ラスタファリ、ドン・ドラモンド

前日の続き。

ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

ベース・カルチャー レゲエ~ジャマイカン・ミュージック

マーチング・ドラムとスカ

[マーチが好きだったプリンス・バスターは]
手で叩くドラム(ダム)から足で叩くフット・ドラム(バス・ドラム)まで、同じビートで叩いてくれとドラムベイゴに指示した。それからギタリストのジェリーにギターをどう引っ掻くかを言う。『〜チュク、〜チュク、〜チュク』だ。次にテナー・サックスのリブスに『パップ、パップ、バップ!』と吹いてもらう。どれもマーチと同じだろう?」
 「あのときにはわからなかったが、これがスカだったんだ。スカのサウンドの〈腹〉にあるのは、あのマーチング・ドラムなのさ」
(略)
 「コクソンもデュークもコレがいい音楽だとは全く思っていなかった。俺のサウンドシステムでコレが大きなヒットになった後でも、『バスターの、しょぼい〈ブープ・ブープ〉ビートにお客がついていくはずがない」と話していたらしい。笑いものにしていたんだよ。彼らは真正のジャズ系人間だ。彼らからすれば、俺なんか単純な音楽を作って勝ちあがってきた若造に過ぎなかったんだろう。

「Oh Carolina」

 プリンス・バスターの「Oh Carolina」がどれほど重要であるかを言葉で説明するのは難しい。音楽的構造に関しては「Oh Carolina」にはそれほど影響力はなかったかもしれない。だが、ある文化的な流れを作り出した一曲として、その影響は甚大だ。
(略)
[中流階級・ラジオ局の反発を回避するため]
「Oh Carolina」が大釜の中で今にも爆発しそうなほど煮えたぎっている抵抗の音楽なのに、歌詞の内容がよくある恋の歌になっているのはこのためだという。

  • ラスタファリ

ラス・タファリ(本名リジ・マコーネン)が1930年エチオピア皇帝ハイレ・セラシエとなる。アムハラ語で「ラス」はプリンス・高貴な人、「タファリ」は創造主という意味。黒人が独立国の皇帝となったことは世界中の黒人の希望となった。
殊にジャマイカでは18世紀に聖書を黒人優位に読解するエチオピアニズムが広まっており、エレミヤ書にある「新しい救世主は黒人であろう」という予言がラス・タファリ戴冠で現実化したと捉えられた。

  • ピナクル

[政府によって精神病院に監禁されていたレナード・ハウエル]
 1940年、ハウエルは精神病院から釈放されると、自身のエチオピア救済協会の名義で、セント・キャサリン郡の丘陵地ピナクルにあった広大なサトウキビ農園を買い取り、独立したラスクの「国」を設立した。(略)
ピナクルは完全に自給自足で、財産は共有、共同労働が基本で、当局の定めた法律ではなく、ラスタの教義に適合したシステムが採用されていた。まもなく1600人前後の住人が「入国」し、その後14年間にわたって居住地は続いた。(略)この14年の間に警察や軍隊はピナクルヘの迫害を徹底して行なった。(略)
ピナクルはラスタファリにとっての大切な象徴となった。

  • クミナとブールー

クミナはガーナに起源があり、奴隷制の時代を生き抜いた宗教「ポコメニア」の音楽である。ブールーは元来西アフリカの種族の名前(略)1920年頃にキングストンヘ移住していた。
 ブールーのスタイルでは、三つのドラムを一緒に演奏することで美しい旋律を作り出す。
ブールーでは、バス・ドラムがビートを、リピーターと呼ばれる中くらいのドラムがメロディを、そしてファンデーと呼ばれる一番小さなドラムがハーモニーを担当し、必要なときはシンコペーションを踏んだ。
(略)
ラスタ音楽ではファンデーがビートを刻み、一方、バス・ドラムがビートを強調する。それによってあまり複雑ではない一拍のリズムの中でテンポにヴァリエーションをつけることが可能になり、リピーターそれ自体だけでメロディを創り出す。
 クミナのドラムはブールーよりもずっと情熱的だ。半分狂っているのかと思うぐらい強烈なドラムだが、クバンドゥとキャストという2種類のドラムを使用する。どちらもシングルヘッドで、奏者が股に挟んで坐れるほどの大きさだった。ビートを刻むのはより大きい方のクバンドゥで、キャストは開放の状態(指で押さえない状態)で、短いスティックを使って補足的なリズム・パターンを刻んだ。初期のラスタ音楽は様々な大きさのドラムを持った奏者のグループが、ブールーとクミナの二つのスタイルを混ぜて演奏し、そこに様々なアフリカ由来の打楽器や現代の打楽器、竹のサックスやボトル・サックスを加えたものだ

ドン・ドラモンド

 コクソンが最も洞察力を発揮したのは、アレンジャーとしてのドン・ドラモンドに、技術、構想、セッション、規律の全てを託した点である。トロンボーン奏者のドラモンドは、その生き方をアルファ・ボーイズ・スクールで学んだ。[修道女が運営する素行不良児矯正学校だが、古参ホーン奏者を輩出した学校としても知られる](略)
生徒たちはクラシック音楽を学びながら、音楽理論、楽譜の読み書き、作曲、アレンジまでみっちりと仕込まれた。また、便所掃除や台所の片付けのような日常の嫌な仕事から抜け出す唯一の方法は、当時、絶賛されていた学校のマーチング・バンドの練習に参加することだった。
 ドン・ドラモンドはそのアルファ・ボーイズ・スクールでも傑出した才能を持った生徒だった。
(略)
このためスタジオ・ワンでの彼のセッションは、学校の教室のような厳正な規律に則って行われ、全ての面に細かい注意が払われていた。ミュージシャンはそれぞれドラモンドが書いた細部まで非常に正確な楽譜に従う。スカが後世に得る「ハッピーでラッキーな音楽」という評価にはそぐわないが、スカタライツのセッションは、カーネギー・ホールでの演奏を控えて練習するデューク・エリントン・オーケストラと同じくらい整然とした、几帳面な、堅苦しいものだった。(略)
ドン・ドラモンドと彼の心の奥底にあるものや、深い黒人の哀しみのようなものがスカタライツを導き、「Man ln The Street」「Addis Abeba」「Eastern Standard」「Don Cosmic」のような曲が生まれた。

クリス・ブラックウェル

スカがキングストンの音楽シーンを支配するようになると、よそものである彼はレコード制作に入り込めなくなった。このため、ブラックウェルは1962年、ロンドンに遁走し、本国ジャマイカのトップ・プロデューサーが制作した楽曲をライセンスして英国でリリースし、正式なスカの輸出市場を開いた。しかし、それを始めるずっと以前に、彼はキングストンに最初のマトモなレコード流通と卸売のシステムを築いている。ジミー・クリフによれば、クリス・ブラックウェルが整えた流通システムのおかげで、新進アーティストはサウンドシステム以外にも収入の道を得た。このことがジャマイカの音楽産業をますます発展させたという。

モッズがスカを聴き出しジャマイカ音楽はブレイク。プリンス・バスターはモッズのアイドルとなった。
採算の取れる会場が少なかったのでバスターはカレッジ・ツアーを敢行し、地方大学生層を開拓。

バスターはショウの前に時間を取って「これから皆さんが聴く音楽は今までに聴いたこともないような音楽です」と前置きし、この音楽がジャマイカの社会史と非常に関連が強いことを講義しなければならなかった。それから1曲ずつ、どんな歌詞なのかを説明した。現実離れした光景だが、思い浮かべてみてほしい。講義用のイスが並んだ講堂で、英国の保守的中産階級に属する男子学生、女子学生を前にバスターが説明する。プリンスが誰で、デュークが誰で、サーが誰なのか。「Black Head Chinee Man」という曲がなぜ生まれたのか。なぜファラオの一族は崩壊するべきなのか。それからマイクを握り、実際に歌って聴かせるのだ。彼は必死になって英国にスカを普及させようとした。

1964年ミリー・スモールのスカ・ヴァージョン「My Boy Lollipop」が全世界で600万枚を売上げ、他にもポップアレンジのスカがヒットした。しかしそれらは本物のジャマイカン・スカではなかった。


ようやく第一部が終了。第四部まであるんですけど。つづきは後日。