スティーヴ・ハウ自伝 その2

前回の続き。

パトリック・モラーツ、『リレイヤー』

 かつて初めてのUSツアーに向かうとき、空港スタッフが私たちの機材をぽんぽんと放り投げていたのを見ていたので、あんな目にあうのは二度とごめんだった。その代わり、会場から会場への機材搬送はトレーラー・トラックが使われるようになった。ツアー日程は主にトラックが時間内に到着できる地点によって組まれた。次に考えなければならなかったのは自分たちの移動スケジュール。(略)

3回目のUSツアーの時点で私たちは移動を確実にするため、次の都市へ直行できるジェット機をレンタルするようになった。アメリカ全土に渡って小さな私設飛行場があり、そこに着陸すると滑走路で待機していた車にそのまま乗り込む。チェックインもなければ身体検査もない。荷物の移動も楽でギターに優しい。究極の移動形態だっ
た。

(略)

 当然これは代償を伴う。そもそもとんでもないコストがかかった。だが純然たる利便性を考えるとこれに勝るものはなく、どこへでも時間通りに快適にたどり着けることは、コストに見合うものだったとクリスと私は思っていた。

(略)自分たちだけのスペース、スケジュールで動くことができ、プライバシーも保てる。失うには惜しい贅沢だった。

(略)

 『海洋地形学の物語』を制作しツアーに出た辛さのせいで、リックはイエスから1回目の脱退をした。彼の後釜に誰が座れるというのだろう?ましてや彼を上回ることなどできるだろうか?

(略)

 私たちは巨匠ヴァンゲリスとバッキンガムシャーの納屋を改造したスタジオで2週間過ごした。忘れられない経験だった。ずらりと並べられたキーボード群をさらりと弾きこなしながら、エコーのリピートとリヴァーブがたっぷりかかった豊かなサウンドを彼は作り出す。見た目からもそうだが、音楽的にはなおいっそう自信が滲み出ている。曲を完璧に弾きこなす絶妙な技に、私たちはときとしてどっぷり浸かり、ほとんど圧倒されていた。さらにはあの部分ではドラムやギターはこうプレイしたほうがいいと実演まですることがあった。だが毎回同じものをプレイすることに彼は懐疑的だった。(略)

根本的な部分で、ヴァンゲリスとのケミストリーは生まれなかった。

(略)

 キース・エマーソンにも電話したが興味を示さなかった。すごいバンドにいるのに、なんで抜けてそっちに入る?私は言った。「こっちのほうがヴォーカル・ハーモニーは分厚いし、ギターも多い(!)。それにもっともっと成功するからさ」。「いや、遠慮しとく」。彼の返事は素っ気なかった。

 私たちの目は、ちょうど注目を浴びようとしていたレフュジーというバンドに向けられた。(略)パトリック・モラーツ。なかなか見栄えのする、かなり派手なヨーロッパ人だった。そのスタイルはダイナミックなジャズが身上で、大胆さの点ではリックやトニーよりも上だ。大量のキーボードを擁し、それらを使いこなす度量がある。彼がイエスに加入し、そこから私たちの次のアルバム、“ソロ・アルバム"の時期、そしてバンドとしてのさらなるツアーを包括する3年間が始まった。ライヴでの彼は秘密兵器であり、先入観を揺るがし、忠誠心を駆逐し、ヴァンゲリス並みのめざましい演奏を繰り広げた。

 新曲に取り組む作業は1974年6月頃に急展開を見せた。エディ・オフォードが24トラックのモービル・レコーディング・システムを購入し、それを設置する家が必要となったためだ。クリスはサリー州ヴァージニア・ウォーターズに邸宅を持っていた。地下には彼が自分のスタジオ用に準備していた空き部屋がいくつかあり、演奏するエリアと小ぶりなコントロール・ルームに当てられる予定だった。エディの機材はここに設置され、それからレコーディングのためにキーボード、ギター、アンプ、ドラムが続々と運び込まれた。

(略)

夕食は上の階にある広いダイニング・ホールの長テーブルに用意される。ドライヴウェイにはレンジ・ローヴァー、ベントレー、ロールス・ロイスなどみんなの車がぎゅうぎゅうに停められていた。

(略)

 レコーディング開始。のちに熱心なファンのお気に入りアルバムとなる『リレイヤー』だ。

(略)

 このアルバムではフェンダーのギターしか弾いていない。それもとくに1955年のテレキャスターだ。フロント・ピックアップをギブソンのハムバッカーに付け替えてあるので、必要なら厚みのあるふくよかなサウンドも出せる。(略)

『究極』、リック復帰、ウェス・モンゴメリー

 バンドがレコーディングに戻ることになっても、イギリス国内にこだわる必要は感じなかった。イエスはどこでも好きなところに行ける。あれこれ考えて、場所はスイスがいいということになった。モントルーのカジノにあるマウンテン・スタジオを訪れると、すべてがしっくりはまった。私たちが着いたときちょうどELPがレコーディング中で、スタジオ・モニターで何曲か聴かせてくれたが、それがほぼ最大音量だった。ミュージシャンが失聴するのも不思議ではない。だが爆音でプレイバックを聴くのが当時のトレンドだった。

(略)

 パトリックはスイス生まれなので、モントルーにはある意味なじんでいた。

(略)

 のちにカウント・ベイシー・ホールとなるカジノの一角で、私たちは『究極』となるアルバムのリハーサルを開始した。道に出れば向こうにはフランスの山々、背後にはスイスの山々が控え、息を飲むようなパノラマが広がっている。スイスは絵ハガキのような場所だった。

(略)

パトリック・モラーツと一緒に作業に入ったものの、2週間後には彼はどうにも苦い顔をするようになった。彼の望みはもっとジャズ寄り路線だった。「いや、そっちには行かないよ」と私たちは彼に伝えた。なんとか彼と続けようと散々努力したものの、打つ手はなかった。

 レコーディングに予定した期間が始まってからキーボード奏者を交代しなくてはならないというのは異常事態だ。(略)そこで自分たちに問うた。リック・ウェイクマンと決別したときの傷はもう十分に癒えただろうか。(略)答えはイエスだった。リックが復帰し、アルバムの輪郭がよりくっきりした。楽曲にかける熱が増し、一筋縄ではいかない曲が進化すると、私たちはいつものように完璧さを求めて楽曲を磨きあげていくようになった。「悟りの境地」は70年代最後のアンダーソン/ハウ作の曲になる。

(略)

「不思議なお話を」はポルトガル・ギターと最後のジャズっぽいフレーズはギブソンL-5で弾いている。

 L-5を使ったのはウェス・モンゴメリーへのオマージュだった。(略)

モンゴメリーほどの音楽的クールさと柔軟性を発揮できるレベルにいる人間はほとんどいない。類いまれな即興演奏者として、オクターヴ、シングル・ノート、コードを組み合わせ、親指も使った惚れ惚れするようなトーンを生み出していった。

(略)

 私は1963年にロニー・スコッツ・クラブでモンゴメリーを見たことがある。(略)

奥の楽屋からウェスが出て来たとき、彼の顔に浮かぶ満面の笑みを見て私はいきなり心を打たれてしまった。その笑みは素晴らしいパフォーマンスのあいだ中続いた。私は今日まで、ショウの最初から最後まであんなふうに笑顔だったパフォーマーを他に見たことがない。次々と弾かれる曲を聴けば、彼がギターを完璧にコントロールしていることが分かる。(略)

あの大きな手が静かにギターを奏でる様を目の前にすると、ひれ伏したくなった。(略)

 おそらく一番好きな音源は『ジ・アーティストリー・オブ・ウェス・モンゴメリー』になると思う。全フォーマットで所有している「ポルカ・ドッツ・アンド・ムーンビームス」はロマンティック・ギターの最高峰と言える曲。

(略)

『究極』にはポジティヴなエネルギーと穏やかな美がきらめいている。これはおそらく私たちがディテールにまで細心の注意を払ったためだろう。例えばタイトル・トラック曲の場合、27種類のミックス(略)を作った。(略)私は2番目にやったミックスで十分オーケーだとずっと言い続けていた。もう一度聴いてみないか、と私はみんなに言った。いざそうしてみたら、なんということか、あとの25種類のミックスよりこっちのほうがよかった。

 アルバム・ジャケットは想定外のものになった。一人を除く全員がロジャー・(ディーン)にデザインを頼みたかったのに、何か誤解があって結局はヒプノシス(ストーム&ポー)が彼らのストックしていたデザイン案をいろいろ提示してきたからだ。これまでロジャーとやってきたジャケットに比べれば、イエスらしさも、感情に訴える感じもまるで足りなかった。いわゆるヒプノシスらしいデザインだったが、私を含めて全員が満足しなかった。ただし彼らだってできるだけのことはやったわけで、責める気はなかった。こちらが発注先を間違えただけの話だ。

(略)

1976年7月のアルバム・リリースに合わせたツアーの準備に入った。

(略)

 この時期にコンコルドが運行を開始している。(略)私はこの飛行機で大西洋を14回渡った。まさに最高の旅客機だった。エイジアやGTRのメンバーたちも、約3時間そこらで"大きな池"の上を飛ぶ宇宙時代の乗り物を大いに楽しんだ。

(略)

『トーマト』

 1977年の暮れに『究極』ツアーを終えたイエスは、次のアルバム『トーマト』リリースに向けて、1978年8月まで曲作りとレコーディングをおこなった。

(略)

 ハーディ・ガーディを弾けるように練習していた。1600年代のパリでとても有名だった、フランスのいにしえのストリート楽器だ。(略)

まさしく中世そのものなので、出てくる音も想像を超えた古めかしい不気味な響きを持つ。実は、この楽器を「UFOの到来」のオーヴァーダブで使えないだろうかというとんでもない考えが浮かんだ。(略)回転盤を回し素晴らしい不協和音を響かせて、ぞっとするような騒音を鳴らした。「だめ、だめ」と、私のバンド仲間はたちまち反応した。「二度と使用禁止」

 同じようなリアクションはリック・"冗談は通じない"・ウェイクマンにもあった。私が市販の8トラック・カートリッジを密かに入手し、リックがトイレに行った隙にそれをみんなで彼のダブル・マニュアル・メロトロン・キーボードの内部に装着してある8トラックと入れ替えた。戻ってきたリックが(略)メロトロンを弾いたとたん、シールズ&クロフツ、フランク・ザッパなどの曲がまぜこぜになったぐしゃぐしゃの音が飛び出してきた。(略)まったく面白がりもせず、頭に血が上ったリックはスタジオから飛び出していった。

(略)

[アルバム発売に伴うUSツアー、リムジンとプライベート・ジェットを使っても]

ピリピリした雰囲気とプレッシャーは避けられない。(略)ある晩、ジョンとクリスの口論がひどいことになり、あろうことかクリスは本番直前にジョンにオレンジ・ジュースを浴びせかけた。遅刻はクリスの常で、もめ事の原因になるばかりか、私たち全員の時間を無駄にしていた。

(略)

 ツアーが終わると私たちは散り散りばらばらになった。おのおのに目指すものがあり、それらが私たちを違う方向へ向かわせている。だからこそ、ジョンと私が共作をすることもなくなった。もう無理だった、ポットは空っぽだった。『究極』のときに作った「悟りの境地」がフィナーレとなった。

決裂、財政問題、バグルス

 1979年の暮れにかけて、イエスはニュー・アルバムのためのレコーディングを事前の曲作りもリハーサルもせずに国外でおこなうという軽率な試みに走った。ジョンとリックはアルバム用にいくつか共作していたようだったが、問題があった。クリスと私がその曲にどうにも入り込めなかったのだ。私たちはやや神経質になり、作業をしていたパリのスタジオの雰囲気になじめなかった。曲そのものもこれまで手掛けてきたものとまるで違う。バンドの方向性についてクリスと私は戸惑いを覚えた。それに今回のプロデューサー、ロイ・トーマス・ベーカーとも話が合わなかったし、彼が作るいかにもヘヴィっぽくしたドラム・サウンドも気に入らなかった。自分だけの隠語(「うんちブー」と言えば「1回録ってみよう」の意味)を使ってプロデューサー風を吹かせもした。

(略)

 パリとロンドンを往復しながらの作業。スタジオに近いホテルはひどくて、寒い上にうるさい。ラフなリード・ヴォーカルを録ったものの、ぱっとせず迫力もないように聴こえた。リズム的にちよっとダメな曲もあった。

(略)

 「そのあとパリでどうなった?」と尋ねる向きもあるだろう。実はこの行き詰まり状態を解決したのは、一つの事故だった。アランが足を骨折した。確かスキー中だったと思う。作業はすぐさまストップし、私たちはさっさとパリを脱出して、今の状況をもう一度真剣に考えることになった。(略)[未解決の音楽的な方向性に加え]差し迫った財政問題が浮上してきた。

(略)

 ミーティングで(略)ピンク・フロイドのほうがはるかに大きな収入を生み出していると知った。(略)これほど長く成功してきたのに(略)[イエスの銀行口座は]どうやら空っぽらしい。単純な解決策が決められた。(略)不均衡なお金の流れを調整し、"たまたま生じた"不平等を是正するためだ。全員が納得したわけではなかったが、最終的にはそう決まった。(略)イエスの一人のメンバーが他のメンバーより値打ちがあることなどあり得ない。私たちは共に駆け上がってきたのだから、それぞれが平等・公平に利益を受け取る資格がある。

 この公平性を達成するまでは何年もかかった。

(略)

 リハーサルを再開(略)アラン、クリス、私[で作業](略)

ジョンもリックもまったく姿を見せなかった。

 それから数週間後にジョンが現れ、バルバドスで書いたという新曲をいくつか聴かされた。私たち三人のほうは速いリフに重いドラムの結構大がかりな構成を持つプログレッシヴな曲を作っていたのに対し、ジョンの曲はフラワー・パワーのそよ風が吹いたような、軽くてひらひらとしたものだった。メジャー・コードとキャッチーで唄いやすいサビだらけだ。「妙なことになった。方向性が真っ二つに分かれた」と私たちは思った。ジョンはその日のうちにスタジオを出たので、その後の共同作業はなかった。残った三人は引き続き集まってさらに曲を作ることにした。三人で力を合わせ、ジョンと(ジョンの尻尾をいつも追いかけていた)リックの穴を埋めなくてはならない。

 ちょうど同じ頃、トレヴァー・ホーンとジェフ・ダウンズからなるバグルスは、「ラジオ・スターの悲劇」でポップ・チャートを席巻していた。そのバグルスのアルバムを聴いてみたらとクリスから薦められたときは驚いたが、彼はバグルスを"かなりプログレッシヴ"だと心から思っていた。壮大なキーボードにクオリティの高い音作り、考えさせられる歌詞といい、確かにとても進歩的だ。この二人組ならイエスの好敵手になれるかもしれない。面白いことに、彼らはマネージメント業務を担当してもらえないかとすでに私たちの事務所と接触していた。そこでその機を逃さず、挨拶代わりにリハーサル・スタジオに彼らを招待した。できればイエスへの加入話を切り出す考えもあった。ウマがとても合ったので、彼らの機材も運び込んで一緒に演奏を始めてみた。するとすぐさまピンときた。久しく感じることのなかった何か――貪欲さと興奮だ。今後に向けて素晴らしいポテンシャルがあると感じられた。

(略)

 分裂した理由の約半分は音楽的なものだったが、他の理由にははるかに複雑なもの――性格の不一致、財政面での考え方の違い、主導権の奪い合い――などがあった。バンド内の争いを売りにすることなど、本書を執筆しようと思ったきっかけでは絶対にない。だが確執の中にはあまりに浅はかなものもあり、黙っているわけにもいかない。自分たちがイエスを仕切っていると考えていたかもしれない輩がいた。だが彼らがそう思っていたとしたら、それは単なる思い込みに過ぎない。イエスの中には声が大きい者と小さい者が常にいた。つまり対立を好むメンバーと好まないメンバーだ。表向きにはバンドというものは民主主義であったし、今もそうだ。一人ひとりに投票権があり、多数決が勝つ。

(略)

 70年代の半ば、私たちの著作権収入が大幅に減るという事態があった。それは私たちの曲が"二重出版"されてしまうような契約のせいだ。出版社2社が私たちの楽曲から著作権使用料の分け前を取ることになり、それだけでも本来私たちが受け取ることのできる額からすると大打撃だ。それに輪をかけて、巨大なステージ制作費用、プライベート・ジェット代、おしゃれなホテルの宿泊費などがかさんでしまい、私たちのツアーの収益やアーティスト印税が食い尽くされるのは自明のことだった。それでもまだ足りないかのように、私たちの個人支出が収入を超えようとしていた。どうにかこうにか毎回そのハードルをクリアしはしたが、それは単にまた次のハードルに近づきつつあることでしかなかった。

 1980年、新しいラインナップの誕生によって、私たちはこれまでの経営体質をリセットし過去と縁を切る格好の機会を得た。

(略)

最初の10年は私のギターを前面に打ち出してイエス・サウンドを世界に知らしめた歴史的な10年だった。1980年当時、私たちは「生命感あふれる素晴らしいレコードを作ってこの10年を締めくくろう。一音符、一文字もおろそかにせず、どのビートも間にも自らを語らせよう」と思っていた。

『ドラマ』

『ドラマ』のレコーディングを開始した。

(略)

当初エディ・オフォードと組んだのは、クリスがパートナーシップは"昔と同じように"したほうがいいと信じ、押し切ったからだった。しかし、昔と同じようにはならなかったし、無理な話だった。

 あるとき私たちはミックスをプレイバックしていた。コントロール・ルームに入ってきたエディはそれをマルチ・トラックから流している音だと思って、フェーダーを動かし、ディレイをかけたパンニングして、自分がサウンドを変えているのだと勝手に勘違いしていた。曲がフェードアウトすると、私たちは大声で「エディ、今のはミックスしたやつだよ!」と言った。

 エディは3週間後に去った。決定的なある午後に彼は私たちに言った。「コントロール・ルームのデスクの前で仕切り役をするよりもっと面白いことが俺にはできる」。

(略)

「分かった。もう我慢できない。君はクビだ!」と私はエディに言った。「正式に解雇する!ここから出て行け、今すぐ!」

(略)

『リレイヤー』の終わりの頃から、彼はツアー中にヘマをしでかしたあとずっと"自分を立て直そう"としていた。本当に熟練したエンジニアで、穏やかだが少しネジの外れたところもあった。矛盾の塊。ホテルのロビーをオートバイを押してエレヴェーターに乗せようとしている姿を想像してほしい。「自分の部屋で修理しようと思ってね」

 ヒュー・パジャムがエンジニアとして参加すると、タウンハウスでの作業にはいい時間が流れるようになった。

(略)

トレヴァーと私が最後まで残ってほとんどのトラックのミックスに立ち合った。他のメンバーはみんなヴァカンスに出かけてしまい

(略)

 この作品をどこから見ても非の打ちどころのないイエスのアルバムにしなくてはならない。そこでロジャー・ディーンが復帰し、完璧なジャケットを作った。

(略)

[アルバム発売後の]USツアー(略)マディソン・スクエア・ガーデンでのソールド・アウト公演数17回という、その時点までの最高記録を作った。

 イギリスではやや事情が変わり、ジョンとリックの不在を嘆く頑固なファンたちが、やじを飛ばしたり騒ぐことがあった。しかもメンバーの何人かが悪癖にはまったおかげで満足のいく演奏ができなかった。誰とは言わないが、そういう連中は改心することなど滅多になく、残念ながらすぐにもと通りの習慣に戻っていく。私たち全員にとって試練のときだったが、中でもトレヴァーは辛かった。昔の何曲かのキーを下げてみてはどうだろうという彼の意見を、私たちは(おそらく)軽率にも却下し(略)とてつもないプレッシャーを与えてしまっていた。同じことが2008年にも起きる。ベノワ・ディヴィッドがこうしたほうがもっとうまく唄えると提案しようとしても、私たちはまともに取り合わなかった。

(略)

 『ドラマ』は真にイエスを代表するアルバムだと私は思っている。もしも聴いたことがないのなら、ぜひ聴いてみてほしい。そこにはイエスの音楽が、私たちが愛した心躍るメロディの数々が、ある意味過去10年の総決算として大海原のように広がっている。本質的には私たちは、個々のプレイにちょっと重点を置いた、ただのロック・バンドだった。

(略)
ツアー最終日、想定内のパニックが起きた。誰が45分遅刻したか……言わずもがなのクリスだ。「だってクリスなのよ」と彼の妻は言った。なんの慰めにもならない。それまでの10年を通して、私は何も進められないままクリスをずっと待っていた。

(略)

 1981年1月初旬[の話し合い](略)

クリスとアランはジミー・ペイジとコラボしてみると宣言し(略)、トレヴァーはバグルスの次のアルバムの録音があると言い(ただしジェフは全面的に参加するかどうか決めかねていた)、私はイエスとして活動することができる。ということはつまり、ジェフと私だけがバンドに残ることになりそうだった。

 そのことについてちょっと考えてから、私はジェフに言った。「三人のメンバー・チェンジ?冗談じゃない」。

(略)

とはいえイエスを続けないという決断は簡単ではなかった。それを切り抜けられたのは、私の健全な精神状態のおかげだ。それはひるがえれば、私とジャンが1972年に菜食主義に転じて以来従ってきた、食と健康に関する指針によって培われてきたものだった。この時点でイエスは終わりだった。少なくとも1982年に挑戦状に応じるまでは。

エイジア

 イエスを離れると決めて数ヶ月かのうちに、ジョン・ウェットンと会った。
る。
[何日か一緒に]大音量でリフを鳴らし、シンプルなジャムをしながら、お互いの相性や、曲を一緒に書けるかどうかをチェックし合った。最終的には共作曲となるいくつかの材料が生まれたような気がする。

(略)

[サイモン・フィリップスに]声をかけた。数日前に見たジェフ・ベックとのプレイが強烈だったからだ。リダンにやって来た彼が組み立てたドラム・ライザーとキットは、部屋の半分も占めるほどのものだった。そしてそのプレイもまたすさまじかった。彼も曲を作りたいということだったので(略)三人で何曲か演奏し、軽くオーヴァーダブもおこなった。かなり見込みがありそうな流れだったが、まったく無関係らしい別件のせいでサイモンが私たちと組むことはなかった。互いに悪感情はない。このとき録った2曲は、一つは"タイトルなし"だがもう一つはやがてレコーディングすることになる。

 ELPが活動休止中だったので、ジョンはカール・パーマーをノミスに誘った。(略)

1981年半ばのある午後、三人で一緒にプレイしてみた。結果は上出来で、新しいバンドを始められる手応えを感じた。

 ジョンとカールはギター・トリオを思い描いていた。これはある意味光栄なことではあったが、私の頭の中にはギターとキーボードのインタープレイの応酬と音色が聴こえていた。私は二人にジェフ・ダウンズの鍵盤奏者及び曲の作り手としての才能を伝えた。(略)ジェフを呼んでのノミスでのセッションもうまくいったが、オーディションはそこで終わらなかった。妙な話だが、私たちはさらにメンバーを増やすために、さらなるミュージシャン/ライター/シンガーを探し始めた。(略)ロバート・フライシュマン、そしてトレヴァー・ラビン(!)をオーディションした。その後、ロイ・ウッドと会って話をしてみて、私たち四人だけでラインナップはもう完成しているということがはっきり分かった。

(略)

 バンド名として"エイジア”が選ばれた。(私の記憶では)全10個の候補のうち9個が却下されて、残ったのがこれだけだったからだと思う。確かに"スカンソープ"とかよりは断然いい。

(略)

 ほとんどの曲のレコーディングが終わると(略)デヴィッド・ゲフィンが様子を見に来て、本当に強力なシングルにふさわしいものがあと1曲欲しいと言った。幸い、ジョンとジェフが書いた中にもう1曲ストックがあった。「これをもう少し肉付けしよう」とジョンと私がヴァースのコードをざっと弾いた。サビのパートはベースの進行が興味深く、軽快に展開する。「ヒート・オブ・ザ・モーメント」のバッキング・トラックを録り、細部を仕上げていく作業は手間がかからなかった。

(略)

 エイジアが成功を収め、かつてイエスが歩んだ道を駆け上がろうとしている状況に私は満足感を覚えていた。アメリカであっという間に火がついたので、日本とオーストラリアもツアーで回りセールスを上げられるのではないか。私にとってエイジアはどこか再来感のようなところがあった。1967年にトゥモロウはある程度売れた。70年代にブレイクし、大きな成功を収めたのがイエスだった。そして今、エイジアとしての私に同じことが再び起きつつあるのかもしれない。

(略)

 プレイヤーとしての私の人気も相変わらず高かった。アメリカの由緒ある『ギター・プレイヤー』誌の人気投票ギタリスト部門で、1977年から1981年まで(史上初の)5年連続1位。(略)何度も特集を組まれ、長いインタヴューと共に表紙にもなった。

(略)

 これまで変性意識について学ぼうとさまざまなメソッドを試してきたが、1982年の終わり近くに、私は瞑想のためのアプローチを一つに絞り込むことにした。変性意識は禅、道教、仏教、インド式水平弛緩、多様なチャントやマントラを参考にした呼吸法によって喚起することができる。

(略)

私は自分の意思で選択し、過去30年に渡って超越瞑想のメソッドを採用している。皆さんも自分に合うものが見つかれば、しばらくやってみてどうなるか見てみるといい。(略)

黄金期ラインナップ、クリスの悪癖

スタジオに入り『スカイライン』のミックスを終わらせ、1ヶ月後には曲順も決めた。

 その一方で、流動し続けるイエスのラインナップとツアー計画の状況が漏れ伝わってきた。複雑怪奇なバンドの歴史の新たな一章がまたしても始まろうとしている。大規模なツアーが予定され、リック・ウェイクマンが復帰し、黄金期ラインナップが再び現実のものとなった。

(略)

 振り返ってみると(略)このときのイエスは規律もなく統制が取れていなかった。本来なら動くはずの大昔の機材(予備もない)の修理に何時間もかかってしまう。クルーたち(略)が、ぎりぎりまでセッティングに追われている。しかもツアーは始まってさえいない。リハーサルで私たちは全体の通しをすることもほとんどできず、最終日は"本番通し"とされていたものの、待ちくたびれてしまうことばかりだった。そして一人が抜けたとたん、何もかもが終了してしまう。

(略)

 このツアーでは残念ながら、だらしない振る舞いが垣間見えるようになった。 暴飲やある種の物質の摂取の影響で、バンドの深夜行動が度を越してしまっている。私が寝ようとする時間に、他のメンバーたちははるか昔の自分たちをなぞるようにバーやクラブに出かけていく。ステージ上での音量がやたらうるさくなり、演奏ミスでライヴの流れが止まる。褒められたものではない。客は気づくわけがないと言い出す人間もいれば、ちょっとラフな演奏のほうがライヴ感が出ていいというとんでもないことを言う人間もいた。私にはそうは思えなかった(略)

2001年から私たちは本番が終わるまではアルコール禁止という厳しいルールを設けていた。だがルールが守られたのは数日のみで(略)隠匿物質は普通に行き渡っていた。本番前にクリスの楽屋に行って、曲のある部分について尋ねたときのことだ。ブランデーの強い匂いがした。飲んでいないとクリスはさらっと言った。ははは、そうだよね、もちろん。クリスのプレイは依然として抜群だったが、私たちのコミュニケーションは――かつてはステージ上でありったけのエネルギーが発揮されていたのに――狂騒の中でかき消されていくことになる。どんちゃん騒ぎ、熱狂的なファンたちとの最前列でのパーティ。それが糧になる人もいるだろうが、おおかたにとってはショービズの世界のただのネタに過ぎない。あとになってクリスは飲酒を認めたが、だからといって止めることは絶対に無理だった。 考えてみてほしい、一杯ならまあいい。だが一本なら?だめだろう。ビールが他の瓶に移され、行く先々にこっそり持ち込まれる。だがステージでの演奏が私たちの本業だ。(略)

準備万端、頭すっきりで臨むべきだ。頭が痛いとか気分が悪いとか二度と言うな。さっさと支度して、備えろ。

(略)

 ライノ・レコードが計画している35周年ボックス・セットについて先方から連絡があった。90年代に出た前回のコンピレーション『イエスイヤーズ』では音源供給元として私のクレジットはなかったが、スタジオ・セッションの4分の1インチ・テープをずっと保管していたから、こういうコンピレーションのプロジェクト向けの掘り出し物やマスター音源には事欠かなかった。その後も『ヒストリーBOX』でライノは私のテープ在庫から大量に使用する。

(略)

エイジア再結成

 2006年の初め、マネージャーのマーティン・ダーヴィルから、オリジナル・エイジアの再結成について電話がかかってきた。うん、素晴らしい。もしも可能ならば、ちょうどやりたいという気になっていたからだ。

 1月5日、パディントン駅近くのホテルに集まった。(略)ジェフ・ダウンズ、カール・パーマー、そしてもちろんジョン・ウェットン、私が一堂に会した。みんなが腹を割って話した。その結果まとまったのは、過ぎたことは過ぎたことであり、過去を振り返らないのなら、私たちは一緒にできるのではないかということだった。日本、 アメリカ、イギリス、ヨーロッパからもツアーの引き合いが殺到するだろう。新作をレコーディン グして成り行きを見てもいい。イエスは休暇中だから鬼の居ぬ間のなんとやらというやつだ。23年前に私たちが持っていた確固たるチームワークを再び示せるのなら、いい結果が出せるかもしれない。バンドを始めたのはジョンと私であり、その二人が気持ちを通わせているのなら、ジェフとカールにとってもやりやすいはずだ。

(略)

 今はヤマハに買収されたLine6と私の関係は、彼らのモデリング・ギターであるVariax を手にして以来、ますます良好なものになっていた。Line6のVETTAIIアンプのプログラミング技術に非の打ち所がなかったことで、私は45年使ってきたフェンダー・アンプに別れを告げた。自分でプログラムを組むことは昔もできなかったし今もやらない。(略)スティーヴ・バーネットがセットリストの曲 に合わせてプログラムしてくれる。だから私は求めている質感にふさわしい音色、ディレイ、ディストーションその他のエフェクトを呼び出すだけでいい。 これはエイジアやイエスのツアーでもお こなっているやり方だ。HD500、そして究極のエフェクト・プロセッサーでありアンプ・モデリングである現行のHelixシステムを開発して以来、Line6の機材は飛躍的によくなっている。ちなみに私はツアーのとき必ず最低2台の同じアンプを持っていく。いつなんどきバックアップが必要になるか分からない。

 エイジアとして3月4日の名古屋から始まる日本公演が控えていた。(略)どうやら私たちの演奏を聴きたくてうずうずしているということだ。それを証明するかのように、大阪公演後の東京公演は5日間連続だった。行く先々で、かつてのエイジアのときの感覚を味わった。この頃のセットリストには、エイジアの曲以外にいわゆる四人を"代表する曲"も入っていた。私は「ラウンドアバウト」、 ジェフは「ラジオ・スターの悲劇」、カールは「庶民のファンファーレ」、ジョンは「クリムゾン・キングの宮殿」といった具合。(略)オーディエンスはライヴの中で、五つの異なるバンドの記憶を呼び起こす。それに加えて 私にはソロでのアコースティック・ギター・コーナーがあり、そこでは「インターセクション・ブルース」などを弾いた。毎晩、1、2曲は違う曲を選ぶようにしたら、大勢のオーディエンスがあとから私のところに来た。彼らは「スティーヴ、今夜はあれとあれを演奏してとてもよかった」と言って、私の選曲にきちんと気づいていてくれた。いろんなソロ曲をたくさん弾けると高揚感が増す。

(略)

 過去23年間の休眠状態を経て、エイジアに心からの敬意と愛を示している多くのファンたちが突然復活した。

(略)

 ツアーが終わるとエイジアは再結成後初となるCD(2008年に『フェニックス』としてリリース)のための曲作りとレコーディングの準備に入る。(略)

90年代にあったジョン・ウェットンと私の曲作り上での確執はいまや氷解し、コラボレーターとして確固たる関係になった。私の曲を心地よさそうに唄うジョンの声を聴くと、今でも幸せな気分になる。

イエス再集合

 イエス陣営のほうからとてつもない話が流れてきた。エアロスミスのマネージャーのトゥルーデ ィ・グリーンがイエスのマネージメントを申し出たという、いささか驚きのニュースだ。私たちをロードに戻し、この夏にツアーに出たら一晩につき25万ドル払うという。メンバーはジョン・アンダーソン(体調は回復していた)、クリス・スクワイア、アラン・ホワイト、そして私だ。リックは参加しないとのことだったので、私はキーボードにオリヴァー・ウェイクマンを推した。

(略)

利益の取り分についてマネージメントとメンバー間での協議がおこなわれた。(略)

ジョンは自分が誰よりも価値があると信じていて、より高いパーセンテージを要求してきたのには開いた口がふさがらなかった。逆上したクリスを私は必死になだめた。ところが驚いたことに、ジョンはまた体調を崩してしまい(略)全ツアーが延期、私たちのスケジュールから完全に消滅した。(略)

再集合まで3年待ったこの期に及んで、あっさりとまたダメでしたみたいなことにするつもりはなかった。ゲスト・シンガーを入れるという軽率なアイデアもよぎったが、将来全員がそろうという方向で計画を練るほうが賢明だった。クリスとアランは私たちが必要とするメンバーがそろえばという条件でのみまたツアーに出たいと言った。

(略)

 私たちはクロース・トゥ・ジ・エッジというトリビュート・バンドでイエスの曲を唄っていたカナダ人シンガー、ベノワ・ディヴィッドに白羽の矢を立てた。なかなかの逸材だ。ジョン・アンダーソンが復調するまでにはしばらくかかることははっきりしていたので、私とクリス、アランは大ばくちに打って出ることに決め、予定されていた復活のためにキーボードとしてオリヴァー・ウェイクマンを抜擢した。今は2008年の半ば。最後にイエスがライヴをおこなったのは 4年前のことだ。これ以上は待てなかった。

(略)

オリヴァーはバンドにすんなりなじみ、父親が弾いたあらゆるキーボード・パートをこなし、ベノワはどの曲も熟知していた。(略)『ドラマ』の頃のように、クリス、アラン、私は再び困難に立ち向かっている。

(略)

 このラインナップのイエスがステージに上がった最初の晩のことを私ははっきりと思い出せる。 気分、感情、ムードが今すべてよみがえってくる。メンバー全員の胸が躍り、本番前のときめきが最後のコードまで途絶えることはなかった。(略)

ショウのあとのクリスはとても優しく、私のプレイとパフォーマンスに注ぐエネルギーに感動したと声をかけてくれた。

(略)

イエス&エイジア、クリスに激怒

何より重要なアメリカのサマー・シーズンについて慎重に検討した結果、エイジアが当時好調だったこともあって、イエスとエイジアを一緒にしてみたらということになった(略)クリスは、私のほうがギャラが多いと分かると渋い顔をしていた。だがそれはそうだろう。エイジアがオープニングを務め、イエスがトリを取る。私はそのどちらからも自分の分け前をもらう。私にすれば一粒で二度美味しいわけだが、それ以上に気分が上がるような面白みがあった。それは同じ晩に、二つの違うギター・スタイル(略)を披露するチャンスを得たということだ。私にできるか? 確信はなかった。だがやってみない手はない。

(略)

 ツアーには一ダース以上の楽器を持っていった。そのうちVariaxギターは2本で、1本はエイジア用にコンサート・ピッチより半音下げチューニングにしたもの、もう1本はイエス用に通常のチューニングにしてある。

(略)

[2010年のツアー]

クリスとアランのロックンロール・ライフスタイル(略)が問題を発生させる。(略)

アランは体調を崩すようになり、クリスはステージに躍り出るとフル・ヴォリュームで演奏した。医者が処方していない物質の混ぜ物を軽はずみに服用したせいだ。彼はますますコントロールが利かなくなっていくものの、それでも演奏はまだ素晴らしかった。だがどう考えても自分だけの世界にいた。

 私はイエスの3時間ルールを復活させようとした。本番前と本番中はアルコールやその他のクスリは一切禁止というものだ。(略)

このルールは2001年にも試したことがあった。そのときと同様、今回もやんちゃな二人がルールを曲げ、やがてはまったく無視されてしまった。それでもショウはずっと続いた。だがその中身は?一定の水準にぎりぎり踏みとどまってはいたが、ザ・リバティーンズのように崩壊寸前だったと言っておこう。

 バンドのメンバーたちには何度もメールを送り、イエスの音楽が持つ繊細さと私たちに常に求められている完璧さについて語った。ときどき誰かが、本来ならまったく入ってこないはずのポイントで演奏を始めることがあった。そんなときは「言っておくけど、あそこでプレイしてはだめだ」ときちんと伝えた。

(略)

[10月]

クリスが私やみんなの手に負えない状態になりつつある。(略)

ステージ上のベースの音量が問題の根幹だった(略)クリスは興奮状態で、いまや私たちをステージから吹き飛ばしそうな勢いだ。

(略)

ステージ以外でも事態はかなり深刻化(略)

私のホテルの部屋は(不幸にも)クリスの隣で、壁はぺらぺらに薄かった。とんでもない大声で彼が電話で話している(略)私のことをトレヴァー・ホーンに向かってボロクソに言っている(略)すぐさま私は隣の彼の部屋に行き、どういうことだ、もうがっかりだよ、とまくしたてた。普段は激怒することなどあまりない私だが、このときは怒り狂っていた。翌日、全員が帰国の途についた。ツアー終わりではいつものことだが、私の耳はまだキーンと鳴りっぱなし。あれほどの音量を浴びてもとに戻るまでには約1週間かかるのが普通だ。

 帰国したその足で今度はジェフ・ダウンズとロシアのサンクト・ペテルブルグに直行し、現地で1回だけのエイジアのコンサートをおこなった。こんな素敵なスケジュールがあるものだろうか?

(略)

 二つのバンドを行き来するというのが私の日常となってしまっていたが、それがまた始まろうとしていた。エイジアのツアーが終わってわずか1週間後にイエスがリティッツでリハーサルを開始した。だが今回は(略)ジェフ・ダウンズがキーボードで同行する。ジェフがイエスに戻るのは1980年に終わった『ドラマ』の時期以来のことで(略)これでジェフと私はイエスとエイジアにいることになり、私は二つのバンドを掛け持ちする日々がかなりしんどくなり始めていた。

(略)

エイジア脱退

(略)

2012年2月はエイジアが最後のリユニオン・アルバムとなる作品作りを開始したため多忙な月となった。アルバム・タイトルは『XXX~ロマンへの回帰』といい、私はこのタイトルにかなり抵抗したが、ジョン・ウェットンは一歩も引こうとしなかった。これまで2枚のタイトルを思いついたのも彼であり、メインとして歌詞を書いている以上、今回も同じようにやりたがった。私は百害を並べ立てたがそれでも返事は「ノー」だった。

(略)

 エイジアの音楽の仕組みは不思議だ。ジョンとジェフの曲が常に中心にあるが、私の曲が入り込む隙間もある。私の曲はどちらかと言えば構成としての流れを重視したものが多く、ジェフは単音のアイデアをプレイしようとすることが多い。メインのライティング・チームの曲には、ジョンがキング・クリムゾンのあと自分はどこへ向かうべきかという感覚が常にある。かつて1982年に彼は、ロックとポップの融合した曲で聴き手とつながりたいと考えていた。70年代から目指してきた高いレベルの成功をつかみたいと願っていた。

(略)

バンドの可能性を100パーセント満たしたエイジアのアルバムはファーストだけだと私は強く思う。

(略)

 イエスはジョン・デイヴィソンというヴォーカリストを見つけていた。私たちが求めるレベルで彼はバンドの歌を唄うことができる。私たちとオーディエンスの前でその力を見事に発揮した。物真似ではない。自分の唄い方を持ち、私たちの音楽にしっくりくるスタイルをものにした男だ。

(略)

[9月]
次はエイジアが日本でプレイする番だった。9月の最終週にかけて、東京で2回、大阪と名古屋でそれぞれ公演をおこなう。もう旅程表など必要のない旅だったが、それでも持っていた。エイジアは2006年の再始動から6年経った。だがエイジアの2年後にイエスもまた始動して以来、私の時間とエネルギーはますます失われつつあった。遅かれ早かれエイジアを脱退し、イエス、トリオ、ソロだけに集中せざるを得ないことが私には分かっていた。

 10月に私はLAに行き4日間のオフを過ごしたあと、イエスのロックの殿堂入りに関するプレス・イベントに出席(略)またしても6週間に及ぶツアーに出発した。

(略)

 エイジアからの私の脱退は2013年初めに発表された。

(略)

『ヘヴン&アース』、クリス死去

 『ヘヴン&アース』の制作は、LAでプロデューサーのロイ・トーマス・ベーカーと会った2014年1月14日に再開した。1979年のパリでのことを思い起こせば、彼を再びプロデューサーに起用することに対して、私たちは全面的に納得していたわけではない。彼の行動は異様だった。私たちが用意してきたテープにはほとんど興味を示さず、頻繁にトイレに行ってばかりいるあいだに私たちがやり変えた曲にもまったく気づくことはなかった。それでもまだ彼にやらせてみて、だめなら中止すればいいという考えのメンバーがいた。

(略)

彼はプロデューサーとしての決定を何もしない。何事につけ曖昧で、クリスや私がバッキング・トラックのセッションを独占しても止めることもできない様子だった。

(略)

 ロイは外付けのエフェクターを山ほど持っていて、ダビングするものにはすべてそのエフェクトがかけられる。(略)しかもこのおぞましいエフェクター群のセッティングを楽しそうにいろいろいじりまわしている(こっちには恐怖でしかない)。ジョンに対する扱いもひどかった。延々とヴォーカル録りをさせたあげく、まあそんなもんでいいんじゃない程度の反応だ。私がダビングをしているときでさえ、「今のはいいテイクだったね」などの褒めの反応を口にすることもない。いつも「まあいいんじゃないの」というような台詞だった。レコーディングのやり方にも大きな不安があった。私たちは(ご想像通り) プロ・トゥールスを使っていた。(略)ロイはマルチで録ったハーモニーにオートチューンをかけようとした。そのままでも十分に心地よい響きだったのにだ。心地よさの定義は?耳に心地よいということだ。一声ずつチェックしてなんの問題もなかったのに、どのヴォーカルにもメロダインとかいうオートチューナーをかますと言ってきかない。それが今風だとされていた。不毛な時間が積み重なり、なくてもよかったプレッシャーにつながっていく。ざっくりと言うならば、無能なロイを尻 目に私たちは作業を進めるしかなかった。

(略)

私たちがツアーに出発したあと、ロイはネヴァダの自分のスタジオでミックスをすることになる。これが第3の過ちとなった。

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UKツアーが開始(略)

ロイヤル・アルバート・ホールでの演奏はいつも特別な感じがしてうれしい。楽屋でクリスが正真正銘のマリファナを吸っていたので私は頭に血が上り、「どうしてもと言 うなら外で吸ってくれ、クリス」とこれまで何度も口にした台詞をまた言った。

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ロイのミックスを聴いた私たちは即座にストップをかけ、「もう結構お世話さま」と伝えた。

(略)

ビリー・シャーウッドにミックスを依頼するのはそんなに悪い考えではなかったが、スカイプ経由でのミックスは(第4の)過失だった。(略)ファイルそのものの中で実際に消えてしまった部分もあり、全体的にはまるで一体感がなかった。

(略)

今回のセットリストは『危機』と『こわれもの』完全再現だった。この2枚のアルバムの演奏順についてはなかなか頭の痛いことになった。クリスと私はどっちのアルバムを先にやったほうがうまくいくか、延々と話し合った。『こわれもの』から始めるほうが難易度が高い。そのため『危機』から演奏することがほとんどだった。そのあと『こわれもの』を演奏すると、最後の「燃える朝やけ」がいつも本編終了にふさわしい終わり方を演出してくれる。いきなりのエンディングと同時に、すべてのプロジェクションと照明が消えるという最高のクライマックスが生まれるわけだ。

(略)

 クリス・スクワイアはこのところずっと断続的に体調が思わしくなかった。5月7日付けで彼はイエスの他のメンバー宛に、今年は仕事ができない旨を伝えてきた。

(略)

相談の結果、ビリー・シャーウッドをクリス不在の期間に代役として招くことにした。

(略)
2015年6月27日、悲しいことにクリスは急性赤白血病のため帰らぬ人となる。

(略)

イエスにとって、これは一つの時代の終わりだった。(略)

クリスは破天荒極まりない、愛すべき人物だった。

(略)