戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

戦後日本の国家保守主義――内務・自治官僚の軌跡

 

 はじめに

国家保守主義が規定する国家ー社会関係には(略)ふたつの位相が指摘できる。第一の位相は、いわば「国家主義的な保守」(略)国家を全ての権威のよりどころとし、その規定する価値秩序に社会を従属させる(まつろわす)ことを内実とする保守主義である。

(略)

戦後において、このような国家の権威の回復は内務・自治官僚ら保守エリートにとっての至上命題であった。(略)

国威の回復と発揚のため、彼らは戦後、内閣官房内閣法制局宮内庁防衛庁など国家の中枢を再構築し、オリンピックや万博などを切り盛りしたのであった。

 第二の位相は、いわば「保守的な国家」ともいうべき側面であり、ここで観念される「権威ある国家」は、同時にあくまでも前近代的儒教的道徳観に裏打ちされた国家なのである。天皇制と家族国家観を基調とした「忠孝一致」や「愛国奉公」の「国民道徳」の意味するところを突き詰めれば、秩序の維持や近代化にかかわる負担や責任を、国家ではなく社会に肩代わりさせることだと言える。教育勅語の説くように、あるべき国民の姿は、国家に忠誠を誓い従属するだけではなく、国家のお荷物にならぬよう国家の意志を自ら進んで追求するのである。

(略)

さらに、とりわけ一九八〇年代以降、新自由主義が世界的な隆盛を迎えると、政財官界の保守統治エリートは、「強くて小さな国家」が社会に押しつける「自己責任論」にある種の親和性を見出し、新自由主義経済がもたらす社会的コストやリスクにかかわる責任を放棄し、自己利益の追求に奔走し(略)天下り先となる準国家機関のさらなる増殖に乗り出していくのであった。

 戦後地方自治行政をリードした旧内務官僚

内務省解体によって直ちに「戦後」が始まったわけではない。(略)どのような形態を取ろうとも地方自治行政は依然として旧内務官僚たちによって担われた

(略)

 例えば、内務省解体後の一九四八年、内事局の官房自治課長を務めていた小林與三次がGHQからにらまれたとき、一時的に「退避」することになったのは、旧内務省土木局の後身にあたる建設省であった。小林は占領が終わるまでの間、建設省で文書課長という枢要なポストにあり、一九五二年八月に自治庁行政部長に返り咲いた。この四年間の「亡命」期間に、本来であれば小林が占めたであろうポストを地方自治庁で担ったのは、旧内務省系のピンチヒッターたちであった。

(略)

内務省の復活を企てるさまざまな案が浮上しつづけた一九六〇年代初めまで、内務省から分割された省庁が相互に助け合うことは珍しくなかった。例えば、総理庁官房自治課と地方財政委員会の統合によって一九四九年に地方自治庁が設立されると、旧内務省地方局系の自治官僚は、旧内務省警保局系の警察官僚が新人を採用するのを事実上代行して手助けした。というのも、GHQによる内務省の解体と警察の民主化・分権化の結果、泣く子も黙るばかりの権威を誇った警保局は、その名も中途半端な国家地方警察本部に成り下がっていたからである。(略)一九五四年の警察庁設立によって警察行政の再中央集権化がほぼ完全に成し遂げられるまで、エリート警察官僚の採用は困難を極めた。(略)

その代わり、地方自治庁が高級官僚を採用し、入庁後まもなく警察行政に配置換えするということがおこなわれた。

(略)

 戦前の内務省は官界随一といえるほどの威光と影響力を誇った。そのため、内務官僚は内務省そのものに止まらず、他のさまざまな省庁で重要ポストを占めていた。(略)

一九三八年に内務省衛生局や社会局などを分離し、他省の部局と統合するかたちで厚生省が設置された後も、その幹部人事は採用から異動まで内務省が一括しておこないつづけたということもあった。また、内務省は文部省をも事実上支配下においていた。

 内務省の解体によって、そうした内務官僚の特権は大きな打撃を受けるところとなったが、同時に戦後の官庁機構改革は、彼らに新たなチャンスを与えた側面もあった。

 

 GHQの当初の野心的な公務員制度改革の構想では、人事院を新たに設置し、強力な権限を付与するはずであった。(略)

現実にはこの改革は限定的なものに終わり、人事院自体も大きな役割は与えられなかった。そして皮肉なことに、人事院内務省を追い出したかっこうになっていたにもかかわらず、その追い出されたはずの内務官僚たちの多くが人事院の上層部を占め、同じ建物に戻ってくるところとなった。

(略)

 人事院と並んでGHQによる国家官僚制改革の目玉であった行政管理庁もまた、占領が終わるとたちまち旧内務官僚の強い影響下におかれた。(略)

[84年に統合された]総務庁でも足場を保ち、二〇〇一年に総務庁自治省と統合されて総務省が誕生するまでの間に、二名の総務庁事務次官を輩出した。

 総理府もまた、ゆうに一九七〇年代後半まで内務省出身者によって牛耳られていたと言っても過言ではない。

(略)

 やや意外な感もあるが、自治官僚出身者は防衛庁にも一定の食い込みを見せてきた。(略)

とりわけ自衛隊在日米軍施設のおかれる地方自治体との折衝を担う防衛施設庁に複数の自治官僚がキャリアを築いたのは味深い。

 最後の内務省地方局長であった林敬三は、もともと防衛はおろか警察のバックグラウンドさえ持ち合わせていなかったが、一九五〇年に警察予備隊が創設されるや、いわゆる制服組トップにあたる総隊総監に就任した。二年後に保安庁が発足すると第一幕僚長となり、さらに一九五四年の防衛庁の設置とともに自衛隊統合幕僚会議議長となったのである。

(略)

[林に続いて四名の自治官僚が防衛施設庁長官に、うち三名は]

局長レベルの官職は防衛分野でしか経験していないにもかかわらず、自治省天下りポストを用意した

(略)

このことは、防衛庁のいわゆる背広組が他省庁出身の混成部隊の色彩が強く、また独自の天下り先をあまり多く保持していないことと(略)

[出先で出世した高級官僚に相応の待遇をしたい自治省側の思惑もあった] 

皇室への接近

 [戦前は内務官僚が宮内省トップを独占していなかった]

繰り返すが、宮内庁長官・次長ポストをめぐる内務省とその後継官庁の占有は、奇妙なことに、内務省が廃止された後につくられた戦後の慣行なのである。ここで重要なのは、この戦後の新しい「伝統」が、すでに存在しない内務省にいわば後づけで「国家のなかの国家」としての威光を付与する働きを持ち、このことがまたひるがえって、今度は内務省解体によって生まれた後継官庁に一定の権威を与えるという効果を生み出しているという事実である。

(略)

一九七〇年代半ばから後半にかけて潮目の変化があったことが理解できる。その時期まで、とりわけ宇佐美毅と瓜生順良という、ともに比較的低い官職から宮内庁に転じた内務官僚二名の長い任期の間は、民主化された皇室と人間化された天皇への移行とその定着が何よりもの課題であった。(略)

しかしその後、富田朝彦を第一号として、次官級ポストを経験した高級官僚が相次いで宮内庁長官・次長に就任するようになった。これは、保守統治エリートがふたたびよりあからさまに皇室に接近していったことと時を同じくしている。

 内閣官房副長官

旧内務官僚の嫡流としての自治官僚は、内閣法制局においても重要な一角を占めてきた。

(略)

[法制局は廃止され法務庁]に移管された。GHQは、法制局が内務省に牛耳られていたと考えており、そのため佐藤達夫法制局長官ともう一名の職員のほかは誰も法務庁への異動を許されなかった。

(略)

こんにちでは事実上トップ官僚ポストとみなされている内閣官房副長官(略)

その重要性にもかかわらず、ポスト自体の歴史は浅く、戦後一九四五年九月に初めて設けられたにすぎない。

(略)

政務担当の官房副長官は若手政治家の登竜門とみなされてきたが(略)総理大臣と官庁の間に立ち、最高レベルでの調整機能を担うこともあり、やがて官界トップのポストとしての地位を築いたのであった。しかしこんにちに至るまで、こうした官房副長官の役割分担や出身区別はあくまで慣行にもとづくものであって、何ら法的な根拠を持つものではないことは留意しておきたい。

(略)

 敗戦直後にこのポストが設けられると、しばしば政治的野心を持った官僚が国政に出馬する足がかりとされた。

(略)

 以上見てきたように、戦後の民主化改革とその一環としての内務省の解体にもかかわらず、人的には旧内務官僚、組織的には旧内務省系官庁を通じて、戦後も内務省は隠然たる存在感を示しつづけた。それどころか、占領期の野心的な公務員制度改革の試みを象徴する新しい国家機構としての人事院と行政管理庁(のちの総務庁)が、ともに瞬く間に旧内務官僚の強い影響下におかれるところとなったのは皮肉と言うほかない。これらのほか、戦後もう少し後になって設置された総理府本府、またその外局であった防衛庁沖縄開発庁国土庁においても、旧内務官僚の後を継いだ自治官僚たちが一定のプレゼンスを保つところとなった。

(略)

内閣法制局長官ポストについては、旧内務省系官庁を代表するかたちで自治官僚が大蔵・通産・法務官僚と順番に分け合う慣例が確立したが、宮内庁長官ポストは、占領統治が終わるとまもなく内務省とその後継官庁が独占的に人材を供給することが慣行化した。

 日本善行会

実際、林敬三の退官後の主な職歴を見ると、内務省廃止後も彼のような旧内務官僚が生きつづけていた間は、ある意味で内務省もまた生きつづけていたことがよくわかる。というのも、林が退官後占めた諸々のポストは、内務省の所掌した主な政策分野をほぼ全てカバーしているからである。地方局(自治省)では自治医科大学明るい選挙推進協会、そして重要な政府審議会である地方制度調査会などがあり、土木局(建設省)では日本住宅公団、衛生局(厚生省)では日本赤十字社、警保局(警察庁)では警察協会、東京都公安委員会という具合である。さらに興味深いのは、戦後、林は宮内庁防衛庁に勤務し、直接的には内務省の後継官庁のいずれにも在籍しなかったにもかかわらず、これらの省庁管轄の重要な準国家機関にトップ待遇で天下り先を得たという事実である。

 林と比べたとき、鈴木俊一は唯一首都高速道路公団総裁ポストが(略)用意されたことがあるのみで、旧内務官僚といっても、基本的に地方自治行政一本やりで過ごした戦後のキャリアを反映するように、自治省所管の特殊法人公営企業金融公庫総裁や東京都知事など、退官後の職歴は自治省管轄内が中心となっている。

(略)

[二人がともに会長を務めた日本善行会とは]

善行会(のちに日本善行会に改称)はもともと一九三七年、伊藤辰男という当時まだ二〇代の青年により銀座で任意団体として立ち上げられたものである。

[「青少年の健全育成」のため善行を奨励しようと]

善行児童の月刊誌の刊行のほか、「街をきれいにする運動」として京橋界隈の小学生を集めて近所の清掃と心身の鍛錬をおこなったこと、また「女子向上塾」として将来の良母の育成を目指して職業婦人に音楽や礼儀作法などを教えた(略)

善行会が称えた「善行」というのは、当時の超国家主義者たちが推奨していた価値観と完全に一致しており、会の活動資金もまた、軍国主義の推進に大きな役割を果たした関係者から供給されていたのである。

(略)

[善行会の月刊誌「まこと」には]

天皇と皇国への私心なき奉仕と忠誠が最重要主題として誌面にあふれており、これは「今後の青少年の教育には個人主義清算せしめて全体主義で行かなければならないと思ひます」という伊藤個人の強い信念に善行会の活動が依拠していたからにほかならない。「善行会は良い心掛の子供達の集まりです。日本は世界中で最も正しい国であります。皆さん日本の子供達は大きくなつたらば、日本の国をもつと良い、もつと強い国にして、正しい事を世界中の人に知らして上げなければならない大事なつとめを持つてをります。それには子供の時からその用意が必要です」と入会への呼びかけ文は記している

(略)

[「町をきれいにする運動」も実際は]皇居外苑楠木正成像の下に集まっての宮城奉拝のことであった。清掃がおこなわれることは確かにあったが、主眼は忠君愛国の精神を子供たちに植えつけることで、清掃されるのは決まって上野の西郷隆盛像であったり麻布の横川省三記念公園であったりした。(略)

実は常に国民精神総動員運動の一歩先を行っていたのである。そのため、一九四一年に大日本青少年団が全国的に組織され、生徒や学生の総動員が強化されると、善行会は将来の母親としての若い勤労女子の愛国教育に重点を移したようである。

(略)

終戦・占領で[会長の]一条実孝公爵が公職追放されると、伊藤は今度は東京都と旧内務官僚に近づき、善行会はまずは都内で一定の影響力と権威を獲得し、やがて全国規模へと成長を遂げていったのである。伊藤の戦後の活動は、戦災者救済バザー、むだづかいをやめよう運動、清掃美化運動などから再出発した。

(略)

 善行会は一九五一年より「善行表彰」を開始した。これはやがて戦後の善行会にとって中心的な活動になっていく。表彰活動以外では、蚊とハエをなくす運動、水を大切にする運動、ヒロポン禍撲滅運動、親切運動、社会生活を明るくする運動、車内を明るくする運動、時間を守る運動、花いっぱい運動など(略)

いかにも内務省的な人民教化と社会統制の思想をにじませた運動を展開してきた。これらの運動はいずれもおよそ草の根の市民運動と呼べるようなものではなく、旧内務官僚ネットワークや東京都に直結した善行会の上層部が多くの場合ほかの類似団体と合同で推し進めたものであり、善行会独自の組織の本格的な形成は善行表彰の受賞者を中心に支部づくりが始まった一九五〇年代後半以降のことであった。

(略)

 一九六五年に善行会は社団法人として東京都所管から国(総理府)所管へと移行(略)

全国組織へと本格的な成長を遂げていくことになるわけだが、一九六七年に保守陣営が都知事選に敗北し、美濃部亮吉の率いる革新都政が誕生したことを考えると、善行会が東京都への依存から脱し国レベルへと「出世」していったのは、偶然とはいえ絶妙なタイミングであったと言わざるをえない。(略)

 伊藤の没後も善行会はますます旧内務官僚たちとの結びつきを強め、また準国家機関としての色彩を濃くしていった。(略)

[73]年には日本善行会と名称を改め、一九七四年からは総理府による総務長官表彰の推薦団体としての指定を受けるまでになった。

(略)

善行会の表彰制度は、国家の栄典制度を補完するものと言えるだろう。国が、官僚、経営者、学者、芸術家などごく一部のエリートを叙勲するのに対して、善行会は、市井のごく普通の人びと(略)

国家の栄典制度が直接対象としない、より「底辺」に近い人びとの顕彰を下請けしているというのが実態に近いのではないか。

(略)

一九九八年より善行会は、自治省傘下の日本宝くじ協会から補助金を受けるようになり、それにより収入に助成金の占める割合は従来の五%から二五%まで跳ね上がった

次回に続く。