マチウ書試論 吉本隆明

わかりやすい吉本隆明かどうかわからなくなってきたけど、第四弾『マチウ書試論』。
ジェジュ=イエス、マチウ=マタイです。

[故郷で説教したイエスが大工の子じゃないかとバカにされ、「預言者は故郷や家では軽蔑される」と言う描写]
作者の造型力が、架空の教祖への執着によって高鳴ったのである。作者は自己愛と緊張症とのいりまじった夢想家的なジェジュが、現実のささいな場面にあしをすくわれてつまづくさまをかんがえる。そこにはマチウの作者の、にがい実感がこめられている。(略)人はたれでも、故郷とか家とかでは、ひとつの生理的、心理的な単位にすぎない。そこでは、いつも己れを、血のつながる生物のひとりとしてしか視ることのできない肉親や血族がいる。

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

マチウ書試論・転向論 (講談社文芸文庫)

無数にうまれた狂信者の記録から、原始キリスト教が、その教祖の実像をつくりあげるためのモデルをえらんだのかもしれない。それゆえ、ジェジュはひとりの無名の思想家だったのではなく、無名の思想家の記録から、ジェジュはつくりあげられたのである。

 人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、原始キリスト教は、人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に、人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。つまり、悪魔の問いがよって立っている根拠をくつがえしたのではなく、かえって、それがくつがえし得ない強固な条理であることを認めたのである。だが、原始キリスト教の立っている条理は全く別だと、マチウの作者は言っているのだ。即ち、「むしろ神の口から出るすべての言葉によって生きるだろう。」と。(略)
神の口から出るすべての言葉によって生きるというのは、人間の現実的な条件とは別なところで、神の倫理を自立させ、ほとんど、人間の生きることの意味を現実的なもの一切から隔離してしまうことにちがいなかった。(略)
 マチウ書のジェジュは、当然、悪魔の問いをうち砕くことは出来ない。ただ原始キリスト教の観念的二元論を強調して、われわれは別の価値感にしたがって生きると、こたえただけである。ここに原始キリスト教の思想的な精髄がある。すくなくとも、現実的な秩序から圧迫され、疎外されたものが、心情のなかに逃亡しようとするとき、この原始キリスト教がこしらえ上げた思想の型をのがれることは不可能である。

異様な病理が底のほうにちらちらとのぞかれる言葉である。たとえば、精神的な貧者が幸福であるという意味は、マチウの作者によれば、心情の最低線に立たされているものは、うしろにたえず絶望があるだけだから、まえには、心情を充足させるたくさんの可能性がのこされているとおなじだということである。(略)現実における敗残の心理につうじていた原始キリスト教義のメカニスムの告白である。苦しみある者は幸福であるというのも同じことだ。もはやそれ以下の心情のレベルはないのだから、慰めはたくさんの色どりをもっておとずれる。(略)
このように考えてくると、純粋な心と静けさをもたらすものとが神を見、神の子と呼ばれるというような言葉は、どうしても色あせてみえる。原始キリスト教自身が、そういう神を信じてはいなかったろう。(略)
作者の手腕といってしまえばそれまでだが、ぼくたちは、ここにあらわれた被害感覚が、どんなに陰惨な現実的な相剋と迫害によって裏うちされているかを、いやおうなしに理解させられる。迫害をうけたら喜べというのは、いったいどういう心理なのか。天においてつぐなわれるというのは、幻影をもって、現実的な迫害の代償とするということではないか。信ずることの苛酷さを、これほどまでにあばき出した例は、原始キリスト教を除いては考えられない。

作者は青年がこの言葉[財産を貧乏人に与えてついてこい]をきいて、まったく悲しげにしながら立去ったと書き、大財産をもっていたからだと、註釈まで加えている。ほんとうは、こんな無茶苦茶なことを言う妄想狂を、悲しみながら立去ったのだろうと想像するほうがましだ。こんな男に随行したら、どんなことになるだろうと正常な人間なら考えるにちがいない。天の王国だとか、神の国だとか、まったく何ひとつ現実的な根拠のないものと引かえに、現実を売払うものはない。ここに原始キリスト教の貧困にたいする同情を読もうとするのはまちがっている。ここで、作者は、天の王国という言葉であらわされる原始キリスト教の観念的な倫理性が、もはや鋭く現実そのものと背反するということを表象しているのだ。(略)
[なぜ迫害を受けるのか]
これにたいするジェジュの答えは、相対的な情況のなかに関係づけられている人間性を動かす力はない。ただ人間の絶対感情と相対感情との無限の距離の無意味さを感じさせるだけだ。マチウの作者は、すでに疲労しているのか、本質的な問題の掲示を回避して、無意味な観念と、卑俗な現実感情とを、機械的に並列してみせるだけである。だから、かれらの約束する天の王国や永遠の生命は、認識における現実感からはなれて、読者につうじない架空の領域をさ迷うだけだ。

既にできあがった秩序の上にあぐらをかいて固定している思想や人間は、形式主義も偽善もへちまもない。ようするにわれわれは勝者であり、諸君は敗北している。諸君もわれわれと同じような方式をとらないかぎり、決して秩序から疎外されることを免れない。すくなくとも人間の構成する秩序は、けっしてこれ以上の型をとらないのだから、と言うだろう。構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない。キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいしたし、人の肩に荷物をくくって、自らは指で動かそうともしなかったのだ。マチウ書の作者が、ここで提出しているはんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある。

加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるというものであるということだ。(略)だが、この自由な選択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。律法学者や、パリサイ派が、もしわれわれが父祖のときに生きていたら予言者の血を流すために、かれらに加担しはしなかったろうと、言うときそれはかれらの自由な撰沢の正しさを主張しているのだ。
 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者であるわたしを迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な選択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まない如何なる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序にたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。(略)
[現代キリスト教が貧者の味方だと称するのは自由だが]
現実における関係の絶対性のなかで、かれらが秩序の擁護者であり、貧民と疎外者の敵に加担していることを、どうすることもできない。
(略)
 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。そのとき、ぼくたちの孤独がある。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。