敬虔者たちと「自意識」の覚醒

退廃した宗教家より信心深いのか、社会の落伍者の「オーラ」もどき選民思想なのか、なんだかんだで返却期限に迫られて激しく飛ばし読み。

マーセル・モースは

1938年、現代人があたりまえだと考えているような〈私〉とは、歴史的にみて比較的新しい概念だと論じた。中世の人間の人格は身分と職業を絶えず身にまとっており、この中世的人格が初期近代にゆっくりと変容をとげ、十八世紀の啓蒙主義の時代に「純粋な主体としての私」というカテゴリーが普遍的となる、という。モースはこの私概念の形成に重要な役割を果たしたのが、十七、十八世紀の新宗教運動だったと述べており、そのひとつとしてドイツ・ピエティスムスを挙げている。

『ピア・デジデリア』(1675)

フィリップ・ヤコブ・シュペーナーを執筆へと駆り立てたのは、時代状況への憂慮だった。(略)
[三十年戦争後の荒廃、凶作、ペスト、そして教会の退廃]
ほとんどの牧師たちは、「立身出世、制度変革、あるいは他人に教えをたれること」に邁進するのみで、再生者としての徴をもっていない。(略)神学教授たちはというと、学問論争に明け暮れ、信仰の実践など気にもかけない。(略)人びとは互いに助け合うどころか、機をぬすんでは他人を策略をもって「押さえつけ、貪ろうとし」、裁判で争っている。商業、手工業の世界でもキリスト教の規範はまったく顧慮されていない。それどころか逆に自己の利益を追求することが、才気であり深慮遠謀であると褒めそやされてすらいるのである、と。
このようにキリスト教規範が実践されていないその原因は、ルター派の信仰義認説にある、とシュペーナーは考える。(略)この教説ゆえに人びとが「信仰実践・善行」を軽視するようになった(略)すなわち実践をともなわない信仰というものがありうるといった考えが一般に広まっていることにある。信仰とは人間の「考え」なのではなく「神の業」であり、人間の行状を実際に変えるものであるはずだ。(略)
神の言葉が心の底にまで沁みいり、実行に移されるまでにならなければならない

聖餐式をめぐる見解の相違

[セイビアンの研究]によるならば、聖餐式とは共同体内に敵意がないことを示す象徴的儀式であり、したがって聖餐式に参列する不可欠な条件とは他の共同体員と友好的な関係にあるということだった。もしある人物が誰かと抗争状態にあるならば、その人と和解してからでないと聖餐式には参加できなかった(略)すなわち伝統的な聖餐式理解においては〈人間関係のあり方〉が最も重要な役割を占めていた。
これに対してピエティストたちは〈個人の状態〉を問題視した。彼らの観念によれば、聖餐式参加の基本的条件は参列者が個人として「悔い改める気持ちがある」ということだった。(略)
聖餐式に参加する権利はこの時代、ある都市の合法的な成員であること、と関わっていたのである。それ故「真のキリスト者のみが主の聖餐に与かることが許される」というピエティストたちの主張は当時の人びとにとって耳慣れないものであり、これが拒絶反応をひきおこしたのは当然のことと言えよう。(略)
当時の人びとに奇異の念を抱かせたピエティスト理念の新しさはもうひとつある。それは「真の悔い改め」はある一定の行状と結びつくはずだ、という確信である。(略)
この「生活改善」(略)トランプ遊び、飲酒、ダンス、賭けごと、その他の社交行為---を止めることであったことは疑いの余地がない。

隣人を見下す「キリスト者の完全」

ピエティストたちの非難する「故意の罪」がすべてとり止められたら、人びとの交わりの生活はほとんど不可能になってしまうのは明らかだ。(略)
彼らの言葉の中には、前述した諸娯楽から身をひくのがつらい、という気分は読み取れない。むしろ反対である。ピエティストたちはこれら在来の娯楽を、たんなる時間と金の浪費としてしか見ていない。彼らがこうした娯楽行為を楽しいとは感じていなかったことは、疑いようもない。とするならばピエティストとは多くの場合、地縁共同体にそれほど所属意識をもっていない人間だった、と推定される。(略)
自分の隣人を優越し、より優れた者に、彼らの言葉で言うならば「キリスト者の完全」に到達したいと願っていたのだった。

俗流解釈による「完全への衝動」

テンツェルが学者の発言と違う点は、神学の一般命題としての再生理念に賛同を表明しただけでなく、「自分こそは罪のない再生者だ」と自己主張したところにあり、自分は「肉と湧きおこる欲情を抑えるのに成功した」とテンツェルは誇った。(略)
「再生者は罪を回避することができる」と言う代わりに、「再生者は罪をおかすことなどできない」と主張し、さらに「罪を犯す者は悪魔の手先である」と、ピエティスムス運動に属さないものへの攻撃を付け加える。この発言の場に居合わせた客のひとりが「人間は弱い存在であり、だから罪は生ずるのである」と反論すると、ズルツベァガーは「キリストが全能であり、再生者を罪から守る力があるということを、信じていないのか」と反駁し、そのようなことを言う者は「キリストを半分しか信じない者だ」と言い返したという。(略)
俗人たちは、神学者が複雑に論考し慎重に表現してきた教説を、自分の理解した範囲で、単純化し自分の言葉で表現した。このプロセスで神学指導者の理念は修正され、と同時に急進的なものになっていった。

他人より優越したいだけ。

こっちは再生してるんだから奴等に説教される筋合いはないと宗教下克上。

これに対しヴァイデンハインは、同じ他者との比較とはいえ、むしろ「ピエティストは他の人より優越している」と強調することに関心を向けているのである。言い替えれば、彼がより高度の完全をめざす動機となっているのは、他人より優越したいがためなのである。ここに「キリスト者の完全」理念は神学領域を超え出でて、新たな社会的意味あいを帯びるに至った。(略)
「これまでの社会規範を担う者たちは、信心深い者にとってもはや行動を律する権威はもたない、なぜなら彼らは再生を体験していないのだから」という発想である。

再生した下女は高地位の法律家に対し

ほんの二言三言ではあるが、この幻には神の前では自分は学位をもつ都市の有力者と同等だという自意識が、そして彼の社会的地位を誇示する服装にたいする批判的なまなざしが感じとれる。もちろん彼女は「現世において同等だ」と明言したわけではない。彼女はただ〈心の中の風景〉を語っているだけで、自分の意見として言っているのではない。おそらくそれを口にするほど大胆ではなかったのかもしれないし、あるいは自分自身でも意識してはいなかったのかもしれない。下女アンナ・マリアは(略)再生者として、神と直接の交わりをもつ主体として、人びとを評価する側に立つ。

小間物屋の娘・アンナのお告げは笙野頼子風味

「記せ、記せ、記せ、この言葉を。彼は、彼は、彼は、彼は、彼は、彼は、彼は、彼は、再び、再びやって来る。今や彼は来ている。鐘が打ち鳴らされている。彼は再びやって来る、今や彼はやって来た。主の怒りはおまえの上に、おまえの上にある。剣は、剣は抜かれた。私は、私は主である。私は主である。私は主である。その私をおまえが冒瀆したのだ。(中略)お前、反キリストの畜生、おまえは誰を剌したと思っているのか。私はおまえをひき潰す。私、主は、お前をひき潰す。(中略)私はおまえを地獄の底に突き落とす。(中略)おまえに、おまえに、私の魂は復讐する。(中略)私の怒りはおまえを、おまえを、おまえを、おまえを、おまえを、小さく、小さくする」

「否、否、否、否、否、否、否、私に語らせよ、私はそれを望まない、望まない、望まない、いかに彼は私の座で、座で、食べたか、いかに呪われた異邦人が彼を崇拝したか。否、否、否、否、否、否、私はおまえの言うことが聞こえない、聞こえない。杖は折れた、折れた、私の怒りは燃えている、彼らの上に燃えている」

自己の内なる「良心」

ピエティストたちはこれまで、自分の行動を導くのは人間ではなく、神のみであると主張してきた。自分が何を語るべきか、どう行動すべきかは、神が超自然的な形で直接に啓示すると信じてきた。この「神の声」に依拠し、彼らは神意を知る者として聖俗当局に対峙したのであった。1692の選帝侯勅令は、こうした形態の自己主張の禁止を意味した。(略)
それでは、ホッホマンはどのように「神の意思」を知ったと主張したのだろうか。何をもって自分の行為が神意によるものであることを証明しようとしたのだろうか。ここでホッホマンは「神の啓示」に代わる表現を探り当てた。それが「良心」という言葉だった。彼はこう証言する、自分の行為が神意に適っているということは「内面的良心の確信という以外には証明できません」と。さらにかさねて、自分は市参事会の命令に従う用意はあるが、それは当局に自分の行動に指図する権限があると信ずるからでは決してなく、ひとえに自分の「良心」に従ってそうするにすぎない、と強調した。(略)
ホッホマンは〈神〉に代えて〈良心〉こそが自分を支えるものだと発言している。彼にとって、自らの〈良心〉が誰からも侵されることのない至高の行動原理となったのだった。ここに自己の行動指針は外的な超自然現象ではなく、心の中へと内面化されたことが見て取れる。

〈私〉の発見

〈ピエティスムス第二の波〉がその頂点に達したとき、敬虔者たちは「神の声を聞いた」と語るようになった。これは個の宗教生活を志向するピエティスムス運動が培ってきた〈自己〉のひとつの表現形態だった。〈ピエティスムス第二の波〉は敬虔実践を主張することによって個々人の生き方を問い、そのことによって運動関係者を自らの〈自己〉に注目するよう誘ったのである。人びとが「神を見、神の声を聞く」ようになるのはその結果であった。しかし「神の啓示」として示される限り、それはまだ〈自己〉としては見出されていなかった。例えばアンナ・マリア・シュハートが「娘よあなたの罪は赦された」という神の声を聞いたと語るとき、それは現代人の目から見ると、「あなた方人間から罪を赦してもらう必要を私は認めない」という彼女の自己主張に他ならない。しかし彼女自身としては、自分は神の言葉を聞いたと信じているのであり、決して自己主張のための口実ではなかった。彼女は、自分の自己を「神の声として感じた」のであって、自分自身としては認知していない。彼女がピエティスムス運動に関わる中で育ててきた〈自己〉は彼女にとっては未だ〈他者〉なのであった。
これに対しホッホマンは、政治的圧力によって「神の啓示」以外のところに「自分の行動を律するもの」を求めざるを得なくなった。この意味で、〈良心〉という言葉は必要に迫られての代替概念であったと言える。いわばやむを得ず、この言葉にたどりついたのである。すでに述べたとおり幻視・幻聴は自己主張の表現形態であった、それゆえに選帝侯はこれを非としたのであった。しかしホッホマンの例をみるならば、このような形態での自己展開が当局によって抑圧されたまさにそのことによって、逆説的にも〈私〉発見への一歩が踏み出されることになったのである。(略)
十八世紀以降形成されてくる〈私〉意識のなかで、〈良心〉が自立した個人の行動を正当化する中心的概念となることに関しては、これまでの研究の指摘するところである。この〈良心〉という言葉が、啓蒙主義に少しさきだつ十七世紀末というこの時代に、それとは直接に関わるとは思えないような状況から、すなわち神の直接啓示を信ずることの禁止という文脈のなかから、姿をあらわしてきたことは、注目に値する出来事だと言えるだろう。