週刊文春のオシム説法

別にサッカーファンでもないのでアレですが、少し前の週刊文春から。
サッカーの話なのにそれを超えてしまう、オシムの言葉の重みはなんなのだろう。まあ「本音でドウコウ」とかジャクチョーetcに言われたらムカツクと思うのですが、なんかオシムが口にすると心洗われる思いが。

日本人は他者に対して、もっと敬意を払うべきだと思った。たしかに日本人は礼儀正しく、他人を尊重している。だがちょっと違うと感じた。必要なのは、他人と面と向かったときの繊細さだ(略)
君たちはとても礼儀正しいし、きちんとしている。しかし礼儀正しくあることと、他人に敬意を払うのは別だ。サッカーの世界でも、たとえば10月に親善試合で対戦したガーナに対し、本当に敬意を払っていたのか。(略)
誤解しないでほしい。別に批判しているわけではない。私は単に日本人の礼儀正しさを語っているだけで、それは君たちの生活様式であり素晴らしさだと思っている。ただ私の印象はたぶん間違っているのだろうが、そうした礼儀正しさの背後に、何かが隠されているようにしばしば見える。それを見極めない限り、ほんとうの会話は成り立たない。言葉の後ろで、実は別のことを考えている。隠すのではなく、率直にすべてを語るほうが、生きやすいし理解もされやすいのに……(略)
サッカーは、いつの日か誰かと対戦しなくてはならない。そこで露になるのは、11人対11人の、人間同士が向かい合ったとき明らかになる真実だ(略)
 --日本は地理的に隔離されているから、交流も簡単ではなく生の情報も伝わりにくいです。
それも言い訳のひとつだ。離れていることの恩恵も十分に受けているだろう。孤立しているのは、ものごとを深く考える場所と時間があることを意味する。そうした孤立は利点だ。
(略)
 --話は面白いですが、これだけあけすけに語って大丈夫ですか?
 デリケートな話題だが、別に語ることを恐れてはいない。ときに思うことを語らねばならないし、耳の痛いことも聞かずに進歩はありえない。少なくとも私は、真実は話すべきだと思っている。たとえ他人が認めなくとも、まず自分自身と向き合って正しいことをする。そうすれば他人に対しても正しくなれる。夢を見るのは常に楽しいが、ずっと見続けていられるわけではないからね

[余談]これまたサッカーファンでもないのになんですが、トムに誘われてアメリカで「菜園トロジー」か?のベッカムについて、リネカーが(多分に日本人のインタビューに)こう答えてた。

半分引退だね。
僕が日本でプレーした時みたいに稼げるよ。

「おつかれちゃ〜ん!」
(byインスタントジョンソン

健康の社会史

オシム・インタビューだけではなんなので、基本的にスルー本*1から一箇所。

健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ

健康の社会史―養生、衛生から健康増進へ

16歳の少年であった田山花袋の脳裏に焼き付けられたコレラの恐怖は、「黄い紙」「立番の巡査」「避病院に送られる吊台」といった図像とともに記憶のなかから蘇っている

患者が発生した家の門戸に貼付を義務づけた「コレラ病あり」の病名票のほうは、印しづけられることによって受ける冷ややかな近隣の人たちの視線や巡査による生活内部への監視を嫌って、患者の隠蔽に走る者が出たため、(略)[実施を見合わせ]
代わりに頻用されることになった交通遮断法は人びとの日常生活に大きな支障をもたらすことになった。
なぜなら、交通遮断ともなれば10日から一か月ほど、地域は閉鎖されることになる。(略)遮断区域の門口には詰め所が設けられ、昼夜交替で巡査が立番をし、日常品の受け渡しや面会人の監視がなされる。

上記本収録図。
農村保護ポスター
(『赤十字博物館報』日本民族優生号
昭和15年4月)

青春の危機
都会
あこがれの夢
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青年を蝕む都会生活
農村を毒する
帰郷青年男女

*1:うーん、失礼な表現だ