文豪たちの大喧嘩

谷沢的世界では、坪内逍遥高山樗牛森鴎外、となっております。さらにおまけの人物解説では、漱石>>>(超えられない文豪の壁)>>>鴎外、ってカンジ。あくまでも谷沢エーちゃん仕様ということなので、そこんとこヨロシク。
[あと本では「鷗」になってますがメンドーなので「鴎」で]

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

文豪たちの大喧嘩―鴎外・逍遙・樗牛

無名ブログの悪口にも即レスの森鴎外

 森鴎外にだけは気をつけよと、内田魯庵が皮肉一杯の警報を発した。
 明治二十年代の後半、群雄割拠の文壇情勢を俯瞰しながら、魯庵が別格に厄介者扱いしたのは、論争家鴎外の好戦癖である。(略)鴎外先生は日本第一の審美哲学者、つまり美学の最高権威である。鴎外先生は日本第一の物識りである。注意しておくが鴎外先生は、大阪の山田芝廼園という、一向に知られていない人物を「退治」するのにさえ、前後二十余頁を無駄にした程の大家である。もし一言一句を粗忽に吐いて、先生の御機嫌を損ねるような羽目に立ち至れば、たちまち二十頁や三十頁のお世話をかける恐れがあるから、よくよく慎重に謹しんで、決して危きに近寄るべからず。

狙いは評論家

鴎外は必ずしも猪突猛進型ではなかった。(略)小説に専念一向型の作家を、鴎外は論争の相手には選ぼうとしなかったようである。鴎外の得意は評論の評論、議論に対する批評であった。鴎外が当初から没頭したのは自分に先行する文藝評論家および広義の藝術理論家を、ひとりひとり軒なみに狙い撃ちする掃討戦である。

若造忍月を狙う

石橋忍月がまだ[帝大]在学中、新聞『国会』に入社したのは明治23年11月、時に数え年26歳、ちなみにこの年、逍遥は32歳、そして鴎外も既に29歳である。逍遥は年上であるからまだ我慢できるとしても、ドイツ留学中に自分より三歳も若い忍月が、なんと批評界の第一人者と目されているのを見せつけられて、自負心の強い鴎外は胸中いかがであったか。鴎外が他の誰よりも忍月を、意識せざるを得なかったのも無理はない。そうか、あの忍月程度の者が批評界の覇権を握っているのかと、鴎外は複雑な表情で、相手の陣立てを凝視していたのではあるまいか。

そんなとき忍月が鴎外の信奉するハルトマンをネタにした。時は
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

鴎外の論法は実に簡潔明瞭である。忍月が使ったのと同じドイツ語の原書を手許におき、忍月より長じたりと自任する読解力にしたがって、見るからに足許のふらついている相手方の、早呑み込みや一知半解や省略の不手際を、片っ端から数え上げてゆく摘発作業である。しかし、これではつまり誤読論であって、当時は審美学と呼ばれた美学の論議ではない。

ハルトマン美学の肝は第三巻後篇なのに、忍月ときたら前篇を紹介

前篇のこの部分はハルトマンが、自説立論に備える材料として蒐集抄録寸評した従前の諸家による醜論理論概略史に当る。すなわちハルトマンみずからの本論ではない。この部分だけ瞥見して肝心の後篇まで読み進まなかったから、だから貴様の紹介は見当はずれ、世人を感わす異端邪説なのだ。

何事にも言い募るのを好む鴎外であるが、特に忍月に対する時は、かくのごとく敵意が烈しくあからさまで、なさけ容赦なく残忍でしつこかった。

啓蒙家って何かね

果して鴎外の実像は、賞辞としての啓蒙家の名に値するであろうか。(略)鴎外にとって枢要である筈の「審美学」とは(略)斯界の定本と認められるドイツ語原書に、その本文に通暁することであった。その論旨をただの抽象的な型に嵌った理屈として、威嚇的に振りまわしてみせることであった。読者の知らないヨーロッパ学界の“権威ある学説”を、仰山たらしく原語を鏤めながら、一方的に復唱してみせることであった。ただそれだけであったように思われる。(略)
だが一体、啓蒙家とは何か。自分の思慮は秀れて正しいと、衆を見下して教え導かんとする、その傲慢の根拠はどこに見出せるのか。

やりこめられた忍月、だが逆襲のチャンス。「舞姫」キター。女をポイ捨てって、人としてどうなのかしらと迫る。ストーカーされる側の身にもなれと糾弾された猫猫先生のようなもの。
(さらに余談だが悲望における著者と評者のズレが何かということに関して書こうと思ったことはあったのだが、なにせビミョーなとこなので、そのうち)

なにしろ論敵の言い分が初めから無茶である。太田がエリスを捨てたのはけしからん、さあ申し開きがあるなら聞かせよ。要するに砕いて言い直せば、形式道徳の嵩にかかった詰問と変らない。話が違う、次元は別だ、小説は修身の教科書ではないんだと、もちろん鴎外は言い返したかったであろう。しかし鴎外がこの時はたと困感したのは、道徳論と文学論を区別する常識の大前提が、まだ確立していないという嘘のような現実であった。鴎外は凝然として立ち竦んだのではあるまいか。
 急いで言い添えるなら忍月といえども、最初からわからずやの道学者として攻めこんだのでは絶対にない。かりそめにも忍月はドイツ文学仕込み、『浮雲』をいちはやく「真小説の体裁を備ふるもの」と喝破した新文学の目利きである。
(略)
ようやくつつきだし得だのが「支離滅裂」という罪状、つまり太田が人変りしたかのようにエリスを捨てて帰国するのは不自然だという指摘であった。議論の本旨において忍月は、文学論の枠組みを踏み外していないつもりであったろう。

「恋愛か功名かなどという、厭味な忍月の書生論」をいかにして粉砕したか。
即レスがモットーの鴎外も痛いところつかれ二箇月も煩悶。まずは忍月の指摘のうち論破できるものを先に論破し、忍月旗色悪しと世間に印象付ける。
そしてウィークポイントを最後に持ってきて、
太田は真の愛を知らなかったのです、と開き直った鴎外。

 太田が真の愛を知らぬ者なら、第一に、恋愛か功名かを仰山たらしく問うのはお門違いと斥け得るし、第二に、太田の進退に撞着があっても、作品構成の手落ちを言い立てる咎めは成り立たず、すなわち作者の構想力および描写力の不足を責める根拠が消える。忍月の質問第一条は読み違い故の空振りと憫笑され、加えて忍月は哀れにも「情を解すること浅き人なり」と軽蔑される羽目に至る。鴎外は思いをこめた処女作の主人公に、真の愛を知らざる者と自ら貼り札する苦肉の一策によって、忍月の批判立言それ自体が根底から無理無意味であると、言葉の上だけで形式論理の火遊びを試み、どう答えても不利が予測される厭な質問から、一挙に身をかわす妙案を実演してみせたのである。

うーむ、引用が長いせいか全然終わらない。
「鴎外vs逍遥」は明日に続く。

  • いい話、だけど笑える

WIKIの落合読んでたらw

現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなってしまう事態になった。その時、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。稲尾は落合の練習をずっと見守っていたのである。落合の稲尾への私淑はこのときがきっかけだという。

100球制限なのに投げちゃう兆治、援護HRを約束して実行しちゃう博満