哲学者マクルーハン その2

前回の続き。 

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

哲学者マクルーハン 知の抗争史としてのメディア論 (講談社選書メチエ)

  • 作者:中澤 豊
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 単行本
 

ソクラテスこそ詭弁家か

 プラトンは、『国家』においては詩人を激しく排撃する一方(略)対話篇に多くのソフィストたちを登場させたが、それらはあくまで敵対者プラトンの目をとおした「ソフィスト像」である。

(略)

ゴルギアス』、『プロタゴラス』など初期対話篇には、ソクラテスが相手のソフィストを矛盾に追い込み論駁する姿が描かれている。ソクラテスは、予め相手が得意とする長広舌を封じて自分の土俵である一問一答方式で対話することに同意させる。そして自分は無知を装って(略)、誘導尋問のような質問を重ねながら、「善」「美」「正義」といった語のもつ多義性、あいまいさに乗じて自分が企図した前提に巧みに誘導すると、後は演繹的な論法で相手を矛盾に追い込んでいく。それも相手の知を否定するだけで自分の知は一切語らない。

 真理を悟らせる「産婆術」と称して、狭いアテナイ市内で辺りかまわず識者をつかまえてこんなトリックまがいの問答を繰り返していたら、論駁された人の恨みを買うのは必然である。実際、ゴルギアスとの対話に同席したポロスには、「ゴルギアスさんの話が矛盾するように、自分で話の筋を運んでおきながら、してやったりと喜んでいるのはずいぶん失礼なやり方ですね」と呆れられている。他のソフィストとの対話篇も、論駁されたソフィストが自分の無知を悟り納得した状況とは程遠く、何れも気まずい終わり方をしている。問答法は、相手を屈服させることはできるにしても心服させることはできない、まさに論争のための技術である。

 後期対話篇で、プラトンは同じ一問一答の争論術を問答法とは区別して批判したが、ソクラテスの時代、両者は同じに見えていたのだろう。 ソクラテスがまだ壮年の頃の前四二三年、すでに喜劇作家のソフィストアリストパネスは『雲』という作品で、口先で人を騙し、弱論を強弁する術を教授する「ソフィストソクラテス」の姿を面白おかしく描いている。

(略)

ソフィスト仲間でもソクラテスの「詭弁度」は他を圧倒していたのである。ソクラテスの問答法をまねて争論術に走る者もいたというから、アテナイ支配層にとっては、若者に詭弁の言語遊戯を教えるソクラテスギリシャの口誦の伝統を破壊する危険人物に映ったことだろう。

(略)

 いずれにしても、ソフィストの「詭弁家」の悪名は長広舌派ソフィストから生じたものではなく、もともとソクラテスの問答法(ディアレクティケー)から派生した言語遊戯にまつわる評判から生じたものである。しかし、ソクラテスの衣鉢を継いだプラトンは、「無知の知」と「知を愛する者(フィロソフォス)」という新しいコンセプトを掲げてソフィストから離れ、イメージの刷新を図った。

 「対話篇」に再登場したソクラテスソフィストではなくフィロソフォス(哲学者)となって、ライバルの長広舌派ソフィストに対して「真実よりも真実らしいものを信じ込ませる似非教師」との批判を開始した。さらに後期になると、「ソフィストにも長広舌を用いる者と短い議論で相手を矛盾に追い込む者の二通りの人間がいるが、どちらも人を説得するために真実よりも真実らしいもの、見かけだけのものに誘導する同じ系統に属する種族である」(『ソピステス』)と決めつけた。このレッテル貼りによって、長広舌派ソフィストと詭弁家の悪名がつきつつあった争論家ソフィストはいっしょくたにされ、「雄弁家であり詭弁家」とする混乱したイメージをソフィスト側にもたせることになった。

 他派ソフィストを批判することで新しい存在として立ち現れてきたフィロソフォス(哲学者)は、アルファベット・リテラシーの心性が身についた文字教養人であり、書くことに長けていた。

(略)

 書いたものをほとんど残さずプラトンに反論できない口誦教養人のソフィストたちを弁護するならば、ソフィストにとって言葉は人間の本質に属することであり、雄弁の術と知恵は不可分であった。それゆえソフィストにとって、教えるという知の相互作用は書くという手段では達成できないと考えていたはずだ。彼らが書いたものを残さなかったのはそういうことであろう。

(略)

 ソクラテスは書いたものは何も残していない。ソクラテスは口誦文化と書字文化の狭間に生きた人間であった。ハヴロックはこう書いている。「ソクラテスも口承神話に堅く縛りつけられたままであり、われわれの知るかぎり一言も書かず、市場での意見の交換を活用したが、それにもかかわらず、ある技巧──つまり、彼が知らなかったにしても、書かれたことばにおいてのみ完全に達成可能となり、そして現に、書かれたことばが存在することによって可能となりはじめたような技巧──にかかわっていたのである」(「プラトン序説」)。

(略)

 プラトンソフィストの論争は、主張内容をめぐってのものではなく、「方法」をめぐってのものだった。プラトンは、ソフィストの方法(ソフィスト術)を侮ってはおらず、むしろその修辞の力、変容の力に「畏れ」を抱いていた。 

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)

 

 『ノヴム・オルガヌム

 エリックは、父マーシャルが『メディアの法則』をまとめるため、仕事に没頭する様子をこう書いている。

 

本書をまとめるための数年間、父は何度もベーコンやヴィーコの著作を読み返した。それはまるで同僚に助言を求めているかのようだった。(略)

父は、ベーコンとヴィーコおよびその他の文法学者たちが、自分と同じ道を歩んだ(あるいは彼らと同じ道を自分が歩んだ)ことを知った。彼らはみな文学教育のツールを用いて、この世界とそこに住むわれわれ自身の役割を理解しようと全霊を傾けたのである。

 

 ベーコンは、近代科学を創設した哲学者(弁証学者)と思われているが、トリヴィウムの分類でいえば哲学者(弁証学者)ではなく文法学者であった。彼が『ノヴム・オルガヌム(新機関)』で目指したものは古代の知恵の回復、即ちアリストテレスに始まる弁証学的方法(オルガノン)を革新し、「自然という書物」を読み解くための古代の学習と技術を回復させることであった。ベーコンの著作には、プラトンアリストテレスを頂点とする伝統的哲学やスコラ哲学への激しい非難が溢れている。ベーコンは『学問の進歩』の中で(略)

弁論術の役割を評価する一方、プラトンが、弁論術を料理術のように「快楽の術」と考え排除したことは、はなはだしく不当であると非難した。(略)

欠点だらけの帰納法を用いて精神を油断させ、資料から分離した抽象的な形相を求めることに満足し、自然哲学には関心をもたず、ただ哲学者という栄誉ある称号を保持したに過ぎないと論難している(『フランシス・ベイコン研究』)。

 アリストテレスについてはもっと手厳しい。ベーコンは、『ノヴム・オルガヌム』の中で、アリストテレスが「自分勝手に新しい学術語を作り、伝統に敬意を払うことなく古人の知恵をすべて破壊するためだけに過去の作家を引用していること、一般命題を構成するにあたり経験に諮らず、自分で勝手に決定したために経験を歪めてしまっていること、自分以外の他の諸哲学を敵意ある論駁によって薙ぎ倒した後に、個々のことをてきぱきと決めつけ一切を絶対化したために、彼の後継者たちはそれ自体を目的にしてしまったこと」を厳しく批判しているのである。

 とくにベーコンが批判したのは、理論の美しさに酔って人間生活に何ら貢献していない演繹論理学、すなわち「大前提が真で、小前提が真であれば、結論は必ず真となる」という定言三段論法的論証形式である。

 

すべての人間は死ぬ(大前提)

ソクラテスは人間である(小前提)

ゆえにソクラテスは死ぬ(結論)

 

 こうした論証においては、じつは結論は前提に織り込まれており、導き出される結論は前提の内容を上回ることはない。「死すべき人間であるソクラテスは死ぬ」と言っているだけで何ら新しい知識を生産していない。演繹ができることは、前提のなかにすでに暗示されているがまだ「証明」されていない事実を明らかにしていくことだけである。前提から下に向かって下降するだけの数学的な論法なので説得と論争には向いている。その場合でも、問題は疑う余地のない真なる前提をいかに設定できるかという点にある。前提が誤っていればすべては崩壊する。

(略)

 弁証学者が理性にのみ明証性を求めたのに対して、文法学者は経験と知覚を重視し、一切の先入見を排除して対象に肉薄した。文法学者にとって、世界とは理解するものと理解されるものの数学的なマッチングではなく、認識が作り出す過程(メイキング)、即ち発見と創造である。

(略)

 ベーコンはレトリックの伝統のうえに、新しい科学的方法を構築しようとしていた。そして、ベーコンが伝統に則って「発見」を知性の技術の一番目に置いたと同様に、マクルーハンもまた、最初に来るものは「発見」でなければならなかった。

 

私は探偵である。私は探索する。私は視点をもたない。私は一箇所にとどまらない。われわれの文化においては、一つの固定した場所に止まっている限りは歓迎すべき者と見なされる。だがいったん周辺に動き出し境界を横切り始めると、不届き者と見なされ、非難の格好の的となる。

(略)

ジャック・エリュールは、プロパガンダは「対話」が止むとき始まる、と言っている。私はメディアに問い返し、探検という冒険に旅立つ。

 

(略)

 「視点とは、構造的認識を記録するのに失敗した結果生じたものである」とマクルーハンは言う。視点をもつ、説明するとは、早々に価値判断を下し、下に向かって下降するだけの演繹的、直線的な道を歩むことである。それは脇道のないトンネルのようなもので「発見」とは無縁の道である。マクルーハンは判断を保留して、議論のための素材(論点)の収集を続けながら、隠れていた「地」(暗黙知)が浮かび上がってくるのを待っていた。先に紹介したドラッカーとの対話による「発見」の逸話はまさにそれである。

 弁証学は「発見」には関心を持たず「判断」、つまり論証を専らとした。一方、キケロ以来の弁論術の伝統ではその両方とも有用であるとして探求するが、自然の順序として「判断」よりも「発見」が先行するのである。 

新しい学(上) (中公文庫)

新しい学(上) (中公文庫)

 

ヴィーコ『新しい学』

 ベーコンの『ノヴム・オルガヌム』から一世紀近くたった一七二五年に、修辞学者ヴィーコは、『新しい学』のなかでこう主張した。

(略)

この社会は確実に人間によって造られたものであるから、その原理は我々の人間精神そのものの変化様態のなかに求めることができ、またそうでなくてはならないことである。

(略)

 ヴィーコはもともとデカルト主義者であったが、ベーコンの経験主義に接して四〇歳を過ぎてからデカルトの批判を開始した。(略)

ガリレオデカルトが、自然のなかに「数学の言葉」を見出そうとしていたのに対して、ヴィーコは人間の「精神の語彙集」に第二の自然(文明)を解明する手がかりを見つけようとした。何故なら、新しいテキスト(文明)は人間がつくった社会的な人工物であり、人間の感受性の変化、言葉の変化はその結果であるから。

(略)

デカルトは、歴史的伝承や経験、知覚に基づく認識は歪曲や捏造が紛れ込んだ蓋然的なものであるとして否定したが、ヴィーコは、歴史的認識のなかに正統性を認め、人間、社会、歴史の研究においては「真実らしいもの」すなわち蓋然性も考慮されなければならないと主張した。真理とは、長い期間にわたって多くの人が積み重ねたものにより漸次的に明らかになってくるものであり、数学的に、理性的に一挙に明らかになるものではない。ヴィーコは人類すべてに共通する判断力「共通感覚(常識)」に真理を求めたのである。

(略)

中村雄二郎は、デカルトが言語から感覚や想像力を含む部分を排除し、言語をもっぱら概念や理性にかかわるものとすることで共通感覚を喪失してしまったことを指摘する一方、弁論術の特容が常識との結びつきにあることをキケロの言葉を引きながら指摘している。キケロは次のように記した。

 

他の学術の研究対象は幽遠にして深奥な源泉から汲み出されるのに対して、弁論の理法のすべては、言わば衆人環視のもとに置かれ、万人共通のある種の慣習、一般民衆の言辞や言説に関わるものであり、したがって、他の学術にあっては、門外漢の感覚や知性の及ばないはるか遠くかけ離れたものであればあるほど卓越したものと見なされるのに対して、弁論の分野にあっては、大衆の言論から乖離し、万人の常識に基づく慣行から逸脱することは、まさしく最大の過失と見なされる。(『弁論家について (上)』)

 

 かつてソフィストたちは、プラトンから「弁論術は、聴衆に対して“善”よりも“快”に訴え、真実よりも真実らしいものを信じ込ませる単なる迎合である」と批判された。だが見方を変えれば、名門出エリートのプラトンは大衆の常識を信じておらず、彼らを裁判や政治に参加させる民主政に批判的なのである。プラトンの理想は、あくまで「哲人王」による統治なのである。

 一方、ソフィストには、歴史の中で培われた世俗的知恵、大衆の常識に対する信頼があった。大衆が使う言葉には、豊かな想像力に結びつきうる活力が秘められている。今日のポピュリズム批判の原型とも言えるプラトンソフィストへの批判に対してソフィストが反論した記録はないが、反論したとすればヴィーコデカルト批判と同じようなものであったろう。

(略)

知識は賢慮とは次の点において相違している。すなわち、知識において秀でているのは、自然の数多くある現象がそこに引き戻されるところの単一の原因を探究する人々であるのに対し、賢慮において卓越しているのは、ある一つの行為のできるだけ数多くの原因を探り出して、どれが本当の原因であるかを推測する人々であるということである。……学識はあるが賢慮を欠いている者たちは最高の真理から出発して最低の真理を統制しようとするが、これに対して、知恵ある人は最低の真理から出発して最高の真理に向かうのである。……一般的真理からまっすぐにもろもろの個別的真理に降りてゆこうとする、学識はあるが賢慮を欠いている者たちは、実生活の曲がりくねった道を何が何でもまっすぐに突き進んでゆこうとして、道そのものを打ち壊してしまう。ところが、実生活において行うべきことがらのさまざまな紆余曲折と不確実を経て永遠の真理を目指す知恵ある人々は、まっすぐに進むことはできないので回り道をし、そして、時が経つにつれておのずと利益をもたらしてくれるであろうようなうまい考えを案出する。……一つは哲学であって、このほうは知恵のある者たちにおいて彼らの心の動揺を適度に抑えることによって、そこから徳が出てくるようにおもんぱかるのであり、またいま一つは雄弁であって、このほうは民衆のうちに彼らの心の動揺をむしろ燃え上がらせることによって彼らを徳の義務を果たすようしむけてゆくのである。しかし今日では──と学識ある人々は反論するかもしれない──国家の形態はもはや自由な国民においては雄弁が支配しえないようなかたちでできあがっているのではないか、と。確かに、ありがたいことにも、今日では君主たちはわれわれを言葉によってではなく法律によって統治している。しかし、これらの国家自体の内部にあっても、広範かつ多彩で燃えたつようなしゃべり方において傑出した弁論家たちが、法廷や議会、そしてまた神聖なる説教の場において、国家にとって最高に有益であり、また言語にとって最大に光栄なことにも、光り輝いているのが見られる。(『学問の方法』)

レトリック復権の企て

 ヴィーコは(略)グーテンベルク以降、哲学の下位に甘んじてきた「レトリック」の復権を企てていた。そして、レトリックの伝統のなかで語られていた「一見ばらばらに見えるもの、異種のものの間に媒介項を見出し、両者を関連づける知性の能力」をインゲニウムと呼んで、近代合理主義科学のもたらした要素還元主義を脱して教育の全体性回復を唱えたのである。

(略)

 雄弁・修辞によって、各々の専門領域はうまく対応し合い、関連づけられ、知識を総体としてとらえられるようになる。この異種のものを関連づける理性の力こそ、帰納法思考であり、アナロジー思考であり、隠喩思考である。

(略)

 ルネサンス期の人文主義者は、雄弁と叡智の結合を説いたキケロを模範とし、古典レトリックの復興を通じた人間形成を理想としたが、レトリックの知には共通感覚(常識)への信頼がある。マクルーハンがあれほど共通感覚にこだわった理由もこれで分かろう。マクルーハンはエレクトロニクス時代の人文主義者であった。視覚の独走によって失われていた五感の相互作用が電気技術によって回復され、想像力の基盤である共通感覚がもどってくることを熱望していたのである。

専門家 

マクルーハンは、「専門家と言うものは、小さな誤りを決して犯さないが、すごい誤りに向かって進んでいくものである」と皮肉った。

南伸坊による竹村健一分析

結論とか知識を伝えるのであれば、印刷媒体が一番適しているが、テレビ討論などにはプロセスがあるだけで結論がないのである。テレビの視聴者は、討論の結論が何だったか、など気にしない。

(略)

TV出演をして分かった事というのは、つまり、なぜ竹村健一が人気者になったか、なぜ竹村健一をTVでロンバクできる知識人があらわれないのか、という事なのだった。竹村健一をやりこめる役で登場する知識人は、TVというメディアを、体得していない、つまりたまにしかTVに登場しない人か、登場しても本当のところTVをしていない人達だったからなのである。TVというのは、内容を伝えるメディアではないのだ。人間が映ってしまった時に、TVはその人間の言葉ではなく、所作や表情を伝えるメディアになる。こういうことは、10年前に、マーシャル・マクルーハンという人が言って、大旋風というのを巻き起こしちゃったりしたことなのだった。そうして、そのマクルーハンの最初の紹介者が竹村健一だったのである。彼はそれを、学問としてではなく応用技術として身につけたのだった。マクルーハンを一等利用したのは、竹村健一だったのだと思う。……竹村健一をTVで批評するとしたら、タモリのように、つまり竹村健一の所作を浮き彫りにするしかない。しかしそれは、竹村健一を糾弾するのではなくて、視聴者に、あんた方はこれを見ているんだよと、わからせる以外にないのだ。竹村健一は別に大衆をダマしたり、体制の手先になってインチキをしてるワケじゃない。インテリが批判する論理に拮抗する論理を、持っているワケじゃないのだ。持っているのはTVに対する対し方だけなのだ。竹村健一はおそらく、自分のしゃべっていることを信じている。意識的に視聴者をダマそうなどと思っていない。つまり、いってみれば正直な、単なる善人なのであります。

 現代のソフィスト

 古代ギリシャソフィストたちの依拠していた口誦のソフトウェアは、新しく登場したアルファベットのソフトウェアに取って代わられた。ソフィストたちが教育の指導的立場から追放されてしまってから二〇〇〇年を経た二〇世紀後半、ギリシャの口誦の伝統を引き継ぐ一人のソフィストがカナダ・トロントに突如現れた。彼には、グーテンベルク以来五〇〇年間権威を誇ってきた文字文化のソフトウェアが、新しく登場した電気のソフトウェアに取って代わられることが見えていた。文字文化のソフトウェアの上に成り立つあらゆる制度、習慣、権威が大混乱をきたすことが分かっていた。歴史の中に消えたソフィストは、芸術家や詩人に仮装し、生きながらえてきたが、いまや教育の主導権を取り戻すまたとないチャンスが到来したのである。

 プラトンソフィストに浴びせた批判は、二三〇〇年後、マクルーハンが他の学者・批評家から受けた批判そのものである。

 ソフィストの弁論術がプラトンに批判されたように、マクルーハンの比喩とアフォリズム論述形式もまた、論理的でない、体系的でないと批判された。

(略)

 ソフィストゴルギアスは、ソクラテスに誘導されて得意の長広舌を封じられ、一問一答によって論駁されてしまったが、マクルーハンは、ゴルギアスの愚を犯さず、何を言われても隠喩に満ちた長広舌を貫いた。