『タイガー&ドラゴン』「茶の湯」

いつもは熱い台詞は流し気味なのだけれど、今回はいたく感動して、先週の事について考えてしまった。長瀬が岡田に、ホントに反物屋が好きなのと問質した場面である。
話の軽い部分では親や煮詰まった落語から逃避して向いてない反物屋をやって馬鹿にされているということなのだが、重い部分ではどうなるのか。
もし、ただの逃避ならさしてオリジナリティはないがソツのないものをつくってそこそこやっているであろう。だが真剣だからダサイと言われるのである。そして店にいると不機嫌になるのである。
まず店に入ると、自分のつくったダサイ服が並んでいて顔マッカなのである。ダサイ。ヘンテコだ。人が来ない、売れない、馬鹿にされる。面白くない。そりゃ馬鹿じゃないのだから、他の店同様それ風の服をつくればつくれなくはない。どんなのが受けてるかくらいはわかるのだ。だがそんなものを器用にコピーしただけのソツのないものなんか自分にはちっとも面白くないのである。いやあんな風に器用にコピーしてみろと言われてもできないかもしれない。器用なコピーのさらにしょぼいものしかつくれないかもしれない。それでもあんなものをつくるくらないならダサイと言われても自分の作りたいものを作りたいのである。
では、なぜダサくなるのか。そりゃ世間も認めて自分も満足できるものを本当は作りたい。作りたいけれど今の自分の実力ではできないのである。それで自分がやりたいと思う変なものをつくって現状打破をはかる。それって「逃げ」じゃない。そうかもしれない。「個性なんて、ただの手癖だよ」。そうかもしれない。頭の中には理想がある。それを実体化する際に自分の技術と直面しなければならない。そこで妥協が必要となる。理想のうちの自分の技術でつくれる部分をつくっていく。そうするとなんだかヘンテコなものになる。不細工なものになる。確かにダサイ。ダサイけど、その向こうには自分の理想が見えていて、こんなはずじゃないと思う。ダサイけど、トライしたとこに目を向けて欲しい、その向こうに見えるものを見て欲しいと、作った人間は考え言い訳するが、唯の他人は無情にヘタクソとしか見ない。そりゃそうだ、他人が欲しいのは素敵な服なんだもの。
だんだん不安になってくる。そもそも仮に理想に到達しても駄目だったらどうなるんだろう。だって今だって全然まったくダサイとしか言われないのである。ひょっとしてホントに完璧にダサイだけなんじゃないだろうか。不安だ。だけどわかる人ならヘンテコなものに潜む未完成な理想に気付いてくれるのじゃないだろうか。それにしても不安だ。ひょっとして駄目なのかも。

おめえらが軽々しくキテるだの
終わってんだの言うたんびに
一喜一憂してる奴がいるんだよ
なぜだかわかるか、必死だからだよ。
必死にどうにかなりてえ、
かっけえもんつくりてえ、
面白しれえもんつくりてえ、
そうやって体すりへらしてやってっからだよ