前回の続き。
ラロトンガ島での「戦メリ」ロケで聴いてたのがスタン・ケントン、みたいな話も。
未来はあの頃とは同じではない
『NME』紙 80年
[『地球に落ちて来た男』]
ニックはいつもどこかわかりにくい作品を出してくる男で、表面的にはもの凄く色んな要素が盛り込まれてるように見えるけど、結局のところは第一印象が一番正しいんじゃないかと思うよ。
わかるだろう、穢れなき魂が地球にやってきて、人間たちがそれをメチャメチャにするって構図だ。実のところ、そんなことは全然ないんだけどね。あの映画には一見無害なように見えて、非常に狡猾なウソが全編にわたって仕込まれているんだ――ニュートンは映画の終わりには、地球にやって来た時よりも遥かにいい人間になっている。彼は本当の意味でのエモーショナル・ドライヴを見つけたんだよ。人々と共感するとはどういうことなのかを悟り、自分の受けてきたあらゆる影響はすべて従属的なものに過ぎないことに気づくんだ。最初にやって来た時、あの男は誰の気持ちも一切顧みることがなかったんだからね。
(略)
[『ジャスト・ア・ジゴロ』]
ボウイ : ああ、あの映画はクソだね(声をあげてゲラゲラ笑う)、まさしくクソだ。あの映画に関わった人間はみんな(略)お互い目を合わさないようにしてるよ(笑いながら両手で顔を覆う)。
そう、あれはそういう映画だ。まあ、みんな一度はそういう経験をするものだし、僕もこれでひとつクリアしたってことになればいいなと思うよ。
(略)
――少し話を戻しますが――あなたが『地球に落ちてきた男』のために書いた音楽はどうなったんですか?
ボウイ : ああ、辛うじて1曲だけが生き残ったよ。「ロウ」に収録されてる“サブテラニアンズ”がそれだ。(略)
あそこに至るまでには結構揉めて―― ニックと僕の間でじゃないよ(略)
いざこざになったのは僕とブリティッシュ・ライオン(映画会社)で、プロダクションに関して揉めたんだ(略)
僕は自分が映画のために音楽を書かせてもらえるんだという印象を抱いていた。ところが5、6曲書き終えたところで、僕の作った曲を他の人たちの曲と並べてみたいから提出してくれと言われて……僕は即座に言ったんだ、「クソッタレ、だったら1曲も出すもんか」ってね。頭に来たなんてもんじゃないよ、こっちはもの凄く手を掛けてやってたんだから。
もっとも実のところは、それでよかったのかもしれないと思ってるんだ。僕の音楽はあの映画にまったく違う効果をもたらしただろうから。結果的にはいい方に転んだと思うよ、それに僕にとってはまた違う分野に目を向ける。きっかけになったし――それまで殆ど真剣に考えたことのなかった、自分の楽器演奏の能力について考えるようになったんだ。その時だよ、僕がいつかイーノと一緒に組んで仕事がしてみたいと最初に思ったのは。
(略)
――(略)75年末にあなたがヴィクトリア駅で、あまり普通ではない到着の仕方をした話に触れないわけにはいきません。私はあの一件で非常に心かき乱された人間のひとりです。黒のメルセデス、ハンサムなブロンドの護衛たち、そういう何もかもが今もハッキリとまぶたに焼きついています。私はあの場に居合わせ(この時点でボウイはきまりが悪そうに笑い出す)、帰る時にはあなたのことを、頭のおかしいファシストだと思うようになっていました。あの一件はその後も結局一度として満足な釈明がなされたことがありませんでしたよね。私はあなたがきっとロサンジェルスで、もの凄い量のコカインを消費してきたんだろうと思っていました(含み笑いを抑え切れないボウイ)。(略)
私をはじめ多くの人々が、あなたは完全にイカレてしまったと思ったはずですよ。世界を征服したいとか、そういうバカみたいな、誇大妄想狂的ゲームプランを立ててるとしか思えませんでした。(略)
一体あの時のあなたの身には、何が起こっていたんですか?
ボウイ : (略)信じないかもしれないけど、今君の言ったことはすべて当たってるよ。僕は確かに、相当長いことクスリ漬け同然の状態だったんだ。あれはすべて、僕の友人たち数人――誰かは具体的には言わないよ――が画策した逃亡計画だった。彼らは僕がアメリカから出て、ヨーロッパに戻る手助けをしてくれたんだ。あの「ステイション・トゥ・ステイション」のツアーは最初から最後まで、ほぼ軟禁状態で行なわれていたんだよ。僕は完全に常軌を逸していて、まともにモノが考えられる状態じゃなかった。本当だよ。そんな状況下でも僕を動かしていた最大の動機は――ヒトラーとか右翼思想とか、そういうものに限って言えば――神話だったんだ。
僕は神話の世界にどっぷりハマっていてね。アーサー王を発見したんだよ。と言っても恐らく君たちが知っているような物語とは違っていて(略)
そんな問題になるとはこれっぽっちも思ってなかった。何故って僕はそれまでの6、7年間ずっと黒人ミュージシャンたちと組んで仕事をしていたし、今でもやっているからね。実際僕たちは彼らも交えて、みんなでそういう話をしていたんだ―― アーサー王の時代のこと、ナチスの展開したキャンペーンの魔法のような側面、そしてそこに関わっていた神話も含めてだ。
(略)
僕は神話の世界と現実の区別がつかなくなっていた。言うまでもなく、その混乱に拍車をかけたのは、僕が作り出したあのクソいまいましいキャラクターたちだよ。シン・ホワイト・デューク――僕は彼を振り落としたんだ、後足で蹴飛ばすみたいにしてね。
(略)
――あの手の本は今でも後から後から出てきています。(略)アーサー王伝説や円卓の騎士の物語と第三帝国との関連性を論じた本がね。
(略)
ボウイ : (略)僕がベルリンに行った時に最初に起こった状況は、自分の問題とまっすぐ向かい合うことだった。何しろ向こうにいる僕の友人たちは、当然のことながら全員が極左だったからね。僕の元には突如として、父親が実際にSSだったという自分と同じくらいの年齢の若者たちが次々に会いに来た。あれはああいう状況から目を覚まさせて、脱け出させるにはとてもいいやり方だったと思う。
――新作でトム・ヴァーレインの曲 (“キングダム・カム”)をやることにした理由は?
ボウイ : あの曲については、単純に彼のアルバムの中で最も魅力的な曲だと思ったからだ。僕はずっと彼と何かしらの形で一緒に仕事をしたいと思っていたんだけど、彼の曲をやるというのは考えたことがなかった。実を言えば僕のギタリストのカルロス・アロマーが、とても素敵な曲だからカヴァー・ヴァージョンをやらないかと言ってきたんだよ。
(略)
――RCAは「ロジャー」をあまり気に入っていなかったという噂がありますが。
ボウイ:それは本当の話だ。彼らは「ロウ」も気に入らなかったよ。当時僕が彼らから受け取ったコメントは、唯一「もう一度フィラデルフィアに部屋を用意しようか?」の一言だった。つまりもう一度「ヤング・アメリカン」みたいなアルバムを作れってことだよ。僕はそういう態度の連中と長年わたり合ってきているんだ。
(略)
僕はこっち(アメリカ)ではいまだに、オレンジ色の髪をしたバイセクシュアルとして紹介されるだろ。ここでの僕はそういう人物像なんだ。以上。終わり。他には何もないんだよ。
いや実際(笑)、この世にステレオタイプとイコンだけで出来た国があるとしたら、まさしくここはそういう国だよ。(略)連中は自分たちが旗として振り回せる、一目見ただけでそれとハッキリわかるような何かを見つけるまで、メッタ刺しにし続けるんだ。(略)
総じてイングランドやヨーロッパよりも格段に酷いよ。他にそういう傾向が強い人々と言えば、僕はとても好きなんだけど、日本人だね。彼らは何かと〇〇イズムってやつを作り出すんだ。
(略)
――それにしても、日本の何があなたをそんなに魅了し続けているんです?
ボウイ : (略)物理的表現における、素晴らしく新鮮でモダンな最新鋭と、古来の、ある種神話的な考え方や存在の対比との危ういバランスだね。
――昔の日本的生活様式の、傍目から見るとやや芝居がかって見えるようなところも、あなたにとっては魅力的に映りますか? 例えば囲碁棋士が、物心ついた時から囲碁のルールに従って生活し、着々と腕を上げて年齢を重ねるうちに名人になっていく、というような――ある特定の規律に従属すればするほど、自己が解放されていくという減私的な自由の定義です。
ボウイ : ああそうだね、それは非常に惹かれるね。表面的には魅力を感じるけど、でも僕にはとても無理だろうな(笑)。うん、喩えて言うならあちこち彷徨って戻ってきて、かつて自分の人生において大事だと思っていたものを再び目にする。そんな感じかな…。
――それはどういう意味ですか?
ボウイ : 仏教の理想、つまり厳格な形で守られるべき価値観とか秩序なんてことを考えていた時の話だよ。当時僕はごく自然に、自分の生き方とか、自分の可能性について、考えていたことがあって……そういうものを封印してしまいたいと思ったんだ。
(略)
僕はよく、身震いするような寒い朝に目を覚まして、ここが京都のどこかの禅寺だったらいいのにと思うことがあるんだ。
ナチス敬礼騒動
『ザ・フェイス』誌 83年
[ナチス敬礼騒動について]
――(略)あの当時、あたなたは本気でああいう発言をしていたのですか?
ボウイ:僕にはアンテナみたいなものがあってね。(略)時代精神に対する不安からさ(略)
あのナチス云々って騒動は、実はイングランドで国民戦線が台頭してくるまさに直前で、僕はただそれを感じていただけなんだ。(略)
しかもさっき言ったように、とにかく完全に思考回路がぶっ壊れていたもんだから、それがいかにも自分の頭の中にあった、英国アーサー王伝説とぴったり重なったように思えてしまったんだ。僕は当時あれにすっかり夢中になっていたんだよ――英国人の英国らしさとか、そういう話にね。(略)あんなものは単なる幻想だよ、新しいナチス政党結党なんていう空恐ろしい話を望んでたわけでも何でもないんだ。いま振り返ってみると、思い出すだけで「何て無責任なことを口にしてしまったんだろう」と思うよ。ただ、あの当時の僕は何に対しても責任なんか取れる状態じゃなかった。
(略)
数人の友人たちから、とにかくアメリカを離れるようにっていう解決策をもらったんだ。76年のツアーの間は殆ど夢遊病者みたいに、何も見えないまま歩き回ってるだけだったよ。正直な話、何ひとつ覚えてないんだ。
――あれは観ていてもうすら寒くなるようなショーでしたよ。
ボウイ:あの時は本当に、完全に感情を失っていたと思う。ほぼゾンビみたいな状態でツアーを続けてたんだ。終わった直後にベルリンに逃げ込んだよ、僕が持ってたアパートにね。
――あちらにはご友人はいたんですか?
ボウイ:うん、最重要人物は僕のパーソナル・アシスタントだ――ココ・シュワブね。彼女が何度となく僕を叱咤してくれたんだ。いや本当に、「ほらっ!しっかりしなさいよ!」って感じでね(笑)。
(略)
――「レッツ・ダンス」のセッションに際して、あなたが山のように昔のスタックスのソウル系のシングルを聴いていたという逸話が伝わってきていますが。
ボウイ:いや、実際には「レッツ・ダンス」に入る前に僕が聴いてたのは、それより更に古いやつだ。と言っても、スタジオには何も持ち込まなかったけどね。僕は何か他のことをやりながらの時が一番ちゃんと音楽が聴けるんだ。映画の仕事をしてる時なんか、気が付くと本当にもの凄く音楽を聴いてるよ。でも曲を書いてる時は最悪で、耳に入ってくるものは逐一全部分析しようとしちゃうんだよね。ラジオなんかとても聴いてられないよ。ラジオから何か流れてきたら、その度にそれを徹底分解して、影響を受けたであろうものを全部抽出しないと気が済まない――ルーツはどこにあるのか、彼らがどんな風にスタジオでその音を組み立てたのか、ドラムスにはどのイコライザーを使ってるのかに至るまでね。最悪だよ
(略)
南太平洋とか、そういう所に出かけて行く時に(略)持って行きたいと思う音楽の中で、聴きながら徹底分解しようなんて思わずに済む数少ないものと言えば、例えばアラン・フリードのロックン・ロール・オーケストラとか、バディ・ガイとか、エルモア・ジェームズ(略)アルバート・キング、スタン・ケントン―― スタン・ケントンは沢山持って行ったな、聴いていて退屈しないものが欲しかったからね。何度でも繰り返し聴けるものが欲しかったんだ。ジャングルで撮影をしていて、照明の設営に1時間半くらいかかると言われてぽっかり空き時間が出来た時、何か書く気にも本を読む気にもなれなかったりする、そんな時に聴けるもの。実際僕がそういう状況になった時に、確実に4、5回以上聴くに堪えたのはスタン・ケントンだけだった。で、島でそれを聴いてる最中に僕は考えるようになったんだよ、「どうしてこんなにいいと思うんだろう?何故これはこんなに何度も繰り返して聴いても飽きが来ないんだ?もしかすると僕が今やりたいことはこれなのかな?」ってね。すべて思い通り成功したとは言わないけど、進むべき方向に進んでいる手応えはあるよ。
(略)
――他のアーティストに対して(略)ライヴァル意識を持っていますか?
ボウイ:僕はかつて、ミック(・ジャガー)に対して、もの凄く強いライヴァル意識――と言うより、僕たちはスパーリング・パートナーみたいなものだったんだ――を抱いていたことがあったよ。でもそういう意味では、ここ数年でお互いすっかりカドが取れてきた感じがある。多分それは、僕たち2人とも、かつて自分たちが欲しいと思っていたものをすっかり手に入れたってことに気付いたせいじゃないかな。
――最後に本気で怒ったのはいつですか?
ボウイ:(長い沈黙)それは興味深い質問だな……RCAの話をきせる気じゃないだろうね。多分ここ最近の数年間の中では、あれが頭にきた一件だとは思うけど(略)
明確な怒りの記憶としてひとつハッキリ刻まれているのは、アルバム「ロウ」に対するRCAの反応だな。あの時は自分でも信じられないくらい怒りの感情がまず湧いて、その後に来た落ち込みは数ヶ月続いた。
チャールズ・シャール・マレイ 『NME』紙 84年
[インタヴューより編者による解説の方が面白かったのでそちらのみ引用]
このインタヴューの本来の目的は新作のプロモーションだが、内容的にはそのアルバム本編よりもずっと面白いものになっている。1984年9月、ボウイは大ヒット作とはなったが空々しい「レッツ・ダンス」に続くアルバムとして「トゥナイト」を発表した。(略)[新曲2曲にカヴァー、]お蔵入りにしていた出来の悪い未発表曲やアウトテイクを加えて水増しした、何とも統一感のない楽曲集だ。アーティストとしてのクリエイティヴィティが明らかに干上がりかけていることを窺わせる、かつてのボウイであれば世に出すことを決して許さなかったはずの、この上なく無意味な商品である。(略)[リリース理由が]「自分の腕を鈍らせたくなかったから」とは(略)
このNMEの見開き記事には、英国を訪れたボウイが唯一許可したオフィシャル・インタヴューである旨の自慢げな宣伝文句が添えられていた。筆者はこの状況が、自分の作品が過度に批判的な徹底検証を受けることに不安を覚えたボウイの対抗措置だったのではないかと推測している。
(略)
彼が会話の相手に指名したのが、当時同紙の読者ページでも頻繁かつ痛烈に揶揄されるほど、ボウイに対する偏愛著しいことで知られたチャールズ・シャール・マレイだったことである。
そつのないマレイは、「トゥナイト」を「様々なムードとテクニックのめくるめくヴァラエティ」と表現し、「手放しで評価している」ことを伝えた。さすがのボウイもこの点においてはもう少し正直に、このところの彼の音楽が「凪の状態」であることを認めているほどだ。
『Q』誌 89年
[冒頭のインタビュー前の光景が面白いのでそこのみ引用。
『ティン・マシーン』のリスニング・パーティで恐ろしくナーヴァスになっているボウイ]
(略)
そして今、彼はその決断[試聴会開催]を下したことを後悔しているのだ。(略)
「じゃあ、サイド1から行こうか?」(略)
[今作が「トゥナイト」「ネヴァー・レット~」のように]明らかな失敗作であったとすれば、この状況は恐ろしくきまりの悪いものになっていたに違いない。実際、この2枚のレコードのせいで、特に後者は滑稽なほど大掛かりなグラス・スパイダー・ツアーでプロモーションを仕掛けたために、ボウイのキャリアはすっかり行き詰まってしまい、一刻も早い計画の見直しを余儀なくされたのだった。彼が最後に出したまともな内容のアルバムと言えば、1983年の「レッツ・ダンス」まで遡るのだ。
(略)
サイド1の1曲目が、今まさにフランス風鏡台サイズのスタジオ・スピーカーから爆音で発射の時を迎えたのである。たいそうありがたいことに、出来映えは上々だった。サウンド自体は粗削りで、ヒステリックで、生命力に溢れている。リーヴス・ガブレルスの明らかに非菜食主義者だと思われるギター――真っ先に思い浮かぶ単語はジミ・ヘンドリックス――が咆哮し(略)
[曲が終わり]
部屋の中は押しつぶされそうな沈黙で満たされた。誰ひとりとして一言も声を発しない。ボウイは組んだ両手の上に顎を載せたまま、目の前の壁をまっすぐに見つめていた。トニー・セイルズが床の上から僅かににやりと笑顔を見せた瞬間、2曲目が始まった。(略)
4曲目が始まる頃には、自分のアルバムが好意的に受け入れられたことで自信を持ったのか、あるいはこの部屋に漂う、電気のようにびりびりと張りつめた空気に疲弊したのか、ボウイは隣の部屋へと抜け出して行った。こちら側の部屋から小さな窓を通して、彼がメガネをかけた東洋人の少年とスヌーカーをしているのが見えたのだが、よくよく目を凝らしてみると、このゲームの相手は驚いたことにショーン・レノンだった。しかも何たる奇妙な――殆どシュールとしか言いようのない――偶然か、次に流れ出してきた曲はパワフルなロック・ヴァージョンの“ワーキング・クラス・ヒーロー”だったのだ。この曲が始まると、ボウイは再びソファの端に腰を下ろし、 ショーン・レノンはスタジオのガラスの向こう側で、曲に合わせてギターをかき鳴らしていた。
ボウイ:確かに、[このアルバムに]ジミ・ヘンドリックスのエッセンスは間違いなく入ってるね。あの新しいライコディスクのやつ[『ライヴ・アット・ウィンターランド』]は素晴らしいよ。彼の持っていたヴィジョンの明確さがそのまま伝わってくる。とにかく最高だ。まるで何もない空気の中に手を伸ばして、何かを掴み出そうとしてるみたいなんだよ。思えば僕はヘンドリックスもクリームも、ノイ!もカンも(略)後から再発見したんだよ。グレン・ブランカもね。(略)
昔の自分のアルバムを長い時間かけて聴きまくってたんだ。どうして自分が曲を書くのかってところまで突き詰めるために、「ヒーローズ」「ロジャー」「スケアリー・モンスターズ」「ロウ」あたりをね。(略)
[煮詰まった時には自分のルーツに戻る]ずっと昔に好んで聴いていた人たち、シド・バレットやヘンドリックスであり、また自分自身とてもいい仕事が出来ていたと思える時期の作品でね、それを聴き返しながら考えるんだよ、この時の気持ちは一体どこに行ってしまったんだろう? どうして僕はこの時と同じような考え方になれないんだろう
(略)
僕はあの一連のアルバムに凄く思い入れがあるんだよ、わかるだろ。あの時の僕はグレイトと言えるアルバムを作ってたと思う。
(略)
[今回のレコーディングではドラッグは一切やってないという話から]
――対照的に「ロウ」の制作中のエピソードで、覚えているのはどんなことですか?
ボウイ:あの時の僕と今の僕はまったくの別人だよ。あの当時の僕は深刻なドラッグ問題を抱えていて、ベルリンはそこから脱け出すために僕が見いだした活路であり、どうやってクスリなしで生きていくかを必死に模索した場所なんだ。とても辛い時期だったよ。(略)
あれは本当にキツい経験だった。だから、「ロウ」の時に僕の頭の中を占めていたのは、音楽のことじゃないんだ。音楽は文字通り僕の肉体的・精神的な状を表現していて.…僕が気に掛かっていたのはそっちのことだった。そういう意味では音楽はセラピーみたいなものだったね。みんなでアルバムを一枚作ってみたけど、へえ、こんな感じのサウンドになったのかってあれはまさしく僕の人生の副産物だった。ふと気が付いたら出来あがってたんだ。レコード会社には何も言ってなかったし、誰にも何も言ってなかった。まるでリハビリの一環みたいにして、自主的に作り上げたんだよ。本当に、恐ろしいほどのどん底状だったからね。
――行先にベルリンを選んだ理由は?
ボウイ:(略)一番の理由は、目立たずに済む場所だからさ。ジム(イギー・ポップ)と僕は――当時は2人とも同じ問題を抱えていたんだよ――あそこなら街を歩き回っても、誰にも構われずに放っておいてもらえるってわかっていたんだ。あそこの住人たちは恐ろしく無感動なんだよ。シニカルで(略)
自分が本当に求めているのは何なのかを見つめ直すにはうってつけの場所なんだ。
(略)
――バンド・メンバーの皆さんの一番好きな時代のボウイは?
ガブレルス:「アラジン・セイン」「スティション・トゥ・ステイション」
ハント:俺は「ジギー・スターダスト」と「スパイダーズ」が好きだな。(略)
ガブレルス: あれは素晴らしい時代だったよな――1970年から73年っていうのはさ――だって、髪にグリーンのメッシュ入れて学校に行って、どうだ見やがれ、俺デヴィッド・ボウイみたいだろ、って言ってられたんだから。
ボウイ:僕が一番テンション上がったのは、初めてミッキー・ロークに会った時に、彼に言われたんだよ、(言葉が出ないほど似ていないミッキー・ロークの物真似で)「いやあ、俺1973年にさ、その、ずっとアンタみたいな格好してたんだよ、なあ、緑の髪にメチャメチャ高いヒールのブーツに、レザーのパンツでさ」って。(略)
あれはもの凄く嬉しかったね。とても励みになった。彼みたいな人間の人生においても、あんなにも大きな位置を占めてるなんてね。
次回に続く。
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