鈴木清順 総特集 (KAWADE夢ムック)

清順、ひとり語り

◆脚本とのつきあいかた◆
 会社が持ってくる脚本だから、そりゃ撮りますよね。雇われてるんですから。脚本を敢えて壊すなんてしませんよ。でも、今みたいに著作権がうるさくなかったから変えてはいましたよ。「号外」出して。脚本は監督が自由にするもんだ、と思っていましたから。いま考えれば、監督にとって良い時代ですよ。
(略)
◆『束京流れ者』の幻のラストシーン◆
 あの時、会社を首になると思ってたからね。オールラッシュの時に、そう思いましたから。本来のラストシーンは徹夜して撮ったんですが、会社から大目玉を喰いまして、撮り直したんです。江守専務は割と味方してくれた人だったけど、この時は違ったね。シーンが分からないというより、渡さんをスターに売り損なったと思われたんですね。会社なんだもの、しょうがないですね。
(略)
(註1)「『束京流れ者』のラストは世界の終焉の様な廃墟となったセットで白い道が続いているという「無常観」漂うものであった」と木村威夫

  • 自選エッセイ

人生の無駄

 青い空に、白い雲が動いていた。そいつは窓にもたれていつまでも動く雲をみていた。
(略)
「何を考えていたんだ」
「考える?何も考えちゃいないさ。みてただけさ。汽車をみてただけさ」
(略)
 「おれはこのごろつくづく便所の金かくしになりたいと思う。変な意味じゃないんだ。(略)
あいつはずっとあそこにしゃがんだままだ。何も見ない、何も考えないってことは実にすばらしいことなんだ」
 そいつは兵隊に行った。南方のある作戦に参加した時は見習士官になっていた。そして捕虜になった。どういういきさつがあったかしれないが、戦後、そいつは気狂いになって帰って来た。(略)
 「(略)気狂いになりたいと叫んだ戦友は、気狂いにもならず戻ってきましたが、あの子だけは気狂いになって帰って来ました」
 精も根も尽き果てた感じの母親が言った。そいつは家にいなかった。そいつは精神病院にいた。
(略)
 夕焼け雲が赤かった。私は夕焼けの色を見て歩いていた。(略)
拷問による肉体的苦痛から逃がれる以上に、そいつは考えることを止めちまおうと努めたのだ。金かくしになろうとしたのだ。そしてそいつは金かくしになった。しかし(略)完全な金かくしにはなれなかった。なぜならそいつにはまだ目がある。雲や山や川やリンゴの花を見る目がある。そいつはその目を潰して貰いたいんだ。奴の目を潰す役目が私なのだ。いつか奴を気狂いにさせた役目を背負った男とおなじように、そいつは私にそいつの目を潰してくれといっている。
 私は駆け出していた。そいつの母親が言ったように、人生を徹底的に無駄にさせる男が私であることは恐ろしいことだ。(略)
そいつが真っ赤な雲の上に現われ、軽蔑しきった目で私を見た。私の足は止まった。夕焼けの裾がずっと広がる森のかなたを、汽車が真ッ赤な煙をはいて走っていた。シュッシュッポポ
(略)
 逆らっても無駄だ、あがいても無駄だ。無駄のなかに生きている私が、無駄を承知でいま、ある裁判を起こそうとしている。(略)

ゆき あめ かぜ

 六三年十月、信州、丸子宿の旅龍の外は雪だった。畳の目だけがいやにはっきりした黒いフォルムの中で、伊藤弘子が濃艶にいかさま賽をふった。黒い雪の幻想はやがて赤い雪にかわり、小林旭は安部徹を東京水天宮の自宅で叩き斬った。撮影者峯重義は慎重に雪の白さを計量した。雪が事件を虚構してゆくことを、彼は誰よりもよく知っていた。雪があるからこそ伊藤弘子はそこにいた。小林旭はそこを歩いた。雪は彼等の心象に近い。しかも画の上で弘子も旭も雪を意識してはならない。彼らのひたすらな目的は賭けることであり、斬ることである。雪は目的と行動を包摂したその先のところで霏々として降らなければならない。
(略)
 雨は細く、馴染み深い。極めて追想的で、雨が血を洗うとは、よくその性格を表している。雨はやくざの行為のあとに降る。雨が降るから殴り込みをかけるのではなく、殴り込んで気が付いてみると雨が降っていた。
(略)
 六四年九月、峯重義は全く調子が悪かった。愛用の擦り切れた支那鞄にはごってり薬が入っていた。調合される薬の色は雛あられのようにきれいだったが、画は荒れた。私も荒れた。荒れついでに旭と英樹の乗用車を大濤の中で走らせた。雨をかけた。プロセスバックのフロントグラスにぎらぎらした異様な雨が流れた。青い胡麻油を流したような雨だった。奇蹟だ、峯は興奮して言った。前作『肉体の門』で、精液をグラスワークで撮影し、幾度も失敗したあとだけに、計算外のこの色は、俺たちの血の傑作だった。
(略)
 今度は風だ。どこ吹く風だ。日本に何故砂漠がないんだろう。砂漠に立って、砂漠を吹く荒涼たる風を見たら、人は神を信じない訳にはゆかぬだろう。神は風である。虫けらみたいな人間を、神は歯牙にもかけない。

異説 松竹学校

清順はどこからやってきたのか
 

西河克己井上和男+高橋治+篠田正浩
(司会)佐藤忠男

佐藤 西河さんが清順さん達を日活へ引き抜いたわけですが、松竹はとくべつ給料が安かったんですか。
西河 安かったんです。みんなを引き抜くためには、お金で釣るしかないんだから。日活は松竹の三倍という非常にいい条件を提示したんです。
篠田 あのころの松竹は、小津安二郎を頂点にして、渋谷実木下恵介から並びがダーッとあって、助監督の上が小林正樹野村芳太郎っていうクラスですからね。もう、ぼくらは重力を感じていたわけです。だから野村芳太郎さんの世代が監督やるなんていうのは、もう僥倖に尽きる。(略)
日活で監督がすぐやれるよというのでスカウトされるなら、あんなに給料は出さなくてもみんなダーッと行ったと思うんですよ。
(略)
佐藤 具体的に清順さんは、大船のヒエラルキーのどこにいたんですか。
篠田 説明しますと、私が入った年にはすぐ上に今村昌平さんのクラスがあって、その上のクラスに松山善三井上和男中平康、斉藤武市、そして鈴木清順といて(略)
その上に野村芳太郎とか小林正樹っていうのがいるでしょう。その上が西河克己さんで。
西河 ぼくは十四年入社なんです。清順たちが二十三年入社で、今村が二十六年入社、篠田君と高橋君が二十八年組なんです。
(略)
篠田 詩人っていうのは格好いい言葉で、破滅系なんですよ(笑)。織田作之助とか太宰治のタイプで。
(略)
井上 (略)清順はどちらかと言えば慨嘆派の泣き虫詩人なんですよ。いろいろあざといことをするのが中平で、堅実なのは武市。ぼくや松山はどちらかというと理論派に近い方なんです。いや、オレは武闘派かな(笑)。
(略)
佐藤 とすると、清順さんは大船時代にはこれといって目立った人ではなかったんですか。
西河 なかったですね。
高橋 ましてこんなに耽美派になるような気配はまったくなかったね。
(略)
西河 大船は非常に文学性を基調にしていたということですね。それが一番よく現れているのが助監督から文筆業者になった人が高橋君をはじめ、山田太一もすべて成功している。
佐藤 具体的にはどういったことから生まれた文学性なんてすか。
西河 それは入社試験において作文を重視したっていうことです。(略)
二百点満点で百点は作文なんです。五十点は語学で、もう五十点は常識問題で。だから作文がいいと非常に成績がよくなって、ぼくなんかも作文がよかったから入れたという口です。
佐藤 それを採点したのは先輩たちですか。
西河 そうです。
井上 大島のも高橋のも篠田のも、みんなの作文はほとんどおぼえています。これは絶対採ろうっていうのはある程度、創作文にどこか輝きがあればみんな採ったものですよ。
(略)
篠田 (略)だから鈴木清順さんがあのまま大船にいたら、そのまま腐って三奇人に入る寸前だったと思いますね。
高橋 日活によって人生が変わったんだね。
篠田 そう、日活っていう触媒があってワッと転移できたんですね。
高橋 後年の清順さんらしいものは大船では感じなかったし、ましてあれだけ達者にこなしていくとも考えられなかった。
(略)
井上 その崩壊の一つは城戸さんの衰えみたいなのもあるんだけど、吉村公三郎さんと新藤兼人さんを追い出したでしょう。あのときから崩壊ははじまっているんです。
佐藤 城戸さんぐらい大勢人材を育成した人もないけど、あの人ぐらい大勢追い出した人もないですね。
井上 そうですね。その追い出すのに彼自身の衰えがあるわけですよね。城戸さんは自身の衰えを自覚していないから、自分と合わない人は全部クビにしていくわけでしょう。ぼくはクビになったときに城戸さんに面会を求めて松竹本社に行ってね(略)
城戸さんが言いたいことは何だって聞くんです。だから城戸さんは少し茶坊主に囲まれすぎていませんかって言ったんです。そうしたらどういう意味だって言うから、城戸さんに反発する人の首を切るのはおかしい、こんなことをやっていると松竹がだめになるんじゃないか、映画史に燦然と輝く城戸四郎っていう名前を汚さないようにして下さいって言って帰って来たんです。好きだったですからね、城戸さんを。
(略)
[日活と松竹の社風の違いは]
西河 やっぱり松竹は学校ですよ。しょせん夢の学校ですよ。もうそれ以外の何でもないっていう。日活の場合はたとえば五十万のギャラがありますね。成績がいいと百五十万にすぐしちゃうんです、その一年間の中で。そんなこと松竹では絶対しません。(略)
井上 勉強させてやってるんだっていうのがどこかにありますよ、松竹は。
(略)
佐藤 今村さんが日活へ行って非常に違うと思ったのは、松竹ではこういうことをやっちゃいかんとかああいうことをやっちゃいかんということばかりだったけれど、ここは何をやっても構わないっていう気分があった
(略)
西河 何やってもいいんです。ただ当たればいいんですから。当たらなかったらポイなんです。当たれば、おお、大したものだと誉められる。松竹では(略)一回当たっても、何かお茶を濁すようなことを言って
(略)
井上 大船と京都の違いがあるんです。同じ松竹でも大船出身か京都出身かで。
佐藤 大船の方が偉い?
井上 偉いというか、格上に見られていた。
西河 大船は日本一の撮影所だと思っているんです。大船の人たちは松竹京都を日本映画最低の撮影所だって思っていた(笑)。
高橋 その説はかなりいい線ですね。京都の撮影所に行ったら、盆暮れに現ナマが飛び交っていて。あれは忘れられないもの。(略)つまり、京都は役者からの付け届けが現ナマで来るんです。
(略)
高橋 大船だったら監督になれたかな、あの人。
西河 中平や清順は、誰が監督になったっておれたちは十何年も待っているんだから、とんでもねえ話だって言って日活へ来た一面も強かったね。
篠田 あの頃、ちょうど軍団の争いみたいに大船撮影所には木下、渋谷っていう対立がしっかりあって、これがなかなか文学的だった。そこでいろいろなゴシップが乱れ飛ぶわけです。(略)
[モダニストが集まるレストランで]
渋谷さんが手にしていた掛け軸を見て、「木下君、この絵誰が描いたかわかる?」って聞いて、言葉が詰まって以来、木下さんは渋谷さんを憎悪するようになったって(笑)。いかにも写真学校出の木下さんと慶應大学文学部出身の渋谷さんとの学歴の争いもあってね、ぼくはたぶんそれは嘘だろうと思うんですけれど、それが本当に真実に響くからね(笑)。
(略)
西河 渋谷さんと木下さんも変に仲良くなって(笑)、そういうのを繰り返していましたよ。だから女の子が重箱の隅をほじくるようなところがあるんです。それに比べると日活はすごく男性的でしたよね。
(略)
佐藤 日活はそういうねちねちしたことはないんですか。
西河 ないんです。シンボルが裕次郎ですからね。ぼくは裕次郎って一種の社会革命だと思います。必ずしも映画界の問題ではなくて、あれで若い人がみんなころっと変わったんですから。(略)
そのかわり、日活はコケるときも早いからね。いっぺんにコケちゃうけれど、松竹はなかなかコケない形で残っている。そういう巡り合わせがよかった人と悪かった人がいて。鈴木清順なんかは日活へ行ってよかった、中平もよかった、斎藤武市もよかった。
(略)
西河 彼はクビになったから有名になったんでね。
篠田 あの事件がなかったらね。
西河 『けんかえれじい』が最高の作品になっちゃってね。
井上 すごく対照的だよね、中平と清順と比べたらね。
西河 中平みたいに派手に支流を歩くとか本流を歩くとかっていうところが全然ない。中にはさまったのが斎藤武市っていう感じでね。清順は、クビになったり、裁判になったりしたことが大きい。

対談:森卓也石上三登志

石上 火の見櫓のシーンなんかも、明らかに黒澤明の『用心棒』のパロディなんですね。あれなんか、いまの人が分からない当時の映画界の空気感から生まれたものですものね。私らが鈴木清順を評価した時代は、日本映画は黒澤・木下・内田吐夢今井正・小津で代表されてるんだという空気があったんですよね。この人たちが優れた映画監督だということは分かっていても、それが全てだという空気にこちらは反感も持っていたわけですから。そういう風なことを我々が語っていたのを、清順監督たちは聞いていたんでしょうね。意図的にああいうシーンを作ったということはね。
森 そうですね。あの火の見櫓っていうは、現場で木村さんが出したアイデアだったらしいですね。楽しんで作った形がありますから。(略)
最後の決闘では片目片腕のが現われるのは、さすがに会社が許さなくて『丹下左膳』のポスターだけが残った(笑)。清順さんて、そういうことが時々ありますね。それだけでは何も意味をなさない画が残っているという。“尾てい骨残存現象”といいますか(笑)。
(略)
森 (略)松竹時代に木下恵介が、この上なくむさい助監督鈴木清太郎(清順)を見て「ああいうのはウチでは使わないわよ」と言ったとか(笑)。(略)
老けたふりするのが好きだし。六五年にお会いしたときは、まだ四〇代なのにいまの僕より老けて見えたなあ。

座談会:鈴木清順木村威夫石上三登志佐藤重臣

鈴木 木村さんも僕も大正ロマンチシズムの部に入りますね。大正ロマンチシズムの残党ですよ(笑)。
佐藤 それに現代の感覚が組みこまれるので非常にとまどうものがあるんですよ。
木村 いや、それを拒否しようと思っても自然に出てしまうんですよ。知らないうちに出てしまうということは体質というか、そういう年代に生まれたものの宿命ですね。だけれどもそれを美に持っていこうとする気持は常にありますね。文学的な思想に傾注していくより、視覚芸術としての絵の美を、今はあまり大切にしていないようだけれども、育てることを怠ってはいけないと思うんですよ。
鈴木 (茶碗をさして)こういうものを見ても今の人は、ほんの表面、きれいならきれいだということしか見ないような気がするのだけれども、実際に茶碗の好きな人は、手にとって見てここにはこういう絵がある。底の方にはヘソの緒がある。手垢にまみれたヘソの具合、そういうことに引かれる気がしますよね。
(略)
木村 (略)南方の土人芸術なんか、木の板を彫刻していって、大きな節がとれなかった場合、その節が目玉になったりする。偶然に表現形式が変わっていってしまう。
(略)
鈴木 そのいい例が、小林旭高橋英樹の『俺たちの血が許さない』だ。あの中の自動車のシーン。あれはねらっていたのではない。どうしてもむこう側が海で、こっちが自動車で動きがとれない。しょうがないからこっちへ雨降らせといったら、ああいう効果になった。

日活映画の中の清順映画

対談:大林宣彦石上三登志

石上 (略)[「映画評論」の投稿で「東京流れ者」の]結末での色が真っ白っていうのは、力のないこと夥しいと(笑)。で、後に監督によそのことをいうと、監督はその頃まったくやる気を失われていて、ビルの管理人にでもなろうかと思っていたと仰って(笑)。
(略)
大林 (略)そこをとば口として語ってみるなら、つまり『ツィゴイネルワイゼン』以降は間違いなく「住居人」の映画であって、それ以前のものは「管理人」の映画でしょう。『殺しの烙印』は「住居人」になりかかった映画じゃないのかな?ぼくは当時観て違和感ありましたよ、やっぱり。当時の日活が作品を凍結して出さなかったというのはとんでもない話ですが、そういう風な目に遭うだろうな、という予感はありました。そういうヤバさはあったよね?
石上 ありましたね。『殺しの烙印』まではすべてお仕着せのシナリオでしたからね。最初からやりたくてっていうものはなかったはずです。で、最後の『殺しの烙印』でオリジナルの脚本になる。具流八郎一派ですね。そこんとこが、大林さんの感じたヤバさに繋がってきたんじゃないですか?
大林 初めて観客としてのぼくが疎外された作品と感じましたね。管理人が突然住居人になって、自分のやりたいことを始めた。案外、映画監督というのは、自分のイメージ通りに自由に撮ると、かえって不幸になっちゃうということがあるんですよ。それは映画という制度の問題じゃないのかな?
(略)
日活は殊に「スター・システム」が定着していた。(略)[スターというわがままな]住居人をいろいろうまく管理して無事に一本の映画を作る。こういう職業としての監督のあり方は、撮影所システムが崩壊した後の、今の若い人たちには、きっと実感として理解できないでしょうね。しかしその管理術が、プログラムピクチュアという、一本背筋の通った、しかたかな映画群を生んでいた。ぼくらが日常見る「映画」とは、そういうものだった。ぼくらはとりあえず「日活映画」を観に行ったのであって、その中で「鈴木清順」という人が「監督」したものを、殊に面白く観ていた。
(略)
ツィゴイネルワイゼン』からはもう管理人を首になったんだから個人映画でよいのだけれど、それにしても清順さん、ペントハウスというより屋根裏部屋の住居人になっちゃったなあ(笑)。まるで世捨て人です。これはもう後年の黒澤作品と同じで、日活時代の清順映画とは別の映画。(略)
清順さんの場合はファンが変えたという面も大きい。
石上 『けんかえれじい』あたりから、周囲がなっちゃったような気がする。前から好きだった私なんかは戸惑ったなあ。
大林 ただ六〇年代のその騒ぎは、プログラムピクチュアの世界での出来事だったからまだ安心できたんです。今の若い監督たちが、どこか孤独なのはその制度を持ち合わせてないからなんでしょう。枠組みがないと。
(略)
そこに褒め殺し集団が生まれるわけですよ。特定の人が特定の作品を褒め上げていく。作家も観客も孤独だからお互いが寄り添いあって誉め合っているうちに、ますます映画が孤独になっていく。そこにはヤバさすらない。これでは映画が単に「オタク」の愛玩物になって、ますます観客から離れていく。六〇年代の清順映画のヤバさはね、ある種の、アナーキーな活気だったんですよ。で、「キネ旬」のように清順映画とは無縁のジャーナリズムがちゃんと別にあるなど、そういう「体制」のあり様も一種の健全さであるといえた。つまり「役割」のバランスが、それぞれによくとれていた。
(略)
清順さんの色を語るなら、『肉体の門』の色分けや『関東無宿』のホリゾントの赤などといったわかりやすいレベルではなく、何となく撮ったと思われるような空の色が実はとても綺麗なんですよ。少女が二人で縁側で話している日本家屋の庭の色が抒情的であったりね。『俺たちの血が許さない』や『花と怒濤』あたりのちょっとしたスケッチがとっても良いんですよ。昔の講談社の絵本みたいな色でね。色が他の映画と違うのはそこであって、耽美と表裏一体の抒情が表現されていたんですよ。本当に良いと認めなきゃいけないのはそんな所であって、『関東無宿』の小林旭の登場する渡し船の川面の艶とか空の色とかを褒めないと。
(略)
清順監督における木村威夫さんの存在を考えてみるとこういうことが言えると思うんです。美術監督というのは、本来プラグマティストなんですよ。「実用主義」。だって、そういう職能ですものね。それに対して映画監督というのは、リアリストかロマンティストなんですね。まずは観念が先行する。ところが清順映画の変さというのはね、プラグマティストの映画だからなんです。木村威夫さんという美術監督を自分のパートナーにしてしまうということをやってしまう。シナリオライターキャメラマンではなくね。そういうところからプラグマティズム映画が現出したんです。黒澤明さんは傍らに音楽監督を置いた。黒澤監督はリアリストのように考えられていたけれども、これは大ロマンティストですよ。
(略)
ぼくはキャメラマンとはロケハンに行かないんですよ。ぼくは美術監督と出かけるんです。(略)
キャメラマンと行くとね、最初からもう映像になっちゃう。現場でものを創る楽しみが無くなるんです。ところが美術監督と行くとね、そこでまた物語が生れる。シナリオライターの作り出す観念としての物語ではなく、極めて具体的な現場での、人や物との関係のドラマが生れる。それを俳優や、天候や、予算やスケジュールの中で、色いろ工夫する。で、最後に、キャメラマンが来てそれを写す。現場の条件をむしろ取り込んで積極的に活かす、という主義です。(略)
シナリオ集団には怒られるかも知れないけれど、あんまりつじつまの合っていないシナリオか、そのまんま撮ったら当り前過ぎて面白くもおかしくもない状態のシナリオ持たせて、清順さんと木村さんを現場に放り出しちまえばいい(笑)。
石上 (略)そんなことの一番最後が「続けんかえれじい」……。戦争なんか格好良くない。分からないという視点で考えろってことでしたね。清順監督は具体体的には“藁の山から針を探すような馬鹿々々しい戦争映画”って仰ってましてね。
大林 戦争映画というならね、いっそあの「明治天皇と日露大戦争」などというシナリオをあのまま清順さんが撮ったら、実にノスタルジックで、耽美的で、抒情的で、更にはポンチ絵のような、奇妙な映画になっただろうと空想するのは楽しいですね。
(略)
予定調和になり勝ちの大作映画を、清順さんがやったらどんなことになるのか分らない。その分らなさが清順映画の面白さだった。それがね『ツィゴイネルワイゼン』からは、どうなるか、はなから分っちゃう。「清順フィルム歌舞技」などという枠組みに閉じこめられて、ヤバさが稀薄になる。清順さんなりの予定調和になっちゃった。これはあくまで「日活清順党」から見た『ツィゴイネルワイゼン』の風景だし、そのように清順映画を観たかったというぼくの思い。日活時代の清順さんのこだわりは、言葉の本来の意味でのこだわり。映画の本筋ではない所での、つまり些末なことに拘泥してることが面白いというね。いまみたいに“こだわり”が美化されて使われてると、感じが違っちゃうわけですね。それこそ褒め殺しとなるわけでして。
(略)
昔の恒例の東映時代劇でね、月明かりの下、剣豪が二人対峙している。とそこに一塊りの雲が掛かって、一瞬闇となる。そのとき、勝負は決まるという場面で、背景のホリゾントに描かれた月の前を、天井からワイヤーで吊り下げられた板を切り抜いた雲がしづしづと横切っていく。するとライトがしぼられて暗くなる。それがもう舞台のようにバレバレで。でも、これを今のように夜間ロケに出掛けていくと、つまり撮影所の「制度」が壊れるんです。「ピーカンねらい」というと、いまは晴れた日の撮影くらいにしか考えてないけれど、あれは青空にレンズの露出を合せて、空の青をきれいに出す。すると地面の人物は真黒ですからね、ライトをガンガン当てる。そういう「制度」を壊すとスタッフそれぞれの「職能」を無視することになった。だからプログラムピクチュアは、もともと「変」になる要素があったんです。清順映画が、その「変」さに誰よりも敏感だったのは、それが「美術監督」の映画でもあったからでしょうね。思えばマキノ雅弘映画などは、プログラムピクチュアの名人芸。予定調和であるべき「本筋」と、マキノ流こだわりの「抒情」とが見事にバランスがとれている。だから本来ヤバい筈だのに、かえってまことに心地良い。清順さんのは、部分的に過剰に心地良い。だから、ヤバい。
(略)
悪太郎伝』にはマキノ映画や、抒情という意味ではまた木下恵介作品の系譜にも当たるものがありましたね。ぼくが求める清順映画にある“変”さはあれぐらいが丁度いいんです。やっぱり、他の監督にはとれないものがありましたもの。二階の格子をシューッとなめていく移動撮影なんか、フィルムが映画独自の生命を宿して律動している感じ、モノクロにも関わらず色を感じるというその素晴らしさね。『関東無宿』の真紅のホリゾントをすごいだなどと言う前に、『悪太郎伝』に観られるあのリリシズムを語らないでどうするんだ、と思いますよ。
(略)
だから清順映画も周囲の人がそのスケールを小さくして『ツィゴイネルワイゼン』を作ってしまったような気がしてねえ。もうぼくの清順映画とは別の映画になってしまったと思った。日活時代のファンにとっては。
(略)
作家主義」のシムボルのように思われているヒッチコックだって、その存在の本質は職能監督でして。ハリウッドに雇われてはるばるイギリスからやって来たわけですから、ヒッチコックは作家ではなく、紛れもない監督ですよ。あれはヒッチコックがハリウッドという制度と戦ったそのやり方が「作家主義」と呼ばれたわけです。