和算 江戸の数学文化 小川束

和算-江戸の数学文化 (中公選書 114)

和算-江戸の数学文化 (中公選書 114)

  • 作者:小川 束
  • 発売日: 2021/01/07
  • メディア: 単行本
 

西洋数学と日本の数学

 三角関数や対数の移入にもかかわらず、近世においては、中国書であれオランダ書であれ、そこから得られる西洋数学の知識、技術は日本の数学とは必ずしも濃密な関係を持たず、日本の数学に大きな影響をを与えることはなかった。これは中国の数学が近世初期の日本の数学に劇的に影響を与えたことを考えれば、意外といえば意外である。数学は時代と地域によらず一つの学問であって、洋の東西を問わず、その発展に資するものがあればこれを受け入れて、それぞれの数学を発展させるものであるとわれわれは考えている。しかし近世日本数学の実際の成り行きはそのようにならなかった。

(略)

 近世日本の数学は、その歴史のごく初期から解くべき問題――たとえば平面幾何、立体幾何の問題――が一貫して存在し、また『発微算法演段諺解』以降、中国数学の伝統を敷衍した教科書が整備されていた。平面幾何や立体幾何の問題は容易なものから難解なものまで際限なく作成でき、その多くはステレオタイプであるものの、なかには興味深いものもある。また、それを解く方法としては三平方の定理(ピタゴラスの定理)以下、多くの公式があり、一九世紀には『算法助術』(一八四一年)のような公式集も刊行された。手持ちの技術で解くことのできない問題が眼前に提出されれば新しい道具の開発あるいは導入が求められるが、そのような事態はほとんどなかった。近世日本の数学は手持ちの道具で十分対応できるいわば閉じた世界――しかも豊かな世界――であった。

 西洋の数学を受容するためにはアルファベット、アラビア数字の他、種々の記号を理解しなくてはならない。西洋の文献が横書きであることも心理的なハードルを高くしていたかもしれない。まったく異なる様式を、どのような効果があるか不明なまま学ぶことは大きなエネルギーを要する作業である。近世日本の数学は問題意識においてる技法においても、必要十分な程度に成熟して閉じた世界を形作っており、ことさら外国からの新知識の導入を必要としなかった。一言でいえば、すでに堅固なパラダイムが確立していた。

 確かに安島は対数を冪乗の計算を簡単にするものと述べているが、それは一般に計算の小技として受け止められるにとどまり、西洋の数学の汎用性、応用性に積極的に注目することはなかったように見える。明治になって西洋数学が導入されたとき、数学者あるいは趣味として数学を楽しんでいた者の多くは、西洋の数学を日本の数学よりも一段水準が低いと感じた。それは複雑な図形を見慣れていた者の自然な印象であり、近世日本の数学が閉じた世界を形成していた一つの証である。

 もう一つ注目すべきことは、近世日本の数学が社会における現実問題とはほぼ無関係に発展したことである。近世日本においては物理学に代表される数理科学がほとんど発展せず、その基礎として数学の発展が要請されることはなかった。

記号法

意外なことに、江戸時代の数学者は記号をほとんど発明しなかった。式に名前をつけることは自然に行われたが、数学的概念に記号を与えるとか、計算手続きを記号化するといったことはなかったのである。彼らの用いた記号は中国伝来の算木を模した記号とそれを拡張した関孝和によるいわゆる傍書法くらいで、それ以外にはほとんど発明しなかったといってよい。しかしすでに述べたように、彼らにとってはそれで十分であった。

 見方を変えてみると、江戸時代の数学の歴史が示しているのは「記号化する」という精神活動が数学にとって必ずしも必然的な、自明なことではないということである。

(略)

ともかく、数学の一般化とともに、記述の簡潔さも意識されるようになった。端的にいえば、中国の伝統である文章による表現を少なくし、かわりに傍書法などの数式による表現を多用するようになったのである。

(略)

さて、問題の一般化と記述の簡潔化が進められた一方で、巷間では問題の難問化が進んだ。

(略)

そのことを批判した一人が藤田貞資で、彼は『精要算法』(一七八一年)の序で、数学には「用の用」「無用の用」「無用の無用」の三種があるとした。用の用とは商売、貸借、度量衡、建築、国政、時刻など、人間社会に有益なすべての数学を指す。一方、無用の用とはそれ自身は社会にとって急を要する数学ではないが、学んでおけば役に立つこともあるもので、これに対して無用の無用というのは、複雑さを最大の評価基準とするような、問題のための問題のことをいう。

(略)

藤田は次のように述べている。

 

近年の数学書を見ると、問題に点、線が複雑に交じり合い、式の係数は複雑である。これらの問題は数に迷って理に暗く、現実を捨てて虚構に遊び、商売、貸借のような問題のなかにも優れた数学者でさえ悩ませる問題があることを知らず、それらを卑しいものとみなし、自らの奇怪な研究を示すことで人に誇るための材料にすぎず、実に世のなかに無用なものである。

 

 藤田がこのような批判をせざるを得ないほどに、当時「無用の無用」の問題が氾濫していたともいえる。

荻生徂徠と松永良弼

日常生活においては『塵劫記』とその傍系の書物群が必要な計算知識を提供し、社会の基盤として定着しており、社会もそれ以上の数学の技術を特には要請しなかったのである。たとえば暦術においては中国を経由して輸入された球面三角法など数学者の登場する場面もあったが、改暦研究において数学者が中心に位置していたとはいい難い。また、たとえば土木のための計算や確率など、日常からの課題の提出を受けて数学が発展する可能性はあり得たが、歴史はそのような展開を見せなかった。

 一般論として、素朴な計算技術の段階を過ぎると、数学が社会に有用性を発揮する場面は抽象的になり、日常からは眼に見えなくなる。その一方で、数学の有用性は格段に高まる。いちじるしく科学技術が進歩した現代においても、社会における数学の有用性を明確に説明できる者はむしろ少数であろう。高度な数学が社会に役立つということは、言葉でいうほど自明ではないのである。

 数学者でない荻生徂徠は社会的な側面から数学の現状を「世に無用」と批判し、一方、数学者の松永良弼は数学内部の問題として、数学は個別の難問の累積を廃して、むしろ組織的な理論の構築をめざすべきであると主張した。徂徠と松永の発言は、数学の本質を巡ってわれわれの興味を喚起する。

数学の三階層

 江戸時代の人々にとって、数学、あるいは数学にかかわる者は大きく分けて三つの階層に分かれていた。

 第一に、『塵劫記』などに代表される初等的、日用的な数学と、それを学んで日常生活に数学を生かしていた人々がいる。ここでいう数学は日常生活における計算のために必須の数学で、いわゆる「読み書きそろばん」というときの「そろばん」に位置づけられるものである。人々はこれらの数学を家庭、寺子屋などで往来物と呼ばれる教科書によって学び、役人は検地や税の徴収などに、一般の人々は商業活動やそれぞれの専門職に要求される計算に役立てたのである。

 第二に、趣味としての数学と、師匠に入門してそれを嗜む人々である。もともと近世日本の数学の契機となった中国の朱世傑による『算学啓蒙』にも単なる日用を超えた問題があり、また『塵劫記』の遺題以降、平面幾何の問題を中心として、日用とは無縁な数学の問題が巷間に見られる状況になると、数学の応用よりも数学自体に興味、関心を持つ者が多く現れてきた。これらの者は互いに問題を提出し、算額を神社に掲額するなどして数学を楽しんだ。正月には師匠に付け届けをすることもあった。俳句を趣味として嗜むのと同じ感覚で数学を学んだのである。

 第三に、もう一段階上の数学がある。これはいわゆる数学の教科書を出版するような師匠クラス の者の数学である。(略)

趣味として数学を学ぶ者にとっては個別の問題作成とその解法がすべてであるのに対して、これら教科書の著者は一定の数学観を有し、それを具体的な問題の列挙によって主張した。さらなる新しい発想により新規の技法の開発を企てる者、あるいは漢訳された西洋数学や西洋数学に関心を持つ者も稀ではあるが現れた。これらの専門的著作は多くの場合、刊行されずに自筆の稿本が写される形、すなわち写本として広まった。近世、日本の数学において数学的業績を残し、歴史に名を残したのは、この第三の階層の者である。

 多極と少極

法道寺の変形法は直感的であった。その変形は、今日では反転法として厳密に正当化されるものである。もちろん法道寺は反転法など知らなかったが、それでもある種の直感によって正しい結果を得たといえる。

 

『関流方円理』

 半径を無限に大きくするという法道寺の着想に関して、著者も書かれた年代も不明の『関流方円理』という本の冒頭を紹介しておこう。

 

 一 方円極数多少

 多極とは多いことが限りなく遂に極限に至っていることをいう。円はいかに大きくとも丸さを失うことはない。しかし多極に至ってはその円周は遂に一直線をなす。そこで多極の状態では形はあるがこれを測ることができない。それゆえ虚と名付ける。

 地は大きな球で海、陸ともにどちらも球面である。ゆえに地上を行くときはずっと円周であるが、平で直線上を行くようである。このように里数が有限の地球ですら円は直線に等しいのである。

 一 少極とは少ないことが限りなく遂に極限に至っていることをいう。すなわち少極に至っては見ても形がなく、象徴となるものもない。ゆえに少極は空とする。

 数学の方法としての証明

 数学は壮大な論理体系をもつ学問である。そしてその論理体系を支えているのは厳密な証明である。しかし、数学がそのように厳密な証明を伴って記述されるようになったのは西洋でいえばフランス革命以降のことである。それまでは互いの理解度に応じ議論がなされていた。ところが、フランスでは革命以降、大量のテクノクラートを養成する必要にせまられ、効率的な数学の教授法が求められた。その要請に応えるには、教室で数学を体系的に、厳密な証明を用いて展開するのが一番簡単な方法である。こうして厳密な証明をもつ数学が標準となった。

 これに対して近世日本では、明治維新を迎えるまでついにそのような厳密な記述はなかった。もちろん、証明なしに数学を記述することはできない。証明の厳密さにはさまざまな水準があることに注意せねばならない。

 たとえば、建部賢弘の円周率計算には厳密な意味での証明はない。建部は数値を並べて、そこに一定の規則性を見出し、結果を帰納的に推測した。

(略)

実際に建部は正しい結論――それも当時の世界におけるトップクラスの結論――を得た。建部にとってはこのような帰納法的推論は証明といってもよかった。そして実は建部だけでなく、近世日本の数学においては一般にこのような帰納的な推論が証明として機能した。

 多くの日本人が楽しんだ平面幾何や立体幾何には解くべき問題が無尽蔵にあり、これらの大量の問題はいくつかのブラックボックスとしての公式と膨大な計算によって解かれた。公式の適用と計算とは厳密になされなければならない。そうしないと問題の解答が得られないからである。このような場面では近世日本の数学者、あるいは数学を楽しんだ人々はきわめて正確であった。

 ところで、帰納的推論に基づいてなされる言明には当然誤りも生じる。実際、第二章で触れたように、関孝和は連立高次方程式から未知数を消去する方法として、今日の行列式における斜乗を拡張したが、それは四次以下の場合には正しかったものの、五次の場合は誤っていた。関は次数が小さい場合から一般の場合を帰納的に推論したのであるが、誤っていたのである。しかし、この誤りも間もなく正された。こうした状況は、たとえばコンピュータのプログラムに含まれていた誤りが発見され、修正されるのと類似している。

算額 

 算額は数学の問題を解いて神社などに奉納した絵馬のようなものである。神への感謝、掲額者の喧伝など、いろいろな意味があったと思われる。江戸時代には二五〇〇枚以上の算額が掲額され、数学の愛好家は互いに見学して問題を解いたり、それをヒントに新たな算額を作ったりした。神社は数学の発表の場であった。旅をしながら算額を記録した者もあった。

(略)

現存する最古の算額は一六八三年のものであるから、二〇〇年以上にわたって算額奉納が行われたことになる。このような習慣は世界に例がなく、日本独自の文化現象として注目されるべきものである。

(略)

 いつ、どのようにして算額奉納の習慣が始まったのかは不明である。しかし一旦算額奉納の習慣が定着してからは、数学の塾に入門した門人にとって、個人で、または同門の門人とともに算額を奉納することは一つの目標であった。仮に神社の大祭の日などに奉納することとなれば、晴れがましい気分になったであろう。もちろん師匠の了解を得てから奉納までには、額の作成代、師匠への謝礼、神社での祈禱、祝詞などの謝礼としての初穂料など、種々の費用がかかる。経済的に余裕があれば一人または少人数で奉納できるが、そうでなければもっと大勢で金を出し合って奉納したであろう。一枚の算額に一〇人の問題が掲載されているような算額は、仲間意識ということ以上に金銭的な問題もあったのかもしれない。

(略)

算額天明の頃から急激に増え始め、一八〇〇年から一八〇九年にピークを迎えた

自分で問題を作ることの楽しさ 

[江戸時代]数学の塾の門人となった者は皆、数学を楽しみとした。

(略)

[能力の差は]さしたる問題ではなかった。塾では学ぶべき項目の順序は定められていても、それぞれの達成すべき年限は定められていなかったからである。(略)

つまり落ちこぼれなど存在しなかった。(略)

[現代の学生は]早く解答を得ることが重要だと思っている。 江戸時代には早く解答できる者はもちろん尊敬されたにはちがいないが、遅くても計算の過程を楽しめればそれでよかった。江戸時代に複雑な計算を必要とする問題が好まれたのはこのためでもあった。楽しむ時間は長い方がよいのである。

 現代数学は数学者とそうでない者の間でイメージに大きな隔たりがある。例えば高校生にとって数学は与えられた問題を解く科目であって、公式というルールを覚え、それを適用して与えられた問題を解く一種の(必ずしも楽しくない)ゲームに過ぎない場合が多い。答があるとわかっている問題を解くのであるから、これは受動的な活動で、目標はあくまでも出題者の用意した答えにたどり着くことなのである。これは大人の場合も同じで、小学校から高校までの一二年間を振り返ったとき、一回も自分で数学の問題を作ったことのない者が大半であろう。

 それに対して江戸時代には、数学の塾に入門する者は皆、自分で問題を作りそれを解くのが目的であり、問題作りを目指さずに塾に入門する者など皆無だった。彼らは書物や師匠、先輩の門人から学んだ後、いよいよ自分で作る。平面幾何の問題を作るのはまず師匠や門人仲間に見せるためである。さらに機会に恵まれれば、算額として神社に奉納して不特定多数の者に見せるのであるから、図形が美しく、線分の長さなどの数値がなるべく単純で、さらに答も単純な数値になることが望ましい。計算の詳細を書かないのは、これが見る者に対する挑戦だからである。となると計算過程は複雑でもよい。むしろ複雑な計算過程を経て最後に得られる答が単純なものが賞資の対象であったろう。そのような問題を作成するのは実はなかなか難しい。いろいろな試行錯誤を重ね、時間を費やしたに違いない。また、自分の出した答が誤っていれば恥をかくことになるから、何度も計算をくり返し、考え方に誤りがないか確認し、実際に答を問題に当てはめて確認するなど、慎重になったと思われる。

 近年、中学生や高校生を対象にした算額コンクールや授業のなかでの算額作成などが試みられている。いくつかの平面幾何の例を見せると、中学生でも高校生でも思い思いに問題を考え出す。そこにはそれぞれの生徒の感性や個性が如実に現れる。

(略)

 たとえ作った問題が簡単なものであれ、このような経験を積むことができた生徒は非常に幸せである。数学は本来、問題を作ることと問題を解くことから成り立っている。

(略)

大半の人々が数学を単に与えられた問題を早く解くだけのものと思っている現在と異なり、江戸時代の人々は自分で問題を作り、自分でそれを解くことに喜びを感じ、それを楽しんだ。