゃないかというふうに。(略)
吉本隆明も古典になったというか(略)吉本さんの中では「それはそれでいいのかなあ」って感じになったんですよね、きっと。ここでいろいろ面倒言ってもしょうがねえや、と。


吉本 それはそのとおりですね。もう2、3年前からそういう心境で、「何でもやるか。何でも引き受けてやろうかな」なんていうふうにしてやっていて。そういうふうに社会とつきあってきたわけです。小林秀雄賞を貰うっていうことは、なんか文壇の世界っていうか、そういうものに一歩近付いたっていう感じを自分でも持ちましたけど。(略)
まあとにかく、小林秀雄の名前がついた賞を貰うっていうのは、それは悪くないなっていうのはどこかにありましたね。でもだからって、やっぱり今さら、賞獲ったからどうするってこともないんですけど。


――まあ、別に本音を言えばほしくもねえけど、くれるって言うんだったら貰ってやるよっていう。


吉本 ま、そういうところが(笑)。


――でも昔はそれ以上に「いや絶対貰ってなんかやるものか」って……。


吉本 そうそうそう、やるものかって。


――そういうモードから吉本さんも変わられたんだなと、僕なんかは思いましたけどね。だから昔は新聞に対する距離感も、本当に非常に意固地なほど三大紙とは関わろうとなさらなかったし。その辺りも、まあいいかなあというふうに徐々に徐々に変わられて。(略)
で、そういう吉本さんの空気をメディアや社会の側も感じ取って、吉本さんに賞を差し上げようという感じになってきたんだろうと思いますね。


吉本 僕もそう感じましたね。昔はそうですよね。なんかよく強情を張ってっていうか。雑誌なんかに頼まれて書いたりした時に、僕がいいと思っているものを向こうに面白くないとか言われると、原稿を返してもらったり。だけどもう仕事はしたんだから原稿料はくれよって言って(笑)、両方戻してもらうという、そういうことをやってましたけど。今はもう「いいよいいよ、何でもいいよ」みたいな(笑)、そういう塩梅になって。だからずいぶん自分も変わったなっていうか、寛容になったなっていうか。まあ、だらしなくなったなっていう気持ちは……。
(略)
学生の時、同じ寮にいた先輩筋から「あいつは偏屈な奴だな」って言われてて。その時は自分じゃ偏屈とも思ってなかったんだけど、あとから考えてみると「偏屈っていうのは俺にふさわしい言葉だなあ」と(笑)。いやあそうだったんだろうなあって思いますけれどね。


ネットにPDF形式で「吉本隆明1949―小林秀雄の影響からの脱却― 渡辺和靖」というのがありました。
共同幻想論』と、同時期を並走する仕事である。