- 「人工知能が人と話すことで変化する」
- 全能感と一体感は想像の世界へと受け継がれる
- 「他者という亀裂」
- デュルケム
- 「人間の思考は基本的に社会的なものである」
- あとがきに代えて 対談:三宅陽一郎×大山匠
「人工知能が人と話すことで変化する」
「人工知能は志向性を持ち得るのか」という問いは(略)「ロボットは自己をどうやって獲得するか」という問いへと続きます。
現行のロボットは非常に強固な自我を持っていて、「私は私」「ものはもの」という見方をします。私は私、対象は対象というように、自分と対象を明確に分けます。
(略)
コミュニケーションをする人工知能は多階層のレイヤーからなります。ところが、人と人がかかわりあって存在自体のあり方が変化するようなコミュニケーションレイヤーというものが人工知能と人の間にはないのです。我々人間は、傷ついたり悟ったり、知らず知らずのうちに存在の形をかけて会話しています。見かけ上は人と人の会話と同じように、人と人工知能は話していますが、その発する場所も、受け止める場所も違っています。「人と人工知能の関係」は、いくら人と人工知能が一千時間話そうと一万時間話そうと、人工知能は何も変わらないのです。人工知能の語彙、仕草の表面は変化させることができますが、本質が変わることはありません。では、その本質が何かという話になるわけです。他者を通して自己を形成するのが人間です。他者の中に自分を見出して、他者を通して自分を構成する、そして自分を形成します。一方、人工知能は、自己と他者という不思議な関係を冷却して作ってしまいます。
つまり、「人工知能が人と話すことで、その内面の形を変化する」という深い場所こそ、現象学的な人工知能における重要なテーマなのです。
全能感と一体感は想像の世界へと受け継がれる
「世界が私である、私は何でもできる」というところから知能を形成する、とはどういうことでしょうか。一般的に考えると難しいので、具体的に考えていきましょう。世界を「テニス」、対象を「ボール」、他者を「テニスの選手」としましょう。「一体感がある」とは「テニスの試合全体が自分だ」ということです。そして「全能感がある」とは「ボールも選手も自分が自在に動かせること」です。簡単に言えば、夢でテニスをしているような状態です。そこに他者は存在しません。しかし、次第に相手の選手が自分のコントロールから外れて、独自の意思を持ち始めたとします。すると、相手もボールも自分の思いどおりにコントロールできなくなります。そして、最後には自分の思いどおりにできるのは自分の身体のみ、というところまで自我が撤退します。
これはまた違うたとえとしては「敵の動きやギミックまですべて暗記しているゲームをプレイしているときに、誰かがネット越しにボスをハッキングして操り始めた」という状況に似ています。自分の見知った世界に誰かが介入してくることで世界に亀裂が生まれます。それが他者なのです。
世界を思いどおりに動かせる、自分は世界であるという場所から知能の形成が出発することには意味があり、それによって、世界の運動や他者の運動を認識することができます。これは矛盾しているようですが、全能感とは「世界が動いているのを自分が動かしていると思う」ことですから、「その動きは自分が作り出していると思う」、「世界の動きそのものを自分の手足を動かすように感じている」わけで、概して言えば「それは自分の動き」だと認識していることになります。つまり、自分のものになっているのです。これは、想像の世界で役立つことになります。自分が世界の一部になっても、全能感・一体感があった時代に持っていた「世界を自在に動かす能力」によって、想像の世界でボールや選手を動かすことができ、未来を予測することができます。つまり全能感と一体感は想像の世界へと受け継がれることになります。
「他者という亀裂」
知能の想像の世界は、やがて現実の世界と区別がつくようになります。そして全能感や一体感は想像の世界に残り続けます。そして、その力は生存に必要な能力〈想像力〉として発展していきます。クリエイティビティの源泉ともなり、大袈裟に言えば、知能は世界を変革していく源泉ともなる力です。
では「人工知能の発達的形成」の結論として、人工知能に想像力を与えておけばいいかというと、それだけでは済みません。全能感・一体感から出発するということは、それだけではないのです。全能感・一体感から出発することには、さらに二つの効果があります。
知能が能動的に世界へアクションする裏には、全能感と一体感をもって世界へ臨んでいた頃の「名残り」があります。つまり、世界を吸い(認識し)、世界へ向かって吐く(行為する)というリズムを最初につかむのが、その全能感・一体感のある時代なのです。知能のリズムがここで形成され、そのリズムが全能感・一体感を失ったあとも制限されながら続いていきます。
もう一つ、他者を獲得することと全能感・一体感には密接な関係があります。全能感・一体感のある世界の亀裂として他者が現れるとすれば、人工知能が他者を獲得するためには、やはり同じプロセスを経る必要があります。他者を対象として最初から定義してしまっては、それは対象であっても他者ではありません。自分の可能性を制限するものとして現れることが他者の必要条件です。全能感・一体感への反発力として他者は現れます。「他者をこうしたい」「他者がこうあって欲しい」という全能感・一体感の名残りから、他者を動かそうとしますが、他者にそう期待することで、そこからのずれによって他者を捉えることができるのです。ここには、全能感・一体感があるから他者という亀裂を認識することができる、むしろ他者の裏切りによってこそ、自分の思いどおりにならない他者の存在を感じられる、という逆説があります。
「他者のモデル」の起源も全能感・一体感の世界にあります。最初は自分に都合のよいモデルでしかありませんが、それが徐々に自分では制御し得ない他者として現れてくることになります。そして、そのモデルの他者化は、必然的に全能感・一体感の世界に亀裂を入れ、分割を促し、自我に変化をもたらすことになります。人は幼い頃から「他者はこういうものだ」という思い込みのもとに他人と接し、モデルと異なる点を見出して傷つき、ミードの言う一般的他者としてモデルを修正していきます。修正の都度、自我もまた変更を受け、そうやって大人になっていきます。人工知能もまず、自分勝手な他者モデルから出発し、たくさんの他者との出会いによって傷つくこと(=自分の世界に亀裂を入れて、他者モデルを改訂し、同時に自我の領域も更新する)を重ねながら、発達的に自我と知能を形成していく必要があります。
デュルケム
(略)社会生活を諸個人の性質のたんなる合成物として示すようなことがあってはならない。むしろ、反対に、個人の性質は社会生活の結果だからである。
(略)
社会は、それ自体がよってたつ基礎を、すでに諸意識のなかですべてつくられたものとして発見するのではない。社会はそれらの基礎をみずからにおいてつくっているのだ。
《エミール・デュルケム『社会分業論』》
ここで表現されているように、デュルケムは、個から社会が構成されるとするウェーバーのような考え方を否定し、逆に個は社会の結果であるとします。彼の考えによれば、私たちの行為、感情、選択、倫理などすべては、社会的事実によって拘束され決定づけられるものなのです。外的事実としての社会は、そうした拘束や強制を通して外在性を保った存在でありながら、個の内部へと内在化されてくことになります。
こうした行為または思考の型は、単に個人に外在するだけでなく、望もうと望むまいと個人に課される命令的で強制的な力を付与されている。なるほど、確かに、私がこれにまったく自らの意志で従っている時には、この強制は無用なものであり、まったく、あるいはほとんど感じられることはない。しかし、それでもなお、強制はこうした事実に内在する特徴である。その証拠に、私が抵抗しようとするや否や、強制ははっきりとその姿を現す。もし私が法の規定を犯そうと試みれば、それは私に逆らい、間に合えば私の行為を阻止し、行為がすでに完了し、かつ回復可能な場合には、これを無効として常態に戻す。もはや他の仕方では回復できない場合には、私を罰し、罪を償わせる。
(略)
もし私が世間の慣習に従わず、私の国や階級の慣例をまったく無視した服装をすれば、私が招く嘲笑や、皆が私に向ける反感は、緩和された形ではあっても、本来の意味での刑罰と同じ効果をもたらす。
《デュルケム『社会学的方法の基準』》
(略)
ウェーバーとデュルケムは、方法論的個人主義と方法論的全体主義という、真逆のアプローチで社会と個との間柄について思考しました。ですが、ある種の合理性への懐疑という観点において、両者に共通する問題意識が見られるかもしれません。ウェーバーにおいては個の合理性の多層性とその間の溝の解明によって、デュルケムにおいては個の合理性に先立つ社会の非合理的強制力の暴きによって、社会の成立や維持の根本に非合理的なものが内蔵されているという事態を表明したと考えられるでしょう。
「人間の思考は基本的に社会的なものである」
もし真の人工知能(AI)がつくられるとしたら、社会学者がそこで大きな役割を果たすべきであると私は言いたい。これまでのコンピュータ・モデルの限界は、知能というものをまるで何者にも依存しない独自の精神のようなものとすることから生じている。しかし、人間の思考は基本的に社会的なものである。それだけではない。うまく働くAIというのは感情的(!)でなければならない。私たちはAIをあまりに合理的にしよう、あまりに高度に知能的なものにしようとして、より本質的な人間的諸属性を無視するという誤りを犯してきた。これは逆説的に聞こえるかもしれない。しかし(略)微視社会学――人びとが対面的状況においてどのように相互作用するかについての研究――の成果によれば、社会的接触を維持し、私たちの思考を一定の経路に導く感情的諸過程が明らかになっている。もしコンピュータ知能に人間ができることをさせようというのであれば、それは感情をそなえたコンピュータでなければならないであろう。
(略)
人間の精神は社会的なものだという考え方に関しては、何も神秘的なところはない。エミール・デュルケムは「集合意識」という言葉を使ったが、これは一群の人びとによって共有された概念および信念のことである。(略)
「社会」とは相互に作用しあう人びとにほかならない。それは過程であって、実体ではない。私たちが互いに出会うとき、いつでも社会は発生する。(略)
私たちのもつ概念や考え、そしてどの考えが重要かということについての感覚は、私たちが互いに取り交わす会話から生じる。話し方を知っている人、そして会話の仕方を学んだ人が、いわば本当の人間である。この能力があってはじめて、次の段階、つまり各個人が自分の心のなかで私的に考えるという段階が生じる。なぜなら、思考は内面化された会話なのだから。
〈ランドル・コリンズ『脱常識の社会学 第二版――社会の読み方入門』〉
あとがきに代えて 対談:三宅陽一郎×大山匠
三宅 人工知能がこれから人間と人間の間を変えていく一つのファクターであることは間違いない。
(略)
メディアはどんどん変わっていく、最初は直接話していたけど、手紙になり、電話となり、そしてインターネットになった。ただ、メディアは変わったけど、結局は人間同士の関係はそんなに変わっていないですよね。
でも、人工知能は人と人の間を変えることができます。メディアに溶け込み、人の関係を変化させることができます。たとえば、言葉を和らげたり、自分の代わりに自動返答させたり、相手の意図を解析したり、自分の意図を明確にしてくれたり、自動翻訳してくれたりするわけです。いま新型コロナウイルスが外してしまった人間関係というものを、人工知能が再構築していくのではないかなと思います。人という個がインタラクションする場そのものが人工知能となるのです。
人工知能によって人間と人間の距離が変化していく。インターネットもいまは人間が張りついていますが、人工知能に任せておけばいい。Twitter などのSNSは特にそうですが、ネットの中にみんなが参加するというのは、原始的なインターネットの時代で、もうそこは人工知能に任せればいい。人工知能によってインターネットから人間を引き剥がすのです。逆の言い方をすれば、人間の存在の中心を自分自身に引き戻す作用が人工知能にはあって、人間拡張の形で人工知能たちが個人の機能を増幅すれば、みんながある意味王様で、世界との間に人工知能たちを使役する空間ができてくる。
(略)
インターネットのせいで(略)人間同士が自家中毒になっていて(略)
地球の裏側で起きた事件の動画があふれるように流れ込んで来る。そういうふうにインターネットの情報伝達によって加熱してしまった人間同士がインタラクションする状態を、僕は人工知能によって冷ましたいと思っている。冷ますことでいろいろな争いがなくなるのではないかと思っているんです。極論すると、人間と人間の距離が遠ければ争いあう必要は本来ないわけです。いくら持っているポリシーが違うとしても、干渉しないわけだから。その冷却を人工知能にさせたかった。ところが、予期せぬ形でそれを新型コロナウイルスがやってしまったという。(略)