安井かずみがいた時代・その2

前回の続き。

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

安井かずみがいた時代 (集英社文庫)

 

内田宣政談

(1995年安井の写真が必要になり)加藤さんに聞いたら『全部処分しちゃった。まったく一枚もない』と平然と返ってきたので、ちょっとびっくりしましたね。これは想像ですが、加藤さんは安井さんに全力投球したように、中丸さんにも全力投球したのではないでしょうか」(略)
[二人の]噂の広まりを案じた内田が加藤に「付き合っている人がいるのか」と遠回しに確かめると、加藤は「どうしたらいい?」と相談をもちかけてきた。
 「加藤さんは、もう公表したかったんです。そこで、僕が顔見知りのフリーの編集者に頼んで、『フライデー』にツーショットを載せてもらうことにした。ただ、加藤さんは写真が撮られる場所が六本木あたりでは嫌なわけで、ヨーロッパに行くからそこで撮ってくれということになりました。女性マネージャーが二泊四日でイタリアヘ飛んで、写真を撮ってきて、それを『フライデー』に出したんです。
(略)
 中丸との結婚発表の記者会見で、「安井さんのことはどうなるのか」と質問を受けた加藤は、「安井のことは完結しました」と答えている。
 「安井さんの周囲の女性たちはみんな怒りましたよね。怒らなかったのは、渡邊美佐さんだけだったと聞いています。美佐さんは『あれだけ一所懸命尽くしたんだから、いいじゃないの』とおっしゃっていたようです。
(略)
[中丸との結婚後、公式の場で安井の話をすることを拒絶していた加藤]
 「ところが、亡くなる一年前ぐらいから僕にも安井さんのことを話してくれるようになったんです。『最後にハワイに行った時、すごく元気になったのでこのまま治るんじゃないかと錯覚した』とか。夫婦共作には行き詰まりを感じていたようで、『僕は安井の詞じゃないと曲を書かないなんて言ったことはない。ただ、仕事を断る方便としてそういう言い方をしたのは確かだから、それが音楽業界に広まったのかもしれないね』という話もしました。晩年安井さんが加齢で悩んで鬱っぽかった、とも言っていましたね。加藤さんが亡くなった年の安井さんの命日には、『今、ZUZUの墓参りしてきたんだよ』と言っていました。思えばあの頃から、彼は死に向かってスイッチが入っていたのかもしれません」

浮気

[矢島祥子談](安井のエッセイを手がけた編集者)
 「あくまでも私の推察ですが、安井さんが六本本の家を買ったのは、加藤さんとの関係を再構築するためだったんじゃないかと思います。結婚して数年たった頃、加藤さんの浮気問題に、安井さんはひどいショックを受けた。それから加藤さんは携帯電話を持たされるんですが、電話に出ない時もあって、その度に安井さんは混乱したと聞きました。だから二人の関係を立て直す必要があった。川口アパートはやっぱり彼女の家だから、加藤さんと家を構え、加藤さんを家長として立てようとしたのでしょう。
(略)
[84年梓みちよ『耳鳴り』の歌詞は、男の浮気を知り、泣くだけ泣き、思い切り笑い、「耳鳴り しただけ……」というもの。]
 安井と加藤のカップルが週刊誌を賑わした頃から、傍目には、キャリアも収入も上の女が年下の男をリードしているように映っていた。だが、「彼女なしでは暮らせなかった」はずの親友とも疎遠になり、気がつけば安井の人生は加藤を中心に回りだしていた。愛して欲しいと願った瞬間、人は自由を手放すのである。ただ一人の男が他の女に気持ちを移した瞬間に、二人のパワー・バランスは完全に逆転し、あの自由奔放な人でさえ自我を折り、夫の顔色をうかがいはじめて萎縮していったのだ。曲を作った加藤は、どんな気持ちでこの詞を読んだのだろう。
 だが、世間はそんなことは知らない。バブルの狂騒曲が鳴り響く日本で、ブランドを着こなした安井と加藤が、時代の先端を行くカップルとして雑誌や広告の中で肩を寄せ合っていた。夫以外の作曲家の曲に詞を書かなくなった安井は作詞家として現役感をなくしており、加藤と夫婦を生きることがアイデンティティになっていた。

吉田拓郎

 「加藤和彦という音楽家の才能は、日本では唯一無二なものだと思っています。たとえば十人の歌手がいた時、その十通りの歌にランクをつけて一曲一曲こうすればよくなるということを即座にできる。未だにJポップスというものはほとんど何かのコピーにすぎないんですが、その元である音楽を全部彼は頭の中に叩き込んでいた。『結婚しようよ』も僕の曲想はもっとフォーキーな感じで、スリーフィンガー奏法でギターを弾いたデモテープを渡したんですが、スタジオに行くと彼のアレンジで華やかに彩られた世界になっていた。ああこんなに変わるんだ、凄いなこの魔術はと思った。彼がスタジオで一個一個音を作っていくのを目の前で見ながら、こうやって音楽は作ればいいんだとショックを受けるわけですね。そこから僕は自分で音楽をやっていく自信がついたんです」(略)
 「僕が[ギブソン・J−45を]欲しいと言ったら、『探してあげるよ』と言ってわざわざ持ってきてくれた。ほろっとするような優しいところのあるヤツなんです。ただ、優しすぎて弱い。離婚した時、ミカさんがロンドンに行って彼が東京に残された半年間、僕は砧のマンションに通って、憔悴し切ってめそめそしている加藤に付き合っているんです。部屋の中には『それ、捨てろよ』と言いたくなるようなミカさんのものがいっぱい置いてあった。(略)
雑誌ではヨーロピアナイズされた粋な男のように書かれているけれど、むしろ鈍臭くて、女から見て魅力を感じるわけがないんですよ。だから、自分より先を歩いてくれる女じゃなきゃダメな加藤がZUZUを選んだのはわかるんですけど、歴戦の兵のZUZUがなんでそんな頼りない男に熱を上げたのか。さっぱりわからない」
(略)
[86年『ジャスト・ア・Ronin』制作で二人に久々に再会]
お酒が飲めなかった男がワイン通になっていて、えらく一流好みになっていた。(略)[一家の長という]演技としてもあったんだと思うんですが、ZUZUに『君、それはおかしいからこうしなさい』と命令して、彼女が『ごめんなさい』と言う姿を見て信じられなかった。(略)
 バブルの時代が始まっていた。(略)しばしば女性誌のグラビアを飾るニ人の暮らしぶりを間近に見た彼は、自他共に認める日本一ゴージャスでお洒落な夫帰にどこか空虚さを感じずにはいられなかった。(略)
家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。普通、夫婦で十年近くも暮らせばもうちょっと漂ってくるものがあるけれど、それがまるでない。もっと言えば、あの六本本の家には暮らしなんて存在していなかった。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。そんなものやるわけがないはずの加藤がZUZUと一緒にテニスやゴルフをやっていたのも、僕には、関係を維持するために必死になって共通の話題を作っているようにしか見えませんでした」
(略)
[さらに加藤プロデュース、安井作詞によるNY録音の吉田拓郎アルバム『サマルカンド・ブルー』を制作]
「もうやる気がなくて、いろんなものからリタイアしたいと思っている時期だった(略)
加藤がえらく熱心で、やらせろ、やらせろと。僕はレコーディングも日本でやりたかったのに(略)
相変わらずフォーキーなことに拒絶反応を示す女で、彼女は依然として『吉田拓郎』というのはフォークソングだと思っていたので、『僕のはよく聴きゃリズム&ブルースとかいろんな要素が入っているんだから、聴けよ』と言ってケンカになったり。
(略)
 レコーディング中、歌手の歌い方に注文をつけるなどしたことのない安井が、拓郎には何度もダメ出しをし、「あなたはライオンなんだからもっと雄々しく」「もっとセクシーに」を繰り返した。(略)
 「レコーディングの風景まで含めて、これはどちらかと言うと失敗作ですね。何がどうなんだということがあのアルバムからは聞こえてこなくて、僕自身、ステージでこの中の曲はほとんど歌っていません。ZUZUに言われて、セクシーに雄々しくやったつもりだけれど、歌いながら、俺を沢田研二と間違えてるんじゃないかって思ったし。彼女の持っていた音楽センスや詞のセンス、僕に求めてくるリクエストは、一時代前のものでした。悲しいけれど、ZUZUはそれに気がついていなかった」(略)
[さらに加藤はスタッフに服装や立ち居振る舞いを注意]
 「レコーディングで来ているスタッフにスーツを着てこいというのも無茶だし、存在の仕方がよくないと言うのはもっと無茶だと僕には映りました。なんであんなことを言わなきゃいけなかったのか、未だにわからない。彼らはニューヨークにがんじがらめになっていて、すごく形にこだわっていた。
(略)
[93年三度目の邂逅]
ZUZUはもうお酒は飲まないで、煙草も吸わないで、何かを覚悟していたのかかなり加藤に厳しいことを言っていました。『拓郎くん、トノバンに言ってあげて。ちゃんと歌やれ、音楽一所懸命やれ、もっとしっかり歌え、男らしくしろって』と。本気で、『だらしないから怒ってくれ』と言うんです。彼女は最初から加藤のそういうところはわかっていたはすなのに、最後になって口にするようになる。加藤は才能の割には意外とヒット曲は少ないんですね。安井かずみ阿久悠とかと同一線上にいるビッグネームで、加藤和彦筒美京平と並んでもいいはずなのに、そこにはいない。どうも正しい評価がされていないんですよ。それは、彼の作った曲は遊びが過ぎたり余裕があり過ぎて、最終的には誰もわからないものになってしまったからです。『お前の音楽はわかんないんだよ』と言うと、『わからないお前たちが悪いんだよ』と言っていました。
(略)
[70年代を回顧]
「あの時代を東京で遊んでいたヤツらって、みんないいヤツでニコニコしていたんだけど、どこか哀しいんです。その中でも最も哀しいのが安井かずみでした。安井かずみというといくつもフラッシュバックしてくる映像があって、お前、哀しすぎるよというのがありますね。愛しくて、可愛い人です」

オースタン順子談

 バブルの日本で、安井と加藤は自他共に認める最高にお洒落なカップルであった。メディアを通して見えてくる二人の暮らしは、「幸福」と「充実」と「達成」を象徴して、世界のトップに立った日本と二重写しのようであった。だが、安井は妹にだけは本音を漏らすことがあった。
 「姉は電話で私に『順ちゃん、表向きはそうやっているけれど、そんなもんじゃないのよ』と言っていました。誰にでも表と裏はありますけれど、二人は理想的な絵の中に自分たちが収まるように演じていたところはあったのでしょう」
 そして、その二人の演技は安井が亡くなるまで続いたのである。
(略)
「姉のいないところで家族会議がもたれたんです。加藤さんは余命[八ヶ月]のことは知らせない、生きる希望を持たせたいからだと言いました。でも、私は姉には知る権利があると、強く主張した。姉は物を書く人ですから、自分の命の終わりが見えたら、きっと書き残したいことややっておきたいことがあったはずです。かなり議論しましたが、彼はがんとして聞き入れませんでした。彼は母が姉に会うのも『やめてくれ』と言いました。母が泣いてしまうから、って。彼が姉のことを考えてくれているのはわかりました」
(略)
 食事をしている最中、安井が「安井かずみがいなくなっちゃう」と突然泣きだしたこともあった。肺ガンとわかる前から、彼女の精神は不安定になっていた。ただ順子には、姉が自分の病気をどこまでシリアスに受け止めているのかわからないところもあった。
(略)
[再婚後]順子たちとの交流はぷっつり絶たれてしまった。
「(略)中丸さんとの結婚記者会見で、彼が『安井とのことは完結しました』と言った時は、ショックでした」
 けれど、順子は加藤を恨むことができない。それは、彼が姉との生活の中で耐えていたものがあることを容易に想像できるからだ。安井の誕生日に加藤がバースデーケーキを予約し忘れた時、友人たちの前で激しくなじられる彼の姿も目撃していた。
 「姉は本来優しい人なのですが、酔うと身内に対して攻撃的になりました。(略)
私も母もやられて、何度も泣かされました。だから二十四時間一緒にいる人は大変だったと思う。そういうことがわかっているので、母は加藤さんには心から感謝していました。私も、最期の時まで姉の理想の生活に付き合って夫役を務めてくれたこと、姉も最後まで演じきりたいと望んだことだったろうから、それは本当に感謝しています」

渡邊美佐

加藤は早くに、美佐には中丸のことを打ち明けていた。
 「会ってくれと頼まれて、会いました。私もびっくりしたのですが、加藤さんがすっとZUZUに尽くしていた姿も見ているので、責めたり、怒ったりする気にはなれない。こういうこともあるかと自分に言い聞かせました。その後も驚くようなことが結構続きました。ある日、『僕、アメリカ人になっちゃった』と言ってきたり。中丸さんの籍に入って、KAZUHIKO・KATO・NAKAMARUという長い名前になっちゃったというの。気持ちの切りかえが早くて、常に一所懸命。彼はそういう人でした」(略)
亡くなる数日前、彼は美佐の会社を訪ねて経済面での助けを求めている。加藤が最後に頼ったのは、美佐であった。
 「助けましたが、それだけでは救えなかった……。ZUZUも加藤さんも、黙って呑み込んで受け入れなければならないことも沢山あったけど、一緒に愉快な時間をたくさん過ごしてきた。今となってはすべてがいい思い出。うん、とても素敵な人たちでしたよ」
 数多のスターを世に送り出してきた人はそう言って、サングラスの中から静かに笑った。