現代日本の詩歌

現代日本の詩歌

現代日本の詩歌

新聞連載という性格上あまり取り上げてこなかった人にふれてるし、字数が限られているせいかザクザクと切ってます。
例えば塚本邦雄ならこんなかんじ。

形式的な破調と、内容的には同性愛的傾向を持ち込んだ(略)

  • 割礼の前夜、霧ふる無花果樹の杜*1で少年同士ほほよせ

戦後の多少とも政治的な色彩をもった運動の、当事者にも気付かれていない腐臭への批判(略)

  • 平和祭 去年*2もこの刻牛乳の腐敗舌もてたしかめしこと

あと適当に面白かった人を。吉増剛造。ラップというかラーメンズのシンバシというか。

岩バシル
影ハシル、このトーキョー
精神はしる
走る!悲鳴の系統図

高橋源一郎の世代だとまだ教養にとらわれるというか「ポップぶりっこ」感がにじんでしまうのが、ばなな世代になると無理がなくなるというより、もとからサブカル坪内祐三が福田に対して根っこが見えないと不信感を表明していた*3のも同様なことだ。そういう世代の一人である俵万智の日常的なところでしか表現しない短歌について吉本が語るとこうなる。

 この短歌でも、自分が県立高校の先生であることに関して、作者の価値観は何も示されていない。それが職業として高いとも低いとも自分は思っていないということが、単に事実そのままとしか見えない歌に表されている。
 この歌人の才能が並々ならぬものと思えるのはこういう点で、普通なら、こういうことが何の考えもなくひとりでにできているとすれば、日常を描いた部分が、話芸でいう「ボケ」でやっているように感じ取れるはずだ。
 ところが、俵さんはとても明晰な歌人で、「ボケる」ようなことができる人ではない。意図的に「ボケ」や「ツッコミ」を演じているわけではなく、ごく自然体だというよりほかはない。これを意識してやっているとすれば、相当よく考えていなければできないはずだが、実際には、それほど考えてやっているとは思えない。天性らしくも見えない、そうした隠された才能が、この歌人の表現を裏打ちしているのだと思える。

そのむかし山口瞳が俵との対談でサラダ短歌ぶりっこに騙されすっかり油断して、「心にフェミ茨を持つ少女」俵に向かって「まあ女は結婚しちゃえばなんとかなるから」とか発言しててなかなか恐ろしかったですが、さすがに吉本は慎重です。

では、この歌人の本心はどこにあるのかというと、なかなか結論を出すのは難しい。作品からは、自然に、普通の息遣いをしているとしか感じられないのだが、本当にそうなのかという疑問は完全には消えないからだ。読む人によっては、意図的に自分を、そういう女性の立場に置いていると取る場合もあるだろうが、仮にそうだとしても、それはかなり身に着いた意識の仕方だと思われる。

折口信夫の弟子で高名な文学者でもあった父に対する角川春樹の反抗心と情愛の歌。

かなかなや蝋涙*4父の貌に似る

*1:いちじくのもり

*2:こぞ

*3:以前は

*4:ろうるい。蝋は本当はもっと難しい漢字。