ロックステディ、スタジオ・ワン

前回のつづき。第二部突入。
高速化するスカに聴衆がついていけなくなったところへアメリカン・ソウルが伝わってスローでメロウになったのがロックステディ、だがふたたび聴衆がアップテンポを望むようになりレゲエが

ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

ロックステディ

[60年代に入り高年齢層もサウンドシステムに来るようになり]
そいつらがブーブー言い始めたのさ。『ブルーズの頃はもっとスローな曲が流れたもんだぞ。シャーリー&リーとかジョーニー・エースとか。ところが今はどうだい! 早過ぎてついていけないじゃないか!』 って。彼らはテンポをゆるめて欲しかったのさ。それで、そういう方々のために小一時間ほど、ブルーズやR&B、スローなスカのようなテンポを落とした曲を流す時間を設けるのがお約束になった。(略)
[それは『ミッドナイト・アワー』と呼ばれた]
[バスビーというダンスの上手い大物が]
ミッドナイト・アワーになると、バズビーは一ヶ所に立って、ただただ、揺れるんだ。文字通り、揺れていた。ゆったり、落ち着いてね。彼自身がミッドナイト・アワーに踊るそのダンスを『ロックステディ』と呼んでいたよ。これを聞きつけたRJRのアナウンサーがテンポの遅い曲を『ロックステディ』と呼ぶようになったのさ。(略)
 「これは64年頃の話さ。もしかしたら63年だったかもしれないな。ともかく、ロックステディと呼ばれるレコードが作られるようになるずっと前の話だ」

63、64年頃アメリカン・ソウルがジャマイカ

ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズはカーティス・メイフィールド&ザ・インプレッションズにそっくり。ジミー・クリフオーティス・レディングのコピー。ケン・ブースはクラレンス・カーターみたいだった。誰もが大量にソウル・スタイルのカヴァーをやった。しかし、それで上手くいってたんだよ。ソウル・スタイルの曲はどれもテンポはスローダウンしたラヴァーズ・ロックみたいなものだった。お客はそれに夢中になったんだ

高速化するスカに聴き手は消耗しスローな音を求めていた。
スカの中心となるホーン奏者のギャラ高騰でホーンはずしの形態が試され電子オルガン他の楽器が活躍する機会が。

何が起きたのだろうか。スカの最も美しい部分と言われ、重要な役割を果たしていた管楽器が(略)「ポイントを際立たせる」ために用いられるようになったのだ。(略)
[リズム・セクション主体となり]ベーシストはひどく「おいしい」責任を負うことになった。(略)油断のならないこの手のベース・ラインには、しっかりしたドラムが寄り添うようになった。(略)リズム・パターンが劇的に変わった。この新しいリズムの生命はキック・ドラム(バス・ドラム)が制御する、スローダウンしたテンポだ。スカでは2拍目と4拍目に打たれていたキック・ドラムが、ロックステディでは3拍目だけに打たれるようになった。当時のスタジオでは、アレンジャーが3拍目だけに一発、キック・ドラムが欲しいとドラマーに伝える際には「gimme a one drop!」という言い方をしたという。こうして、その後何世代にわたって引き継がれる、ジャマイカ音楽の基本を表現する言葉「ワン・ドロップ」が生まれた

リン・テイトによりジャマイカ・ソウル・ブームからロックステディへ移行

[アーニー・ラングリン談]
最初に、それこそ『クールダウン』なものと言えるギターのコードを決めた。(略)曲全体のピッチを彼のギターのコードでコントロールするんだ。そのためだと思うが、いつも、よりゆっくりしたテンポを保とうとしていた。それから、そのテンポを保つために、ドラムのワン・ドロップを入れた。最後にベースだ。ビートに添うように置いていく。もちろん即興でね。こういうサウンドの作り方だったおかげで、私もキーボードもサックスも、本当にスウィートなメロディを奏でる者は皆、より多くのスペースを手に入れられた。もちろん、それはシンガーにとっても都合が良かった。誰もがリン・テイトのすることをいたく気に入り、それが野火の様に広まった」
(略)
プリンス・バスターも変化の源はリン・テイトにあり、と認めている。(略)「リン・テイトはジャマイカ人ではなかった。彼はトリニダード生まれのトリニダード育ちだ。(略)カリプソアメリカの音楽のような、我々とは違う音楽を過去に演奏していた(略)
彼は確かにロックステディという音楽を生み出したミュージシャンだ。(略)
[皮肉な事に数年前スカタライツのリーダーに請われた際にリンは]
ジャマイカ人が率いたほうがいいと、申し出を断わった。その当の本人、ジャマイカ人ではないテイトが、ジャマイカ音楽をスカの次の段階へと進化させたわけである。

ルードボーイ

 ジミー・クリフは「多くの人が当初、急に社会問題として浮上したルードボーイを、権力に抵抗する者と見なしていた」と当時を振り返る。
 「独立後のパーティー気分が冷めると、皆、辺りを見回して言い始めた。『ところで、独立って何なんだ?』とね。ジャマイカが独立している状態ではないと、皆わかっていたよ。ご主人様があっちからこっちに変わっただけだ。そして、音楽がスローダウンし始めた。まるでパーティーが終わったみたいに。誰もが、何か起こっているのか、問題は何なのか、落ち着いて考えるようになった。経済も良くなっていない。仕事はない。そして、独立以前よりもひどい状態になって一生を終える前に、自分で自分のために何かしたほうがいいと気が付いた。こうしてルードボーイの時代が始まったんだ。多くの人にとって、最初は、ルードボーイはロビン・フッドみたいに見えたと思うよ。(略)シンガーたちがルードボーイの歌を歌い始めた。

1966年労働争議の中、ラスタと一般労働者とルードボーイが共に公権力に反抗したが鎮圧され、ルードボーイの暴力衝動がコミュニティに向かうようになり人々は彼等に失望する。

  • シャッフル・オルガン

レゲエ誕生直前に生まれた短くあっさりしたスウィングの入った「ジョン・クロウ・スキャンク」というオルガン・スタイルでテンポが速まることに。そして客もテンポアップを望んでいた。

オルガンのテンポがちょっと上がったところに差し掛かると、踊っている連中はワーッと盛り上がる。オルガン・シャッフリングの部分でね。(略)
ダンスホールのお客さんはその音楽が認識されるずっと前から、そのオルガンの音で踊ってたのさ。レゲエと呼ばれるようになったものは、彼らが踊っていた、もっとラフで高揚感のあるステップのことなんだ。
(略)
 ロックステディの時代にベースが担っていたメロディックな役割は、まもなくオルガンが担うようになり、ベースはピシッ、ピシッと打つような、よりリズミカルなサウンドを奏でることができるようになった。

ドラムはワン・ドロップのままだった。(略)
しかしオルガンのテンポについていくために、レゲエではリズムが2倍の4分の2拍子でフレージングされている。(略)
ギターは既にエレキ・ギターで、十分にオフ・ピートを強調するために、歯切れよくコードをチョッピングするようになる。そして、コクソンが実践したディレイ・エコーをかけるといったスタジオ技術の進歩によって、この美しいギター・サウンドはますます不思議で興味深いものになった。
(略)
レゲエには、表面的にハッキリとは聞こえないが確かにシンコペーションがあり、それによって自然にできた「穴」は、パーカッションのブレイク(ソロ演奏)を挟み込むには理想的な間合いだった。そこに選ばれたのは、古くからジャマイカに根差している様々な打楽器だ。ボンゴ、ハンド・ドラム、シェイカー、グレイター。

スタジオ・ワン
[リロイ・シブルズ談] 

コクソンはスタジオの外でビジネス的な部分を受け持っていた。俺はスタジオが担当だ。(略)
それでもどのレコードをどうリリースするのか決めるのはコクソンだ。夜にはレコーディングしたものをちゃんと聴いて判断を下していた。(略)
 「レコーディングの流れはこんな感じだよ。シンガーは自分の曲を持ってやってきて、俺に歌って聞かせる。俺はその歌を聴いてどう料理するのか考える。(略)
 「シンガーが新曲を持ってスタジオに来るのが午前9時前後。午後2時、3時頃にスタジオにまた戻ってくるから、バンドはその間にアレンジと練習をする。(略)
それから本番のレコーディングだ。2、3回通しでやって、それから1テイクか2テイクを録る。もちろんノン・ストップで。当時エンジニアはパンチ・インできなかったから、全て一発録りだ」
 「こんな風にして1日に5、6曲をレコーディングした。シングル・トラックだったしね。俺がスタジオ・ワンにいる間にシングル・トラックから2トラックに変わって、ヴォイスとバック・トラックを別々に録れるようになったが、レコーディング後の、ミックス作業はほとんどといっていいほどなかった。ミュージシャンが演奏したレヴェルとバランスそのままだ。

スタジオ・ワンのあのサウンドは、スタジオのミキシング・ボードのあの設定から生まれた。2トラックになってもバランスの取り方は変わらなかった。バランスはコクソン自身がセットしたものだ。(略)ニューヨークでラング社の6トラックのミキサーを2台買って入れたのは、各楽器の音色のバランスを取るのにチャンネルがたくさん必要だったからだ。ある音色がもっと欲しいと思うときは、二つ以上のチャンネルをそこに振り分けていた。彼はベースとドラムの音色が強くたっぷりになるようなミックスを好んだ。たしか、ドラムに3チャンネル、ベースに3チャンネルを充てていたな。ホーンは全部まとめて1チャンネルだったと思う。これがスタジオ・ワンの音作りの基本だ」
 「そんな風にチャンネルの振り分けとミックスの加減があらかじめ設定されていたから、ミュージシャンが演奏する位置には物凄く気を遣った。」

スタジオ・ワンでは他のスタジオでは御法度のガンジャがやれて「ハーブと混ざりあったスピリチャルなヴァイブスがあったから」多くの才能が集ったとホレス・アンディ。

 70年代が進むにつれてスタジオ・ワンの独占状態が崩れていったのは、他の小さな、もっとストリートのヴァイブが濃いスタジオがチャリスを必需品として備え始めたためかもしれない。あるいはコクソンがミキサーを8、16、後には24トラックヘとグレイド・アップさせていくにつれて、モノラル時代には創造的なマイク・アレンジメントと絶妙なバランスで生み出していたあの素晴らしいサウンドが失われていったためかもしれない。あるいは70年代半ばまでに、[現場で実質的プロデュース作業をしていた]リロイ・シブルズとジャッキー・ミットゥがスタジオを去ってしまったからかもしれない。時代が動き出しても、コクソンは次の波には乗らなかった。

明日につづく。