じゃじゃ馬娘、ジョニ・ミッチェル伝  その3

前回の続き。

 

 

『逃避行』

コカインできめたジョニは(略)ロベン・フォードに電話をかけた。「ねえ、ロベン。近々ボルダーに行くんだけど」と彼女。「いいね、うちに寄ってけよ」(略)

彼の手元には彼女が喜びそうなものがあった。(略)[ジャコパスの]デビュー・アルバムのアドバンスコピーだ。

(略)

[ロベンはジョニに〈ポートレート・オブ・トレイシー〉を聴かせた]

 ジョニは、彼が出す音はまるで自分が夢で築きあげた音だった、と語っている。自分のソプラノ音域まで出せるアプローチを持つベース奏者を、彼女はずっと探していたのだ。(略)

パストリアスの音からは自分と同じ魂を聞きとった。

(略)

その男がマイアミでボブ・ホープやフィリス・ディラーの仕事をしていると知ったジョニは思った。次にスタジオに入る時は、彼をそこから連れ出さなければ。

(略)

それからの数ヶ月(略)

ツアーを逃げ出しておきながら、彼女はさらに逃げ続けた。コカインがエネルギーと自信の源になり、曲の推進力になることもあった。中でも顕著だったのはヴァースが繰り返され、増殖するだけの〈シャロンへの歌〉だ。サビもブリッジもなく、あるのは10のヴァースのみ。(略)彼女のウキウキとした話し言葉の歌詞はコカインの産物だ。次々と連想が膨らむ〈ドンファンのじゃじゃ馬娘〉もそうだし、お喋りな〈トーク・トゥ・ミー〉もそう。(略)

その後、ジョニは何度か、自分の心を壊したコカインこそが、ポップミュージック最大の悪の要因だと発言している。このコカインの時代が、この時期の彼女の作品の本質の一つだったことは間違いない。

(略)

ディープサウスをめぐり、砂漠を旅した。そして家に戻る頃、『逃避行』はあとはレコーディングされるだけになっていた。

(略)

[ツアーでジョニと衝突したゲイル・フォードが「あなた、調子が良くないわね」と連れて行ったのが、中国のチベット侵略を逃れ亡命していた教祖]

トゥルンパは、トゥルンパ系譜第11代目の化身ラマ"トゥルク"(略)

カリスマ性は尋常ではなかった。(略)

[酒豪で酔って講演、女性の弟子に手を出す]

「最初は彼を見下していたわ。そもそも私を引っ張って行ったのは(ゲイル・フォードという)最低の女だった。でも何かあるのかもと思い、少しだけ彼を見上げ、お世辞を言った。そして彼にお世辞を言うことに翻弄されてしまったの」。(略)

 それはわずか15分の出来事だった。二人は会い、壁は消えた。コカインよりももっとパワフルな何かを前に、ジョニは突然、うやうやしくひざまずいていた。トゥルンパは彼女に呼吸法を教える。発せられる恵みの波。ジョニは"私"を失った。名声とコカインと、彼女の愛情を競い合う、彼女の信奉者であるハンサムな男たちによって培われ、膨れに膨れ上がったエゴが消えていく。

(略)

トゥルンパに助けられ、ジョニにははっきりと物事が見えるようになった。そしてジャコに助けられ、新たなハーモニーの世界を見つけた。このニ人の、目覚めた世捨て人がいたからこそ、『逃避行』と言うエキセントリックかつ刺激的な傑作は生まれたといえる。

(略)

〈シャロンへの歌〉は幼なじみに捧げられた曲だ。

[その中で1ヴァース割かれたのが、76年に自殺したフィリス・メジャー、ジャクソン・ブラウンの妻。]

「(略)フィリスは繊細で、アーティステックで、美しい女性だった。でも男から男へと回されたのよ。(略)美人というのは、王子様が自分を選んでくれると思うので、返って騙されやすいのよ。(略)

[そして]最悪の一人がやって来た。最低最悪のやつ。それまで彼女が経験してきたクソみたいなことはすべて、彼の毒牙にかかるためだったのよ」。のちにジョニは〈ノット・トゥ・ブレイム〉で再びジャクソン・ブラウンを厳しく告発し、フィリスの死を弔っている。

『ラスト・ワルツ』

レヴォン・ヘルム(略)以外のメンバーはカナダ出身だ。(略)ガース・ハドソンは彼女のアルバムを称賛し続けた。「僕らは全員ジョニに恋したよ。彼女の曲には、国境をこっそりと越えてきたカナダ特有の何かがあって、実に注意深く作られていた。あれほど分析的でクリエイティヴなメロディがどうしたら考えつくのだろう?と思ったものさ」(略)

ラスト・ワルツの前、ジョニは初のポリフォニック・シンセサイザーであるヤマハCS80を見せてもらうため、ガースに会いに行っている。(略)

ロバートソンは言う。旅にあるのは、ドラッグと悔やまれるセックスと疲労と疎外感と絶望だけ。(略)「ツアーは多くの偉大な命を奪った。(略)あり得ない生き方だ」(それに対し、解散に反対だったレヴォン・ヘルムの答えは「俺は健康のためにやってるんじゃねえよ!」だった)。

(略)

「ラスト・ワルツでニールとロビーに歌ってくれと言われた時、彼らはハイで音も外れっぱなし。"これでどうやって歌えっていうの?"と思ったわ」(略)

ジョニが〈ヘルプレス〉をカーテン越しに歌ったのは、そのあとの自分の出番で大々的に登場したかったからだとされている。でもジョニの記憶はそれとはちょっと違う。「ステージの裏でやりたいと言ったのは、集中力が必要だったからよ(略)3部ハーモニーで僕らとハモってくれ」と言われたが「そんなの無理だった」と彼女は言う。「だって彼らは音程を外しまくっていたんだもの。ニールは私ができないと言っても、なぜできないのかに気づかず、なんとか歌ってくれと言うばかり。まったく自覚してなかったのよ。CSNもいつも音程が外れてたわ。自分達がどれくらい音を外してるか、ドラッグのせいもあって、気づいてなかったの。ニールは〈ファリー・シングス・ザ・ブルース〉では4本のハーモニカを吹いていた。なんだかすごい冒険的で、とても変わったハーモニカだったわね」

〈パプリカ・プレインズ〉

[77年自宅でピアノに向かうと新鮮な感覚]

これをできる限り早くレコードにしなくては。まずはヘンリー・レヴィーに電話だ。

(略)

「今、病気なんだ」(略)

「私は卵巣膿瘍を克服したばかり。足を引き摺りながら、また生き返ろうとしてるところよ。スタジオに入りましょう」

(略)

2時間に及んだ即興演奏は(略)テープの切り貼りで編集された。

(略)

感性あふれる野性の少女が捉えた原始的で、部族的で、即興的な何かは、バークリー音楽院の教授であり編曲家のマイケル・ギブスによってオーケストラ用にアレンジされ、ジョニは完璧ではなかったが、それをソウルフルな組曲へと作り変えた。

 ギブスを彼女に薦めたのはジャコ・パストリアスだ。

 (略)

レコーディングはかつてのギリシャ正教会で、世界で最も優れたスタジオとして知られるコロムビア・レコードの30thストリート・スタジオで行なわれた。

(略)

 ギブスは曲に魅了されたという。「彼女の荒削りな演奏も魅力の一つだ。目的はピアノのパートに横たわる場所を作ることだった。そのままではあまりにむきだしで、構造的に支えるものがなかったから、ローブを着せるように包み込みたかった。

(略)

[数年前ウィングスのパーティ会場にいたジョニとディラン]

二人は絵画の話をした。[ディランはノーマン・レーベンに絵を習い始めたばかり]

(略)

「週に5日はあそこへ行き、残りの2日はただ絵のことを考えた。8時から4時までいたよ。他のことは何もせず、2ヶ月間そうやって過ごし、自分が大きく変わった。しばらくして家に帰ったが、その日以来、妻は僕が理解できなくなってしまった。その時から僕らの結婚生活は壊れ始めた。僕の話してることも考えていることも彼女は理解できず、僕も言葉ではとても説明できなかったんだ」(略)

[ジョニがこの部屋にあるもので絵にするならどれ?]と尋ねた。

「コーヒーの入ったこのカップを描くよ」。彼が言う。天井を見上げ、ジョニは答えた。「私はあのミラーボールにするわ」たわいないお喋りはやがて歌になる。(略)ディランは〈コーヒーもう一杯〉を書き、ジョニは〈パプリカ・プレインズ〉の最後のパートのこんな歌詞を書いた。

 光を放ちならが回り始めるミラーボール

(略)

 

マイルス

[シーンから姿を消したマイルスは薬でキメてグループセックス。嫉妬深い新恋人ドン・アライアス]だったが、マイルスは神のような存在だ。(略)自分の女を彼の元に届けた。(略)

[テレビ特番出演を願うジョニ]

誰かが100万ドル払うまで姿は現さないと彼は言った。(略)

「私は彼を責められなかったわ。気持ちは完全に理解できたから。彼はコカイン漬けで、自らを死に追いやっていた。(私を部屋まで送ってきた)ドンをマイルスは追い出すと、すぐさま迫ってきた。信じられなかったわ。ドンは嫉妬してたくせに、部屋に残って私を守ってくれなかったのよ。それで私は自分を守るしかなかった。(略)

飛びかかってこられ(略)ソファから思わず飛び上がった。そのままマイルスもソファから転げ落ち、気を失っちゃったのよ。私は足首を掴まれたまま、意識のないマイルスとそこにいた。(略)手をこじ開けて、私の足首から引き剥がしたわ。自動制御でブレーキがかかったみたいに外れなかった。あれには笑えたわ」(略)

マイルスは復帰するも、やはりかつてのようではなかった。偉大な男がそれほど偉大ではなくなっていたことを、ジョニは知る。(略)

「晩年のマイルスは3音吹いたら、うろうろと歩き回っていたわ。というのもバンドが酷くて、なんのひらめきも感じられなかったからよ」(略)

しかし、もう一人のジャズ界の巨人によって、思いもかけない学びの機会が彼女に訪れることになる。

 

ミンガス

ミンガス

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『ミンガス』

 7つの曲に加え、ミンガスは(略)『ミンガス・アー・アム』の2曲に歌詞を書くよう、ジョニに指令を出した。1曲は(略)〈三色の自画像〉(略)

 もう1曲は(略)〈グッドバイ・ポーク・パイ・ハット〉だ。ミンガスは偉大なるテナーサックス奏者レスター・ヤングへの挽歌としてこの曲を書き、そのレスターのクールなスタイルは、ミンガスが嫌ったクールジャズと呼ばれる一派によって模倣された。(略)

最初、ジョニは二の足を踏んだ。

 「ジョン・ヘンドリックスに頼めば?(略)ビバップの作詞家だったら、彼が一番よ」

 「もう頼んだよ(略)聴きたいか?」

 ミンガスはジョニに聴かせ、尋ねた。「どう思う?」「なんてお涙頂戴なのかしら」とジョニは答えた。

「だろ?哀れな黒人の男がどうしたこうした、とそれだけだ」

 こうしてジョニは、10代の頃に憧れた、数少ないヒーローの一人だったヘンドリックスを越える歌詞を書かねばならなくなった。(略)マンハッタン中を歩き回り、インスピレーションを探した。(略)

ミンガスから(略)レスター・ヤングの話は聞いていた。「誰よりもスウィートな男だった」。(略)

最初のヴァースは簡単だったが、あとが続かない。(略)

地下鉄を降りた。「通りに出ると、マンホールから蒸気が上がっていて、2ブロックほど先に黒人の男たちが集まっていた。かぶっている帽子の感じからポン引きだとわかったわ。(略)小さなバーの前で(略)彼らの中心にいたのは9歳とかもっと下だったか、男の子が二人。口ボットみたいな動きの若者のダンスをしてたのよ。円を作っていた男の一人がポンと膝を叩き、言ったの。"間違いなく、これでタップダンスの時代は終わったな!"。その時、顔を上げたら、隣のバーの赤いネオンの"チャーリーズ"という文字が目に入った。突然、すべてがつながったわ。赤い文字、二人の男の子、二つの世代。こうして才能ある子供たちがストリートから生まれ、彼らにとって初めての観客を集めている。それが私にはチャーリー・(ミンガス)とレスターのように思えた。それだけでも十分だったのに(略)その店の看板には大きな大文字で PORK PIE HAT BAR と書かれている。あとは韻を踏めばいい。そうやって最後のヴァースは書けたのよ」

 

 

『シャドウズ・アンド・ライト』

[『ミンガス』プロモのため]

取材を受けるだけでなく、『夏草の誘い』ツアーのドタキャンから3年以上ぶりに、初となる本格的なツアーにも出るつもりだった。(略)ウェザー・リポートをオープニングアクト兼バックバンドに起用すること。それが実現しなかった理由は(略)ジョー・ザヴィヌルの言葉がすべてを物語っている。

「俺たちはクソL・A・エクスプレスじゃねえんだよ」(略)

[音楽監督のジャコが穴をあけ、パット・メセニーが引き継ぐことに]

ジョニがウェイン・ショーターにと熱望した座にはマイケル・ブレッカーが座った(「私は天才がほしかったけれど、そこそこの才能で手を打った」)。ブレッカーは超一流のミュージシャンだったが、ジョニにはジョン・コルトレーンの影響を受け過ぎているように思えたのだ。(略)

リハーサルに復帰したパストリアスはブレッカーを解雇しようとしたが、ジョニが説得し、それを止めた。

(略)

人の陰で働くことに慣れていないミュージシャンたちのフラストレーションは容易に感じ取れた。(略)メセニーは後日、あれほどのミュージシャンを集めておきながら、限られた演奏の機会しか与えないのは、せっかく買ったフェラーリで近所の道しか走らないのと同じだと述べている。

(略)

「私は言葉の人だから、何よりも自分の言葉に責任があるのよ(略)だからバンドとやる時、私はリーダーでなければならない。というか、言葉がリーダーでなければならないの。(略)」

 つまり、バンドはあくまでも彼女のギターであり、声であり、歌の延長だということだ。

(略)

[ジャコ]の問題児っぷりはエスカレートし、手に負えなくなっていた。ジョニも含め、最終的には周囲のほぼ誰もが、彼を見放すことになる。日本滞在中、噴水を真っ裸で駆け抜けたとか、住んでいたアパートの部屋に水を張って人を呼んで泳いだために大家から追い出され、ワシントン・スクエア公園で寝泊まりしていたとか、逸話には事欠かない。

 押しては、突き進み、リスクを負い続けたジョニの10年間が終わりに近づいていた。そして判明したのは、ゲフィンとロバーツが正しかったことだ。アルバム『ミンガス』は売れなかった。70年代以降、彼女のアルバムとしては初めてゴールドに達成しなかった。

(略)

アサイラムをエレクトラに売却し(略)ゲフィンが新レーベルで最初に獲得したのが、ジョニとエルトン・ジョン、そしてジョン・レノンだ。

(略)

「もうあそこには行きたくないわ。どうせ飽きられ、そのあとどうなるか、私にはわかっているから」とジョニは嫌がった。「ジョーン、何言ってるの、僕だよ、デヴィッドだよ。昔みたいにやろうよ」。ゲフィンは言ったという。(略)

「前払金としては大金ではなかったけど、悪い額でもなかった。ところが、私をエレクトラの契約から買い取るために必要な金だからと、約束の額から4分の1を差し引いたのよ。"ジョーン、君だって僕に金を稼がせたいだろ?"とか言ってね。むかついたけど、黙って従ったわ。彼が何をしていたか、よく知らなかったから。実際にはその22万5000ドルを返済するまで、私に入ってくる収入は差し押さえられていたのよ」

「この20年間、印税の小切手を見たことがないわ」とジョニは1996年(略)語っている。「ある時点で、ゲフィンは私の唯一の収入だった音楽出版会社からの作曲家印税の支払いを止めたのよ。つまり私には一銭の収入もなし。デヴィッド・ゲフィンのところに行って、"私を自由にして"と言ったけど、"ジョーン、どこに行ったところで今以上の契約はないよ。僕だったら君をいつまでも置いておく。君を切ることは絶対にしないから"と言われたわ。だから私は"死ぬまで奴隷だなんてまっぴら"と言ったのよ」(略)

つまりはジョニを買い取るため、彼女を利用したのだ。これは業界内ではよくある習慣(略)

出版側の収入の中には、ラジオなどでの公開パフォーマンスから発生する権利が含まれていた。

 (略)

ジョニとドン・アライアスの複雑な4年間の関係にも終わりが訪れた。(略)

「ドン・アライアスは見境なく嫉妬深かった。私も何度か殴られたわ」とジョニは2015年に語っている。「初めて殴られたあと、長いこと会うのをやめていた。すると彼は私の友人たちを使ってアピールしたのよ。それで私は戻ったのだけど、またしてもなんの見境もなく殴られた。私が浮気をしていると勝手に思い込み、話を作り上げた。被害妄想よ。おそらく彼自身がいつもツアー先で浮気をしてたから、自分の非を私に転嫁したんだわ。とてもやさしい人だったけど、コンガ奏者に殴られるのは、しかもそれが顔だったら、誰だって嫌でしょ。彼はとてもたくましい人だったから、あんな手で叩かれたらひとたまりもない。まるで武器。私もかなりひどい目に遭ったわ」(略)

[夫の許可を得て、元カレのジョン・ゲリンと食事に出かけ]

午前4時に帰宅したジョニは張り飛ばされた。

プリンス

プリンスはジョニへの忠誠を誓った一人だ。『夏草の誘い』は単に彼のお気に入りのアルバムだっただけでなく、「1枚通してすべてが好きだった最後のアルバム」だった。この賞賛をジョニは大いに喜んだものの、音楽を聴いても、自分が与えた影響を聴きとるのはむずかしかった。(略)

自分が見た中で最も優れたパフォーマー(略)スライ・ストーンと、もしかすると彼女自身のハイブリッドがプリンスなのかもしれない(略)

プリンスはジョニに歌ってほしいと〈エモーショナル・パンプ〉という曲を書いた。"あなたは気持ちを上げるポンプ/私の体をジャンプさせる"と歌うサビは、どこからどう聴いてもプリンスだ。これをジョニが歌えるわけがない。エリオット・ロバーツに代わってジョニのマネージャーとなり、新たなクライアントに金を稼がせたい一心だったピーター・アッシャーは、プリンスがジョニに助言するのを聞いたという。「どうすればヒットを出せるか、プリンスがジョニに話してたんだ(略)

なぜあなたのシングルがヒットしないのか、僕には理解できないという会話をしていた。何をすべきか、どうすれば曲が売れるか、彼は教えていたんだよ。でも彼女は彼の言ってることにまったく興味を示さず、耳を貸さなかった。

 それでも、二人の友情は続いた。(略)

[ウェンディ・メルヴォイン談]

「私の20歳の誕生日(略)プリンスがジョニ・ミッチェルと一緒に戻ってきて、隣に座らせたのよ。彼女が描いたリトグラフを3枚プレゼントされたわ。それは私にとって最も感慨深い瞬間の一つ。プリンスがジョニのファンだったように、リサと私も大ファンだったから、彼女に会えたのは本当にうれしかった。(略)

"今からマリブのジョニの家に行って夕飯にしよう"と言われたこともあった。(略)『ブルー』を聴きながら彼女の家に向かったの。到着してドアを開けると、ジョニがあの美しい声で、猫の名前を呼んでたわ、プスプスって。(略)

[プリンスがピアノで〈ア・ケイス・オブ・ユー〉を弾くと]

ジョニが"まあ、素敵な曲ね。それはなんていう曲なの?"と聞いたのよ。全員で叫んだわ。"あなたの曲よ!"

ラリー・クライン

[ジャコに代わり起用されたラリー・クライン。82年、ジョニは13歳下の彼と仏式結婚。スタジオワークもできると主張した夫を、次作で共同プロデューサーに]

[ラリー・クライン談]

「(略)24歳の僕には、それまで会ったことのないタイプの女性だった。というか彼女みたいな女性は地球上にいない。(略)仕事でも私生活でも、彼女を通して僕は多くのことを学んだ。(略)

彼女の性格の一部である怒りとかナルシスティックな要素、その種子は常にそこにあったのだろうけど、彼女のそういった側面が大きくなり、かわりに好奇心や喜びという一面が後退していったのは、どちらも徐々にだったんだと思う(略)

初めて会った頃の彼女はものすごく刺激的で賢くて、言うまでもなく才能があって、愉快で、素晴らしい女性だった。ぞっこんになったよ。人生で、彼女ほど直感的な知性を持つ女性を知らなかったんだ。

(略)

一緒に仕事をし始めた頃から、彼女は1日4箱の煙草を吸っていた。(略)ジョニの言葉通りなら、彼女は9歳の頃から煙草を吸っていた。そこまで喉を酷使したら、やがて声質にも、ヴィブラートの幅にも、音域にも、イントネーションにも悪影響が出ないわけがない。(略)

彼女は何度も禁煙しようとしたよ。でも結局うまくいかなかったんだ。一度は真剣にやめようと、ニコチンの離脱症状を起こさせる注射を打った。当然ながら、最初の数日は最も強い禁断症状に襲われる。(略)周りの誰にでも当たり散らし、敵意剥き出しになるとわかったんだ。しまいには"ほら、もう頼むから吸ってくれ!"と言うしかなかった。(略)

最終的に僕はわかったんだ。すごく深いレベルで、彼女は煙草を吸わないで生きるよりは死んだ方がいいんだろうってね」

『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』

〈チャイニーズ・カフェ〉(略)ジョニは長いこと帰っていないサスカトゥーンに戻る道を思い浮かべながら、その頃には18歳になっていた娘ケリー・デールに手を差し出す。(略)

"あなたの子供たちはまっすぐに育っているけれど/私の子供は赤の他人/私は彼女を産んだ/でも育てることができなかった"。こうして、事実は世間に晒された。

(略)

ジョニの秘密、ジョニの痛み(略)あきらめたものすべてに一歩僕らが踏み込むにつれ、曲は"チャイニーズ・カフェで10セント硬貨に夢を託した"、青春の思い出へと移り変わっていく。

(略)

 ジョニは『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』のため、1982年2月28日の東京から7月30日のコロラド州レッドロックスまで続く、ソロアーティストとして最後の長期ツアーに臨む。(略)

新たに加わったギタリスト、マイケル・ランドウがかき鳴らすのは、ラリー・カールトン、ロベン・フォード、パット・メセニーの繊細な音色とは対照的な、いかにもアリーナ会場に映えそうなロックンロールギター。

(略)

3日歌って、休めるのはたった1日。昼と夜が逆転する生活の中、移動のフライトやサウンドチェックのために早起きをすることもざらで、睡眠不足は続いた。

(略)

そんな苦労をしても、残るお金はほとんどゼロ。バンドとスタッフの給料を差し引くと、手元には何も残らなかった。

(略)

[クライン談]

「当時のジョニのお金に対する考え方は実に甘かった。それは僕も同罪だった。彼女がエリオット・ロバーツに"このツアーで私はいくら儲かるの?"と聞いたことは一度もない。当然、エリオットは総収入から、自分の分け前を取るから、いくら儲けようと赤字を出そうとあまり気にしてない。マネージャーは皆そういうもんだ。

(略)」

 ジョニには自分の生活水準を下げることはできず、羽振りのいい暮らしを続けていたが、お金の心配は付いて回った。ツアーが終わった後はなおさらだ。この Refuge of the Roads ツアーが利益を生めなかったことで負った経済的な大損失は、彼女を傷つけ、徐々に苦々しい思いが募るようになり、ますます怒りっぽくなった。怒りが毒となり、挫折を経験したことで犯人探しをするようになってしまったんだ

(略)

彼女は不動産に投資していたが、その頃、不動産で大損をする人間が続出したんだ。それでも彼女は、自分にはまだ金があると楽観的に考えようとした。(略)」

 カリフォルニア州平準化委員会から遡及課税の対象とされたのは、ジョニの全盛期である1971年から1977年まで。レコーディングのほとんどがプロデューサーなしで行われたため、逃げも隠れもできなかった。彼女は事実上、独立した個人事業主であり、独立はそれなりの代償を伴うのだ。さらにジョニは、エリオット・ロバーツ事務所の誰かが自分の金をくすねているのではと疑った。そしてエリオットが友人であることには変わりないけれど、彼にこそマネージャーが必要ねと言い残して、事務所を去る。代わりに契約したのがピーター・アッシャーだった。すると今度は、とクラインは言う。家政婦のドーラがジョニに殴られたと訴えたのだ。

(略)

「(略)ビジネスマネージャーが自分の金を盗んだ、もしくは見知らぬ誰かの何気ないコメントが本当は自分への侮辱なのだと、なんの根拠もない仮説に怒りを膨らませ、一晩中、部屋を歩き回わった。そうする間も一日4箱の煙草を吸い続け、睡眠不足が解消されることはなかったから、彼女の心はすり減って行ってしまったんだ」

85年の夏(略)飲酒運転のティーンエイジャーの車に危うく殺されそうになり、車も全損した。数週間後に現場に戻ると、今度は別の車が彼女を轢きそうになった。悪いことは続く。(略)次のジョニのアルバムが怒りにまみれたアルバムになることは、誰よりも本人がわかっていた。

トーマス・ドルビー

メインストリームに戻る努力をして作ったにもかかわらず、『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』は最高で25位と、『ミンガス』の17位よりもさらに順位を下回ったのだ。(略)ポストポリオ症候群の始まりという不運が彼女を襲った。(略)

クビにされる前、エリオット・ロバーツは『ワイルド・シングス・ラン・ファスト』の売れ行きの悪さを受け、ジョニが80年代半ばのサウンドに順応できるようにプロデューサーを雇うべきだと主張した。

(略)

[トーマス・ドルビーのエレクトロニック・ヴァージョンの〈ジャングル・ライン〉をラリー・クラインが耳にし]

 ドルビーをジョニはシンセサイザーのコンサルタントとして考えていたが、契約により、彼には(略)共同プロデューサーのクレジットが与えられた。クラインはその少し前にフェアライトCMIの最新モデルを(略)買ったばかりで、この高価なおもちゃの遊び方を教わりたかったのだ。

(略)

 トーマス・ドルビーにとってジョニはヒーローだ。『ブルー』は彼が自分のお金で買った初めてのアルバムであり、彼女のようにトム・スコットやジャコ・パストリアスと仕事をすることが彼の夢だった。しかし、今ここにいるジョニは、70年代のジョニではない。時代は変わり、彼女も変わった。

(略)

リンダ・ロンシュタットは、ニューウェイヴに移行しようとして失敗したが、ネルソン・リドルと組んだ『グレート・アメリカン・ソングブック』で、お金が転がり込んでくるようになる。ポール・サイモンは『ハーツ・アンド・ボーンズ』でコケたが、直感に反し、『グレイスランド』で成功した。ジェイムス・テイラーとジャクソン・ブラウンは何曲かヒットを出したが、それ以外は全滅だった。

(略)

「僕を起用したのは彼女の選択だった」とドルビーは言う。「レコード会社から押し付けられたわけじゃない。2+2=5で新しい何かをが作れるはずだと信じて、僕らは取りかかったんだ。(略)問題だったのは、アレンジをする際、僕が音楽的用語で言うところの構成的アプローチをとっていたことだ。まずはベースラインをプログラムする。コードを演奏するためのパッチをプログラムすることもある。その次に各種サウンドをプログラムするんだが、それらは一緒に機能するように構想されていて、中には一つの旋律だけだったり、あちこちに散らばった音だったり、それらをパッチワークのように構築する。(略)

彼女がやって来て「まぁ素敵な音ね、私にやらせて」と言って、僕が作った3音のためのサウンドを使って、ピアノのパートにした。"それは合わないんじゃないかな。数日かけて作ったサウンドを濁らせてしまう"と僕が言っても、彼女は"だったらそれを消せばいい。消して!"と言うんだ。彼女にはそういう衝動的なところがあった。当時はつらかったよ。今思えば、なんとも滑稽な話だが」

『ドッグ・イート・ドッグ』

 30年後、ジョニは『ドッグ・イート・ドッグ』は特にフラストレーションを感じるアルバムだったと振り返る。「何が起きたかというと、突然、私のベーシストで夫のクラインが、僕が君のプロデューサーだと言い出したの(略)それだけでなく、エンジニア[マイク・シプリー]までプロデューサーに格上げしてしまった。小者は権力を与えられると、信じられないくらいにうぬぼれてしまう。つまり、私は三人[クライン、シプリー、ドルビー]のうぬぼれた小者に囲まれたというわけ。クラインは、大きな問題は小さく分割して解決するというタイプの人で、おのれの不安のために、私の人間関係のすべて粉々に壊した。若くて専制的で不安定な夫に対して、良い妻になろうとした私は、これでいいのだろうか?と自問したのよ」

 「クラインは従来の8トラックマシンを離れ、エンジニアとしての自覚を持つエンジニア[シプリー]と理想的な仕事をすべきだと主張したわ。でも彼[ヘンリー]は素晴らしいエンジニアだったのよ。出世の階段を登ろうなどという妄想を抱いてなかった。(略)

私とヘンリーは(略)手作業でテープを切ってはつなぎ合わせた。私は彼に金メッキのカミソリの刃をプレゼントしたわ。そうやって何年も一緒にやって来ていたから、互いの気持ちが読めるようになっていたの。(略)

クラインは私にとって近いものをすべて切った。で、スタジオに入ると、トーマス(ドルビー)が私の横に立っていたわ。80年代になり、新しいサウンドが生まれていた。嫌いだったわ、私は。ヘンリーも嫌っていた。二人してあんなのは"高電圧で処刑する音"だと呼んでたわ。だからそんなものを乗り越えて、時代遅れにならないクラシックなサウンドを作ろうとしてたのよ。私たちが好むのは、いいマイクと優れたミュージシャンでありトリッキーなことじゃない。でもクラインは若かった。(略)

『ドッグ・イート・ドッグ』の中において1曲だけ、プロダクションに埋もれることなく、サウンドの選択があらゆる意味を成した曲があった。それが〈エチオピア〉だ。ある時、ニーナ・シモンはビバリーセンターのショッピングモールでジョニを見かけた。二人に面識はなかったが、ジョニはシモンを、そして彼女の作品を慕っていた。シモンのドラマーだったドン・アライアスから、彼女の話を聞いていたのだ。(略)

シモンがジョニを見かけたのは『ドッグ・イート・ドッグ』の発売後、プレスの酷評に遭っていた時だ。(略)

彼女は両手を大きくYの字に広げながらジョニに近づき叫んだ。「ジョニ・ミッチェル!ジョニ・ミッチェル!〈エチオピア〉!」。そう言い、彼女は去っていった。

(略)

トーマス・ドルビーは(略)彼女から青の68年型メルセデスを貸してもらったり、ギリシャの洞窟での話やマイルス・デイヴィスが彼女の足首にしがみついて眠ってしまった話を聞かされたり、彼女とピアノを買いに行き、彼女の古い曲を一緒に弾こうと誘い、失敗に終わったことを覚えている。しかし、アルバムのプロモーションでインタビューに答える彼女の言葉から、自分は彼女のお気に召す人間ではなかったようだと、彼は結論づける。40年後、ジョニがドルビーを「ケチなゲス野郎」と呼んだことを考えれば、それですら控えめな表現だ。

 ジョニが言うには、ある時、ドルビーにマーヴィン・ゲイの〈トラブル・マン〉のクリックトラック、すなわち同期トラックを作ってくれるように頼んだ。アルバムの最後の曲〈ラッキー・ガール〉の基本リズムに利用するためにだ。(略)

「〈トラブル・マン〉の歌詞は正直で、構造はエキセントリックだけれども、実はとても美しいの(略)音楽の構造設計が不規則なのよ。それで〈トラブル・マン〉のグルーヴと同じフォームのクリックトラックを作って、と彼に頼んだの」

 「僕は好きじゃないな」。嘲笑うような答えが返ってきた。

 「あなたが好きかどうかなんてどうでもいい(略)とにかくあのテンポで、あのグルーヴで、クリックトラックを作って」

 ドルビーはムッとした様子でスタジオを出て行き、2週間後、戻ってきた。

 「トラックを作ったよ」。だが、彼が彼女に聴かせたのは、彼女が「安っぽいホーンやらなんやらが入ったダサい音楽」と呼んだものだった。

 「これはあなたの曲」とジョニは言った。「私が頼んだのはそうじゃない。クリックトラックを頼んだの。それに合わせて演奏できるグルーヴを作ってくれたら、後で違うドラムを入れるから」(略)

腹を立てたジョニはドルビーにポケベルを渡すと言い渡した。「必要な時は連絡するから」

(略)

 「あの嫌な男に協力してもらおうとずっと私は苦労してきた。でも彼はそれを拒否し、なんの魂もこもっていないつまらない音楽を作り出したのよ(略)

それでも私はなんとかそれに合わせて演奏しようとした。(略)リズムトラックだけを引っこ抜き、新しく再構築し始めたの。でもあまりに抽象的すぎて、どこがダウンビートなのかがわからない。(略)」

[スタジオにやって来たウェイン・ショーターが]

ホーンを4拍に打ち込んだ。「ウェインは天才よ。彼は直ちに問題点を見つけ、回り道することなく、即座にやるべきことをやった。それまで試したドラムは全部うまく行かなかったのに、ウェインが4拍で吹いた1音でうまく行ったの。それから彼はソプラノに持ち替え、天才的な演奏をした。なのに気づいたら、トーマス・ドルビーがこの曲を書いたのは自分だと主張していたの。完全にイカれてるわ。あそこに彼のプログラミングの音は一音もなかった。あったのは私が求めたテンポだけ。クレイジーなサウンドにひどい目に遭わされたのよ。(略)あの曲を自分が作ったんだと言えるあの男の厚かましさ。つまり、ケチなゲス野郎だってことよ。彼が唯一、貢献したのは〈シャイニー・トイズ〉の"ああ、僕はすごく興奮してる"と言うところ。それ以外は、彼のパレットを使っただけ。それもあっという間に時代遅れになってしまった。そうなるだろうと思っていたけれど」

 「こんな不愉快なレコーディングは初めて。なんで私ったら、3人ものプロデューサーとやるはめになってしまったの?」とジョニは思った。突然、夫を含む3人の男たちが「僕は今のは嫌いだな」とか言ってくるのだ。あれほど独立心が強かったジョニが、今は男だらけの委員会相手に議論している。そもそもこの男たちを共同プロデューサーとして雇ったのはエリオット・ロバーツだ。20年近く彼女の隣にいたそのロバーツが今度は首を切られることになる。「エリオットもいなくなり、ヘンリーもいなくなった。クラインは残された家の掃除をしてるだけだったわ」

(略)

流産

 『ドッグ・イート・ドッグ』は大失敗に終わり、経済的な負担を負ったが、ジョニとラリー・クラインの関係は安定しているように見えた。(略)

[だが85年暮れ、42歳のジョニが妊娠、喫煙飲酒を控えず流産]

結婚生活には完全に修復することのない亀裂ができる。

(略)

「流産した時、彼は(略)私を慰めるどころか、置いてったのよ。彼に初めて正規のプロデューサーとしての仕事が入り、家を空ける5日前の話。冷蔵庫に食料品を詰め込むと、車に乗って空港へ向かった。でもそれまでの5日間があったのに、慰めの一言もなかった(略)10日経っても出血が止まらなくて、女友達(略)が車で病院に連れて行ってくれて、子宮内容除去術を施された(略)」

(略)

「あの時、僕がどういう立場だったかというと、ベンジャミン・オールのレコーディングがあって、僕以外はもうイギリスのスタジオにいて、準備も整い、あとは僕が行くだけだった。(略)

本当にむずかしい状況なんだ」と彼は回復途中の妻に尋ねた。「どうすればいい?すべてが僕のせいで止まっている。断るべきなんだろうか?」「いいえ、行って」。ジョニが言った。その言葉を額面通りに受け止めた自分をクラインは後悔することになる。

 「もちろん、後になって彼女に言われたよ。"どうして私の言うことを聞いたの?"とね(略)今にして思えば、彼女の言うことを聞くんじゃなかった。行くべきじゃなかった。正直なところ、この件に関して、僕はあまりわかっていなかった。何度話し合ったかわからないし、解決したと思っていた。ところが彼女の中で僕は、裏切り者も同然だったんだ。(略)

流産を経験をした女性の気持ちと心がどんなものなのか、僕はまるで知らなかった。(略)」

[ベンジャミン・オールの仕事がきっかけでピーター・ガブリエルの]『So』のレコーディングにノーギャラで参加。(略)

ガブリエルはジョニが次のアルバムを自分のスタジオでレコーディングできるように計らい、クラインの好意を返した。

(略)

『レインストームとチョークの痕』、ピーター・ガブリエル

[ピーター・ガブリエルのスタジオで『レインストームとチョークの痕』を録音]

ソロになったガブリエルは〈ショック・ザ・モンキー〉という、らしからぬヒット曲で、メインストリームへの道を独自に切り開いた。MTVは奇妙なまでに、彼におあつらえ向きだったのだ。ジョニが43歳でカムバックしようとしていた時、35歳のガブリエルは絶頂期を迎えていた。

(略)

アムネスティ・インターナショナル・コンサートで演奏することが決まっていたガブリエルはジョニに助言を求めた。(略)

よりによって彼女に相談するとは!ジョニは、ワイト島で60万人のヒッピーの餌食になったことをまだ引きずっていた。そしてジェネシスのドラマーだったフィル・コリンズが、恥知らずの商業ポップスターになってしまったことも知っていた。昔の仲間との競争が勃発する可能性をジョニはすぐさま感じ取った。

 「まず」とジョニは切り出した。「こういう複数のグループが出るコンサートは私に言わせれば、エゴマニアのオンパレードよ(略)主催者はおそらくアコースティックな曲をやってくれと言ってくるわ」

「言われたよ」

「やらないことね(略)アコースティックでやったら命はないわ。そういったコンサートを私は経験済み。客席から浴びせられる大声を覆い隠せるほどの音量は出せないの。彼らは音楽を聴きに来ているんじゃなくて、イベントに来ている。だからバンドが仲間意識を持つことが必要だし、とにかく大きな音が必要。それと邪魔されないよう、自分のチームを連れていくことね。(略)競争心を持つ人間っていうのは、相手が単独だとわかると、妨害してくる。(略)ギターを壊すのよ。あなたを敵と見なし、仕留めにやってくるわ」

 ピーター・ガブリエルはジョニの目を覗き込んだ。二人はたった今、ジョニの曲〈マイ・シークレット・プレイス〉を掛け合いで歌い、レコーディングしたばかりだ。ユニゾンで重なり合う、彼女のハスキーなアルトと彼の声。二人はほぼ一人の人間のようだった。お互い既婚者だったが、思わせぶりな音楽ビデオも撮影していた。心を許し合えるようになってきたと思っていた矢先だった。この人はいったい何者なんだ?そして、音楽フェスに対するこの偏執狂っぷりはいったい何なんだ?彼女は〈ウッドストック〉を書いた人ではなかったのか?

「あなたの光は、あなたの闇を隠すための操り人形だ」。ショックを隠せず、ガブリエルは言い、それがジョを激怒させた。

 「なんてことよ(略)あなたはなんてうぶなの!私の光は私の光であって、私の闇も私の闇よ。(略)あなたにどんな感じなのかと聞かれたから、こうだと言っただけ。あなただって人前に出て行ってやるからには、フィル・コリンズだけが注目されるのは嫌なはずでしょ。(略)あなたが間違いを犯すのは見たくないわ。(略)そこらじゅうがそんな空気だってことも知ってるの」

 ジョニとガブリエル夫婦の友情は長くは続かなかった。気づくと、彼はジョニいわく「くだらなくてケチなこと」を言い出すようになっていた。それだけでなく、レストランで彼の妻に鼻であしらわれたように感じたのだ。とんだ期待はずれだわ!しかし、ラリー・クラインによれば「ジョニがスタジオのキッチンで、説教じみた虚無的世界観を彼に向かって吐き出す夜があまりにも長かったせい」だというのが真相だったようだ。

(略)

プロデューサーが(略)ジョニの大ファンであるダニエル・ラノワではなかったことがじつに悔やまれる。「彼女はなぜかラノワの才能をあまり買ってなかったんだ」とクラインは言う。「僕からすると、彼女はプロデュースするのがむずかしいアーティストなのではなく、アルバムを作るのに他人が必要だということを認められないアーティストなんだ。実際は必要だったのだとしてもさ。(略)」

 クラインはイギリスでベン・オールのアルバム制作の仕上げにかかっていた。(略)

『So』での貸しがあったガブリエルに、クラインはジョニのレコーディングを彼のスタジオで行なわせてくれるよう頼む。「快く使わせてくれたよ。(略)僕は夕方、ウール・ホールでの作業を終えてから合流した。結局は、ピーターのスタジオに朝方までこもって仕事をした。(略)

その頃、僕とマイク[シプリー]はロバート・プラントに会ったんだ。(略)スケッチ段階の曲を何曲か聴かせたところ、その中の1曲を彼がとても気に入り、自分のアルバム用に歌詞を書きたいと言ってきた。10代前半からレッド・ツェッペリンの大ファンだった僕にしてみりゃ、大喜びさ。その後、ジョーンがフルームにやって来て、彼女にも曲を聴かせた。そのうちの3曲を彼女は気に入ったんだが、1曲はロバートがほしいと言った例の曲だったんだ。僕はもう彼にいいと言ってしまっていて、今さら撤回することなんてできないと抗議したよ。でもジョニは、それが"妻の特権"なんだから、全曲渡しなさいと言って聞かない。しかたなくロバートに電話したところ、彼は寛大にも事情をわかってくれた。"でもそれは相手がジョニ・ミッチェルだからだぞ"と言われたよ。その3曲が〈ラコータ〉と〈スネイクス・アンド・ラダース〉と〈ティー・リーフの予言〉だったんだ」(略)

『風のインディゴ』

〈ノット・トゥ・ブレイム〉は(略)復讐的な悪意を感じる歌詞を持つ曲だ。1992年9月、ジョニの元恋人ジャクソン・ブラウンがタブロイド紙を賑わせた。告訴にはならなかったが、女優のダリル・ハンナがブラウンからひどく殴られ、病院送りになったと主張。(略)

彼女がその恨みを20年後まで持ち続けていたことをこの曲は証明していた。

 

あなたの慈善的な行為は

場違いに思えたわ

美しさとも

あなたの拳の痕が残る彼女の顔とも

 

ここで言う"慈善的な行為"とは、ジャクソン・ブラウンがノー・ニュークス、ファーム・エイド、アムネスティ・インターナショナルといったベネフィット・コンサートに出演したことと一致する(ジョニもその三つすべてに出演)。

(略)

3ヴァース目でジョニはブラウンの妻フィリス・メジャーの自殺を再び持ち出す。

(略)

ジョニはこの曲がブラウンのことを歌っているのかと何度も尋ねられた。彼女は認めこそしなかったが、正確に否定もせず、DV全般について歌った曲だと答えることもあれば(略)モデルは一人ではなく「何人か」だと答えることもあった。

娘と孫

 1995年、タブロイド紙に娘を探していることを暴露されたジョニは、言い逃れをすることなく事実だと認めた。(略)

 ちょうどその頃、トロントに住む31歳のシングルマザーで、ファッションモデルのキローレン・ギブは人から若き日のジョニ・ミッチェルに似ていると言われていた。(略)

彼女とジョニを結びつけたのは、ジョニが関わることを極力避けていたウェブサイトjonimitchell.comの創設者であるウォリー・ブリースだ。

(略)

ジョニに突然、娘と孫までができたのだ。(略)1965年に子供を産んだ直後から曲作りを始めたが、どの曲もどこか娘への、あるいは娘が育っていく世界へのメッセージだった。その娘が帰ってきた今、音楽から離れる究極の口実ができたのだ。

(略)

「今はもうまったく書いていないわ(略)娘が戻ってきた96年にすべてを辞めた。音楽は、彼女を失ったことで大きく動揺した自分の心にどう折り合いをつけるか、そのためにやったことだった。彼女がいなくなった時から始め、彼女が戻ってきた時に終わった。私は子供を育てられなかった33年間、何食わぬ顔をしていたけれど、精神的にはすごく動揺していたのだと思う。そのかわりに私は世界の母となり、我が子がさまよう世界を、社会学者としての視点から見つめた。その頃、私が危惧していたことは、すべて本当になってしまったわ」

(略)

『シャイン』でジョニが再び曲を書くようになった(略)頃には、娘と再会を果たせた喜びの熱は萎んでしばらく経っていた。最初の衝突はなんとか収めたが、ジョニが子育てのアドバイスをしようとすると、娘は怒りをあらわにした。ジョニは頼まれない限り、アドバイスは2度としないと心に誓う。それでも関係は悪くなる一方だ。ジョニは理解した。娘は母である自分に捨てられたことを決して許さない「心に損傷を負った」人間なのだ。

(略)

 ジョニは、娘に何も問題がないことを期待していたのだろうか?見た目だけでなく、中身も似ていると思ったのだろうか?

(略)

ジョニと再会した時、33歳になっていたキローレンは、ハーバード大学やトロント大学で科目等履修生を含め、さまざまな学校を中退していた。学生ローンで生活しながら、トロントのジョージ・ブラウン・カレッジでDTPを勉強中だった。社会経験は、エリート・エージェンシーで10年間モデルの仕事をしたことだけ。それぞれ別の父親を持つ子供を二人抱え、ジョニの人生に多くの感情的な問題を持ち込んできた。

 中でも二人の間に立ちはだかった大きな問題は、彼女が抱いていた、自分を手放した生みの親に対する恨みだ。無一文のジョニがキローレンにいい暮らしをさせるために彼女を手放したという言い分に、キローレンは納得がいかなかったのだ。確かに、養女に迎えてくれた善意あふれる中流階級の家庭の方が、いろいろな意味でいい暮らしをさせてもらったのだろう。

(略)

年月を重ねるにつれ、ジョニはキローレンとの、付かず離れずの関係に慣れていく。2013年のルミナート・フェスティバルでは、出演者全員が〈ウッドストック〉を歌う中、彼女は娘をステージに上げた。「キローレンと過ごした最初の2週間はとても楽しかったけど、それ以降、彼女は敵意を見せてきたわ」とジョニは2015年に語っている。失望と苦々しさは、2015年になっても続いていた。同郷の友人、トニー・サイモンによれば、ジョニに医療代理人が必要となった時、キローレンは正式な最近親者に認定されていなかった。ベル・エアの自宅に設置された病院の貸ベッドに横たわる母の元に呼び出されたキローレンは、トロントからの航空券を買うお金さえなかったと訴えたという。

 それでもジョニは娘との関係を通じて、彼女が長い間失っていたもの、すなわち娘の子供たちの中に自分の両親の面影を見るという経験をした。

(略)

「孫息子のマーリンは自分で考えることができる子よ。彼は考える人なの。5歳にしていろいろなことに耳を澄まし、私が何を考えているのかを知ろうとし、自分なりの結論を出す。とても優しくて、想像以上に賢いわ。大人になってからはおとなしくなって、人の話をちゃんと聞ける子になった。こちらの話をきちんと聞いて、笑ってくれる。そういうところは私の父に似ているわ。父もそんなだった。かなり変わったところがあるのは、私も同じ。東洋の心に似ているのよ」

 ジョニには孫娘も自慢で仕方がない。「デイジーは成績優秀なのよ(略)優等生よ。ウクレレを習ってて、私が何か弾けるのかと尋ねたら、"無理。まだ習い始めて2年だもの"と言うの。2年目?私は半年でマスターしたのに。マーリンの考え方は違う。おそらくそれはサーミ[スカンジナビア半島北部の先住民族]の血のせいね。基本、ノルウェー人は頰骨が極端に高くはない。でも私の出身地はサーミ人が暮らす国境に近くで、サーミ人には頬骨がある。父は嫌がるでしょうけど、私たちがサーミの血を引いていることは間違いないのよ」

 孫のためであれば、娘とのことも我慢できる。ただ曲を書きたい思いが、キローレンが帰ってきた今、戻るかどうかはわからなかった。ジョニは他人の書いた曲を歌い、彼女自身の過去の作品をリメイクすることで、レコーディング契約を満了させた。それが編曲者のヴィンス・メンドーサが指揮と譜面作成した『ある愛の考察~青春の光と影』と『トラヴェローグ』だ。声以外の楽器は持たず、新曲も1曲もない。ジョニは抵抗することなく、作曲とオーケストレーションを放棄し、他人に委ねることにした。

(略)

 良い知らせは、ヴィンス・メンドーサが〈ウッドストック〉の編曲でグラミー賞を受賞したことだ。悪い知らせは、レコーディングに30万ドル近くかけたこのアルバムの売り上げが、およそ7万2000枚という、彼女のセールスとしては最低の数字だったことだ。ジョニはその責任を、ワーナー・ブラザースのブティック・レーベルであるノンサッチに格下げされたせいにした。(略)

[クロノス・カルテット、ブラック・キーズ等]を抱えていたノンサッチだが、ジョニは感心していなかった。彼女にはランクを下げられたようにしか思えなかったのだ。(略)

「これで辞めるわ。この業界は、私にとってすごく嫌なものになってしまった」

(略)

 ジョニはレコード契約上、出すべきアルバムはすべて出した。もう彼女の中に曲はなく、ツアーに出るエネルギーも当然なかった。