「君のいた永遠」801式

君のいた永遠(とき) (角川文庫)

1999年の香港映画「君のいた永遠」を観た。
https://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD31763/story.html
めんどくさくても、上記サイトのあらすじを読んでくれ。今更だがネタバレとかそんなこと知りません。
念のため短縮すると、親友と一人の男を取り合う展開から、恋愛成就、破局、失意の主人公。親友のレズ愛告白、拒否、なぜか親友が元カレと結婚。元カレと再会、合体、元カレと親友離婚、なんだかんだ。結局結婚することのなかった二人の愛は・・・という話。
シューヤウ(ジジ・リョン)*1=若き日の女性監督*2らしき主人公
チャンリー(カレン・モク)=レズの親友
ホークァイ(金城武)=恋人

君のいた永遠(とき) デラックス版 [DVD]

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  • これはレズ映画なのか?

まず引っ掛かったのが冒頭で「シンプルな恋愛映画を撮ってみたかった」と言っておきながら、こういう筋になるかあ?親友と一人の男を取り合って、男を追いかけて日本まで行った「結婚する女」と、親と仕事をとった「結婚しない女」という話なら実にシンプルだけど。親友がレズ告白するから話がややこしくなるのである。
これまた冒頭の「恋愛の定義はむずかしい」てなモノローグからして微妙。金城のパッとしない設定から見ても、主人公は親友のレズ愛を拒否したことの方を後悔しているように思えてならない。するとこれは金城迷彩のレズ映画なのか?だって最初に男と再会した時はあんなにバコバコやったくせに、親友&タチのレズカップルに遭遇後はタチ女に対抗するように主人公は髪を短くして、結婚を申し込みにきた金城を拒否している。女性監督と脚本家との会話でも「運命に逆らって望みを果たそうとするのは愚かだ」「ホークァンの生き方がいやだから」 てなフレーズが出てきたどうにも異性愛への嫌悪感が漂っております。

  • なぜフィクションと現実を交錯させるのか?

ところがさらなる疑問が。わざわざ女性監督がつくっている映画として劇中劇のように描く理由はなにか(監督のシルヴィア・チャンが女優だから商業上の理由なのか?)。シューヤウが自分の青春時代を回想するのではまずいのか。女性監督と男性脚本家との会話が必要だったのか。
わざとらしく「何故シューヤウも女性監督じゃないの」と質問させて、「モデルが全部バレると深みがなくなる」と答えているのだが、どうもあやしい。そんなこと言う割にはくどいくらいに映画とまったく同じに女性監督の現実場面も描いているのだ。わざわざ自分の現実がこの映画のストーリーと同じであると宣言しているのは、実はそうじゃないからではないのか。この女性監督は自分の立場がシューヤウであったと思わせたがっている。
女性監督が脚本家の参考にしようとホークァイの写真を探すけれど見つからず、サエナイ旦那が「もう寝ろよ」と顔を出す場面。実に怪しい。なぜお前は男の写真を持っていない。「永遠の愛」てな展開ならフツウ相手の写真は持ってるだろう。
実は女性監督が親友にレズ告白して拒否されたのではなかろうか。そして妄想する。私を拒否したアノ親友が今頃そのことを後悔していたとしたら。後悔してくれていないだろうか。いや後悔させてやるわ。だから女性監督はきっと好きだった女友達の写真は持っているはずだ。
とまあ、801妄想全開でお送りしてみました。だってさ、若き日の二人が寄り添うラストシーンの不気味な色彩からして、異性愛への違和感丸出しのようですからあ、切腹。別に人の性的嗜好を推察して楽しむ気はないのだが、なんとなく「あー、同性愛で色々不便して損だわー」という気配が漂っていたので、そんなことないですよー、ボクみたいにマジョリティな嗜好だけど淋しく一人で土曜の夜にこんなことを書いている人もいるわけですから、と書いてみたくなったわけです。

  • 謎のシーン

金城が演奏していて、女二人、彼はどっちを見てるという話になり、主人公はどきどきしながら親友から離れ、男がこっちを見るのを待つのだが、見ない。がっかりしてまた親友と並ぶと男は顔を上げて二人を見る。ニンマリする親友。
それはねー、女二人が中国と香港なのだよーと解釈したりしませんよ。女二人が一緒な事を承認する男の視線にニンマリするレズの親友。うーん、やっぱり男は存在してねー。文章の長さが処理能力を超えたのでこれで死ぬ。

*1:個人的にはピンとこない森尾由美草野満代の間に位置する顔だけど、何故かカワイイ

*2:これはボク同様頭の悪い人のために女性とつけているわけで、「女流文学」的糾弾をされても困るのである。