ヘンリー・フォードの六冊の著作のうち、1922、26、31年に書かれた三冊を収録した上巻。
- 作者:ヘンリー フォード
- メディア: 単行本
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『私の人生と事業』(1922)より
人間は自らの仕事をすることで、世の中に奉仕する。(略)
事業は実体のある仕事である。しかし、投機は事業とは言えない。それは、合法的とは思えないのだが、かなり世の中に蔓延っている。
今は、あまりにも商売が容易にできる。価値と価格とが正当に決まる原則が失われている。大衆は、もはや正当に扱われる必要がなくなってしまっている。いたるところで“大衆は愚か者”という姿勢が蔓延っている。これは、事業にとって由々しきことである。この異常な状態を“繁栄”という人がいるが、これは“繁栄”ではなく、必要のない“金漁り”である。金の追求は事業ではない。
(略)金を儲けるためだけの事業は、最も危険で脆い。それは、良い所取りをするような、行き当たりばったりで、不安定で、積み重ねというものがないからだ。
現在の貨幣制度、金融制度への私の反対の主旨は、制度が金そのものを目的としがちで、生産を促進するどころか、阻害するからである。
職業的な慈善行為は本当の慈善行為を害する
私にとって、ある種の商業的な博愛主義や慈善行為を職業とすることは、我慢がならない。
他の人間を肋ける行為が体系化されたり組織化されたり、商売や職業としての性格を持った瞬間に、その行為は本来の精神が失われ、冷淡で陰湿なものになってしまう。真に人間的に人を助けるということは、決して目録に書かれたり広告に出されるようなものではない。孤児院や孤児救済協会で世話されている孤児の数よりも、普通の家庭で面倒を見てもらっている数の方がはるかに多いのだ。老人ホームの世話になっている老人の数よりも、隣人によって面倒を見てもらっている数の方が多いのだ。(略)
格好のよい人間協会は協会自身のために活動しているようなものだ。慈善の本来の姿が商業主義に利用されているのは重大な問題なのだ。
職業的な慈善行為は、単に冷淡で血の通っていないばかりでなく、本当の慈善行為そのものを害するものなのだ。それは、慈善を受ける側を堕落させ、彼らの自尊心を害する感傷的な理想主義と似通ったところがある。
寝たきりでも働けるぞ
知能指数が極端に低い場合とか稀な場合は別として、会社の中の仕事には身体的ハンデのある人達でもできるものはいくらでもあるのだ。(略)
身体障害者故に特別に採用したり、低い賃金で低い生産性で満足するのは、我々の原則に反するのだ。
(略)
私が調査を命じた時点で、工場には7882種類の異なる仕事があり、そのうち、949は肉体的強靫さを要する重労働、残りのうち3595は肉体労働でなく身体の弱い人でもできるもので女性や子供でも十分こなせた。軽労働のうち、670は両足がない人、2637は片足の人、2は両腕のない人、715は片腕の人、10は盲目の人で十分できる作業である。つまり、7882のうち、4034の仕事は健常者でなくても十分できる仕事なのだ。
(略)
身体弱者を義務感から雇い、単にカゴを編むような仕事につかせたり、彼らを慰める気持ちで安い賃金を出すというのは、最も無駄なことである。
(略)
我社の工場で、寝たきりの人(ベッドの上で起き上がることはできるが)で作業の実験を試みたことがある。ベッドの上で、黒い油布でできたエプロンを着けて、小さなボルトにナットをねじ込む作業をさせた。この仕事は通常磁石式発電機の製作部門で15人から20人が手作業で行っていた。実験の結果、彼らは病院の中で工場の従業員と同じ仕事をやり、通常の賃金を手に入れることができたのだ。実際には工場よりも20%も多くの仕事をやっていた。
(略)
最近の調査では従業員のうち9563人は標準以下の体力で、123人は前腕のない身障者で1人は両腕がなかった。4人が盲目で、207人が片方の目しかなく、253人は片方の目の視力がほとんどない人、37人がろう唖者、60人はてんかん性、4人が両足がなく、234人が片足のない人で、残りの人達も何らかの障害を持つ人達であった。
デトロイト自動車公社
私が電気会社を退職すると間もなく、投機心のある一団が私の作った自動車を利用して、“デトロイト自動車公社”なるものを設立した。私は主任技師となり、少しばかりの株式を持った。三年間、私の一号車と同じ車を作り続けたが、ほとんど売れなかった。大衆に売れるもっとよい車を作りたい、という私の考えは全く会社内では支持されなかった。(略)
私に技術者としての権限以上の力がないかぎり、単に金儲け主義の会社――尤も金も儲けることすらできなかったが――では、私にできることは何もないことが判った。1902年3月私は、この会社を辞め、二度と雇われて働くことはしないと決心した。このデトロイト自動車会社は、後年ルランド氏の所有するキャデラック自動車会社となる。
消費者に優れた製品を提供するという奉仕がない、
投機目的だけの事業は駄目だ
事業を行う場合、多くの事業が資金面には大きな注意を払っても、奉仕(サービス)にはあまり配慮しない点が、私が最も驚いた第一の点である。それは、金は仕事の結果であって、仕事より先にある問題ではない、という私にとっての自然の流れとは逆のように思えた。第二の点は、とにかく一応生産ができて、そして、金になるのであれば、よりよい生産方法には無関心なことだった。
(略)
よい仕事をすれば、それ相応の価値が決まり、利益や資金繰りといったことは、自然とそれなりにうまくいくもので、事業は小さく始め、その利益で成長していくべきもの、ということである。もし、利益が得られなければ、それは事業家にとって、時間の浪費であり、その事業に向いていないという信号なのだ。
(略)
[ところが投機目的の人々のやり方は]
できるだけ大きな資本金で事業を始め、売れるうちにすべての株式や債券を発行することであった。(略)よい事業とは、よい仕事をして適正に利益を上げることではなく、多額の株券や債券を最も高い価格で発行できる機会のあるものであった。関心は事業そのものではなく、株と債券にあった。
破滅を招くような金融システムは修正しろ
この15年から20年間で銀行家の大きな勢力範囲ができてしまった。特に戦後しばらくの間、連邦準備金制度がほとんど無制限に資金を銀行の手に委ねてしまってからはそうなってしまった。私の見るところでは、銀行家というものは、産業経営について訓練されていないし、本業としても産業には適していないものだ。だから、金を支配するものが最終的に非常に大きな力を得ることになるとすれば、それは産業へ大きく貢献するのではなくて、金融制度の従属物として産業を考えるようになってしまうはずだ。
(略)
銀行家はもはや産業の主体であってはならないのだ。彼らは産業の使用人なのだ。事業が金をコントロールし、金が事業をコントロールするのではない。破滅を招くような金融システムは大幅に修正されねばならない。銀行とは危険なものではなく、奉仕するものでなくてはならない。
明日につづく。