自己決定権の隘路

他者性の時代―モダニズムの彼方へ (SEKAISHISO SEMINAR)

他者性の時代―モダニズムの彼方へ (SEKAISHISO SEMINAR)

上記本に収録
『「生命倫理」入門』五十嵐沙千子
相対主義

誰にでも、自分の人生・身体・生命をどうするか、自分で決める権利がある、と。これを「自己決定権」という。それぞれの信じること、やりたいことをやるのが善だ、というのである。ひと(他者)はひと、自分は自分、お互いに干渉せずに、である。(略)
これは一見、非常に美しい考え方だ。
この、自分の人生は自分で選ぶという「自己決定権」の思想が、「あなたがせっかく決めたこと」は尊重「しなければならない」という規範を伴っていることは明らかだ。「口出しをすること」は野暮だし、過保護で、傍迷惑で、とにかくかっこわるいし、とにかく「わかってない!!」ことで、とにかく「悪」なのだ。「わかってる人」はそういうことはしない。黙っていなければならない。つまり、「自己決定権」の考え方と、「人が自分で決めたことには周りの人は干渉をしてはならない」という規範とはワンセットなのである。
これを「相対主義」という。

どうしてこういうことになったのか

それは、現代がポストモダンの社会だからだ。(略)
誰でも、いつでも、「こうしなければならない」、「すべて人間はこうすべきだ」という「人の道」がはっきり決まっていれば、人間のやるべきこと、やってよいことも決まる。そこでは倫理や道徳は明白である。誰でも、自分がどうのこうのと言う余地はない。「私は」こうしたいのよ、などというのは単なるわがままである。

それで出てきたのが、自己決定権の思想だ。

つまり、人の生き方を決める権利があるのは、他の誰か、たとえば何か大きな絶対者ではない。だとすれば、自分だ、というのである。自分だけが自分の人生を決められる、というのである。誰か、それに対して「正当に」口を出せる人がいるというのか。いったい「何」に依拠して? すべての根拠がもはや疑わしくなってしまったというのに? (略)
[こうして自己決定権と相対主義の二本立て]が、われわれの現代社会の基本的理念になった。そして、このわれわれの時代の思想が「生命倫理」の問題の背景になっている、というのは確かだ。

みんなが持てるはずの幸せが自分にだけないのは不幸だ!

そもそも、この自己決定の現場において、決めたのは本当に「自己」だといえるのか。現代の自己決定論が前提する「主体」とは、近代が想定した、固有の「私」、独立した「主体(主観)」としての「自己」のはずであった。こうした「自己」が、自由な固有の意識や価値に基づいて、自己の人生を設計し、自己の目的を思考して行為を選択する、というのが、「近代的自己」の考え方である。
だったら、誰もが、「自分の考え」や「自分の価値観」に基づいた「自分の幸せ」を追求する、はずだろう。(略)
それなのに、むしろ現実の自己決定の場面から明らかになってくるのは、たとえば、代理出産の選択にも見られるように、「みんなが(誰もが)持てるはずの幸せ」が自分にだけないのは不幸だ! とする考えなのだ!

それは、いったいなぜだろう。

「自己決定」といっても、それは、他者から承認されるということと引き替えに「選ばされている」行為であるにすぎない。「幸せになること」は、「人並みになること」だったのだ。「決定する」は、実は「決定させられている」ことなのだ。言葉を換えていえば、「私」の中の「私たち」、「私」の中に住んでいる「他者」が決定したのだ。「みんな」やるから「私」もやるのだ。

にもかかわらず、現代の信仰ともいえる相対主義は、「他者と切り離された主体」を想定することで、主体のこうした被投性を棚上げしてしまっているのである。
自己決定権の隘路はここにある。
ポストモダンが要求する相対主義は、何らかの「主体」の存在を想定しているのだが、その「主体」は、実は、とっくの昔にポストモダンが廃棄したはずの近代的主体にほかならない。しかも、ポストモダン相対主義それ自体が、むしろ、このことを隠蔽するシステムになってしまい、近代的主体概念が内包していた独我論的構造を見えなくしてしまっているのである。