ビラまきを規制する小市民的プライバシー権に喝

前日のつづき。

憲法を生きる

憲法を生きる

知る権利

博多駅事件最高裁決定(1969年)(略)までは、表現の自由というのは表現する自由なのであって、取材活動とか、取材の結果得られた取材物は表現の自由の保護対象じゃないといわれていました。つまり取材すること自体は、これから発表しようとするものを集めるのであって、これに反し表現の自由というのは集めたものを発表する自由なので、そこへきてはじめて表現の自由になる。報道するための材料集めの過程というのは表現の自由の問題ではないって考えられていた。だから国家が取材活動を規律する応分の理由があれば当然規律できるというように理解される傾向がありました。しかしながら、取材活動が自由にちゃんとおこなわれなかったら表現はできないし、表現の自由を保障するということは取材活動の自由も保障するんだっていうように、窓口を期せずして開くきっかけが一連の事件の中で与えられていったと思います。

石に泳ぐ魚』事件

での柳美里表現の自由という主張に対して

 このコメントはぼくには違和感がありました。それは、非常に大雑把に言うとね、ぼくには、表現の自由の「優越的地位」は論争を巻き起こすためという政治的な脈絡の中で語られたという考えが前提としてあります。だから「知る権利」というのも、他人、つまりぼくと同じレベルにいる他の人間に対して、ぼくは「知る権利」を主張できるということはありえないというふうに思います。
(略)
表現の自由の保障は政治的表現の自由の保障に尽きるものではないと思っていました。
(略)
しかし、表現の自由が「優越的な地位」にあるって言うためには、もう少し社会的・公共的な側面が必要になるはずです。

作家として作品を葛藤して作成する過程の中で、材料が集められる過程には原告と彼女の間に親密な世界(intimacy)があったと思います。そして親密な世界というのは、相手方、つまり原告からすれば、相手があなたでなければいろんなことを言わなかったよ、という世界でしょう。だからこそ親密圈なんですよ。そこでは、共通の私と彼女とは同じ地点に立っている、どっちも同じ意味で人間としての個人としての地平に立ち、そういうものとして互いに自由をもっていて、そういうことを前提にして相手との情報交換が展開しているはずです。そこには、相手と自分の対等の関係があったはずです。少なくとも書かれる方の側にはそういうintimacyな世界にのっとった期待感があっただろうと思う。その世界では作家が好きに書いていいわけじゃない。
(略)
 ぽくは、原告の受けたショックが良く分かる。intimacyだと思っていたら、そうじゃなかった。こういう状況で、柳美里さんの「表現の自由は、『優越的地位』にあるじゃないか」とか「これでは私小説は書けない」というのは、その限りで、ぼくはものすごく傲慢だと思います。
(略)
表現の自由は社会に向けられたものという側面がある。表現の自由は、民主主義社会を支えていく上で不可欠であるという、個人の私的な自由では説明できない公共的な価値を有している自由です。だからこそ表現の自由は「優越的地位」にあるわけです。

プライバシー権への疑義

「私は私でいい、私のために世界はある」という小市民的プライバシー権にはついていけない

ぼくは最近のプライバシー権論にもついていけません。たしかに、メディアの報道には行き過ぎがあります。(略)自分たちは国民の知る権利のために奉仕しているのだから、取材してどこが悪い、多少のことは我慢せよという感じでしたから、裁判所じゃなくても「ちょっと待ってよ」と言いたくなる雰囲気がありました。ぼくもそういう状況の中でプライバシー権を主張しました。でもその後、それがだんだん変な方向で動いているように思います。今現にある小市民的な、保守的プライバシー中心主義みたいな方向です。
(略)
最近の「プライバシー権」論をみると、民主主義過程においてプライバシーが必要だという側面があまりにも欠けているような気がします。達観的というか小市民的というか、私は私にふけっていいじゃないか、私は私でいい、私のために世界はあるのだといわんばかりの方向に今のプライバシー権論は向かってしまっている。
 もともとプライバシーを権利として主張するためには、やはりそれなりに、単に個人が好きなことにふけるっていうことではない何かがあって主張されたはずです。しかも、プライバシーには、身体の自由とかその他いろいろな一般的自由と違った側面が現代社会ではあるという話が前提にあったはずです。現代社会というのは民主的な社会です。アメリカでウェスティンが70年代にプライバシーの本を書いた時には、やっぱりのっけからこれは大事なclaimなんだと主張した。そしてなぜ大事かっていうことを言うときには、どちらかというと社会にとって保護に値するという言い方がかなり前面に出ていた。プライバシーがいかにデモクラシーに必要であるかという議論をもう少しきちんとする必要があると、最近思うことがあります。

ビラまきまで規制するプライバシー権ってどうよ

最近は何でもプライバシーで、ビラまきまでそれで規制されちゃうし、何でも個人情報ということになってしまう。それは何故なんだろうとぼくは考える。たしかに自分に関する情報がばらまかれてダイレクトメールが来たり、マンションの集合ポストにチラシが大量に入っていたりすると迷惑ですよ。でもそれだけの理由でいったいプライバシーが侵害されたとまでいえるでしょうか。社会にとって必要であったり、単なる小さな好奇心っていってもいいし、そういうものは日常的について回ってることなので、そこに名前がのっかったっていうことがどれだけ苦痛なのでしょう。それは、その人の尊厳をどれだけ傷つけるのでしょうか。ぼくは、世の中っていうのは人間同士のある程度の接触を前提に成立していると思います。もちろん、この情報で邪魔されそうだとか実際に邪魔されたとかいう、煮詰められた状況にある場合には、その侵害に対応してなんらかの効果的な抗議なり反撃なりすることができる余地があると思います。そういう手段で防ぎ止められないプライバシー侵害というものは、あるいはそれで自分が被らなきゃいけない不利益というのは、ぼくはそんなにないと思います。

拘束の法的根拠を問わない私小説世界

大岡昇平埴谷雄高の対談[で埴谷が](略)特高に寝込みを襲われた話をすると、大岡はすぐにそれが治安維持法の「予防拘禁」だと分かる。埴谷自身はそういうことを一切気にしていない。ぼくの理解ではね、アメリカの市民は一般に、大岡昇平的だと思うんですよ。彼らには権利意識ってのがあって、自分が拘束されるとすれば、その根拠は何かを問う、制度的なものの考え方があると思う。でも、日本文学では、埴谷のほうが普通で、大岡さんは例外的な存在なのではないか。国家権力の法的枠組とかに、あまりにも関心がなさ過ぎたのではないか。
(略)
予防拘禁で捕まえられたのか、令状逮捕で捕まえられたのか、私小説ではどうでもいいんだよね。法的根拠はともあれ、「突然、捕まえられた」ということが問題なんだから、私小説の世界では。
(略)
日本の人たちは、権力が出てきてね、しかも軍事的権力が出てきてね、自分をふん捕まえたら、もう法的根拠なんて考えない。本当に「ならず者国家」的に考えるわけ。だから、「どんな法的根拠に基づいて、ぼくを捕まえるのか?」という話にはならない。

出入りの海軍士官からの情報で終戦を知った父は朝鮮人暴動を恐れ明日は休めと著者に。それでも翌日勤労奉仕に出た著者はつい親友に

「戦争に負けたっていう天皇のお話だよ」みたいなことを言ったら、そいつ突然立ち上がってね、ぼくを殴りはしなかったけど、殴らんばかりの勢いで怒っちゃってね。「お前みたいな奴がいるから戦争に負けるんだ」って、すごい剣幕でしたよ。それが早坂茂三なんだ。あの田中角栄の元秘書で政治評論家の。非常に仲良かったんだ、彼とは。